2002年6月16日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日こども合同礼拝説教
しごとは、やめて


中村栄光教会牧師 北川一明


マルコ
1:16-20        中村栄光教会
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新約聖書【マルコによる福音書 第1章16〜20節】





しごとは、やめて

中村栄光教会牧師 北川一明

T.
 さっき、読んでいただきました、マルコによる福音書は。イエスさまに、いちばん最初に付いて行った人たちの、お話です。
 イエスさまに付いて行った、最初のひとたちは、全部で4人でした。最初に「シモン」という名前が書いてありますが。これは、ペトロのことです。シモン・ペトロと、アンデレと、ヤコブとヨハネの4人が、イエスさまの最初のお弟子さんです。
 イエスさまが生まれた国には、ガリラヤ湖という、大きな湖があります。海みたいに大きいですから、みんな、ガリラヤの海と呼んでいました。イエスさまが、そのそばを歩いていた時のことです。シモン・ペトロとアンデレが、そこで、投網をしていました。網で、魚を獲っていました。
 網と言っても、虫取り網みたいに、棒の先に網が付いたヤツじゃぁ、ありません。もっと大きくて、拡げると、畳2枚分くらい、あります。それを綺麗にたたんで。なんか肘にひっかけて、こう持って。1、2の3で投げて拡げます。
 それが、湖にぼちゃんと落ちて。網のまわりが袋になってまして。引っ張ると、網がだんだんすぼまって行きます。そこにいたお魚は、逃げようと思っても、網の端っこの袋に追い込まれて、逃げれません。で、そのまま引っ張り上げると、魚が捕れる、と。大漁だ、めでたし・めでたし、という訳ですが。
 なんで、お魚をとるかといいますと……。聖書には、「彼らは漁師だった」と、書いてあります。漁師というのは、フィッシャーマンのことです。海で、魚を獲るお仕事をしているひとです。遊びでやってるんじゃぁ、ありません。それが仕事でした。
 仕事……と、言うことは。魚を獲って、どうするかと言いますと。市場で、売ります。それで、お金をもらって来ます。お金がないと、自分が買い物ができないで、困るからです。
 シモン・ペトロとアンデレは、そうやって、魚を獲る、お仕事をしていました。
 イエスさまは、その二人に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と、おっしゃいました。
 お魚を獲るのが、海の漁師さんで。鳥やオオカミを獲るのが、山の猟師さんですけど。「人間を獲る漁師」っていうのは、どういうひとでしょうねェ。イエスさまも、へんなことを言います。
 けど。へんなことを言われて。シモン・ペトロとアンデレは、18節、「二人はすぐに網を捨てて従った」。
 網を捨てたら、もう、漁師はできません。つまり二人は、仕事を辞めちゃったんですね。

U.
 おとなの中には。ちょっと羨ましく感じるひとが、あるかもしれません。どうして仕事を辞めたんでしょうか。
 イエスさまが、「ついて来ないと、怒るぞ」と、脅かしたんでしょうか。……そんなことは、ありません。おとなは、仕事を辞めたら、お金がもらえませんから、すごく困ります。ですから、よそのひとが怒った位では。おとなは、仕事は辞めません。辞めたくても、辞めれません。
 なんで仕事を辞めたか、と言いますと。ひとつは……。たぶん、イエスさまが、格好良かったからです。
 イエスさまが、ダサくって、鈍臭くって。ついて行ったら、何か損しそうなひとだったら。誰も、仕事を辞めてついて行きません。「ついて来なさい」って言われたら、つい、ついて行きたくなるような。イエスさまは、そんな格好良いひとだったから。「仕事なんか辞めちゃえ」って。シモン・ペトロとアンデレは、つい……そう思たんです。
 だけど、それだけじゃぁないはずです。仕事を辞めた理由は、もう一つ、あります。
 仕事が楽しくて楽しくって、しょうがない……。今日はお魚がたくさんて、大もうけだとぞ……と、喜んでいる時だったら。格好良いひとが、ちょっと「ついて来なさい」って言った位では、大事な網を、捨てたりはしません。仕事が楽しかったら、やっぱり、なかなか辞めれません。
 つまり。シモン・ペトロとアンデレは。要するに、仕事が厭になっていたんですね。きっと、ちっとも魚が獲れなかったんです。
 聖書の少し先の、今日読んだ下の段を読んでみますと。「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていた」と、書いてあります。「しゅうとめ」というのは、結婚した相手の、お母さんのことです。シモン・ペトロには奥さんがいて。そのお母さんと、一緒に住んでいました。そのお母さんが、病気でした。
 それなのに、ちっとも魚が獲れないと、困りますね。ハルモニを、お医者さんに連れて行くことが、出来ません。薬も買えません。そういう時は、ちょっとしたことで、すぐに夫婦喧嘩になります。
 奥さんが、「困ったわねぇ、魚が獲れないで」なんて言うと。
シモン:しょうがないだろう、サボってる訳じゃぁないんだから。
妻:獲れないのは、そりゃ、しょうがありませんよ。でも、こういうこともあるから、こないだたくさんとれた時、少し貯金しときましょうって言ったのよ。
 ……とか。昔、ああ言ったこう言ったで、喧嘩になります。いちど喧嘩になると。どっちかが、ちょっと優しいことを言ったくらいじゃぁ、駄目です。奥さんが……;
妻:元気を出して、明日は向こう岸でもやってみたら。
シモン:今日だって向こう岸まで行ったんだ。お前は分かってない癖に、口出すな。
 ……みたいに。喧嘩は、止めれなくなるんです。それで、「だいたい、なんでお前ん所の兄貴がお義母さんのことみないんだよ」……なんてェことを言い出すと。おとなの世界は、取り返しのつかない混乱に、陥って行きます。
 シモン・ペトロは……。この日も網を打ちながら、「あぁあ、今日も全然獲れないよ」と。うちに帰ったら・また、薬代がどうの、これじゃぁアタシたちの食事だってこうのって言われるのかなァと。厭だなァ、と思っているところへ、イエスさまが……、「ついて来なさい」。それで、「もういいや、網なんか捨てちゃえ」……って、なったのかも、しれません。
 こういうのを、おとなの世界では、「渡りに舟」と言います。覚えなくて良いけど。

V.
 「網を捨てた」っていうことは。網だけじゃぁ、ない。仕事も、お金も、奥さんも、姑も捨てたっていうことです。このあとでてくるヤコブとヨハネは、もっと酷いですね。お父さんと舟を、捨てちゃいました。
 イエスさまを信じる生活を、するには。まず、神さまが、私たちを、大事に思って。大切にしてくれて。私たちの心の中に、聖書が読みたいな、とか。お祈りが、したいなとか。そういう気持ちを、湧き起こしてくれます。そうしてくれなくっちゃぁ、教会には、行けません。
 でも、それだけでは。なかなか、イエスさまを信じる生活は、始められません。こっち側。私たちの側に、「何もかも捨てちゃえ」という、気持ちがないと。イエスさまには、ついて行けません。
 立派なひとは、イエスさまがいちばんだから。イエスさまのために、「何もかも捨てよう」と、思います。立派じゃないひとは、「やんなった」とか、「もう、どうしようもねェや」とか。焼け糞になって、それで、「何もかも捨てちゃえ」と、なるのです。
 私の場合は…=…アッパの場合は、そんなに立派なひとだった訳じゃぁ、ありませんが。焼け糞ほどでも、ありません。そのあいだです。仕事をやってて、こんなことやってて、良いのかなァ……。もっと大事なことが、あるんじゃないのかなァと思ったのです。
 ヤコブとヨハネの場合は、「舟の中で網の手入れをしていた」って、書いてありました。この二人も、網の手入れをしながら……。「こんなことやってて、良いのかなァ。もっと大事なことが、あるんじゃないのかなァ」と思ったんだと思います。
 網の手入れは、たいへんです。こんぐらかった糸をほどくのだって、たいへんなのに。縄が、塩水を吸って、それが乾いて。固くてごわごわになってるんです。それをほどいて、痛んでいる所をさがして……って。すごく、面倒臭い仕事です。
 それで、ヤコブとヨハネがやりたいのは。魚を獲ってくることです。それには、網がないとできないから準備してただけで。こんなこと、好きでやっていた訳では、ありません。下向いて、一生懸命網の手入れをしながら。毎日毎日、何のためにこんなことやってんだろう……。分かんなくなっちゃったのかも、しれません。
 そういう時。格好良いひとが、「ついて来なさい」。……それで、もう、父親も舟も、捨てたんです。
 イエスさまの格好良さというのは、「なんのため」とか。「いちばん大事なこと」とか。そういうことを、思い出させてくれるような。きっと、そんな雰囲気のある、格好良さだったんです。
 とにかく、そうやって。神さまの方が、みんなを愛してくれて。で、みんなも、「今まで大事にしていたものを、捨てよう」と思って。それで、4人。イエスさまに付いて、歩き始めたのです。

W.
 ところが……。イエスさまに付いて行ったあと。シモン・ペトロは、いっかい捨てたはずの奥さんや姑の所に、戻って来ます。だから、今日読んだ聖書の下の段には、また姑の病気を心配したりしているんですね。
 漁師の仕事にも、戻ります。それは、聖書のあとのほうに書いてあります。
 4人とも。魚を獲る漁師は辞めちゃったんですけど。人間をとる漁師になりました。そうしたら。そのあとでは、また、家族と仕事へ、帰って行ったんです。
 それで帰って行ったあとは。「もう、やんなった」みたいに、仕事や家族を放り出すことは。たぶん、なくなったんじゃぁないかと思います。
 おとなの仕事は……。つまらないばっかりじゃぁ、ありません。楽しいことも、ありますし。生き甲斐を感じることも、あります。(生き甲斐を感じるっていうのは、こころが燃えることです。)そういうことも、あるんですが。
 だけど……。仕事で厭なのは。網の手入れ、みたいな地道な準備も、面倒ですが。それよりも。何と言っても、ひとにあれこれお願いして回らなくッちゃぁ、いけないのが、厭です。
 魚が獲れた日でも。他の人が、もっといっぱい魚を獲ってたら。誰も私の魚を買ってくれないかもしれません。「他のひとから買うよ〜」とか。「もっと安くしろよ〜」とか、言われます。
 イエスさまのいた所は、高知の夏みたいに暑いのに。まだ冷蔵庫は、売ってませんでしたから。魚は、獲ったらすぐに買ってもらわないと、腐っちゃうんですね。だからたくさん獲れても売れなければ、臭くて汚い生ゴミが増えるだけです。ですから。「どうか買ってください」って。ひとに、頭を下げて回らなくっちゃぁ、いけません。
 相手が、たいしたことない癖に。こっちの足元を見て高飛車に出てくる時なんか。それでも我慢して頭を下げるのは、たいへん厭な……。悔しい、腹立たしい、我慢のならないことです。
 ひとに何かをお願いするっていうのは、すっごく、厭なことです。

X.
 でも……どうして厭なのかな、と考えてみました。
 うちの、下の娘は。祈愛は、「いらっしゃいまっせー」と言う、お買い物ごっこが、大好きです。「買ってください」って、楽しく、お願いしています。
 それは遊びだからだ……って。それだけでも、ありません。4才のこどもの場合は。ひとに何かをお願いするのは、厭でも何でもない。私も、小さい子どもの時は。ひとに平気でものを頼んでいた……と、思い出しました。
 そもそも、ひとを頼らないと生きていけませんけども。仕方なく、嫌々頼んでいる訳では、ありません。「あれやって、これやって」と。私の場合は、母には、ちょっと頼みにくかったんですけど。おばあさまには、ちょっと頼み辛かったんですけど。アッパのおばあちゃんや、お父さんには、いつも大いばりで頼んでいました。
 それは、きっと、良いことなんです。安心して、自由に、何かを頼めるんです。おとなになってからだって。大好きなひと、信頼しているひと、尊敬しているひとに、何かをお願いするのは。別に、厭じゃぁ、ありません。
 もちろん、小さいときと違って、「迷惑をかけたら悪い」と思いますから。頼みたいことも、なるべくは、我慢します。でも、どうしてもっていう時には。頼みます。そういう時は、頭さげるのは格好悪い、とか。悔しいとか。そういう風には、感じません。
 誰にも何も、頼まない。全部、自分ひとりでやるっていうのは。格好良いんじゃぁ、ない。ひとりぼっちで、惨めなことかもしれません。
 小さい頃は、父と祖母には、何でも頼んでましたけど。祖母が死ぬ前後から、ちょうど反抗期になって。誰にも、何にも頼まなくなりました。父は、私から何か頼んで欲しくって、いっつも待ちかまえていたんですが。絶対に、頼んでやんなかった。
 そうこうしているうちに、おとなになっちゃって。頼むも頼まないもない、みたいになっちゃったんですが……。だけど、父が死ぬ少し前くらいから……。少し、気楽に。お互いに、お願いできるようになっていました。頼めるようになって、良かったなぁ……って。今では、思ってます。

Y.
 人間を獲る漁師って。網で人間を獲る訳ですけど。どうやって獲るかって言うと。神さまのことだとか、キリスト教だとかを。こっちが「教えてあげる」とこと……なのかなァ。それよりも、あなたに、頭を下げて、お願いします……って。それが、厭じゃぁなくなることじゃぁないかと思ったんです。
 大事なことをお願いできる相手だったら。そういう相手から何か頼まれた時には。こっちは、大喜びで、精一杯のことをしてあげようと思います。
 ひとに善いことをしてあげるのは。偽善者だって、さかんに、やります。愛とは、相手に、頭を下げて。深々と頭を下げてお願いして、厭じゃぁない。それが、第一番なのかなぁと思います。
 イエスさまも、結構、弟子たちにいろいろ頼み事をしています。イエスさまについて行った人たちは。当たり前に、頼んだり頼まれたりが出来るような。そういう、12人のグループに、なって行ったんです。
 ヤコブとヨハネは。下向いて網の手入れをしてて。厭だなぁ、と思ったら。「辞ァめた」と。お父さんまで、捨てちゃいました。
 でも、イエスさまを信じて、帰ってきてからはどうなったかって言うと。下向いて、網の手入れをしてて、厭だなぁって思うのは、前と一緒です。で、厭だなぁって、思ったら。「ちょっと、やってくれよ」って。傍にいるひとに、気軽に頼むひとになったんじゃぁないかと思うのです。
 「ちょっと、やってくれよ」って言っても。傍のひとだって、自分の仕事がありますから、そうそう引き受けてはくれません。誰も引き受けてくれなかったら。網の手入れが厭だったら。面倒臭いから、仕事をお休みにする……と。
 いちばん大事なこと。尊いことを思い出している時には。休みが必要だったら、気軽に休むんです。
 それでも、父親を捨てる訳ではないし。家族の誰かが病気だったりとか。仕事をお休みにしたら、誰かがすごく困るという時は。網の手入れ……。ちょっと面倒臭くっても、「一生懸命やろう」って、こころが燃えるような。4人は、そういうひとになって、帰ってきたんだと思います。
 それで、この4人も。イエスさまみたいに格好良いひとになったから。大勢のひとが付いて行ったんです。

Z.
 イエスさまを信じる生活は。まず、神さまの方が、招いてくれないと、どうしようもありません。でも、それは。私たちみんな、こうやって、今、教会に来ているということは。みんな、もう招かれています。
 あとは。「なんで・こんなことやってんだろう」って。仕事でも、学校でも、家庭でも、何でも。分かんなくなった時は、ぶん投げちゃって、良いのかもしれません。
 あんまり良かァないかもしれませんけど。なんのためか、忘れたままで、ずぅ〜っと、一生、嫌々続けるよりか。イエスさまの所に帰って。なんのためかを思い出させてもらって。やんなきゃいけないことを。楽しく、やって行きたいと思っています。

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