2003年1月26日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教
責任がある


中村栄光教会牧師 北川一明

中村栄光教会
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旧約聖書【レビ記 第19章 17節】
 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。
新約聖書【ローマの信徒への手紙 第1章 14、15節
 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。



責任がある

北川一明

T.
 「わたしには、果たすべき責任がある」と言えば、……ちょっと、格好良いでしょうか。格好良いと思います。誰に対しても、何の責任も無いのは、惨めなことだからです。何をしても自由な代わりに、何をしても、誰も何とも思わない。相手にされないのは、辛いです。
 これまで生きて来た多くの経験が、ある。そんなお年寄りが、「私には、この経験を後世に伝える責任がある」と。「その責任を果たすまでは、死ねない」と、考えたとします。
 その責任が、本物の責任で。多くのひとたちが、「その経験を語るまでは死なないでください」と、期待をかけているのなら、嬉しいことです。そういう場合は、「わたしには、果たすべき責任がある」というのは、格好良いと思います。
 ですが「私には、責任があるのだ」……と。ただ、自分で勝手に決めただけだとすれば。それは、本当は責任じゃぁ、ありません。そのひとが一生懸命、「自分の経験を伝えるまでは死ねない」と気負ってみても。みんなは「喋りたいのなら、どうぞ」……と。どうでも良いと言うのならば、ちょっと、淋しいことです。
 「責任が、ある」とは、義務があるということです。ひとり決めしていても、それは責任ではありません。責任は、外から与えられるものです。与えられた訳ではない。ただ自分で決めただけなら。それは、そのひとの目標に過ぎません。
 ですから、「私には果たすべき責任がある」と、胸を張って言えるひとは、格好良いんです。責任があるということは、その人が必要だ、意味がある、ということです。責任は、ひとの、存在意義を創り出します。
 そして……私ども、神に造られた人間には。全て、責任があります。神さまに対して、責任があります。孤独で、世の中からは、「お前なんかには、責任が、ない。生きても死んでも、どちらでも良い」と言われるひとにだって。「存在意義はない」と言われたって。神さまに対しては、責任が、あります。責任が、外から。……神さまから、与えられています。
 たいへん有り難いことだと思います。

U.
 では、それはどういう責任か、と申しますと……。神さまのご命令に従う責任です。神さまの命令とは、要するに、「律法」ですから。律法をまもる責任です。私どもには、律法を守る、……まァ……義務が、あります。
 そうやって言われると、今度は少々、ゲンナリしてしまでしょうか。
 しかし律法とは、そんな無茶な話しじゃぁ、ありません。聖書に書いてある細かい規則を、文字通りに守れということではありません(ローマ7:6)。イエスさまも、はっきりと教えておられます。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねたひとに対して。「神を愛することが第一、隣り人を愛することが第二だ」とお応えになりました(マルコ12:28)。
 この、ローマの信徒への手紙でも、同じことを言っています。ずっと先の方ですが、「どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」と、書いてあります(13:9)。
 律法を守る責任というのは、要するに、神と人とを愛する責任です。
 私どもは、そのことのために召されている。愛に生きて、それを隣りに伝える責任が、あるのです。
 たとえば、病気で寝たきりで。ひとに世話をかけるだけだ……と。ひとのためには、実際には何一つ出来ないという時でも。私どもには、果たすべき責任が、あるし。その責任は、寝たきりでも果たせるのです。
 言い換えれば、存在意義が、ある。ひとが与えた責任ではない、神さまが与えてくださった責任なのですから。普通のひとが、自分には価値があると思いたい。そんな価値よりも、ずっと確かな、神さまに対する、存在意義が、ある、ということです。
 たいへん光栄な、有り難いことだと思います。
 ただ……。光栄って言やぁ光栄なんですが。責任は、結果が問われます。「果たすべき責任がある」のですから、責任を、果たさなくちゃぁ、いけません。
 それを思うと……。この有り難いことが、あんまり……喜べ・なく…なる…ような気が……いたします。
 隣り人を愛することは、大切だ、と。もちろん、そう思います。それが義務だ、責任だと言われなくても、愛したいし。本当に、生き生きと生きるというのは。きっと、ひとをきちっと愛することでしょうと、思っています。「正しく生きる」だけじゃぁ、ない。「生き生きと、自由に生きる」とは。ひとを愛して生きることに、違いありません。それは、知っているんです。
 それなのに、どうしても憎しみが、心を離れない時が、あります。
 自分の愛の貧しさを思うと。神に対する「責任」を、どうしたら良いだろう……と。苦しい気持にさせられます。
 神と隣り人を愛するために、召されてキリスト者とされたのに、ひとを愛さない。神さまが、折角与えてくださった責任を、喜ばないというのは……、はっきり言うて、罪でございます。
 私どもは、罪を犯します。

V.
 まず、隣り人を愛する責任を、忘れてしまうことが、あります。
 くだらない誘惑に惑わされて、愚かな楽しみに命を浪費しているのならば……。「けしからん」と言うよりは……神さまがご覧になったら、情けなく、哀れな状態かもしれません。生き生きと、本当に生きるべき命を生きることが出来ないで。何の価値もない生活をしているのですから、哀れです。
 真面目な私たちは……。神から与えられた責任を、忘れないで……一応、覚えていようとします。神から与えられた責任を、思い出そうとします。
 そうすると……。責任を、果たすことの出来ない、弱い自分に気付きます。「愛さなければならないと分かっているのに、自分には愛せない」……と。自分自身の愛を、謙遜に見つめたら。どなたも、そういう時があるはずです。
 私ども、真面目なもんですから。謙虚に反省しますが、反省しても、愛せません。それで苦しんで。せめて愛するように精一杯努力をしよう……と。努力だって、するんです。
 どんなに努力しても、どうしようもない時。「結果が問われるんだ」なんて思い詰めたら、私たち病気になっちゃいます。
 だから……どうしようもない時もあるけれども、とにかく勤勉に、努力だけは、しよう……と。熱心に、努力しよう。忠実に、精一杯、頑張ろう……で。いちばん真面目なひとでも。それで済まさざるを得ない……みたいな気持に、なっちゃう……と、思います。
 注意しなくちゃいけないのは、そういう時です。
 私どもの愛が深まるのは。愛したいひとを愛した時じゃぁ、ありません。イエスさまも、どこだったかで言っています。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。あなたがたは敵を愛しなさい(ルカ6:32、34またはマタイ5:43以下)」と、言われます。
 信仰と共に愛が深まるのは、「愛せない」っていうのを、乗り越えた時です。信仰が深まるんですから、そういう時には、喜びも、感謝も、深まります。
 しかし……努力したんだから、その結果、愛せなかったのは、仕方がない……と言うのならば。私ども、いっぺんに、全てを失うことにも、なりかねません。
 だって、「責任」って言う以上、結果が問われるんです。「精一杯努力したんだから、結果は問わない」というのならば。それは、「責任ではない」。私どもに、愛する責任は、ない。私どもには、果たすべき責任が、無いということです。
 そえは、悲惨なことになります。
 神が、「責任」を与えてくださっているのに。「果たすべき責任」だったものを、自分で勝手に「努力目標」に格下げしちゃったら。たいへんなことになります。たいへん、惨めなことになります。

W.
 努力するのは、もちろん大事です。ですけど、神がお命じになったのは、「愛するように努力しなさい」では、ありません。「愛しなさい」です。その神の命令を、勝手に「努力しなさい」にすり替えたら。それは、与えられた責任とは、違います。自分で設定した、努力目標です。
 悪い目標じゃぁ、ありません。良い、正しい目標です。ですけど私どもが果たすべき責任は、その目標よりか、もっと先にあります。
 それなのに、努力した……っていう所で、その先の結果は問わない。その先の、本当の責任を放棄するのでは……。それは・つまりは、責任を与えてくださった、神を棄てることになります。
 そんな悪いことをしたら、たいへんです。……なぁんて言ったら、キリスト教は、厳し過ぎるでしょうか。
 ですけど、何がたいへんかって。罰が当たるとか言う以前に。もう罰は当たっています。愛する責任を棄てたんですから。愛する責任が、無くなっちゃってます。神さまは、せっかく愛する責任を与えてくださったのに、それを棄てるんですから。責任が、無いんです。
 責任が無いんですから。憎い敵については。憎いままです。そんな敵を愛する理由は、永久に失われます。
 それで私どもは、憎しみの中に、置き去りに……されます。
 憎しみの中に、置き去られた人間が、どれほど惨めか。そういうひとが、本当に生きていると言えるのか。
 責任無しに、ただやりたいことだけのために生きているのなら。けだものと一緒です。そんなけだものが、憎しみの中に置き去られたら。そういう生き方が、どれだけ惨めか。
 自分が腹を立てている時は、分からなくなってしまうのですが。ひとがひとを憎んでいて、それでいながら良いと思っているのは。痛々しい……。本来は尊いものが、取り返しがつかないように穢れて行く。そんな痛ましさを感じさせられます。
 努力をもって事足れりとしたら、何がいけないかって。私が、惨めなままなんです。神さまは、何にも罰を当てるようなことは、なさらない。それなのに、そうやって神の命令をないがしろにしたら。その時、私どもは、既に裁かれているのです。
 ですけど、だからと言って、敵を愛せるのか。敵じゃぁない。兄弟だって、愛せない時があるのに、どうしようって言うんでしょうか。どうしようもない。
 これが、私どもの罪です。私どもは、神さまの前では、惨めな罪人なのです。

X.
 そんな惨めな人間に対して、救いが開かれた……というのが、キリストの、福音です。
 ひとを愛することには、たいへん大きな力があります。ひとの人格を、根本から、清く作り替えてしまいます。
 ただ好きだというだけでも。そういう気持でいられる時には、ストレスも吹き飛んで、癒やされた気持になることがあるくらいです。それが、愛とは、ただ「好き」というだけでは、ない……。
 ひとつ前の所には、「霊の賜物を分け与える」という言葉が出てきました(11)けど。こころのいちばん奥底が、触れ合う……響き合う。それで、自分の全てを与えても、恵みを受け取れる気持になるのが、愛でしょうから。愛するとは、ひとが、本当に生きるべき最初の姿で、生きていることです。
 その愛を回復させたのが、キリストさまです。その知らせが、福音です。
 ひとは、そういう尊い愛で、「愛せ」と命じられていました。責任が、ありました。それが、その責任を、棄ててしまった。だから、愛せなくなった……だけじゃぁ、ありません。その尊い愛の真反対の。憎しみの中に、堕ちて行ってしまった。……そういう所から、救われたのです。
 憎しみにも、愛と同じくらい、すごく大きな力があります。憎しみに、こころを支配されたら。自分では抜け出せないのではないでしょうか。自分を誤魔化せば、憎しみを忘れていられるのなら、忘れた方が、きっと健康的です。
 でも憎しみの力は、忘れることが出来なくして行きます。憎い相手のこと。考えたくなくっても、そればっかりが、頭に浮かびます。そして、怒りが掻き立てられます。
 しかし・だからと言って、エネルギーを傾けて、憎んでいれば。人格が、根本から作り替えられて、別の人格になって行く。憎しみにも……、それだけ大きな力があるのではないでしょうか。実際に復讐することは、しなくても。ただ憎むだけで、私どもは、大きな裁きを受けてしまいます。醜い人格に、変わって行きます。
 そういう強い影響力で、私どもを支配してしまう、邪悪なものを。聖書は、「悪魔」という言葉で、言い表わしています。
 悪魔に捉えられた惨めな人間は。自分の力では、抜け出せません。
 福音とは、この悪魔を打ち負かしてしまった神さまが、ある。その救い主が、あなたのために来てくださった。あなたを、その悪魔から救い出した……と、いうことです。

Y.
 去年の11月の、特別伝道礼拝では。加藤常昭先生が、『イヌマヌエル』ということを、話してくださいました。「神、われらと共にいます」という意味ですが……。
 悪魔に魅入られて。憎しみに捉えられて、抜け出せなくなってしまった時に。「イエス・キリスト」の御名を呼び求めて。「助けてください」と、祈った経験は、みなさんは、あるでしょうか。
 ひとを憎むなんて、性格悪いアタシだけでしょうか。
 ……幸い、教会の信徒さんのことは、憎んだことはありません。でもアタシが人徳者だからじゃぁなくて。たぶん、牧師と信徒と……立場が違うからです。
 別の場所では、憎しみを感じることがあります。「ちょっと憎らしい」位なら良いんですが。「憎しみに捉えられている」と言う程、ひとを憎んでいる時は、惨めです。「愛さなくちゃいけない」ということを知ってはいても。愛したく、ありません。愛したくないです、もっと憎みたいです。
 クリスチャンが……しかも牧師が、「そんなことじゃいかん」と言われるかもしれません。
 ですが。私ァ自分のこと、自分で「さすがにクリスチャンだ」……と。「さすがに偉いなぁ」という意味ではなくて、「さすがに神さまに守られているな」という意味ですが。「さすがクリスチャン」と、思っています。それは、憎しみを感じないからじゃぁ、ありません。愛そうと努力するからでも、ありません。愛そうと努力もしたくない場合だって、あるんです。それでも、さすがにクリスチャン……、神に守られていると思います。
 それは・ひとつは、自分がもっと憎みたがっている。自分で、愛すべきひとを、愛すまいとしている……という自分の気持ちが、よく分かることです。自分の罪に、気付かしていただいていることです。聖霊によらなければ、「私は罪人だ」と、告白することも出来ません。
 それと・もうひとつは。そういう、もっと憎みたい。愛すまいとしている自分を、ひどく惨めだ……と。「喧嘩ンなりゃ、勝つゾ。やるのかこの野郎」と思っている自分は、仕合わせじゃぁない。こんな自分から、助けてほしい。自分じゃぁ助け出すことが出来ないから、助けてください……と、思えることです。救いを求めることが出来ることです。聖霊によらなければ、救いを求めることさえ、出来ません。
 自分の罪に気付いていて、どうにも出来なくって、救いを求めるのですから。さすがクリスチャンです。神に守られています。
 そして、そういう悪魔に捉えられている時。キリストの御名を呼び求めて、「助けてくれ、助けてください」と祈ったら。助けてもらえます。
 すぐに、憎い相手を愛せるように、ただちに変わる訳では、ありません。しかし愛の命令は、回復します。努力目標じゃぁない、果たすべき責任として、回復します。
 キリストさまの御名の前で。もっと憎みたい、愛したくない……なんて、ナンセンスです。そんな醜い気持からは、救い出されます。
 性格が悪いもんで、しょっちゅうひとを憎んでいる。そういう牧師でも、クリスチャンでも。その分、しょっちゅう助けを求めて御名を呼び求めていたら。醜い憎しみから救われる、その救われかたは、だんだん早くなります。
 しょっちゅう御名を呼び求めたら。キリストさまは、「いい加減にしろ」って愛想づかしをするかと思えば、その逆です。だんだん早く、その憎しみから救い出されるようになって来ます。喩えて言えば、キリストさまが立ち現われてくださるのが、だんだん早くなって来ます。
 これは、「キリスト教の教理」というよりも、私の、証言です。個人的な信仰の経験を、お話ししているのですが……。はじめは、それでもなかなか憎しみから抜け出せなかったのに。しょっちゅうやってたら。御名を呼び求めさえしたら、比較的すぐに、平安を、取り戻させていただいているように、思えます。
 この分だったら、酷いことをしてくる敵を、愛するようになるのも。……そんなことになったら、本当に聖人君子みたいになっちゃう訳ですが。それが、こんな自分にも、あり得ないことじゃぁない……と、思わされます。

Z.
 パウロは。昔は、自分の正義感から……です。正義感から、キリストと、クリスチャンに対する憎しみに、自分の人格の全てを預けてしまいました。そんな、ひとでした。キリスト教は、ユダヤ教から出て来た、邪悪な異端だと思っていたからです。
 悪意からの憎しみよりも、正義感からの憎しみが、ずっと大きな憎しみになります。悪意や意地悪から憎む場合は。相手が目の前にいなければ、どうでも良くなります。「正義が、ないがしろにされている」という憎しみは。寝ても醒めても。こころから離れることが、ありません。
 パウロは、すっかり「正義の憎しみ」に支配されてしまって。「愛したい」なんて、思いつきもしない。殺したかったんです。ユダヤ教だって、殺すな、愛せと教えています。それなのに、殺すのを正義だと思いこんでしまう程に、悪魔に、食い尽くされそうになっていました。
 キリストさまと出会って……パウロの場合は、呼び求めた訳でもないのに、向こうから来てくれて……。キリストさまの愛が、自分の霊に触れました。それで憎しみから救い出されました。相手は救い出してくれた、当のご本人ですから。ただちに、キリストを愛する者に変えられました。自分も、クリスチャンに、なりました。
 そうしたら。昔のユダヤ教仲間が。あるいは、ローマ帝国の市民たちが。自分たちを、憎んでいる。昔の自分のように、醜く、憎しみにとり殺されそうになりながら。自分のことを、愛したくない。殺したいと思っているのですから……。福音を、告げ知らせたくって、当たり前です。
 「主、キリストの御名を、呼び求めよう」と。ローマで集まっているひとたちの所に、駆けつけたくなって、当然です。早く行って、自分の霊の賜物を分け与えたいんです。自分のこころのいちばん奥と、そこに集まったひとたちの、人格の、いちばん奥とを、響き合わせて。そこで、互いの信仰で、励まし合いたいのです。

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