2003年5月11日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日こども合同礼拝説教
こころの中であやまっているとき


中村栄光教会牧師 北川一明




ローマ書
2:6-8

旧約聖書【レビ記 第19章11、12節】
新約聖書【ローマの信徒への手紙 第2章6〜8節】

中村栄光教会
説教集へ









こころの中であやまっているとき

中村栄光教会牧師 北川一明

T.
 「いちばん信用できる友だち」……「いちばん大切な友だち」というのは、どういうお友だちでしょうか。誠実なひと……ちゃんと一生懸命考えてやっているひとだろうと思います。
 ただ「悪いことをしないひと」が、信用できる訳ではありません。ただ「悪いことをしない」ひとを、大事に思う訳では、ありません。このひととは、友だちでいたい。このひとに、ついて行こう……と思うような、魅力のあるひとは。道徳を……きまりを一生懸命守っているひとでは、ありません。もっと自由で、のびのびしているひとです。
 不自由に、窮屈に……。いっつも悪いことを、しないように・しないようにと思っているひとのことを……。私たち、そういうことでは信頼しない……。自由で、おおらかで、時には悪いことをしても……。それでも「誠実だから信頼できる」というひとが、あると思うのです。
 聖書は、「正しいことをしろ」と。「悪いことはするな」と、強く勧めます。聖書には、「あれをするな/これをするな」が、いっぱい出てきます。でも、「あれをするな/これをするな」で、私たちが仕合わせになる訳では、ありません。
 罰を受けないように、ただ臆病から道徳を守っているならば。それは、窮屈で、不自由なひとです。それがキリスト教信仰ならば。クリスチャンは、普通のひとよりも、不仕合わせです。
 でも、キリスト教は、本当はそういうものでは、ありません。地獄に堕ちないように、とか。神さまに叱られないように、ただ道徳を守っているのは、キリスト教ではなくて、「律法主義」と言います。キリスト教は、それとは違います。
 道徳には、二種類、あります。ひとつは、神さまが決めた、聖なる掟……規則です。もうひとつは、人間が決めた、約束事です。
 神さまの聖なる道徳も、「盗むな、殺すな、姦淫するな」と教えていますけど。人間たちも、全く同じことを言います。宗教でなくても、「盗むな、殺すな、姦淫するな」と言います。
 人間が、「盗むな、殺すな、姦淫するな」と言うのは。みんなが勝手に盗んだり、殺したり、姦淫したりし始めたらたいへんだから、です。
 大勢のひとがいる所で、みんなが、ほどほどにうまくやって行けるように……と。お互いに、やりたいことがあっても、ひとの迷惑になることは我慢しましょうと……。そうやって、人間同士で決めたのが、人間の道徳です。
 人間同士で決めた道徳は、どんどん変わっています。昔は、これは自分勝手だ、これは迷惑だ、「だから、これはやめよう」と言っていたことが、たくさんありました。でも、あんまりそうやって窮屈にしていたら。個性が育たない、とか。人間性が解放されない、とか。「あれは駄目/これは駄目」とうるさくすることが「駄目」だという考えが出てきました。
 それで今は、だいぶん緩やかになりました。今は、「お互いに、ひとのやることに口出しするのはやめよう」になって来ています。
 そんな中で。教会のひとは、昔ながらに、びくびく、やりたいことを我慢しているんだったら。教会が「律法主義」になっていたら。クリスチャンは、普通のひとよりも窮屈で、不自由で、不仕合わせです。
 だけど、そうではありません。私たちは、仕合わせだから、クリスチャンになっているのです。
 それは、人間の道徳と、けっこう外見は良く似ている、神さまからいただいた掟を……。それが、尊い、聖なるものだと信じているから。聖なるものを信じているから。それで私どもは、仕合わせにさせられているのです。

U.
 中学校、高校では、悪いことを何にもしないで受験勉強をしている友だちが、ありました。でも、そういうひとよりも……。多少悪いことをしている友だちに魅力を感じました。
 学校の規則を一生懸命守っているひとのことは、友だちとして、ちょっと信用しませんでした。中学生、高校生になると……。大人が言うのとは違う、自分の好みや、自分の考えが出来てきました。それなのに、ひとの言う通り、大人の言いなりに正しいことをやっているひとは、信用できませんでした。臆病なのか、要領が良いのか、どちらかだと思ってました。
 ですから……むしろ、規則をなんとか破ってやろう……と。虎視眈々と、先生の隙を窺っている友だちを、かえって信用しました。
 ですけれども……。だからといって、ただ滅茶苦茶をやっているひと。悪いことを平気でやっているひとを信用したかといいますと……。それも、ありませんでした。そういう、悪いことを平気でやる奴は、「いつ、俺を裏切るか分からない」。そう思って、友だちにはなりませんでした。
 「あいつは誠実だ」、「あいつになら、ついて行ける」と感じた相手は……。世の中が、「これは正しいことです」と教えてくれることを、そのままやっている人じゃぁ、ありません。けれども、それを、だらしなく破っているひとでも、ありません。親が何と言おうが、先生が何と言おうが、自分にとって「正しいこと」って何なんだろう……と、真面目に考えていて。考えた通りに実行しているひとでした。
 自分の好みや、自分の考えや、自分の夢や。そういうものと照らし合わせて、自分にとっての正しさを追い求めている。だから、時には勇気をもって世の中に反抗する。そういうひとに、憧れました。
 「憧れていた」くらいですから、自分は、臆病で。そうそう思い切ったことが、出来ませんでした。だから、ちょっと自分で格好悪いと思っていました。
 どうして格好悪いか。大人や、世の中の目を恐れて、やりたいことをやっていなかったからです。それは、自分で「正しくない」ことだと思っていたので。「正しく」大人に反抗している友だちに憧れて。大人に反抗しない、「正しくない」自分を、格好悪いと感じていたのです。
 ちょっと、妙ですよね……。つまり不良だって、「正しさ」を求めていたんです。「正しい」ことは、好きなんです。ただ、「正しい」と言っても、それは「世の中が『正しい』と言っていること」じゃぁなくて。自分にとって、絶対に正しいこと。ひとが何と言おうが、自分が「正しい」と信じることが出来るものを、求めていたんです。
 今日の聖書には、「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」って、書いてありますけど。本当です。正しさを追い求めていたら、必ず、報われます。
 ですけれども、その「正しさ」とは、上辺の、礼儀正しさじゃぁ、ありません。ひとが作った道徳を、「律法主義」で守ってることじゃぁ、ありません。不良も含めて、全てのひとが求めるような「正しさ」です。
 ですから……次に、「善い行ない」とは何かが、書いてあります。「善い行ない」も、ただ「悪いこと」をしないのでは、ありません。
 どういうことをしたら報われるかと言うと……。すなわち、「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」……って。「善を行なう」っていうのは、「栄光と譽れと不滅のものを求める」ことです。
 「善を行なう」っていうのは、人間の作った道徳を窮屈に守ることじゃぁ、なくて。自分にとって、絶対に正しい……ひとが何と言おうが、「俺にとって正しいこと」。それも、自分が死んだ先まで永遠に輝いているような、そういう正しさを、求めること……が、善い行ないです。

V.
 そういう「永遠の真理」に対して、誠実になるならば。人間の道徳を、そのまま信じ込むことは、出来ないはずです。
 人間の道徳は、必ず、窮屈で、不自由です。それは、道徳が出来上がった理屈から言って、当然です。
 みんなが、本能や欲望のおもむくままに勝手なことをやり出したら、人間同士うまくいかないから……って。それで作った道徳ですから。もともと……本能や欲望のままには、行動させない。本能や欲望を我慢させて、妥協させるため……ですから。窮屈にきまっています。
 私どもが、真理に対して誠実になるならば。どうしても、今までの道徳には我慢しにくい……面は、あるはずです。だから若者の間では……模範的な優等生よりも、規則を破ることの出来る不良が、英雄になるんです。
 英雄は……英雄は、誠実さから、世の中の規則を破って。誠実に、新しい、ホンモノの正しさを求めます。それで、周りから尊敬され、信頼されます。
 ただ……、ですけども、そういうヒーローが、ヒーローでいられるのは、社会に出るまでです。社会に出た後、同じことをやっていたら。「ただの馬鹿」になります。信頼されずに、軽蔑されます。
 若い英雄は、ひとが作った道徳を信じないで、自分で新しい規範を探しますけど。新しい規範を、一生懸命、自分の中に探しているならば……。見つかるものは、自分の本能と、欲望です。
 それを剥き出しにしたら困るから、人間たちは道徳を作ったのに。若い時に英雄だったひとが、大人になっても、本能と欲望を剥き出しにしていたら。そういうひとは、社会的な責任を負えない、困った大人。ただの「社会人失格者」です。
 それで、多くのひとは。社会に出たら……大人になったら、世の中の、窮屈な規則に妥協する……しかないし。妥協しているから、魅力はない。けれども、迷惑にならず、無難で、ちょうど良いんです。
 しかし私どもクリスチャンは、そうじゃぁないから、仕合わせなんです。
 私どもクリスチャンは、若い英雄と一緒で。律法主義で道徳を守るんじゃぁ、ありません。ひとが作った道徳なんか信じないで、自分で新しい規範を探します。けれども……若い英雄と違うのは。新しい規範を、自分の本能と欲望の中に探すんじゃぁ、ありません。自分の外側に……。神さまから来る正しさを、尋ね求めるのです。
 私たちは、誠実で。だから魅力があって、尊敬されて…良いはず…だと思うんです……。そうなっていないならば、教会が、まだ「律法主義」に縛られているのかもしれません。
 私どもクリスチャンは、自由だから、格好良くって。誠実だから信頼される。そして、大人になっても・そうやって誠実であり続けられて、仕合わせだから。それで、キリストさまのもとに、集まって来たのです。

W.
 「盗むな」という掟が、あります。神さまが、私どもにそうお命じになりました。
 神さまが「盗むな」とおっしゃるのは、人間の財産がなくなるからじゃぁ、ありません。人間同士が困るからじゃぁ、ありません。「それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」と、書いてありました。盗むのがいけないのは、尊い、聖なる何物かが、汚されるからです。
 「うそをつくな」とも、言われます。それも、尊い、聖なる何かを汚さないためです。
 そうは言っても。クリスチャンだって……。そういう聖なる何かを最初から知っている訳じゃぁ、ありません。クリスチャンが、最初に信じているのは……。「嘘をついたら汚れてしまう、なにか尊いものが、あるのかもしれない」と。ただ、そのことだけです。
 そういう尊いもの。「永遠の、栄光と譽れ」というような、聖なる何かが。私の外のどこかに、あるのだろう……と。私どもは、まず、それを信じているのです。
 その聖なるものに触れることが出来るならば……。そうしたら、私の中にある本能や欲望から・好き勝手をやるよりも、ずっと凄い、良いことになります。私は、きっと、そういう聖なるもののために生きているんです。それを、信じているのが、クリスチャンです。
 それを信じていても、規則を窮屈に守るのは、やっぱり、厭です。本能と欲望があるのは、クリスチャンも同じですから。そういう誘惑に負けて。神さまが教えてくださった規則を、破りたくなることが、あります。
 神さまの規則は、本当は破っちゃいけません。だけど、ただ破らなければ良いってもんでも、ありません。「規則を破らなければ良い」っていうのは、律法主義です。規則を守りながら、それでも、尊い、聖なるものに触れることが出来ないんだったら。そりゃ、「守り損」っていうか。窮屈なだけで、何の良いこともありません。
 ひとが生きる目的は。そういう何か、尊い、聖なるものに触れて生きることです。それさえあれば、あとはいらないんです。神さまの規則を守るのも、その、聖なるものに触れるためです。
 そういう聖なる何かは、きっとキリストさまの、自己犠牲の愛の中に、見えて来るもの……なんだとは、思うのです。
 地獄に堕ちないように、規則を窮屈に守っているひとは、不幸ですが。規則を守るのは、そういう何か、尊い、聖なるものに触れるためです。……ですから、神の律法を大切に守って、その聖なるものを見つけ出すひとが、幸いです。聖なるものに触れて。その聖なるものと共に生きるひとは、幸いです。
 ただ……私どもは、そんなに賢くありませんから。一生懸命規則を守っているだけだったらば。その、大事な聖なる何ものかに気が付かない……ことが、ほとんどだと、思うのです。

X.
 私が、聖なるものに気が付いたのは。聖書を読んで、律法を守って、お祈りをした時では、ありませんでした。規則を守ったときでは、ありません。神さまの、大事な規則を破った時でした。
 ……具体的に、何をやったかは、内緒です。顰蹙を買うので、みなさんには、教えてあげませんけど……。
 「盗むな、うそをつくな、互いに欺くな」と命じられています。そういうきまりは、何か聖なる、尊いものに関係がある……かもしれない……とは、思っていました。だけど、よく分かりません。分からないから、本能と欲望のままに、神の掟を破りました。
 ……ちょっとだけ具体的に言えば……、ひとを傷付けました。隣り人を傷付けるのは、聖なる神を汚すことになると言われている、その掟を破りました。
 そうしたら、取り返しのつかないことになってしまいました。私のやっていたことは、ただ、ひとを傷付けただけじゃぁ、なかったんです。聖なる、尊い、人生で、絶対に手に入れなくっちゃぁいけないような、大切な何かを、壊していたんです。
 その時、私が傷付けてしまったものは……。相手のひとだけじゃぁ、ない。自分が傷付けて、汚して、壊してしまったものは、相手のひととの間にある、本当に尊い、清い、聖なる何かだったんだ……と。やっちゃってから後で、ようやく気が付きました。
 後から・ようやく、本当に尊い、聖なるものは、あったんだ……と。私と、隣りの人との間には、「永遠の、栄光と譽れ」というような、聖なる何かがあったんだ……と、気が付きました。
 気が付いた時には、もう壊れているんですから。「あったんだ」と、過去形で言うしかありません。もう、そのひととの関係では、尊い聖なるものに触れて生きることは、永遠に、失われていました。
 だから……悪いことをしないひとは、幸いです。神の掟を守って、聖なるものを汚さずに。そのままで、聖なるものに触れて、聖なるものと共に生きるひとは、幸いです。
 私のような馬鹿者は、失った後で、失ったものの尊さに気が付くんです。神の掟を破って、取り返しがつかないことになってしまった後で、取り返しがつかないことに、気が付くんです。

Y.
 ……それでも。その時私は、自分の外側に、尊い、清い、聖なるものがあると、知りました。掟を守って、聖なるものに触れながら生きているひとに比べたら、私は不幸ですけど。びくびくと、自分の身を守るためだけに掟を守って、それで聖なるものに気が付かないままで死んで行くのに比べたら。私は、罪を犯して幸いだったと思っています。
 隣り人を傷付けた……と。それで終わらないで。聖なるものを汚してしまった……と。それに気付かせていただいた私は、その点では、幸いだったと思っています。
 キリストは、人間の、全ての罪を負って死んだのだから。どんな罪でも赦されると言われます。悔い改めれば、赦されて、永遠の命に与ることが出来ると言われます。
 けれども、ひとを傷付けてしまったことは、取り返しがつきませんでした。自分が悪かったと、気が付いて、「ごめんなさい」と謝りたかったのですが。こどもの罪は、「ごめんなさい」で済むかもしれませんけど。大人が悪さをすると、「ごめんなさい」を言う場所も、与えてもらえない時があります。
 傷付けてしまった・そのひととの間で、聖なる尊いものに一緒に触れる機会は、たぶん永遠に失われてしまいました。「あらゆる罪が赦される」って。天国では赦されているか知らんけど。この世で取り返しのつかないことは、取り返しがつかんのだ……と、痛感しました。
 だけどそれでも、「あらゆる罪が赦されて、永遠の命に与る」ということも。それも本当だ……と、実感しました。
 「ごめんなさい」を言いたいのに、それを言わせても、もらえなかったのですが……。だから、しょうがない。ひとりで「ごめんなさい、ごめんなさい」と。そのひとがいる方角を向いて、こころの中で謝っているとき。そうやって謝る気持を通して……。「アレ?」って、思いました。
 俺は今、永遠に尊い、聖なるものかに、触れている……と。そのひとと一緒には、触れることのできなかった永遠に尊いものに。別な形で。みっともない姿で、ですけど……。触れさせていただいているんだぁァと、思いました。
 「悔い改めたら、永遠の命に導かれる」って。きっと、こういう気持が、もっと、いつもちゃんと出てくることに違いないと、思うのです。

Z.
 どうでしょうか。こそこそと、自分の身を守るために正しいことをやっていた時と比べたら。悪いこと、やっちゃって、取り返しのつかないことになっても。信仰に導かれたら、仕合わせです。すごく仕合わせです。絶対に正しい、聖なるもの、永遠の命が、自分の中でも、始まりかけています。
 私より、うんと正しいひとは。神の掟を、きちんと守って。誰も傷付けないで、その永遠に触れるのです。それが、いちばん良いんでしょうけど。絶対に正しいもの、聖なるものがあると信じていたら。神の掟を、破りに破っても。破ったことで、かえって、聖なるものに気が付くんです。
 気が付いた時には、もう、その聖なるものは駄目になっているかもしれません。自分の行なったことの報いは、きっちり、受けます。取り返しのつかないことをしたら、取り返しのつかないことになります。
 だけども、それでも忍耐して。忍耐強く、栄光と誉れと不滅のものを求めたら。求めたなりの、報いを、与えていただけます。別な形で、聖なる、尊いものに。永遠の命に、近付いて行くことが出来るのです。
 だから、私どもクリスチャンは、仕合わせなんです。

中村栄光教会
説教集へ