新約聖書@【ヨハネによる福音書 第18章36〜40節】
【自信】
新約聖書A【ペトロの手紙T 第11章21、22節】
中村栄光教会牧師 北川一明
T.
自信をもっている人は、落ち着いて事に当たれますから。その分、失敗することも、少ないし。たとえ失敗しても、自信があれば、やり直すことが出来ます。
自信がないと。いつも迷って、おどおどしていないといけません。それで慎重になるからうまく行く・か、というと……。決断すべき時に出来なくて。やることなすこと・全部が、裏目に出たりします。
だから是非とも、自信をもって生きて行きたいと思います。
ただ……。あんまり勝手な自信は。厭らしくて、鼻についたり。滑稽だったり・も、しますから……。自信をと言っても。変な、間違った自信と。正しい、本当の自信が、あるのだろう・と、思います。
正しい自信を持った時に。私たちは、自分の人生を良くすることが、できる。良く生きれるようになるのです。
じゃぁ、その「自信」とは、何か。
辞書で、「自信」という言葉を引いてみますと。「自分の能力や価値や正しさを確信すること」と、書いてありました。
言葉の意味としては、それで十分でしょうけれども……。
自分の……; 能力を信じるのと。価値を信じるのと。正しさを信じるのと。3つは、3つとも。ずいぶん違います。
自分の能力を信じるのは、比較的簡単です。
自分のことを、客観的に、冷静に、観察したら。能力は、だいたい、見当が・つきます。
こどもが・鉄棒で。逆上がりが出来た。3回やって3回とも出来たらば。今度体育の時間も、出来るだろう、と。能力を信じるとは、そういうことで……。
それも、自信と言えば自信ですけど。体育の時間に大いばりでも、算数の時間は小さくなっているんだったら。まだまだ、「生きる自信」と言うには、足りません。
「自信をもって、のびのびと、堂々と、自分の人生を生きる」という時の自信とは……。「能力がどの程度か・分かっている」のとは、ちょっと違います。
じゃぁ、自信とは何か。
自分の正しさを信じていれば。それは、気持ちが良い。そういう人は、堂々と、ふんぞり返って生きれるかもしれません。でも……。
自分の正しさを信じるというのは。ちょっと考えれば。世の中、みんながやっていることです。誰もが、自分が正しいと思っているから。揉め事が、起きるし。世の中、暮らしにくいんです。
本当の自信は、能力を測ることでもなければ、自分が正しいと思い込むことでもない。
自分の価値を、正しく確信していることだと思うのです。
逆上がりが出来ても/出来なくても。自分の考えが、正しくても/間違っていても。それでも、私には、尊い価値がある。大きな失敗をした時でも。それでも、私が生きているのは、素晴らしい、と。そういう確信を持っているのが、本当の、良い意味での、自信です。
U.
今日の聖書には、ピラトという人が、出てきます。今日の、「真理とは何か」なんていう発言を聞くと……。現代人にも通じるところがある。聖書の中でも、なかなか興味を惹く人物です。
この人が、自信のある人間だったと思うのです。
ローマ帝国から、ユダヤに派遣されて来た、ユダヤを支配していた総督でした。たいへん有能で。ユダヤの行政改革を断行して、公共の上下水道を作ったりもしました。その反面、頑固で。いわゆる抵抗勢力を、平気で虐殺したと言われます。
頑固っていうのは。自分の正しさを、信じて譲らないことですから。自分の正しさも、能力も、信じている。……すると当然、自分には価値がある、と。自分の価値も、確信していたに違いありません。
神を信じる気持ちはないけれども、自信を持って生きている。そういう人でした。
そういうピラトが、ユダヤを治めていた時。ユダヤの国民が、宗教のことで揉めていました。
イエスという男が。自分のことを、神さまみたいに言っている。それで、多くのユダヤ人は、神を冒涜している、と腹を立てて。ピラトの所に訴え出ました。
しかし、ピラトは……。それは、どうでも良いことでした。ユダヤ人の信じる神だって、キリストだって。どっちも、偽物だろう……と。その位にしか、考えていません。正しいのは、自分だけだからです。
今日の聖書の、少し前の31節、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」。つまり、勝手にしろ、と。「俺は、どうだって良いんだよ」と言ったんです。
ところが。ユダヤ人は、イエス・キリストの罪は、死罪に当たる、と言い立てます。
ピラトは、ユダヤ人に、かなりな程度の自治権を与えてました。ローマ帝国に逆らわない限りは勝手にしなさい。そういう政策でしたが……。
いくら何でも、勝手に死刑がやられたら、困ります。死刑のような重大な犯罪については、総督である自分が裁くことにしていました。
ですから、煩わしいけれども、しょうがない。ピラトは、イエスに会って、聞いてみます。33節、「お前はユダヤ人の王なのか」。
するとイエス・キリストは、「あなたはどう思うか」と、聞き返します。
「どう思うか」って。乞食同然の格好で、宗教をやっている男ですから。常識から言えば、王であるはずが、ありません。
けれどもピラトは、「王ではないと思います」なんて・まともな返答はしません。自信満々ですから。「王であろうがなかろうが、どっちでも良い」と。私は、ユダヤ総督だから、ユダヤ人の王に、命令をする立場だ。お前が、ユダヤ人の王様だって、怖くもなんともない……と。そういう意味で、「わたしはユダヤ人なのか」と、答えました。
……そこから先が、今日の聖書ですが。
そうしたら、イエスさまは、「わたしの国は、この世には属していない」。ご自分のことを。この世の王様じゃぁない、けれども。この世とは別な次元で、王なのだ……と。イエスさまは、そういう意味のことを言います。
……ピラトが、面白いのは……。ここからです。
宗教のセンスが全然ない人ならば。何を戯言を言っているのだ、と。取り合わない。ところがピラトは。キリストの、この答に。……「???(え?)」……と。……何かを感じたんです。そして、「それでは、やはり王なのか」……と。思わず、聞き返します。
するとイエスさまは、不思議なことを言います。わたしが王だとは、今、あなたが言っている。その通りに。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。
そうやって言われて。ピラトは……。もう一歩。更に、もうひとつのことを感じました。イエスさまの言葉を聞いて、反応したのですから。このひとは、真理に属する人だったのかもしれません。
その、もうひとつ感じたことが……。「真理とは何か」……です。真理とは何か、と。突然、感じたのです。
自分は、ずっと自信満々で生きてきた。その自信の根拠となるべき「真理」とは……何か。これまでは、世の中に、絶対の真理などないと思っていた。それで、うまくやって来た……積もりだった。だけど……。それなら私は、いったい何を拠り所に、今まで自信を持って生きて来たか……。
真理を知らなきゃ、自分の拠り所とする何物もない、と。……まぁ、どこまで意識的だったかは知りませんけど。真理という思いがけない言葉から、ピラトは、自分が真理を知らないことに、気付いたのです。
だから、「真理とは何か」……と、呟きながら。イエスのことは、殺しちゃいけない……と。そんな思いにさせられます。
で……。その後は、聖書を読むのは省略しますけど……。チラシの説明にも書きました。自信満々だったはずのピラトは。急に、群集の前で、おたおた・します。しどろもどろにります。
ユダヤで誰よりも偉いのですから。殺したくないのならば、「殺さない」と。ただ、そう宣言すればよさそうなものを……。
私は殺したくない。私に殺させないでくれ……と。今まで軽蔑してきたユダヤ人どもに、最後は・もう、ほとんど懇願しながら。だけど、押し切られて。イエスを十字架につける判決をくだしまうのです。
今の世の中でも。多くの人が、絶対の真理なんてない、と言います。私には、王などいない。私は自由だ、と言います。いや、そんなことは当たり前すぎて、誰も言わないかもしれません。
自分を支配している王様は、いない。
で、王様がいなければ、確かに自由です。好き勝手に生きれば良いんです。ピラトは、それまで自由に、好き勝手に生きていました。
ただ……; 真理がないのならば。「価値」だって、ひとそれぞれです。絶対の真理がなければ、絶対の価値だって、ありません。
そうしたら……。羊飼いから逃げ出した羊と一緒です。自由です。自由ですが。どっちに行って良いか、分からない。どう生きて良いから分からない。何のために、何故、私が、ここにいるのか。私が、今、ここに居ていいのか悪いのか、それさえ分からない。
そういう、たいへん心許ない……。自信の持てない自由です。
それで……かえって、ひとの言いなりに、なります。絶対の真理を知らない人は。自分の価値を、信じられない。自信がなくて、それで、周りの、従いたくないものについて行くようになるのです。
しかしキリスト教は。あなたには、従うべき王様がいる、と言います。
今日の聖書の、もうひとつ。ペトロの手紙だったら。「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」……って。つまり、キリスト様がいちばん偉いんだ……と。
まぁ、どこの宗教でも。絶対の真理は、「神」だと言いますけど。キリスト教も、キリストさまを神と崇めてキリストに従いなさい、と。キリストこそ、真理であり、命であると言います。
その真理である神とは……。ですが、キリスト教の中でも、特に、このヨハネ福音書は。神とは、「愛である」……と、言います。
ひとを愛する。あるいは、愛される。そういう、愛ということを・きっかけにして、真理に触れた時に。愛という所から、神さまと出会った時に。私たち、自分の価値を信じる信じ方が、変わってくる……。
迷える小羊ではない。私は、ここに居て良いんだ。私が生きているのは、素晴らしいことなんだ、という確信が、生まれるんだと思うのです。本当に、良い意味で、自身を持つ。謙遜でありながら、自分の価値を、揺るぎのない確信として信じることが出来るようになると思うのです。
V.
愛と、自信……つまり、自分の価値……と、いうことで。私には、ひとり、忘れられない人があります。
大学の、何年か後輩ですが。お父さんの仕事の関係で、アメリカにずっと長かった、お嬢さんです。
お父さんは、丸紅だか伊藤忠だか。そういった大手商社に勤めていて。私が知り合った頃には、平社員からのたたきあげで、取締役になるとか/ならないとか。その位まで出世していました。
それでも、家族を放ったらかしにする仕事人間じゃぁなくて。……彼女は、まぁ、いわゆる箱入りで。大切に可愛がられて育ちました。
それも・あってか、学校の成績も、抜群です。
性格も。穏やかなのに……神経が細やかで、よく気が付く。配慮があって、自分のことよりも相手を先に考える、優しい人です。
さらに・容姿も、たいへん美しい……。客観的にどの程度の美人か・は、知りませんが。少なくとも私には、とても魅力的に見えました。
ですから・私は、当然のことながら。その女性に、ほのかな好意……だったか、露骨な好意だったか、よく覚えていませんが。好意を寄せておりました。
で、それだけの女性なら、誰もが好きになるだろう。もてもてだろう……と、思うと。それが・さっぱり、人気がないんです。だから、競争倍率は、そんなに高くは・ありません……。
ただ……私の場合は……。彼女の恋愛の、相談相手のような立場に、なってしまいまして……。
惜しいことをした、と残念がるべきか。それとも、その・お陰で、今の妻と知り合えた・と、喜ぶべきか。こんなことからも、神の摂理について、考えさせられるのですが……。それは、本題ではありません。
その彼女が、どうして男性に人気がなかったか。
全然、自信のない人だったからです。
いつも、自分がぐらぐらしています。だから大抵は、おどおど、いじいじ、暗い顔をしています。配慮があって優しいのも、実は、自信がないから。ひとの顔色を窺わないでは・いられないのです。
それが時たま爆発して、破れかぶれのような、乱暴な行動に出ます。それで周りの人は、情緒不安定だから苦手だ、と言うのです。
能力は、高いのです。それでも、能力と自信とは、全然関係ない。皮肉なことですが、英語ペラペラの能力のせいで、自信がないんです。
いわゆる帰国子女には、よくあるんだそうですが。こどもの頃。親は、せっかく外国にいるからと。家庭の中でも英語を使っていました。だから、英語は、母国語のように話せるようになった。
その分……。日本語に「内在している」と言うのでしょうか。日本語を使う中に隠れている、日本人特有の考え方とか、価値観とか。そういった、日本人として当たり前のセンスを、こどもの間に身に付けることができませんでした。
日本人としての「知識」じゃぁなくて「センス」ですから。大人になってからでは、もう身につかないんです。かと言って。日本人以外の何者でもない。だから、どうしても。自分の感じ方に、自信が持てないのです。
自分の感じ方に自信が持てないと、たいへんです。何を思うのでも、全部。私が間違っているかもしれない……。
さらには、他の日本人といて、浮いてしまう。そうすると……。私は、間違った存在なんじゃぁ、ないか。私は、歪んだ存在だ。ここに居てはいけない人間なんだ、と。そう感じてしまうのです。
美人で、賢くて。家柄だって、普通だし。お金も、全然ない訳ではない。だから、お嫁さんとしては、結構高く売れる、と。それは分かっています。世の中での価値は、低くない。高い、と。それは知っているんです。
でも、そんな価値は……。「私は生きていて良いんだ」という、確かな自信にはなりません。
生きてて良いと思えないから、魂の平安がない……と、言いましょうか……。やって行けない、と暗い顔をしている。それだもんだから。異性にも、もてなくて。ますます、自分は価値のない人間だと感じてしまう。そういう、悪循環に陥っているんです。
そんな人を救うには、どうしたら良いか。ひとから愛されたら。ひとから目一杯愛されたら、自信が持てるだろう、と……思います。
「自分には価値がない」って言うけれども。私は、あなたを愛している。だから、世間一般は、どうでも。私にとっては、絶対の価値があるじゃぁないか……と。それに気付いてくれれば、自信も持てるだろうと思いました。
けれども……。もう、自分が愛されてることも、信じないのです。
あの人が近寄って来るのは、下心があるからだ、と。体が目当だ、金目当てだ。愛じゃない、と言います。
じゃぁ僕は、と。……聞いた訳ではないけれど。あなたが優しいのは、それは、私を気の毒がって……。ただ憐れみと、同情よ……と。私は、そうやって、ひとに憐れまれるような女なのよ……と。
……そう言うことになれば。何でそう悪く悪くとるのって、思うじゃぁ、ありませんか。確かに、可哀想だと思いましたけど。「可愛そうだたァ、惚れたってことヨ」……なんてな愛も、あるだろに。どうしてそれが、信じれないか。あんたのために、命捨てなきゃぁ信じないか、と思うじゃぁ、ありませんか。
でも……、決して信じないんです。自信がないから。ひとに裏切られるのが怖くって。愛されているのも、認めない。本当に、誰かが命を投げ出すまでは。信じようとはしないんです。だけど……。
誰かが本当に命を捨てちゃぁ。後で、余計に苦しむじゃぁ、ありませんか。
W.
そんな私のために、キリストが、命を捨てた、と。それを信じているのが、キリスト教です。
私たちクリスチャンは、キリストと出会いました。キリストが、私のために命を捨てた事実に出会って。それで、私には、尊い価値が・ある、と。確信したんです。
出会ったと言っても。キリストを、実際に目で見た人は、……まぁ、中には・あるかもしれませんが。それよりも聖書を読んで、とか。あるいは、クリスチャンに接して……と。そういう普通のことで、出会います。
ただ、普通のことと言っても。聖書を読むのでも、人と出会うのでも。必ず、「愛」ということが、関係しています。
愛されたい、とか。愛せない、とか。あるいは、自分には愛される値打ちがある・とか、ない・とか。……はっきりと意識されては・いなくても。そういう思いの中で、キリストの行いを知って。その時、神の真理に触れたんです。
神が、十字架にかかって死んだ。そこに、私の永遠の命の真理がある。つまり、キリストが死んだのは、私のためだった……と。私は、それ程神に愛されている、と。私たちクリスチャンは。そういう仕方で、キリストと出会ったのです。
で……。私のために命を投げ出した神と、出会っているから。……私たちは、自信を持って、生きているんです。
キリスト教を信じるには、罪を悔い改めるのが必要だ、なんて。……キリスト教は、罪だの悔い改めだの、厭なことを言います。
でも、悔い改めっていうのは。世の中に、真理は・ない。私には王がいない。私には支配者はいないと思っていた所から。絶対の真理とは何か。私が神に愛されている、と。そのことだ……と。そう、考えを改めるのが、悔い改めです。
キリストが、なんで死んだのか。「お前の罪のためだ」と。聖書は、失礼な……というか、不愉快なことを言います。
だけど私たちクリスチャンは。「いいや、私は潔白だ」とか、「私は正しい」とか。そんなこと、言う必要が、全然ないんです。
キリストが、私のために死んでくださった。それほど愛されている中で。愛する・わが子よ、「お前は正しくない」って言われるんですから。いちばん大切なところでは、絶対に価値があって。神さまが、死ぬほど愛してくれている位、私は尊くって。
その、愛してくれてる神さまが、「罪だゾ」と言うんですから。ごめんなさい、と。即、謝っても、私たち。自信は、ちっとも揺るがないんです。
アタシのやらかした事で。色んな問題が起きちゃった。この世の中では、俺ってトンでもない。全部私のせいだ。能力もない、正しくもない、という時だって。
そんな私を、好きだ……と。死ぬほど好きだと言って、死んでくれたキリストと出会っているから。私の自信は、揺らがないんです。
だって、キリストは。アタシが正しいから好きなんじゃぁない。正しくなくて。だから、失敗しても。駄目でも。それでも、愛して。その失敗と、駄目さの罰を引き受けてくれたんです。私たちクリスチャンは、そういう安心の中で、生きているんです。
円満で、愛に溢れる家庭に育ったこどもと一緒です。
豊かに愛を注がれているから。自分が生きているのは、素晴らしい・と、確信しています。多少失敗したって、平気です。失敗それ自体は、まずかったと、悔やみも・しますが。でも、間違いなく愛されているのですから。失敗なんか、素直に認めて、さっさと、次をやり直すことが、出来る。
私たちクリスチャンには、そういう、絶対の自信があるんです。
X.
ピラトが……その後、どうなったか。聖書には書いてありません。大昔の歴史の記録では。イエス・キリストを処刑した後、別の件で失敗して。ローマ帝国から、総督の地位を追われたのだそうです。
そこから先は……。歴史上の記録もありません。ただ、キリスト教会の中に、ふたつの伝説が伝わっています。
ひとつは、「自殺した」というものです。自分には、価値がないと思った人は。価値がないのですから。生きられません。
だけど・もう一つ。「クリスチャンになった」という伝説も、あります。
ピラトは、イエスさまと出会って。真理に、ほんの少しだけ触れました。その時のピラトは、真理に気付くアンテナは、持っていました。真理の声を、チラと聞きました。
そのピラトが。イエスさまを、処刑は・したものの。その後、ずっと真理について考えていたら。自分の価値を、考え続けていたら。後で、悔い改めたということも……本当に、あったかもしれない、と思います。
私たちの教会では。礼拝の中で、信仰告白をします。今日も、先ほど、ご一緒に告白しました、使徒信条です。イエスさまは、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」た・と、告白します。
ピラトが、クリスチャンになったとすれば。毎週・毎週、礼拝で。これを自分で、告白しているんです。
キリストは、私のもとに苦しみを受けた。私のために苦しんだ。私がキリストさまを苦しめた、と。礼拝の中で、自分の名前を声に出して・ですね。大きな罪と、そんなに大きな罪を・さえ、赦した、神の愛・とを、毎週々々告白しているのです。
ですから……。ピラトが回心したという伝説が、本当ならば……。
私は、ピラトは、人間の歴史の中でも、いちばん仕合せな。いちばん、神の愛を確信しているクリスチャンだったに違いない……と。
自分には、本当に尊い価値がある。だって、あんな失敗をしたのに。永遠に語り継がれる罪を犯したのに。それでもキリストは、愛してくれた、と。それを、確かに知っている。そういう人に、なって。残りの生涯を生きていたのだ、と思います。
私たち、信じた者は。この神の愛を、よく確かめて。自分の尊さを、確信したいと思いますし……。
また……まだ洗礼を受けていないかたは。早く洗礼を受けて。神の愛を確かめる、教会の交わりに、加わっていただきたいと願っています。