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「証し」について   

その1:教会で「証し」ほど退屈なものはない??
北川一明   

 半年弱の求道生活をした教会では、礼拝後、毎月一回信徒の「証し」と称するものをやっていました。
 そのとき「証し」ほど退屈でつまらないものはないと感じ、「俺に証しさせろ」と思っていました。もっとひとが聞くに堪える「証し」ができるという自信があったのです。

 青年会でも「証し会をやる」というので、私は自分がやりたいと言いました。
 指導の神学生が、「証しって何か知っているのか」と問うので、こころから素直な気持ちで「自分のことを話すんでしょ」と答えました。すると激しいブーイングの嵐が巻き起こり、「北川は何も分かっていない」ということになりました。(証しとは、「キリストの恵みを証言すること」なんだそうです!)

 当時は、自分の無知を恥じました。でも今は、「俺のセーにすんなヨー」と思い直しています。と言うのは;
 私が「証しとは自分のことを話すことである」とこころの底から信じたのは、何度か教会が「証し」と称するものを聞いた上でのことです。すなわち、大人たちの証しがただの身の上ばなし以上のものには聞こえなかったのです。

 証しの貧困は、多くの教会に共通することと思います。その原因のひとつを、私は霊性の衰退に見ています。
 こういうことを書くと、信徒さんたちは「キビシーなー」と言い、牧師たちは「信徒のつまずきになる」と言いました。でも、「証しの貧困」の責任は、まず牧師が負わされるべきものでしょう。なぜなら、「証しの貧困」も「霊性の衰退」も、おそらく普段からの説教と牧会の貧困に由来しているからです。牧師が福音を証しできていなければ、多くの教会員ができなくなっていって当然です。
 こんなただ現状を指摘しただけの文書が信徒のつまずきになるのではありません。きっと、これまでわれわれ無能な牧師が十分に信徒をつまずかせてきたために、本当のことを言ったらみんなが嫌な気分になる程キリスト教界が低迷しているのです。(それでも多くの牧師先生がたが焦りもせずに平然としているのは、信仰によって達観してらっしゃるのなら素晴らしいのですが……?)

 「説教には証しが必要だ」というと、「例話が必要だ」とか、「信仰した結果としての現世利益を紹介すべきだ」という意味に受け取られるかもしれません。「神の恵みを証しする」と言っても、「信仰のお陰で私はこんなに恵まれました」という話しなら、つまりは「現世利益の例話(お祈りしたらこんなに御利益がありました)」に過ぎません。
 しかし証しとは、もっと聞く者が霊的にただならぬ気持ちにさせられるナニカがあるはずです。そんな証しが、現代の教会、説教には必要だと思っているのです。
 「じゃぁそれは何か、ひとを批判していないでアカシしてみろ」と言われたら;
 「それを説教でやろうとしている」としか言えません。私が一生懸命やっても教勢が停滞しているのは、私の場合もそのアカシが成功していないからでしょう。残念ながら模索中です。
 ……そんな訳で、説教、説教論に対する批判を、ぜひお寄せください。建設的なものなら厳しいものでも大歓迎です。
 ただし「俺はこうやってる」式のご託宣は、結果を出しているひとだけにしてください。






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