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美術批評 に かこつけた キリスト教会批判

【日本人一般にとって『聖書』とはなにか】  

未信者美術家のキリスト教観批評(2)

2004年6月11日
北川一明



T.
 ある美術批評家のホームページに、キリスト教会の牧師としては「ゆゆしき発言」と言わざるを得ない文章(ウエイデン(3))を見つけました。なんと、新約聖書中の『福音書』は「人間の死に関心がない」というのです。「反論しなくては」みたいな使命感を刺激されたと述べながら未だ反論しないでいたら、当のホームページ作者「めるがっぱ」氏から次のメールをいただきました。

> ウエイデンの(3)に「ゆゆしき発言」と書いておられたのは、
> 作者としては「してやったり」(失礼)と喜んで?おります。

 ますますゆゆしきことで、キリスト教会の牧師としてはボコボコにしてやる必要がある……でしょうか。
 ただ、落ち着いて考えてみれば; このような聖書に関心のあるひとこそ、教会にとっては第一番の訴求対象(お客さん?)であるはずです。そうしたかたたちにキリスト教会のメッセージが思った通りに伝わっていないのは、聖書の「読み手(めるがっぱ氏)」に問題があるのではなく ・ ・ ・ ・ 、聖書を提供している環境、すなわち日本のキリスト教会の状況のせいだと思わされました。
 ここでは、はじめにU〜Wで同氏の文章のうちこちら側にとって問題となる点を指摘しました。以下、X、Yでその聖書理解を批判し、そうした聖書理解がなされる理由をZ、[で示しました。そして、われわれキリスト教会が改めるべきと思われる点を、後半の\〜]Xで申し述べました。
 文章後半の\〜]Xは、ほとんど絵画評にたいする批評ではありません。特に教会関係者に読んでいただきたい部分です。

U.
 上に紹介しましためるがっぱ氏の絵画評『ウエイデン(3)』は、パリからボーヌへの旅行の雰囲気を伝えた異国情緒豊かなたいへん結構な文章でした。
 細かな所から批判を始めれば;
 ボーヌに行ってワインを素通りして帰ったことは、食文化に対する冒涜として、多くの閲覧者の激しい怒りを買っているに違いありません。
 ボーヌと言えばかの『ロマネコンティ』や、よく飲まれるところでは『ジュブレーシャンベルタン』の産地(のすぐそば)です。行きたくってしょうがないのに、たとえフランス旅行をしてもボーヌまではなかなか行けないという日本人ワインマニアはたくさんいるはずです。
 めるがっぱ氏は「下戸」であるのが「残念であった」とは言っていますが、ただ「残念」では済まされない文化に敵対する行為として糾弾されてしかるべきでしょう。だいいち、文面からは「残念さ」はほとんど伝わってきません!
 ちなみにうちの本家にあるセラーの中身は<http://www.ssas.co.jp/employee/wine/cellar.html>に公開されております。親ばかに付き合わせて恐縮ですが、息子の誕生ワインはラフィット、娘のはマルゴーです。私の好みはありきたりではありますがラフィットやムートン系のポイヤックならいつでも大喜びでいただきます。わが家にワインをプレゼントしたいかたは参考にしてください。

V.
 しかし牧師の職務を神から預けられた者として強い印象を受けたのは、ワインとは別の箇所です。
 そのホームページでは、ウェイデン画『最後の審判』が、次のように評されています。

> わたしには、「最後の審判」は「神の国」という教義を説明
> 的に再現する以上の絵にはなっていないように見える。

 この著者は、文章前半でフランス旅行の雰囲気を「説明的に再現する以上」に情緒的にも再現してみせ、私にフランスへの憧憬を呼び起こすことに成功していました。こうした点で、この作者の表現力は侮ることのできないものと拝察いたします。
 それに比べて、われわれ牧師が説教をする際には、「教義を説明的に再現する以上の説教」にはなかなかならないで、教会に集まったみなさんをうんざりさせることがしばしばです。
 この著者がこれまで何度教会の礼拝説教を聞いたかは知りません。あるいは絵を見て教会というものを想像しているだけかもしれません。しかし少なくとも、「教義を説明的に再現すること」に対するあきたらなさ・・・・・が、こころのどこかにあるのでしょう。
 キリスト教そのものに対しては実に好意的でありながら、キリスト教会に対する漠然とした不満と不信が文章の背景にあるように感じます。
 めるがっぱ氏が、特に「聖書とキリストは素晴らしい、しかし現実の教会はそうではない」という評価を表明しているわけではありませんので、同氏についての判断は、私の誤解かもしれません。しかしそうした好感と不信感の錯綜する思いは、多くのひとに共通する感覚と思っています。世の中の宗教としての教会は、聖書にある理想の通りにはなっていないからです。

W.
 以下の批評も、キリスト教の死に瀕する者に対する接し方の批判として、まったくもって正当です。(ただし、絵画に対する批評として妥当かどうかは別問題です。)

> ウエイデンの絵は施療院の今で言う病室に懸かっていたのだという。
> …(中略)…この絵は死を迎えようとする人々の頭上に置かれること
> で、死はいずれ訪れる神の日に向けての節目でしかないと説いてい
> たことになる。しかし、福音書の教えと現実の絵画は別ものである。
> 現代の眼で見れば、死を内面的に受け止める視点がこの絵には欠
> けている。…(中略)…ウエイデンの重量感ある大作が瀕死の重病
> 人にとって死に至る道筋を照らす救いの道に見えただろうか。とても
> そうとは思えない。体力の落ちた病のベッドではこの絵は鬱陶しい
> だけというのが本音であっただろう。

 牧師の病床訪問も、教義を説明的に再現するだけでは、病気のご本人とご家族にとっては「鬱陶しいだけというのが本音」かもしれません。

X.
 しかし仮にウェイデンの『最後の審判』に「死を内面的に受け止める視点が欠けている」という評価が当たっているとしても、次の聖書の読み方は、少し歪んでいるように感じられます。

> 新約聖書を読んで興味深いのは、その中心の書である四
> 福音書が死への恐怖ということをとりあげていないことだ。

 この著者は、「ラザロの遺体を生き返らせるエピソード(ヨハネ福音書第11章)」やゲッセマネの祈り(マルコ福音書第14章とマタイ、ルカ福音書の並行記事)、イエスの十字架上の叫び(マルコ福音書第15章とマタイ福音書の並行記事)を取り上げているので、福音書に「死」についての記述があることは知っています。それでもイエスがたとえば山上の垂訓(マタイ福音書5〜7章)でも「どのように生きるか」に触れながら死については何も教えていないとするのです。
 そして、以下のように結論付けます。

> ……死に向き合った恐怖やおののきについての記述は四福音書と
> もすっぽりと抜け落ちていて、まるで人間の死に関心がないように見
> える。その代わりというのではないが、福音書で眼につくのが「神の
> 国は近づいた」という言い方で繰りかえし現れる教えである。…(略)
> …好意的に解釈すれば、個人の死ではなく「神の国」がこの世に現
> れる時が本当の最後なのだと説き、「神の国」を強調することで個
> 人の死はその途中でしかないと福音書は言っているかのように読め > る。

 要するに、福音書は教会側の都合で「神の国」の教義を宣伝するために「死」を好い加減に取り扱っているが、人間個人にとっては「死」こそが重要な問題なのだ……ということでしょうか。
 個人の死が「本当の終り」に至る「途中でしかない」というのは、一応、われわれ教会の主張するところです。また、キリスト教会が組織の維持拡大のためにキリスト教の教義を不当に利用した事実は、歴史上は大いにあるに違いありません。
 けれども、だからといって聖書が「死に無関心」であるとするのは、いくらなんでも違うように感じられます。

Y.
 聖書でも福音書以外の部分を見れば、『コヘレトの言葉』などで詩人は自身が死に行くことと深く対話しています。また新約聖書の後半の書簡部分では、たとえば次のような言葉もあります。
 「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます(Tテサロニケ4:13、14)。」
 この聖句から、キリスト信徒といえども死んだひとについて、くよくよ嘆き悲しんでいたことが分かります。
 さらに次の言葉は決定的です; 「もし、死者が復活しないとしたら、食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか……(Tコリント15:32)。」
 聖書を書いたひとたちも、「死んで終わりなんだったら、真面目に生きてたってしょーがねーや、飲んだり喰ったり、同性愛あり、何でもありのフリーセックスで、やりたい放題やって死んで行こうゼ」というコリントの住人たちの気持ちは、十分に理解していたのです。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です(同19)」というのは、死んで終わりなんだったら、自分自身も「教会なんかやめちゃおう」ということです。
 ただ、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられ(同20)」たから、事情は一変したのだ……というのが、聖書が書かれた立場です。
 聖書が書かれたこの視点と同じ視点で福音書を見るならば、めるがっぱ氏が挙げた同じ箇所を読んでも、死に対する聖書の関心は読みとれるはずです。ラザロの復活の際のマルタとマリヤの焦りと悲しみや、ゲッセマネの祈りに、死を恐れる人間に対する深い洞察があると読む方が公平、客観的ではないでしょうか。

Z.
 それでも、今はもはや教会が権力を握ってめるがっぱ氏のようなひとを支配している中世西欧社会では、ありません。ですから、めるがっぱ氏に対して「お前わ、そんなふーに感じてちゃー、いけないぞッ!」と脅迫して言うことを聞かせるだけの権力は、われわれ「教会側の人間」は持っていません。聖書を自由に読んで自由に感じることを容認せざるを得ません。強権を発動できない以上、めるがっぱ氏を説得するには理性的に論証するしか、ありません。
 そこで、日本のインテリがこのような読み方で聖書を読む理由を分析しますと;
 まず「新約聖書を読んで興味深いのは、その中心の書である・・・・・・・・・四福音書が……」という基本姿勢に、われわれの立場からすれば疑義があります。
 聖書とは、「イエス・キリストのこと」が中心に書かれているという判断です。これは、世の中では普通の読み方でしょう。しかし「イエス・キリストのこと・・」と言う時の「こと」とは何か、です。
 専門家は、よく「聖書は『キリストの伝記』や『キリストの教え』が書かれているのではなく・・・、『キリストへの教会の信仰』が書かれている」と言います。
 聖書は自然と出来上がったのではなくて、「腐敗堕落も権力闘争も含んだ世にある教会(以下「腐敗堕落も権力闘争も含んだ世にある教会」のことを略して『腐闘教会』と表記します)」が作りました。
 考古学的には、「福音書」と名の付く文書は四福音書以外にも発見されています。けれどもそれらのうちの四つだけ、マタイ/マルコ/ルカ/ヨハネを『聖なる書物』としたのは、他ならぬ腐闘教会です。
 われわれは、腐闘教会に過ちがあることは認めつつ、しかし腐闘教会がキリストの恵みを証ししたその業については、それでも神の導きのうちにあることを信じているのです。
 そして、これを信じなければ(すなわち腐闘教会の逆説的神聖性を信じなければ)、宗教は全部、個人個人が勝手に思い描いた理想になってしまいます。

[.
 こうした視点から聖書各巻の重み付けを考えた場合、四福音書が「新約聖書の中心」とは言えなくなります。
 歴史的に言えば; 先のYで挙げた『テサロニケの信徒への手紙・T』は、イエスさまがなくなってからまだ20年そこそこで書かれました。(『コリントの信徒への手紙』も、少し遅れてほぼ同時期です。)
 十字架事件の当時30歳で、当事者として事件を精確に見ていたひとが、50歳になって人生を知り、事件を深く洞察、分析しつつ回顧して書いたのなら、ちょうど良い時期です。あるいは、当時50歳で事件に直面したひとならば、晩年の遺言として、無私の気持ちで書けたかもしれません。
 それに比べて福音書は、イエスさまの死後40、50年たってから書かれました。書いたのは、イエスの弟子の第二、第三世代です。
 「だから信じるに足りない」と言うのでは、ありません。四福音書は、『テサロニケの信徒への手紙』や『コリントの信徒への手紙』が書かれた信仰を受け継いだひとたちが、そうした信仰の視点から書いた、ということです。
 「死という悲惨、不条理で俺の全てが終わりなんだったら、品行方正に振る舞ったって、仕方がない。滅茶苦茶やって、せいぜい楽しもうゼ……と思っていたら、死んで終わりではなかったということを、われわれの先達は復活したキリストと出会って知った。われわれもまた、その復活のキリストと出会ったではないか」という視点から書かれているのです。
 そして、この四福音書を新約聖書の冒頭に配置したのも、わが腐闘教会です。
 聖書を歴史分析批評的に読む便を考えたら、パウロ書簡(テサロニケやコリントなど)から配置すべきだったかもしれません。しかし神を礼拝しようとしているひとと、神を信じたい、信じようとしているひとを対象に聖書を提供するのならば、聖書は、やはりどうしてもキリストさまの愛の業を回顧することから始めるしかなかったのではないでしょうか。
 そうして出来上がった順番が、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、使徒、ローマ、コリント……なのです。その教会の教義で聖書が出来上がっているのです。(「教会の教義の説明的な再現」は、確かに「鬱陶しいだけ」で、私も十分自分自身にうんざりしています。けれども、そうであっても「教会の教義」そのものが「鬱陶しいだけ」ではありません。)
 こうした聖書理解に立って、もう一度『最後の審判』を眺めると; 絵画の芸術性に対する評価としても、「教理を説明的に再現した」上に、何か多少は付け加えられているようにも思えます。

\.
 ただ、先のようなめるがっぱ氏の聖書理解について、その責任を問うならば、それは、まさにわれわれ腐闘教会にあります。
 以上のように、めるがっぱ氏は結構マトモな聖書ユーザーとお見受けしました。マトモなユーザーが通常の使用法で商品を有効に用いることが出来なかったのならば、メーカー側の責任です。われわれが聖書を提供しているのに、その「扱われかた」が気に入らないのならば、「提供の仕方」をかえなければいけません。
 このクレームについて、メーカーサイドの責任は; 聖書各文書の配置の問題……などではありません。教会の、世の中との関係の取り方に問題があると、私は思っています。
 戦後の情報化時代にあって、キリスト教信仰そのものと聖書は、キリスト教会の願い以上に急速に普及拡大しました。しかしその一方で、信仰と聖書がキリスト教会の願いに反して世俗化、非宗教化した傾向があります。
 たとえばめるがっぱ氏のような、腐闘教会の信仰を継承してはいないけれども、下手な信徒よりもよっぽどちゃんと聖書を読んでいる……という種類の人物が増えました。明治時代は一部の文学者だけがやっていたことを、今は多くのインテリがやるようになった……あるいは、明治は少数だったインテリが今は大勢になったということでしょうか。世で指導的な立場にあるひとたちが、教会で神を礼拝することなしに聖書に習熟したのです。
 その結果は、キリスト教が宗教であることをやめ、「キリスト教主義思想」になって行きます。神を崇拝する宗教としてのキリスト教……すなわち「信仰」としてのキリスト教……はなくなります。そして、Zの最後に述べた通り、キリスト教とはインテリたち個人個人が自由に考えた、100人100様の「信念」ができあがります。
 それではわれわれ「教会」は商売上がったりです。そこでキリスト教会は自己保身の対策に「カルト化」し始めた……すなわち自己を社会から切り離し差別化することでその存在意義を主張するようになったように思えるのです。
 もちろんキリスト教に神聖性があるのならば、社会から隔絶している面は絶対にありますし、それが教会の価値でもあります。ただしそれは、教会が神の聖性に従った結果として出現してしまうカルト性です。わざわざ社会から自己を差別分離させて演出する超俗的な雰囲気は偽物です。
 カルトの定義が「反社会的であるか/どうか」ではなく「組織構成員の社会とのかかわりが保たれているか/社会から隔絶されているか」であるならば、牧師連中は既にカルトです。普通のキリスト教は、反社会的な活動はしません。しかし社会から自己を隔絶する特異空間に逃げ込んで、その中だけで自己の存在意義を主張しているように見えるのです。

].
 われわれ「教会側」は、「救いは教会にある」と言います。礼拝説教ひとつでも、それは「教会で語られてこそ説教になる」と言います。説教は、牧師が知恵を振り絞ったら出来上がるものでなく、神が呼び出してくださった恵みの場所に立ち返った『教会』という場で、神の力で牧師の言葉が神の言葉になるからです。
 でも「救いは教会にある」とか、「説教は教会において説教となる」などという標語は、全ての人間が基本的には教会員であった、ふた昔前の欧米でのみ精確に伝わる標語だろうと思うのです。
 昔のヨーロッパにだって教会をないがしろにするヒトは多かったでしょう。それでも、そんな世俗主義者たちの「立ち返るべき場所」は教会であると、世の中が認めていました。すなわち、「教会」と「社会」はほとんど重なっていました。
 ですから教会も信徒もカルト化しようがありません(社会から隔絶されようがありません)。反教会的インテリも世俗主義者も、本人の望むと望まざるとにかかわらず教会に属する者でした。反教会的インテリや世俗主義者がそれを否定するならば、そのひとたちの方がカルトでした。
 そこでは、めるがっぱ氏のような人物も、礼拝に出席して恵みを受けるべき礼拝会衆のひとりに数えられているのです。
 ところが、われわれは日本で「説教は、『教会という場所で』行なわれなければならない」などと言っています。日本では教会と社会は今やほとんど重なっていないのですから、この標語は「説教は、『カルト化した少数者の居る建物の中で』なされなければならない」という意味にも聞こえます。
 ここでは、めるがっぱ氏は説教の「対象外」です。しかし「カルト化した少数者の居る建物に寄りつきたくない」という方が、よっぽどマトモな人物です。

]T.
 誰かが「四福音書は人間の死に関心がないように見える」と言ったとします。それが信徒ならば、教会は強権を発動して「その読み方は誤りで、聖書は信仰告白に基づいて読マネバナラナイ」と「指導」します。しかしそう発言したのが「対象外」のめるがっぱ氏であれば、「指導を受ける気持ちがなければ理解できるはずがない」として無視します。
 しかし実は教会が世の中を無視しているのではなく、教会の発言が、今や世の中から無視されているのかもしれません。「信仰告白に基づいて……」という発言は、ただ教会内部の従順な信徒にしか通じません。それを認めずに、自分に権威があるつもりで「救いは教会にある」なんて言っていたら、ほとんどあぶないカルト宗教です。
 アタシも牧師ですから、「救いは教会にある」どころか、「教会にしか、ない!」と思っています。さらに、聖書は「教会で、信仰告白に基づいて読まれネバナラナイ」とまで信じています。
 ただし、それは「救いは<自分たちだけに力があるつもりで威張っているカルト集団>にある」という意味では、ありません。むしろ、チョー有能なオレ様が、しかし「神の前で自分の無力と罪を信じている場所に、救いがある」という逆説を信じているのです。
 ですから「教会」とは「神の前で自分の無能を信じる群れ」です。ところが、一般に「救いは教会にある」と言う時、なんだか少しニュアンスが違ってしまっているように感じられるのです。このニュアンスの違いが非キリスト者にも気付かれたために、このごろの教会は世の中から相手にされなくなっているのではないでしょうか。  この文章もカルトの内部にしか通用しない文章でしょうか。これを読んだ多くの日本人が「こんなこと、どーでもいー」と思うのは、文章が粗悪なためだけではないと思うのです。キリスト教が世の中から遊離したために、すっかり世では不要のものになってしまいました。そのため、この文章は(こんな大事なことを言っているのに!)「どーでもいー」ものとして取り扱われるのです。

]U.
 キリスト教会はカルトであるとする判断が正しいかどうかについては;
 <西日本>←→<東日本>で日本のキリスト教伝道は<壊滅の予兆>←→<なんとか現状維持>という位に大きな違いがあるらしいのです。日本のキリスト教の中心地は、そうは言っても首都圏でしょう。首都圏に住むかたがたには、教会の危機とカルト化は分からないのかもしれません。しかし高知にいると、「35〜40年後には、ここにはキリスト教はないだろう」と、心配になります。
 ですから、西日本の教会に社会と接点を持とうとする傾向が強いのも、動機は十分に理解できます。ただしその本質に自己正当化がある限り、社会化の試みは教勢低迷状況に対応するためのアト追イのツジツマ合ワセにしかなりません。
 その反動で、一部の自己を「教会的」と称する連中が、ついついカルト正当化をしているのです。私もその一人でした。それを「このままじゃぁ違うゾ!」と強く反省したのがこの文章です。
 東日本のキリスト教会は、まだ健全で居るのならば、私の批判は東日本には当てはまらいのかもしれません。東のみなさん、怒ラナイデね。

]V.
 キリスト教会がカルト化した理由は;
 日本ではキリスト教徒は少数者です。少数者が社会の中でキリスト者として生きるには、多くの困難があります。
 かつて、キリスト教が西欧文化の威を借りて「善いもの」と認知されていた時代には、それでもまだアイデンティティ保ちやすかったでしょう。
 しかし情報の普及で、キリスト教は「たくさんある宗教の中の一つ」になりました。さらにキリスト教帝国がイスラム社会にどれだけ悪いことをしているかが連日報道される時代です。日本で少数者でありながらキリスト者であり続けることの困難は、増大しました。
 そのために、アイデンティティを保つ努力が教会を排他的にし、その結果ますます自らを少数者に追い込んでいるのです。(教会が排他的になっていることに無自覚であるならば、ワザとやっているよりももっと改善は遅れるでしょう。)

]W.  しかし困難は、うまくすれば自身を強くするのに役立ちます。
 キリスト教信仰の真骨頂が、「過去の自分に死んで新しくなること」なんだとしたら; われわれの信仰の喜びは、「俺たちカルトじゃないぞ、正しいんだぞ」と言い張っている時でなく、「俺たちカルトになってたじゃん!」と気が付く時にあると思うのです。そして「教会」とは、きっと「俺たちが正しいんだ」と言い張る集団でなく、「俺は正しくなかった」と驚いている集団です。
 なんちゃって。\以降は美術批評でも何でもなく、「日本人一般にとって聖書とは何か」でもなく、実は「教会」とは何かについての考察です。そこで「キリスト教批判」ページに掲載しました。
 それでも一応ウェイデンに戻っておけば; 「オレは正しくなかった」とショックを受けつつ、そんな自分に対する赦しに接したときに、「死」の先のものが見えてきます。そこを見ている病人にとっては、『最後の審判』の絵が、けっこう安らぎに……は、ならないかナ、やっぱし。
 ウェイデンの死生観が中世ローマ・カトリック教会の押し付けた救済観に支配されているならば、「教会の提灯担ぎをやってる以上、オレは正しいんだから天国に行けるんだゾ」という高慢があるのかもしれません。現代クリスチャンでも不快に感じる可能性があります。それでも、この絵が自分の死に無関心とは言えないのではないでしょうか。
 それはともかく、めるがっぱ氏(のようなかたがた)も、「信じたい」と希望し、「信じよう」と志して、『腐闘教会』に足を運んでいただきたいと願っています。そこの牧師が、たとえ金銭欲、名誉欲の虜になっていても、権力闘争の真っ只中にいても、女たらしで複数の信徒女性に手をつけていても、それでも「神の前で俺は正しくない」とショックを受けてさえいれば、その堕落した牧師の口を通して神の真理の御言葉が現われる……かもしれないからです。
 ただ、牧師さんがどんなに品行方正でも、カルト化することで自己正当化していたら、そこに救いが「あるわきゃねーだろー」と思います。

]X.
 こうしたカルト批判によって私自身が危機にさらされるのは、外面的にはカルト連中(一部の牧師)からイジメられることです。しかしそれ以上に危ういのは、私自身の信仰の問題も起こってきます。
 ここで述べてまいりました通り、私どもの信仰は、(聖書を生み出しキリストと出会わせる所という意味での)教会に依存しています。
 それなのに、そのキリスト教会を自ら『腐闘教会』と呼び切って仕舞うならば、そう呼びながらも教会を愛して教会に依り恃む信仰に留まり続けるのは、なかなか困難です。こうした呼び方は、信仰が相当程度個人主義化してしまった結果だからです。
 しかし教会の信仰に留まることが「困難」ではあっても「不可能」とは限らない以上、引き返すのでなく、ここを突き抜ける解決を目指すしかないようにも思えます。
 神が正しいのに日本の教会が先細りであるのならば、それは教会のどこかが間違っているのです。
 神に仕えて恥を受けるのならば、それはキリストの信徒である以上感謝をもって受けるべきだ……と、一応(自信は無いものの)覚悟しています。しかし間違っているために小さくなっている教会に閉じこもっていて、そこで「牧師でゴザイマス」とかって「お山の大将」をやっている惨めさは、罪の惨めさでしょう。ちょっと、そればっかりは願い下げです。






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