2003年11月9日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教
試練に うちかつ ちから


中村栄光教会牧師 北川一明


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旧約聖書【出エジプト記 第32章1〜6節】
新約聖書【コリントのへの手紙T 第10章1〜13節】





試練に うちかつ ちから

北川一明

T.
 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」と、今日の新約聖書の、最後の方に書いてありました。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」と、言われます。
 いかがでしょうか……。確かに、そうかもしれません。聖書に書いてあることは、本当かもしれないと思わされます。
 「今までの人生を振り返って」、なんて言いますと、ちょっと大げさですが。苦しいこと、困ったこと、厭なことは、いろいろ、ありました。それでも今、こうしてどうにかなっては、いるのですから。過去の試練、全部が、過去のこととして、いちおう終わっています。そういう意味では、試練を耐えて抜いた……ことにも、なります。
 それで、この聖書の言葉、それなりに、説得力があるようにも思えす。
 ただ……。私は、牧師ですから。うんと困っているひと、うんと苦しんでいるひとと、しばしば出会います。そういう時に、この聖書を引っ張ってきて、使ってみたくなるのですが。だけども、……こんなこと、苦しんでいるひとに、簡単には言えません。
 これまで、少なくとも命は無事だった。そういう経験から、これから先も大丈夫だ、と。私が保証することは、出来ません。病気になって、これまでは治ったからって言って。今度の病気も治るとは限りません。
 東京で、障害を負ったお子さんをもってらっしゃるお母さんが、キリスト教のお話しを聴きに来てくださってました。苦しんでいる分、たいへん熱心に、キリスト教を学んでくださいました。
 ですが、時に、お子さんの容態が、かなり悪い。ちょっと……ホントに危ない、なんてェときも、ありました。そういう時にお会いすると、……ヘンな言い方ですけど、こちらも、とてもエクサイティングで、スリリングです。
 ……と、申しますのは。キリスト教が、本当にお母さんの救いになるのか。こちらも、神さまから、試されるのです。
 なんとか慰めたいから、「神は、試練と共に、必ず逃れの道も備えてくださいます」って言いたいんですけど。「じゃぁ、助かるんですネ」って聞かれても、医者じゃないから分かりません。子どもは、今までは助かって来ましたけど。人間である以上、いつかは死にます。それが、たまたま今回かもしれません。
 そうなってしまった場合は……、こっちは逃げ出すんでしょうか。それなら、私どもの宗教はインチキです。
 では、こどもが亡くなった場合でも、「これは、神の試練です」って言うんでしょうか。子どもが死んでも、「あなたを襲う試練で耐えられないものは、ないはずだ、耐えなさい」とでも、言うのでしょうか。
 キリスト教の「教え」は、きっと、その通りなんです。死んだとしても、死んだ後には永遠の命があって。天国があって。だから、「あなたを襲う試練で、耐えられないものは、ないはずだ」って。キリスト教の教えとしては、きっと、その通りです。
 ですけれども、「だから子どもが死んでも、耐えられるはずだ」なんか言ったら。キリスト教は、最早、救いではなしに、ただ裁きです。この試練に耐えられないのならば、「信仰が足りないアンタが悪いんです」って。そう言ってるのと一緒です。
 この聖書……。そういう訳で、いい加減に、気休めに使っているだけで。この言葉の本当の良さが、ちっとも分かっていなかった……って。そのお母さんとお話ししている時に、気が付きました。
 それで、13章の1節から、ちゃんと読んでみた時に。この言葉の慰めの意味が、少し、一段階、本当に分かった気がしました。今日は、そのことをお話しします。

U.
 すぐ前の12節、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」って。これは、気休めじゃぁありません。警告です。これ以前にも、「警告」だって、再三、言われています。
 試練の時の「警告」……ってことは。われわれ、試練に際して、ただ頭を抱えてそれが通り過ぎるのを待つだけじゃぁ、ないんです。「神さま、何とかしてください」って、何にもせずに御利益を要求するのが信仰じゃぁ、ありません。私どもには、警告に従って、やるべきことが、あるんです。苦しい時に。人間が、なすべきことを、きちんとやった時。神の備えてくださった、逃れる道が、見えてくるのです。
 って、こういうことを言いますと……。ここは教会ですから、やるべきこととは「信じることだ」とか。宗教は、そういうことを言って、信者さんを増やそうとするのがですが……。お子さんの容態が悪くなってる・さっきのお母さんに。そんな、ひとの弱みにつけ込んでは、ちょっと詐欺です。
 これは誰に対する警告か、読んでみますと……。そのお母さんに対する警告じゃぁ、ありません。2節から4節までに、書いてありました。洗礼を授けられて、霊的な食べ物を食べ、霊的な飲み物を飲んだひとたち……。ですから。洗礼を受けて、教会で聖餐式をやっている、教会員のことです。
 この言葉は、今日、特別伝道礼拝にゲストで来てくださったかたよりも前に。まず、私ども教会員に対する、警告です。
 まぁ……今で言えば、「教会員」ですが。この聖書が書かれた時には、イスラエル人のことです。キリスト教は、ユダヤ教から生まれましたから。そういう、一緒に礼拝をしているユダヤ人に対する警告です。
 そういうひとたち……教会員、もしくはユダヤ民族は。神さまから、試練を乗り越える力を、はっきり与えられて来た……はずだったじゃぁないか、と。この今日の聖書は、そのことを、まず旧約聖書を思い出させて、説明します。
 ちらっと旧約聖書、出エジプト記も読みましたけど。大雑把に申しますと……;
 イスラエルの民は、エジプトの奴隷になって苦しんでいたんですが。有名なモーセをリーダに、エジプトから抜け出しました。それで今のパレスチナまで行って、そこに定住しました。
 その途中のことです。砂漠で、どっちに行ったら良いか分からなくなった時には、雲の柱に導かれました(Ex13:21f)。エジプト軍が追いかけて来た時には、海が、分かれました(Ex14:21ff)。モーセの十戒かなんかで、映画にもあった、アレです。海の間を通って、イスラエルは救われました。あと、砂漠で食べ物や飲み物も、たまたま与えられました。そ何度も何度も試練があって。ですけれども・その度に、逃れの道が、必ず備えられていた。
 ところが、昔の教会員たちは。その何度もあった試練のうちの、何回目かで……。荒れ野で、滅ぼされたのです。のたれ死んだのです。
 旧約聖書には、そのことが、書いてあります。
 昔の教会員が、信仰を持っていたはずなのに野垂れ死んだのは。今の教会員……私どもクリスチャンを「戒める前例」として起こったことなのだ。今日の新約聖書には、そう書いてある。
 クリスチャンが、せっかくクリスチャンになったのに、試練を乗り越えることができないのは……。滅ぼされて行くのは。逃れようがなかったからでは、ない。逃れる道が備えられているのに、その、逃れる道に乗っからないからです。
 何がいけないのかって言いますと……。「彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために」って、書いてありました。私どもが、救いから逸れて行くのは「むさぼり」によるんだそうです。
 何をむさぼったのでしょうか。われわれ、試練に遭って苦しんでいる時。たとえば、こどもの容態が急変した。そんな時、何を、むさぼるでしょうか。むさぼりって言ったって。モノとか、カネとか。地位とか、名誉とか。まさかそんなもの、たいへんな時に、むさぼりません。
 旧約聖書には、「民は全員、着けていた金の耳輪をはずし」て、牧師さんに提供した……と、書いてありました。試練に遭った時、むしろ逆です。民は、自分の財産を差し出したのです。カネを捨ててでも、むさぼったのです。
 何を手に入れようとしたか。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」……って。
 イスラエルのひとたちは、試みに遭って、不安になりました。指導者のモーセが見えなくなって、不安になったのです。それで、自分たちで金の雄牛の鋳像を作って。それが出来上がったら……自分たちの作った牛の像を、これこそ神だと、はしゃいで廻りました。それが、新約聖書で指摘している、「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」っていうことです。
 イスラエルのひとたちが、私財をなげうってまで手に入れたかったものは、「安心」です。不安を紛らせる、何か……偽物でもいいから、安心できる何かがほしかったんです。
 牛の像なんて、チョーくだらないです。ですけど、いちばんの試練で、不安で不安でどうしようもない時。子ども容態が急変した。自分は、何にもすることが出来ない。そうなったら、誰でも、こういうことをやりたくなるかもしれません。
 試練に遭って、苦しんでいるのに、神は、目で見る形で現われては、くれない。こんどの試練は……、今度こそ、もう駄目かもしれない。そんな風に、不安になって、焦っている時。私どもが・いちばん欲しいモノは、安心です。
 そういう時、神さまが、せっかく備えてくださった、試練から本当に逃れる、逃れの道から…=…神の道から、それてしまのです。
 それが、新約聖書の7節から10節まです。

V.
 この手紙が宛てられたコリントというのは、ギリシアの、大きな港町です。もともと、ギリシアの合理的な考え方、科学的な考え方の背景がありました。そこへ持ってきて、大きな貿易港ですから。さらに、世界の最先端の文化が、流れ込んで来ていました。
 コリントの教会は、そういう所で1000年来の古い宗教を、守ろうとしていました。そこで、クリスチャンたちには、不安と焦りがありました。
 不安は、生きるか死ぬかの不安じゃぁ、ありません。生活は、いちおう安定してました。もっと、自分たちクリスチャンのプライドにかかわる、不安でした。
 ギリシアらしい、科学的、合理的な考えかたで自分たちの信仰生活を見たら、どんなもんだろうか。周りのひとから、クリスチャンは、昔の迷信に頼っていると思われるんじゃぁないか、と。このひとたちには、そういう心配が、ありました。
 こころが弱いから、宗教を信じている……とか。頭が悪いから、迷信を信じる、とか。そう蔑まれるのが心配でした。
 それで、コリントの信徒たちは。一方で、この世の知恵に頼る……。キリスト教っていうのは、頭の良い、進歩的なひとが信じる宗教だゾ、みたいな(1コリント1:20-25)。俺たちは、頭が良いから、合理的で、科学的なキリスト教を信じたんだ、みたいな。そういう信仰になりました。
 クリスチャンは、キリスト教を信じていないギリシア人よりも、ずっと賢くって、だから、ずっと自由だ。キリストの十字架が、全ての罪を贖ったのだから、昔の仕来りなんかに縛られる必要はない。お供えの肉を食べようが……って。今日のこの聖書は、お供えの肉を食べて、罰が当たるか/当たらないかっていう、8章から始まったお話しの、続きです。
 お供えの肉は、食べて良いのですが。そうやって、「俺たちは頭が良いから自由なんだ」って言っているひとたちは。さらに、何でもアリになって行きました。
 たとえば、お供えの肉の前の、7章に出てくるのは。同性愛あり、近親相姦あり、っていう……。コリントのひとたちは、進歩的なセックスを愉しもう……と。もともと港町で風紀が悪かったんでしょうが。そういう方向で進歩的になって。世界の最先端の文化の中でも、いちばんの先頭を行こうとしました。
 今日の8節に、「彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう」って。それは、そういう意味です。
 今のアメリカの一部の教会も、そうなっています。ホモの権利を認めろだとか、男同士の結婚式を教会で挙げるとか。進んで欲望に浸る信仰を、選んでいます。「頭の悪い堅物だけがキリスト教を信じている」って、そうやって言われるのが悔しくって。「俺たちがいちばん進歩的だ」と、言い出したのです。
 だけど教会は、もちろん、そういう人たちだけでは、ありません。真反対のひとも、あります。
 「そういう考え方は、なんて汚らわしいんだ。古いしきたりは、絶対に守らなくっちゃぁいけない」っていう、一見正反対のクリスチャンたちも、ありました。
 神さまがいちばん大切だ。信仰が大切だ……と。そういうひとたちは、熱心に教会生活をしました。
 ですけど……。ふしだらになることで、不安を紛らそうとするひとたちのことを言っているのが8節ならば。7節は、やたら真面目に頑張ることで、不安を誤魔化そうとするタイプのクリスチャンのことです。
 「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります」……って。やっていることの、外側を言えば。真面目派は、礼拝を盛り上げようとしたのです。
 礼拝が大切だ、信仰が大切だ……と。もちろん大切なんですけど。ただ、そういうひとたちは、社会の変化には頬被りをして、世の中を見ないようにして。一生懸命、教会の中だけで踊り狂って、不安を紛らしたんです。
 ふしだらなひとたちには、罰があたる。でも私は、教会のいいつけを、一字一句守っているから。救われるのは、われわれだけだ……と。
 表面の態度は、さっきの「ふしだら派」と正反対です。けれども根っこは、一緒です。価値観が、大きく揺れ動いている時代にあって。世の中を見ちゃうと、自分のやっていることが、不安になるのです。いたたまれなくなるのです。それで、どちらも、極端に走ることで、不安を紛らしていたんです。
 その、心の中を覗いて見ますと;
 9節、「彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう」。
 みだらな行ないに耽る進歩派は、神を試すのです。
 神さまは、どうせ全知全能で。こころの中まで何でも知ってて。それでも赦してくださるんだから。祈りが聞かれる/聞かれないは、どっちにしたって一緒じゃぁないか。それなら、食べたり飲んだりしようではないか、明日をも知れぬ身なのだから……。信仰を、合理主義で突き詰めて行ったら。そういう神を試みるようなことに、なっちゃったんです。
 一方、保守派は10節です、「彼らの中には不平を言う者がいた」。真面目に、真面目に、何でもかんでも我慢しているクリスチャンは、不平を言い始めたのです。
 俺がせっかく欲望を我慢しているのに、神は、ちっとも報いてくださらない。世の中で、好き勝手に自由にやってる連中の方が、仕合わせそうじゃぁないか……って。信仰から真面目になったんじゃぁなくて、焦りや不安から真面目に振る舞ってるだけですから。こころの中は、神さまに対する不平不満ばっかりなんです。
 しかし「これらのことは前例として」起こったのです。11節です。これが書き伝えられているのは、時の終わりに直面している私どものためです。「時の終わりに直面している」……世の価値観が、ぐらぐらに揺れ動いて、自分とは何か。分からなくなりそうな、そういう時代に直面している、我々に対する、警告です。
 こんな時代ですから。自分が選んできた生き方が、良かったのか。確かに、不安になるんです。けれども、私ども。キリスト教・真面目派とか、キリスト教・進歩派とか。そんな風になる以前です。信仰を得た最初は、そういうことじゃぁ、なかったはずです。
 こんな時代だから、自分が選んできた生き方が、良かったのか。「良かった」って思いたくって、私ども、不安になっているのです。しかし、「良くなかったのだ」って。信仰を得た時とは、自分でそれを認めることが出来た時です。
 信仰とは、悔い改めです。私の生き方は、間違っていた。それに気が付いた時に、救われたのです。

W.
 聖書の言う「逃れる道」とは、もちろん、信仰です。ですから、たとえば、洗礼です。
 ですけれども、それは「洗礼を受けたら大丈夫だ」なんて。そんなおまじないじゃぁありません。洗礼とは、自分の罪に死んで、罪を洗い清める……って。そういう意味のものです。
 霊的な飲み物と、霊的な食べ物とは、教会で、クリスマスとか、イースターとか、そういう時にやります。先週も第一日曜で、やりました、聖餐式って言って、パンとぶどう酒を飲む儀式です。
 この聖餐も、決して、おまじないでは、ありません。聖餐は、私の罪のために死んだキリストの、死と復活に与る……って、そういう意味です。
 洗礼も、聖餐も。聖書の言う「信仰」とは、おまじないじゃぁ、ありません。どちらも、私どもが、神さまの前で、自分の罪に死んで、キリストに生きることでした。
 そして、考えてみれば……。私どもが、試練を本当に乗り越えることが出来たのは。そういう時には、どうやっていたか。本当は、そうやっ乗り越えて来たんです。
 ……「そうやって」って、自分の罪に死んで、新しくキリストに生かされることで、乗り越えて来ました。「試練を、信仰で乗り越えた」っていう時は、たしかそうだったって、思うのです。
 試練にあった時。ほとんどは、実は、乗り越えれませんでした。私どもは、ただ我慢して。ただ、苦しんで。たまたま、試練が過ぎ去って行った、だけでした。だけど、過去の、自分の罪に死んで、新しくキリストにあって生まれ変わった……って。そういう時に限っては、本当に試練を乗り越えることが、出来たのです。
 「自分の罪に死ぬ」って、どうしたかって言いますと……;
 試練に遭って……。何から何まで、全部を思い通りにすることは、どうしたって、出来ません。これは大事だ、これは絶対に失いたくないと思っている、いくつかのもの……。そういうものだけを残して、大事じゃぁないものを捨てて、何とか切り抜けて来ました。
 大きな試練だったら。これは大事だ、これは絶対に失いたくないと思っている。そういう大切なもののうちの、更にいくつかまで、捨てなきゃ・なりませんでした。
 仕事や財産だったかもしれないし、何かの理想や目標だったかもしれないし、プライドやアイデンティティだったかもしれないし、愛するひとかもしれません。そういう大切なものを、それよりも・もっと大切な。もっと守らなくッちゃぁいけない、別の理想か、目標か、愛か、健康か。そういいうもののために手放して。それで、そのもっと守らなくッちゃぁいけない大事なものを守って。
 その時、本当に大事なものが何だったか。自分で発見して。それで何とか、試練を乗り越えて来ました。
 どんどん痩せ細って行って。だけども・それで、大事なものを守りました。
 大事じゃぁないものに対する執着が、私どもの「罪」……なのだとしたら。罪に死ぬって、そうやって自分を捨てて、痩せ細って行くことかもしれません。試練は、ひとを育てます。痩せ細ったお陰で、どうしても必要な、大切なものが、だんだん見えてきました。
 もっと大きな試練だったら。その、もっと守らなくっちゃぁいけない大事なもの…=…痩せ細ったお陰で見えてきた大切なものまで、捨てなくっちゃぁ、いけません。さっきのお母さんだったら、子どもを失うことが、あるかもしれません。子どもへの愛着も、捨てなければいけない時が、あるかもしれません。
 そして、いちばん大きな、最後の試練では。私ども、ついには、自分のことも、諦めなくっちゃぁいけなくなります。最後は、自分命を諦めなくッちゃぁ、いけません。「試練」って……「試練」っていうくらいなんですから、試練なんです。捨てれるものを捨ててるうちは、そんなもん、試練じゃぁありません。
 どうしようもなくって、捨てることの出来ないものを、捨てる。愛する子どもを、諦める。自分の命を、諦める。それが試練です……。そういう時……自分よりも、大いなる、聖なるものに触れる……ことが出来たら。そういう時に、永遠の命が働きかけているのに触れることが出来たら。それが、私どもの、救いです。
 大切でないものを、諦めて。唯一、たいせつなもののために生きるようになるのが、「キリストに生きる」っていうことです。

X.
 私どもが、今、生きて暮らしている、この時間の外側に、あったもの。そして、この時間の終わってしまう先まで残っているもの。それが、永遠のものです。その永遠のものと触れることが出来たならば、私どもは、救われます。
 その、永遠の、聖なる、この世の外の命と触れ合うことが出来なかったら。ひとつの試練は、時間と共に過ぎ去りますけど。私どもは、滅んで行きます。いずれは、試練に打ち負かされて、死んで行きます。けれども、その永遠の、聖なる、この世の外の命と、触れ合うことが出来たなら。私どもは、救われます。
 「試練に打ち勝つ力」って。試練の時に、どうやったら何でもかんでも思い通りに出来るようになるか……って。そういう「能力」じゃぁ、ありません。唯一、大事なものを見つけた時。試練に、耐えられるのです。
 その、永遠の、聖なる、この世の外の命と、しっかりと触れ合うことが……。キリストの体と血とに与る……つまり、キリストと一体になるっていうことです。
 先週やった、聖餐だか何だかの儀式に、効き目があるとしたら。そうやって己の罪に死んで、キリストの死と復活に与る。聖霊を受けて、永遠の、絶対のものと、一体になる。そのしるしとして、あれに与った時。あれは本当に、効き目のある……試練を克服する、力になるです。
 あのお母さんには、なんて言えば良かったか……。子どもの病気が危なくって、こころが、本当に糸のように痩せ細ってしまったお母さんを、どう励ませば良かったんでしょうか。
 「神は真実な方だから、耐えられないような試練には遭わせませんヨ、大丈夫ですヨ」だ、なんて。そういう風に言ったら、ただの気休めです。
 この聖書は、あのお母さんがたよりも前に、まず私どもに対する警告です。ですから、「神は、真実なかたですヨ」じゃぁない。「神は、真実な方でした、私にとっては」……って、そうなら、言えます。
 試練に際して、私は、苦しみました。苦しんで、アタシだって、痩せ細りました……けど。神は、真実なお方でした。そうした中で、永遠の、聖なる、尊い、大いなる何ものかに、ちらっと、出会わせてくださいました。そうやって、導いてくださいました……。
 今日来てくださった、まだ信仰を告白してらっしゃらないみなさんに申し上げたいのも、そのことです。
 これ、「特別伝道礼拝」って銘打ってますけど。神さまって、「説明されたら、信じれる」ってもんじゃぁ、ないですよネ。私ども、ここに居るクリスチャンが。信仰で、幸いを得ているのを、どうか良く見ていただきたいのです。われわれの仕合わせは、本物か。本物なら、それがどこから来ているのか。
 神は、私にとっては、真実なかたでした。私を、救いに導きました。
 その導かれた・この牧師は、いっつも・いっつも、信仰深く生きている訳では、ありません。けど、己の罪に死んで、キリストの命に与る……って。そのことを、少しは、知っていますし。そのことに憧れて、信仰を、追い求めています。
 そして、これから先……、試練に遭ったとしても。罪に死に、キリストに生きるならば、『試練に耐えられる道が、備えられる』と……。信じています。
 それを信じている今は、信じてない前よりも、ずっと仕合わせだと思ってます。

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