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韓國教会の説教#1

2005年4月23日
北川一明


 韓國での三回の安息日は、代表的な長老教会(日曜の礼拝出席が10,000人くらい)と、韓國では普通規模(同2,000人程度)のメソジスト教会に出席しました。
 韓國ではキリスト教が日本とは比較にならないくらい普及しています。まちなかでは三歩行けば教会に当たります。それでも、韓國教会の説教の問題は、日本のそれとほぼ同じであるように感じました。

【長老派の教会】
 私の行った長老派の教会では、ただただ聖書の説明を延々続ける説教が語られていました。日本の、私どもT神学大学出身の牧師がやって教勢を落としている説教にそっくりです。
 聖書に書いてある恵みは真実であると強調されます。
 それは良いのですが、何がいけないと言って; その証拠として聖書の他箇所にある出来事が挙げられているのです。良く聞いたら「聖書のAの箇所にこう書いてあるから、聖書のBは真実である」という話しです。これでは教会の外には全く通用しない「内輪受け」に過ぎません。聖書に書いてある恵みの真理証明は、証しでなければいけないのではないかというのが、私の年来の主張です(『水戸黄門と暴れん坊将軍の喩え』参照)。

☆☆

 日本の教会では、そういう説教をする牧師たちは「清貧にたえて正しい説教をしている」と、大いばりです。信徒たちも、「先生の説教は難しい」と愚痴をこぼすだけで、それを改善しようとはしません。説教から恵みを感じることができないでいる癖に、近隣の他教会の会員に対しては「うちの牧師は偉い学者先生だ」と自慢するひとさえあるかもしれません。
 しかしこちらの教会では、日本よりも牧師が神格化されているにもかかわらず、一部にそんな牧師を辞めさせようという動きがあったという噂を聞きました。仮にこの噂が真実でないとしても、こんな噂が立つということは、長老派の教会でもこうした説教は多くはないのでしょう。
 それでも私は、こうした説教には好意的な印象を持たざるを得ませんでした。その理由は、次のメソジスト教会の説教をお知らせした後で書きます。

【メソジスト教会(1)】
 いっぽうメソジスト教会の一つでは、初老の牧師が講壇から駆け下り、ガウンを脱いで、「こうすれば私もみなさんと同じ人間なんです」と叫びます。日本の**神学校出身の牧師でも、こういうことは恥ずかしくて出来ないのではないかと思いました。
 韓国語の分からない私は、同時通訳がない教会では、もっぱら牧師のしゃべりかたからそのココロを推察します。すると牧師の身振り手振りが「本物」か「演出」か、かえって良く見える気がします。牧師が大声を出している時に限って、「あのヒトは嘘を言っている」と感じてしまいました。
 説教者がキリストの福音にほんとうに感動している場合、必ずしも大げさに説得的になるとは限りません。むしろ礼拝会衆に対して慎重に注意深く表現しようとするのではないでしょうか。

【メソジスト教会(2)】
 もう一つのメソジスト教会の説教は、「まだ、ずっとマシだ」と言っている聴衆がいました(うちの奥さん)。
 「苦難の時に信仰に留まるには、信仰の『根』を深くおろさなければならない」という、やや実利的な勧めでした。
 「……ねばならない(信仰の根を持たなければならない)」という、ともすれば律法主義的にも聞こえかねない論理ですが、そのような印象はありません。それは説教者自身が「信仰によって苦難に耐えることができた」という確信に満ちた前提があったからだと思います。

☆☆

 それでも、「信仰の根を深くおろすために、『己の十字架』を負ってキリストに従いましょう」と言われて、現代の聴衆が納得するのか少々疑問でした。
 世が貧しかった頃、民衆は誰でも、多かれ少なかれ『己の十字架』を負っていました。そんな時代では、この牧師先生の説教は「今負っている十字架を直視することが、信仰を深めることになるから、十字架を負っていても大丈夫だ」という励ましになるでしょう。
 しかし今は、誰もが楽をしよう快適に暮らそうとしています。『己の十字架』を負うことを避けるために諸産業が発展し、その目的はある程度は達成されています。
 そんな時代に「十字架を負え」と言われても、「牧師が言うんだから十字架を負おう」と思う人がどれだけいるのだろうか……と思ったのです。

☆☆

 「己の十字架」をすすんで負い、すすんでキリストに従ってまで信仰を守り深める必要があると認識しているひとは、現代でも何人かはいるでしょう。そういう聴衆なら、この牧師さんの説教に励まされるかもしれません。
 私も「苦しい思いをしてまで信仰を深めると、それがかえって自分の仕合わせにつながる」と思っているひとりです。
 それでも、この牧師さんの説教を(妻の翻訳で)聞いて、「そう言われてもなぁ……」という印象を受けました。「十字架を負おう!」と元気づかされるような何かが欠けているのです。

☆☆

 「苦しい思いをしてまで信仰を深めると、それがかえって自分の仕合わせにつながる」ということまで、説教は親切に教えてあげなくてはいけないのか/そんなことは信徒が自分で考えることか……という問題が、私を迷わせています。これは「説教の役割」という問題です。
 テレビの普及で、何から何まで丁寧に教えてもらうのが当たり前になった今、「信徒は自分で考えろ」と言っても、なかなか難しいでしょう。かといって、説教で何から何まで具体的に教えてあげるのにも違和感があります。それでは、国会に政党を送り込んでいる仏教系の新興宗教やオウム真理教などと同じやり方になってしまいます。

【韓國教会の現実(1)】
 ごく大雑把に言えば、韓國説教には上の《メソジスト(1)》か《メソジスト(2)》のような説教が多いのだろうと思っています(この推量が正しいかどうかはまだ分かりませんが……)。
 日本の説教と比較して、こちらの説教が圧倒的に良い訳ではないようです。
 それでも韓國ではキリスト教伝道がかなり成功しています。伝道が成功している所では、こうした説教でもある程度までは信仰の養いになるのだと思いました。

☆☆

 たとえば《メソジスト(2)》の説教を聞いた時、「いくらクリスチャンでも苦しい思いをするのは厭だなァ〜……」と思ったとします。それでもキリスト教信徒が多い中では、生活の中で「試練でこそ信仰を深められ、こんなに仕合わせにされました」という証しに、あちこちで接します。すると、説教と信仰生活と両方を通して、結局の所は「キリストに従おう」
という気持ちが強められるのです。
 ところが、周りにクリスチャンが全然いない日本では、「いくらクリスチャンでも苦しい思いをするのは厭だなァ〜……」と思ったら、思ったままで終わってしまいます。そして「牧師は建前のキレイ事ばかりを言っているから、私も偽善者になろう」と思うわけです。
 イエスさまは、「だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる(ルカ19:26)」とおっしゃいました。今、韓國が前者で日本が後者なのだと感じます。

☆☆

 《長老派の教会》の説教でも、韓國ではそうした説教が教勢を落とす原因には(今のところは)ならないのです。
 信徒たちは、日曜日に礼拝に出て、未信者を教会に誘うのが当たり前になっています。そうした教会生活が、説教とは直接には関係なく続けられる中で、ただ「あの先生の説教じゃぁ恵みが感じられないネ」と苦情が出るだけなのでしょう。
 最初に、そんな説教に好意的な印象を持ったと述べました。韓國のように、信じ、祈り、証しし、伝道するのが当然である信徒さんたちに対しては、そのような説教も必要だろうと思ったのです。
 教会で語られた教理的知識を自分の信仰生活に適用していく土壌があるからです。
 それならば、教会で聖書の読み方と教理がしっかりきちんと語られることは、良いことに違いありません。《メソジスト教会(1)》よりも、長い目で見れば信徒たちは信仰に養われるのかもしれません。

☆☆

 ただ、同じ説教を今の日本でやってしまうと、かなり的はずれです。少ししか持っていなかった、その持っているものまで取り上げられているというのに、その上さらに自分で持っているものを捨てているのと一緒です。

【韓國教会の現実(2)】
 もう一つ、韓國キリスト教界には豊かに与えられている賜物があります。
 うちの奥さんは、上の三つの説教例のいずれにも全く満足できないでいます。そんなヒトが、文句のつけようがない力を感じる説教があると言います。近い将来、その教会にも行ってみようと思っています。

☆☆

 その牧師先生の説教集が、うちにもあります。
 その牧師先生が、私と比べて、また私の尊敬する諸先輩、同労の諸先生と比較して、圧倒的にアタマが良い訳ではないと思うのです。「オレだってソコソコできるし、信仰だって無いワケじゃぁない」と思っています。
 そもそも証しが溢れ、「キリスト」が常に語られている社会では、ある程度の能力があったら、相当程度の良い説教が生まれてくるのだと思うのです。
 韓國人が日本人よりもずっと賢いのならともかく、そうではないのならば、こちらには同じ能力のヒトが力を発揮できる信仰の土壌が、既に出来上がっているのです。
 その分われわれ日本の牧師は、より多くの労苦をしなければなりません。

おわり





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