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祈祷院(修道院)の必要性   

高知アシュラム参加報告
2003年7月21、22日
北川一明   

 7月21、22日の両日、高知アシュラムという祈り会に参加して来ました。いわゆる「福音派」と称ばれる牧師や信徒のかたが多く集まる集会で、とても参加するガラではなく、ずいぶん違和感もありましたが、得るところもまたたくさんありました。
 ここでは感じたことのうちの肯定的な面を中心に述べております。内容自体に嘘はありませんが、同時に感じた否定的な側面についてはあまり触れていません。面倒なので、当面は書く気はありません。
 アシュラムでやろうとしていることと直接の関係はありませんが、いわゆる「福音派」の教会の伝道にも触れました。日本キリスト教団の教会をはじめ、日本の教会の多くが元気を失っている中で、「福音派」は伝道がうまくいっているという話しを聞きます。その理由の一面は、よく理解できました。


 「この世を捨ててこの世と無関係になって信仰を持つ」という信仰のありかたには、賛成しかねる面があります。それでも、祈りに専心するためには、ある程度は世から離れることは必要かもしれません。
 そこで、韓国のプロテスタント教会は、「修道院(世を捨てて修行する特別な場所)」こそ作りませんが、たくさんの「祈祷院」を作って熱心に祈っています。

 ところが、とくに「神学を重んじる(??)」日本の教会の中には「祈祷院」も捨ててしまったところがあります(私もそういう環境で育ちました)。今の伝道の停滞と無関係ではないと思います。

 先日「高知アシュラム」に行ってきました。「アシュラムの原点」にうたわれていることから考えて、アシュラムは祈祷院の役割をするものだと思いました。
 現実には、「原点」の通りになっていない点も、いろいろ目につきました。でも、私にとって、少なくとも「静聴の時(長時間かけて、ひとりでただ聖書を読むプログラム)」は非常に有益でした。

 「『神について』を教える説教ではなく、神の恵みの『通り道』になる説教をしたい」とは、いつもこころがけていたことです。それでも、聖書を読んでいるといつのまにか「会衆に何を語るべきか」という視点になっている……すなわち、傲慢にも、「私は神を知っているから教えてあげる」という視点になっている……ことがあります。  私を救うために、聖霊なる神さまが「私」に対して語りかけているのに、すぐに「あ、分かった」と言ってパソコンに向かい、神さまからのメッセージを途中までしか聞いていなかったことが多かったのかもしれません。

 今回は、聖書を礼拝説教との関連で……要するに自分がどう説教するかという関心から……ではなく、自分の罪との関連でゆっくり読むことができ、聖霊の御声を聞く思いがしました。




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いわゆる『福音派』の伝道が比較的うまくいっている理由

 アシュラムに参加して、いわゆる『福音派』と呼ばれる教会の牧師、信徒のみなさんと交わりを持つことができました。(『福音派』とは、特別に組織立った特定の教派を指すわけではありません。聖書を比較的字句どおりに読み、その通りの信仰生活を熱心にこころがける種類の教派、教会を、漠然と『福音派』と呼んで、私ども日本キリスト教団の教会とは少し区別して考えています。)
 いわゆる『福音派』の牧師先生がたの説教を聞き、日本キリスト教団の教会に足りない以下の二点を感じました。日本のキリスト教伝道がうまくいっていない中、福音派の教会は比較的よくキリストの福音を伝えているようです。以下の二点は、その理由の一部かもしれません。うらやましい限りですが、私たちの教会が簡単に形だけをマネすることもできない気がします。

@ 信徒の不安に応える説教、伝道 (長所と同時に欠点にもなり得るかもしれません)
 福音派の牧師さんは、「祈りには効き目があります、祈りましょう」と大きな声で断定します。「本当かよ」という疑問が湧いてきても、壇上からの激しい勢いに、その疑問はかき消されます。
 神さまは、もともと目では(めったに)見えません。そこでクリスチャンも、なかなか信仰の確信を持つのはしんどい面があります。そんなわれわれに対して説教壇上から強く断定されると、ちょっとシャクですけれども、安心もします。
 ただ、このやり方を推し進め過ぎると、信徒ひとりひとりが聖書と向き合って自分の頭で(ときには多少批判的に)考えることが出来なくなる危険があります。いわゆる『福音派』の教会の中には、まれに聖書の書いてあることを一字一句文字通りに受け取って、聖書の学問的な研究を無視し、科学を嫌うところがあるそうです。また牧師の考えがそのまま「神さまの御意思」であるような運営がされているところがあると聞きます。仮にそうした教会があるとすれば、上のいわゆる『福音派』の特徴が、欠点として現われ出てしまったケースだと思います。

A 信仰教育になっている礼拝説教 (説教が「教育」で良いのかという問題は残ります)
 いわゆる『福音派』の牧師さんの説教の中には、「礼拝にはきちんと出席しなければいけない」とか、「献げ物は命を献げる思いから、収入の十分の一を確実に」とか、信仰生活上の具体的な勧めがちりばめられているものが多いように感じました。
 私の出身神学校のなかまうちでは、「説教は、牧師を通して神がお語りになる神の言葉だから、具体的な生活上の注意は、語るとしてもせいぜいその日の聖書に書いてある範囲にとどめるべきだ……」なんて堅いことを言っています。私もそうした説教を心がけて、信仰生活上のガイドのようなことは、あまり言いませんでした。「生活ガイドは『神の言葉』ではなくて『人間の勧め』だろう」という発想です。
 「礼拝説教」としては、それが本来の姿かもしれません。それでも、それならばわれわれが説教に代わる場できちんと信仰教育、信徒生活の手引きをしていたかというと、なかなか出来ていないように思います。その理由は……忙しい現代人に、礼拝以外の時間を割かせて耳の痛いことを聞かせるだけのエネルギーが、牧師や長老たちに無いから……かもしれません。そうだとしたら、私どものやっていることは理想倒れです。
 われわれと比較して、高知アシュラムに参加した多くの教会で、あのように毎週毎週礼拝のたびごとに「信仰教育」がされるのならば、信徒はその分きたえられるに違いありません。






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