2003年7月13日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教
目には見えない大切なもの


中村栄光教会牧師 北川一明


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新約聖書【ヨハネによる福音書 第20章24〜29節】
新約聖書【ヘブライ人への手紙 第11章1〜3節】






目には見えない大切なもの

北川一明

T.
 宗教をやっているひとたちから、「信じる者は、救われる」と聞かされると。言い方によっては、少し「卑怯だ」……。「宗教家は、卑劣である」……という印象を受けることが、あります。
 神さまが、いるのか/いないのか。目には、見えません。漠然と、「神なんか、いない」と考えているひとが、日本には、多いのかもしれません。
 それでいて、みんな、仕合わせに暮らしている訳ではありません。何の心配も、悩みもなく、暮らしている訳ではありません。人間関係に苦しみ、健康や、仕事や、将来に不安を感じています。また、自分というものに悩み、運命に弄ばれるような出来事に恐れを抱きながら、暮らしています。
 ……それを、神さまが見えないのを良いことに……「本当は・いるのに、それを信じないと、救われない」なんて。「信じる者は救われる」だ・なんて。そうやって脅かされたら……だったら「確かめてみようじゃぁないか」……という気持に、させられます。
 何事も、確かめるのは「悪いこと」であるはずは、ありません。人間は、いろいろなことを、確かめてきました。
 たとえば……、「おととい死んだひとが、姿を現わして、しゃべったんだ」と聞かされたら。その、さっきまでは死んでいたという体の状態を調べますし。「さっきまでいたけどいなくなった」ということだったら、「見た」というひとの目や、精神状態を調べます。
 ……ただ、医学の分野だけでは、ありません。「科学」でしょうか、「実証主義」でしょうか。何につけ、道理を調べて確かめるという考え方は……。多くの発明、発見を引き出して。私ども人間の生活を、豊かにしてまいりました。
 宗教の面でも。馬鹿馬鹿しい迷信を、それが「迷信」でしかないことを明らかにして。人間に自由を与えました。「信じる者は救われる」なんて言って、不安に怯えるひとから財産を巻き上げるような宗教の欺瞞を、明らかにしてきました。ことの次第をきちんと見極めることは……ですから、良いことです。
 今日の聖書は、近代科学の始まるずっと前に、書かれました。日本で言えば、弥生時代中期にあたります。その時代に、死人の脇腹に手を差し込んでまで、ことの真相を明らかにしようとした、トマスというひとが、ありました。科学的、実証主義的な発想の点では、きちんとした人で……。聖書の中では、私ども現代人にも、共感することのできる人物です。
 ……ただ、目に見えないことを確かめるのは、何のためか。このトマスの場合は、そのいちばんの目的で、……ちょっと、迷ってしまったように、思います。
 目に見えないことを確かめるのは、何のためか。もとは、決して「信じないため」ではなかったはずです。理屈で証明出来ないのならば、「それは偽物だ」と、決めつけるために。それで一生懸命、真理を探求するのでは、ありません。
 目に見えないことを確かめるのは、むしろ、望んでいることがらを、確かにするためだった……はずだと思うのです。
 科学に、限りません。若者が、誰か異性を愛して。相手の愛も、確かめたい。それで、自分の誕生日を覚えているか、試したり。何かプレゼントをして、どのくらい喜ぶか、さぐってみたり。ちょっと、こっちは辟易させられることがあります。
 愛も、目では見えません。それを確かめようとする目的は。「信じないため」ではない。目には見えない大切なものを、確かに知りたいからです。
 ところが……、相手の愛を確かめようと、仮病をつかって心配してくれるか見る位なら、可愛い方ですが。挙げ句の果てに、浮気をして相手が嫉妬する度合いを測ったり……なんてことになってしまっては、病的です。愛を作り上げるために確かめようとしていた、そのことが、愛を破壊することになります。
 「神」を確かめようという現代人の実証主義は。同じように、ちょっと病的に神経質になってしまった面が、あるように思えます。
 それには、私ども宗教の側にも、責任がありました。目で見えないのを良いことに、御利益で釣って、天罰で脅かして。見えない将来に不安を抱いているひとたちから財産を巻き上げるようなことを……。多くの宗教がやっています。キリスト教会も、中世ヨーロッパでは、そういうことを大々的にやっていましたし。今も、そういう教会が、ないとは言えませ。
 宗教にも大きな責任があったのは、残念ですが。確かめることができないならば、それは、信じちゃいけないことだ……と。現代は、そういう風潮が出来上がってしまったようにも、思えます。

U.
 今日のトマスも……宗教の被害者です。
 この、「ディディモと呼ばれるトマス」というひとは……。イエスさまの、12人のお弟子さんの、ひとりでした。イエスさまの宣べ伝える、神の国の理想は素晴らしいと思って、イエスさまについて行ったひとです。
 ヨハネ福音書の真ん中辺りに出てきますが、12人の中でも、いちばん勇敢で、積極的な方でした。理想の実現のためには、場合によっては、命も捨てよう……と。一応、そういう覚悟も決めていました。
 ところが、最後の方……。いよいよエルサレムの古い教会をうち倒して、神の国が実現するのか……。イエスさまの神の国運動が、そういう宗教闘争に発展しようとした、最後の段階です。自分たちの運動が、急に、なんだか尻すぼみになって来まして。イエスさまは捕まって、十字架で殺されてしまいました。その後のことです。
 今日は、24節から読んでいただきましたけど……。もう少し前の19節から、書いてあります。イエスさまが、十字架で殺された、すぐ後の日曜日です……。弟子たちは、クーデターに失敗した政治犯ですから。怖がって、アジトに隠れていました。
 19節を読んでみますと……「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。
 まぁ、有り体に言えば、死人が生き返って、しゃべったのです。
 ところが、その時トマスは、アジトに隠れてはいませんでした。勇敢で、攻撃的な性格ですから。敢えて、ユダヤ人たちの中にいたのかも、しれません。それで、生き返った死人に会うことが出来ませんでした。今日は、そこから後のお話しです。
 ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 ……そりゃ、そうです。もしキリストさまが復活して現われてくださるのならば。びびって、こそこ逃げ回っている他の弟子たちの所でなくて。勇敢にも街に出て行った自分の所に来てくだされば、良さそうなものです。
 ほかの臆病者たちの言うことなんか、信じられません。キリストが生き返ったと言うのならば。あの方の手の釘跡を見たい。いや、見るだけじゃぁなく、自分のこの指を、釘跡に突っ込んでみようじゃぁないか。それでも・まだ足りない、「この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」……と。
 イエスさまの、神の国運動は、挫折しました。トマスが信じれなくなったのは、イエスさまの責任では、ありません。けれども、宗教のせいです。キリスト教とは、これこれ・こういうものであるはずだ……と。トマスが勝手に思い描いた……そういうトマスが作り上げた・間違ったキリスト教が、トマス自身を誑かしたのです。それでトマスは、すっかり疑り深い……。信じる者ではなくて、信じない者になったのです。

V.
 「信じない」と決断すれば。見たって、信じません。「我が目を疑う」という言葉が、あります。目で見えることだって、信じません。愛を確かめるために浮気をして、相手の反応をどれだけ観察したって。最初から疑っているんですから、相手がどう出ようが、疑いと不安は、ますます広がって行きます。
 意志をもって、信じる決断をするか/どうか……。それが、一番最初に、あります。信じるか/信じないかは。信じる者になろうとするか/信じない者に、なろうとするか……。こちら側の、意志と決意が、まず第一番に、あると思うのです。
 そして、神さまのことじゃぁ、ありません。とりあえず、神とか何とか、そういう宗教の問題は、脇に置いといても……。信じるか/信じないかということは、大事です。
 私どもの生きる拠り所は……。信じようと決意する、何か目に見えないものと、関係があります。誰でも……宗教が、好きなひとでも/嫌いなひとでも。私ども人間が、拠り所にしているものは、目には見えないものです。
 お金だけが、拠り所だ……というひとだって。お金に望みを置いている、その望みは。目には見えない望みです。
 私どもは、動物みたいに、ただ、今を漠然と生きているのでは、ありません。将来に向かって生きています。そして将来は、目で見て確かめることが、出来ません。見えない、確かめられないから。私ども、悩むし、苦しむし。焦るし、不安にもなるのです。
 悩み、苦しみ、焦り、不安になり……。そうしながら、それでも私どもが望みをかけているものは。「望み」なんですから。見えません。神を信じない・ひとだって。生きる拠り所にしている、将来の希望は、目に見えるものではない。目には見えない希望です。
 確かめることが出来ないならば信じない……と、言うのならば。希望は、信じられません。
 「愛」も信じられません。ひとの善意だって、信じられません。愛だとかなんだとか、そんな高尚なものじゃぁなくったって。もっと卑近に、将来、年金が受給できるかどうか、信じられないことが世の中の話題になっています。確かめることが出来ないものは信じないのならば。自分で計画した、自分の人生設計だって、信じられません。十年後の、日本円の価値も、保有株式の資産価値も信じられません。
 お金は、目に見えます。けれども、「カネが全てだ」なんか言ったって、お金の価値は、目に見えません。ですから、お金に望みをかけているのだとすれば、その望みは目に見えない、確かではないものを拠り所としています。だから、お金に裏切られることだって、あるのです。
 愛するひとが、愛を確かめたいのも。十年後の東証株価をなるべく正確に予測しよういうのも。神を知りたいのと、同じです。信じないためではない。神なり、愛なり、カネなり、株なり。それぞれの拠り所を、少しでも確かなものにしたいから……だったはずです。
 それが、目に見えないものは、みんな怪しい。出鱈目だ。……そういう風潮は。私どもの生きる拠り所を、失わせます。希望を、失わせます。
 目に見えるものも、大切です。目に見える日々の生活は、大切です。ですけど、そういう見えるものは。その背後にある、見えないものを拠り所にして……。見えるお金だって。そのお金の「価値」という、もっと大切な目に見えないものを拠り所にして、はじめて、大切なものになっているのです。
 その大切さを信じるには。意志と、決断が必要です。将来に向かって希望をもって生きるには。お金でも良いです。株でも良いです。どれが高尚で/どれが低俗だ、なんて・ことは、それぞれで。ひとに言われるこっちゃぁ・ありません。何であっても。将来に向かって、希望をもって生きるには。見えない大切なものを確かめる以前に、まず信じる意志と決断が、……ちょっと、どうしても、必要です。
 信じないつもりになったら、何にも信じれなくなっちゃうからです。
 その点、キリストさまは、トマスに対して、非常に厳しかったです。
 トマスが「確かめなきゃぁ、信じない」と言い出した。「それならば、私のこの傷に、指を差し込んで見ろ」と。釘で穴ぼこのあいた手を、差し出したのです。「どういうつもりで確かめるのだ。信じるためか」……。厳しく、そう問うてくださったのだと思います。
 それに対して、トマスは、賢かったです。最初は疑っていました。けれども、イエスさまの問いには、正しく応えました。釘の穴に指を突っ込むことは、しませんでした。
 せっかく、愛していたひとが、死から甦ったのに。手の穴に指を突っ込むだの、脇腹の傷跡に手を入れる、だの。仮に、そこまでやっていたら……。もう、その相手に対する愛なんか、失われていたのではないでしょうか。この間まで、愛していた……、自分の命を犠牲に捧げてまでついて行こうとしていた、愛するキリストが。その時点で、自分の疑いを確かめるための実験材料にまで、成り下がっていた所でした。
 だけどトマスは、そうする前に。「大切なものは、目には見えないんだ」ということを、思い出しました。神と、命への尊敬と。キリストさまへの愛とを、取り戻しました。それで、その愛する神に、讃美を捧げました。

W.
 私どもが拠り所にしている希望は……。神を信じるひとも、信じないひとも。希望は、目には見えません。目に見えないものを確かめるのが「信仰である」……と。今日、もう一つ読んでいただきましたヘブライ人への手紙の方には、書いてあります。
 未だ見ぬものを「信じる」ことは……難しいでしょうか。
 お金を信じ込んでいるひとは、お金が大好きです。価値があるのは、お金の姿形ではなくて、お金の使い道なのに。姿形まで大好きだというひとが、あります。そういうひとは、お金に絶対の信頼を置いています。
 未だ見ぬものを信じることと、大切に愛でて讃美することとは……。繋がっていることだから……かも、しれません。「お金」……は、例が悪いかもしれませんが。未だ見ぬものを信じるには、愛して讃美することが、大切なんだと思うのです。
 『星の王子さま』という物語は、ご存知のかたも、多いと思います。愛して、美しいと感じることが、信じて希望を持つことと、そのまま繋がっている……と。私はそれを、『星の王子さま』から、感じさせられました。それでご紹介しようと思ったのですが……;
 第二次世界大戦による荒廃のただ中にあって、人間にとって本当に大切なものとは何か。人間を根底から支える力を、苦しむ人々に伝えたい……と。作者のサン=テグジュペリは、それで『星の王子さま』を出版したんだと、伝記には書いてありました。
 飛行機が砂漠に不時着した、という設定で始まる物語です。「大切なものは、目には見えないんだよ」……というのは、物語の中で、何度か王子さまが言う言葉です。テーマみたいになっています。それで、「人生のうちで、本当に大切なものは、目に見えないのだ」と。多くのひとが、この言葉を取り上げて、そう評論しています。
 私も、少し感動させられたのですが……。いちばん印象的なのは、ようやくの思いで井戸を見つけた時です。王子さまが、「砂漠が美しいのはネ、どこかに泉をかくしているからだよ」と言います。
 目に見えないものは、……大切かもしれませんけど。見えないんですから、それが見つかるとは、限りません。砂漠のどこかに、そりゃぁ泉はあるでしょうが。でも、私らが当てもなく捜し回っても、みつからないことの方が、多いかもしれません。それでも砂漠は美しいんです。
 「キリスト教に入信すれば、人生の砂漠で、人生のオアシスを、ピタッと見つけ出せますヨ」なんて、保証するのならば。それこそ、無責任極まりない、金集め、信者集めのテクニックです。だって、見つからないかも分かりません。
 「目に見えないものに向かって生きる」のは、必ずしも、目に見えないものを見つけ出すことじゃぁ、ありません。見えないものは、最後まで見えないことも、あるかもしれない。しかしそれを、望み見て生きるのが……、目に見えない大切なものを、大切にするということだと思うのです。
 作者のサン=テグジュペリは、砂漠を「美しい」と感じたから、そういうセリフが書けたのです。「砂漠が美しいのはネ、どこかに泉をかくしているからだよ」と、本人が、そう感じたのですが……。
 作者は、砂漠で本当に遭難した経験が、あるそうです。その時、泉は見つかりませんでした。それでも、自分の命を奪おうとしている砂漠を、美しいと感じることが、できたのです。どこかには、泉が、必ず隠されているから。自分の命を脅かす、この砂漠が、美しい……と。それで、隠されている泉を、探して廻ったのです。
 3日目の、もう死にかけたとき、偶然駱駝の隊商に発見されて、助かったのだそうです。
 綺麗に撮影された砂漠の写真が美しかったのでは、ありません。自分の命を奪う敵であるはずのものが、美しかったのです。自分が、泉に行き当たるかどうか。それは、分からなかった。それでも、どこかにはあるから、探すために、立ち上がって、歩き出すことが出来ました。その、泉を隠している大きな砂漠が、美しかったのです。

X.
 「キリスト教に入信すれば、人生の砂漠で、オアシスを、ピタッと見つけ出せますヨ」、なんていうのは、残念ながら、嘘でございまして。泉は、見つかることもあれば/見つからないこともあります。見つからないことの方が、多いかもしれません。
 ですけど、キリスト教に入信すれば、隠されている泉を探すために、立ち上がって、歩き始めることができるのです。
 われわれを取り巻く社会は……。砂漠じゃぁありませんけれども、私どもを脅かす、恐ろしいものだらけです。傷付けて来るものだらけです。そして、われわれ自身が……失敗をし、それを取り繕うために、ひとを傷付けて、過ごしています。
 けれども、失敗するのも、傷付けるのも。信ずべき希望があって、希望に向かって生きている、その途中にいるからです……。信ずべきものに向かっているから、苦しんだり、悩んだりしているのです。
 そういう自分の人生は……。ある意味、無様で、醜いです。試行錯誤している、具体的なこと。泉は、あそこにもなかった/ここにもなかった……と。失敗を繰り返している部分にばかり目を注ぐならば、醜い人生です。目に見える具体的な所は、無様なことだらけです。
 でも、そうしながら、希望を尋ね求めている。そういう命の全体を、通してみたら。それは美しいし、愛おしい……と。キリスト教に入信したら、欠けと破れだらけの自分の命を、それでも美しいと、感じることが出来るのです。
 永遠の神が、こんな私どもの命を、愛おしんでくださった……と。それで、永遠の平安に導いてくださっている、と。それを信じようという、意志を持つからです。
 キリストさまを知ることで、そういう意志を、持つことが出来るのです。ひとを愛して、ひとのために死んだ、キリストさまの十字架に触れたときに、この欠けと破れだらけの自分の命を、大切だ……と。どこに向かって生きているのか、はっきりは分からない。けれども、永遠の望みを望み見て生きている、この命が、尊い……と。永遠の望みを信じているのですから。もう、苦しみと悩みに満ちた人生でも、それを愛するようになれるんだと思うのです。
 望んでいる事柄に対して、醜く、無様に……、けれども真摯に、誠実に歩んでいる、私どもの命は、美しいんです。永遠の希望が隠されているから、美しいのです。
 そして、「美しい」と、命を讃美しながら歩む時に。希望は……ぴったり見つかる訳じゃぁ、ないかもしれません。けれども希望は、ずっと確かになって行くのです。
 私を愛してくださった、神の愛を、信じます・という……、そういう意志は……。世で、知恵においても力においても、それが、多いか少ないか。強いか弱いかは、関係ない。全てのひとが、そういう決意に招かれているのです。だから……私どもが、確かな希望をもって、その人生を愛して生きることが出来るように。イエスさまは……。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、おっしゃっているのだと思います。

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