2003年8月10日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教
愛を踏みにじられて


中村栄光教会牧師 北川一明


ローマ書
3:3、4

新約新約@【マタイによる福音書 第18章 21、22節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第3章 3、4節

中村栄光教会
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愛を 踏みにじられて

北川一明

T.
 「神は真実なかた」である・とか、「神の誠実」とか。今日の聖書は、「誠実」ということが、問題になっています。
 「誠実さ」が大切であることには、どなたも異論はないと思います。正しいことだから、というだけでは、ありません。誠実に振る舞うことが出来た時。自分自身が豊かにされたことを、感じます。
 「誠実」というのは、正しいことに対して、損/得抜きで一生懸命になることでしょうから。誠実だと、必ずしも「得をする」とは限りません。むしろ……誠実であれば、負担は大きくなります。
 与えられた仕事を、とことん誠実にやろうとしたら。どれだけ働いても、きりがありません。給料は増えずに、負担が増えます。苦しんでいるひとに対して、どこまでも誠実に接するのならば。どれだけ時間をかけても、こころをかけても。これも、やっぱりきりがありません。単純な損/得で言えば。誠実だと、損をします。
 もちろん、不誠実だと、長い目で見たら、かえって損をすることも、あります。信用をなくしてしまいます。だけど、そんな「先行き得をするように、誠実にしておこう」だ・なんて。そんなのは偽善ですから、いちばん不誠実です。
 私どもは、もっと純粋に。本当に損得抜きで、誠実さに、憧れています。誠実なひとと接すれば、爽やかな気持ちになりますし。自分も誠実でありたいと思いますし。誠実に振る舞うことができたら、嬉しくなります。
 それが……周りに居るひとが、不誠実だと。自分だけが、誠実に、真面目にやっていたら。自分だけが、割を喰ってしまいます。それは困ります。それで、周りが悪いと自分もついつい不誠実に……「アタシが悪いんじゃぁ、ない、世の中が悪いから」と。損得尽くでやらざるを得ません。
 そうこう・しているうちに、かつての誠実さに対する憧れも、忘れることさえあります。誠実さなんて、役に立たない。そんな気分の時に、誠実なひとと出会うと。初めは、相手を馬鹿にするかもしれません。「そんな風じゃぁ、ひとに利用されて、損をするぞ」と。同情するどころか、時には、自分もそのひとを利用して、得をしようとするかもしれません。
 それでも、その相手が・ひたすら誠実であり続けたら。そのひとが、私に騙され利用されて、私のために損をして。それでも私に対して、いつまでも誠実であり続けてくれたなら。……いっかな鈍い私でも、目を覚まします。
 このひとと居る時は、ずるいことなんか、考えなくて良いんだ。損/得なんかに関係なく、こっちも誠実であって、良いんだ……と。さらには……別にこのひとが居なくっても、私が誠実になって、良いんだ。その方が、自分が仕合わせだ……と。それを思い出さされます。
 それで、誠実なひとと一緒に居ると、こころが洗われて。気分が良いんです。
 教会とは。誠実なひとの居る所です。自分の損/得で動くんじゃぁ、ない。神さまの御心はなんだろう……と。自分の損/得を顧みずに、誠実さを追い求める場所…=…教会に、私どもは、招かれているのです。

U.
 ワタクシは、特別・心の清い人間では、ございません。人並みに、利害・損得に、関心があります。そんなアタシが、ちゃっかり損得勘定をしながら……。けれども、その一方で本気で誠実でありたいと願っている。そんな一面も、こころの中には、確かに・あります。
 損得勘定をする意地汚い自分が、どうして、……同時に・本気で、誠実でありたいと願うのか。損得勘定で生きるのは、本当は、厭なんです。この恐ろしい世の中で。騙されないように、傷付かないように、自分ばっかりが酷い目に遭わないように。ケチな工夫しながら自分の利得を図っていますが。本当は、そんな生き方は、したくは・ない。正直に、誠実に、もっと正しく生きたいんです。
 誠実では、ない、「不誠実」とは。良いことをするのも、自分の利得のためにする。何か代償があるから、やる。ひとが見ていなければ、正しいことなんかやらないで、自分が得をするようにやる……っていうことです。損/得で。欲得ずくで。見返りを期待して、行動する……っていうことです。それは、利害損得を規準にした、取り引きです。
 不誠実なひとの人生とは、生涯、取り引きの人生です。自分が何かを提供する……。何か労力でも、お金でも、気苦労でも何でも。そういうものを、こっちが提供して。その代償に、どれだけのものを手に入れられるか。お金でも、物でも、サービスでも、名誉でも。出した物に対してどれだけリターンがあるか……っていうのが、損だ/得だの取り引きです。
 人生、全部をそれでやるんでしょうか。
 出した物に対して、どれだけ戻って来るか。そんなことに、自分自身を浪費したくは、ありません。信仰者ですから、いつも、「死」ということを考えています。どんなに得をしたって。どんなに沢山リターンがあったって。そういう損得だけで生きるのなんて、虚しいです。
 本当に清い、聖なる正しさにかかわるような、何か、そういう凄いことと関係するんだったら。損をしたって、良いんです。取り引きの上では自分を犠牲にしても。聖なる、正しいことと、ぴったり関わることが出来たら。その方が、あくせく損得勘定に煩わされているよりも、ずっと、この命を尊く用いることができます。
 そんな風に、聖さ、正しさのために、損得勘定を捨てて、行動する。聖さ、正しさのために、欲望に打ち克って。欲望の通りではなく正しさの通りに生きる。そうしたいですし……。それが、つまりは「誠実」ということなんだろうと思います。
 「誠実である」とは。自分の命を、いちばん豊かに用いることです。
 誠実だと、自分というものが、出来上がって行きますが。誠実でないと。自分というものが、壊れて行きます。
 取り引きしないと、生きて行けませんし。正当な取り引きならば、悪くは、ありません。だから私ども、利害損得を計算しますし、取り引きも・し、儲けもします。取り引きには、誠実な取り引きだって、あります。
 けれども、裏と表とがあって、ひと前と/陰とで、やっていることが違うんだったら。それでは、正しさを犠牲にして、取り引きをすることになってしまいます。それが、不誠実です。悪魔に正しさを売り渡して。その代償に、お金や、名誉を手に入れるのです。
 そういうのを、こどもの童話では、「悪魔に魂を売り渡す」と言いますが……本当に、その通りだと思います。そういう不誠実だと……「自分」っていうものが、なくなってしまいます。
 一生涯、欲得ずくで、ただ取り引きをして生きるのでしょうか。損得勘定をし、「あれを手に入れた、これを手に入れた」って思いながら生き、死んで行くんでしょうか。そうやって自分の表面で。知恵でもお金でも何でも。そういうものを、自分の表面だけで動かして、済ますんでしょうか。
 こころの芯には、ただ損か/得かだけしかない。自分っていうものが、ありません。魂が、どこぞに飛んでいってしまっていて、何も無い。そんな生き方です。そんなの可哀想過ぎます。
 それは厭だから。私どもは、損得勘定を、するには・するんですが。そんな自分に飽き足らなくって。誠実でありたいと願うのです。
 欲望や、損得よりも、もっと大事なもの。欲望や、損得を克服する、聖なるもの、正しいもの……。つまり、「真理」です。私どもは、真理のために生きたいと。……実際の行ないは、しばしば、不誠実です。実際には、偽り者です。それでも、こころの奥では、真理を求めて。真理に従う生き方を求めて。だから、誠実さに憧れるのです。誠実なひとと一緒に居る時は、自分が本来生きる通りの、綺麗な生き方を思い出して。それで、仕合わせな気持になるのです。

V.
 ですから、誠実さとは、真理と関係のある、事柄です。そして人間は、真理を100%知ることが、できません。だから人間には、100%の誠実は、ありません。完全に誠実なひとは、ありません。誠実さを売り物にしているひとが、時に、たいへん不愉快なのは、そのためです。
 本人は、ひとが見ていても/見ていなくても、同じようにしている。自分は正直に、正しく振る舞っている積もりです。そして実際、ひとが見ていなくても、きちんと正しく振る舞います。誰もみていない所で、きちんと規則を守って。それで「私は誠実です」なんて思っていたら。そういうひとと接する時、こちらは、清々しい気持にはなれません。
 たとえば、ファリサイびとが、そうでした。そういう人たちでした。神さまはご覧になっているのだから、と。まじめに規則を守って生きていました。それで、「誠実」を自認する、自惚れ屋さんでした。
 ひとが見ていない所でも、もちろん規則は守るべきですが。しかし・どれだけ規則を守っても。規則を守ることと、真理に従うこととは、そもそも、ちょっと違います。
 ファリサイびとだって、誠実さに憧れていたと思うのです。誠実さに憧れて、欲望を我慢しながら、規則を守っていたのです。だけど、神の罰が怖くって……あるいは、神さまからのご褒美が欲しくって、欲望を我慢している。そんな人間たちが、「これが真理だ」と思っているもの……すなわち、欲望を我慢することと。神さまの本当の正しさとは…=…聖なるものとは、ちょっと違うんです。
 ファリサイびとたちは。自分が誠実だと思っていたのに。イエスさまから、偽善者呼ばわりされて、キレました。自分の誇りを守るために、イエスさまを十字架につけました。自分なりの誠実さで、なまじ一生懸命努力していたから。イエスさまの教えに、堪えられなかったのです。
 ファリサイびとが、自分なりに誠実だと思っているのは。本当の誠実の、一歩手前です。われわれ人間が「これは真理だ」と思っることは、真理の、一歩手前です。残念ながら、真理そのものでは、ありません。それを「真理」だということにしちゃっては……、偽り者です。
 だって。真理はひとにはない。神にあるからです。
 真理に対して。聖なるものに対して、本当に、完全に誠実であるには。だから、自分では分からないことに対して。完璧には理解し切れないことに対して、誠実でなければいけない。自分なりの誠実さで自己満足しているんじゃぁなくて。神の誠実に、与らなくっちゃぁいけない。ひとが誠実なのでなくただ神のみが誠実なのです。
 だから、誠実なひととは、裏表のない人ですが。裏おもて無く、陰でも日向でも規則を守っているひとが誠実……では、ありません。陰でも日向でも、祈って。神さまの誠実さに触れているひと。神さまの誠実さと一体にされているひとが、本当に気持の良い……。こちらのこころまでが洗われるような、誠実なひとなんです。

W.
 神の誠実は。ただ、キリストさまによって、明らかになりました。真理は、十字架によって啓示されました。キリストの十字架を考えた時。「神の誠実」ということが、分かります。……って言うか。少しだけですけど、良く、分かりました。今日の聖書と、その先で、分かりました。
 われわれ人間が不誠実で、「その不誠実のせいで、神の誠実が無にされる」かっていうと、そうじゃぁない。人間の不義が、神の義を明らかにするんです。
 イスラエルの信仰者たちは。神さまに選ばれて。神さまから、愛されて、信仰に導かれました。それで、信仰の誓いを立てました。私どもも、同じです。洗礼を授けてもらって、神さまと、約束を交わす生活に入りました。
 だけど……今、大勢のひとが、約束を破っています。たとえば、礼拝を休んでいます。約束を交わした時とは、少々事情が違ってしまったからです。事情が違うんだから、「まぁ、しょうがない。神も大目に見てくれるだろう」っていうことでしょうか……。
 事情が変わったと言えば。礼拝に来ている私たちだって、同じです。最初に約束を交わした時、そのままに。全部を一生涯守り切ることは、出来ません。ひとが見てなきゃ、多少のことは、ありますし。どうしても苦しい時は、「苦しいんです」って、開き直ります。苦しい時は、「苦しいから約束を守れません」と……。正直に認めてるんだから、「俺は誠実だ」なんて、開き直ります。
 洗礼の時。誰かに強制されて約束した訳ではない。志を立てたのは自分なのに。自分で自分を裏切っています。
 けれども、そういう時。私どもの、そうした不義…=…私どもの、正しくなさのために。神の義が、明らかになるんです。私どもの不誠実のせいで、神の誠実が、明らかに、現われ出て来るのです。それが、キリストさまの十字架です。
 約束を破ったら。普通は、その約束は、もうお終いになります。私どもが、せっかくの神の招きを拒んだのですから。神の愛を踏みにじったのですから。救いの約束も、それで・もう、お終いなはずです。そして、約束破りに対しては。神さま、それなりの態度に出るはずです。
 私どもの約束破りに対して。神さまのとった態度は、……しかし奇妙でした。
 神が、誠実に契約を履行して。契約違反の報復をするならば。私どもは、滅ぼされます。一方、神が、私どもの契約違反を我慢したとしたら。我慢して、見逃したとしたら。それは、神さまの方だって、契約に対して不誠実です。人間が可哀想だ、なんか言ったって。結局は、見せかけの契約だったと言うか。ただの「脅し」だったってことになります。
 だけど、そうじゃぁ・なかった。神さまは、御子を十字架で殺して。私どもの契約違反を断罪して。それで、神の義を表わしたのです。

X.
 えぇと……;
 「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」……と。ペトロがイエスさまに聞いた時のやりとりが、聖書(マタイ18:21)には残されています。ペトロは、悪い奴の悪いことを、どれだけ我慢すれば良いのだろうか、と。悪いことをされて、損害を被った。その損害は、どこまでなら我慢すべきか、「七回までですか」と考えました。
 それに対してイエスさまは、人間の約束破りを、どこまで赦すか。神が赦すっていうのは、どういう意味か。そういう所から、お答えになりました。
 悪い奴に対して、何にも出来ずに我慢するだけだったら、ただの弱虫です。悪い奴の横暴を、裁けない。こそこそ我慢するのは、赦すのとは、違います。逃げです。
 こみ上げてくる怒りを抑えるのも、赦すこととは違います。野球少年が、大事な盆栽をひっくり返して、壊してしまった。その失敗を我慢しようと思って、我慢できたのが、「赦した」のかっていうと。そうじゃぁ、ありません。それは・ただの、我慢です。
 我慢したんだから、こころの中は、不満でいっぱいです。ただ我慢するだけだったら、ぶん殴るよりも、こころの中は、煮えくり返ります。
 「赦す」とは、こころが煮えくり返った、そのこころを。加害者を愛する気持に、すっかり変えてしまうことです。悪い奴から、とんだ被害を被って。それを「赦した」というのは。被害を被ったのに、加害者を愛することです。それが、神のなさったことでした。
 われわれ人間は、不誠実でした。神さまに対して、不誠実でした。真理に対して、不誠実でした。神さまは、そんな人間を、不満たらたら我慢したのでは、ありません。赦したんです。
 赦すとは。我慢するよりも、もっと・ずっと積極的な、働きかけです。我慢するのは、自分ひとりでやることですが。赦すのは、相手に対する働きかけです。そして誠実とは。愛を踏みにじる、そんな不誠実に対して。それを赦すために、私どもに対して損得抜きで、ひたすら働きかける……。それが、神の誠実です。
 愛が踏みにじられた時、報復するんじゃぁ、ない。耐え忍ぶのでもない。愛が踏みにじられたことに対して、怒りつつ、もっと愛してしまう働きかけが……、本当の誠実ですし。神の愛ですし。それが、真理です。
 キリストさまの十字架によって。私どもは、この真理を、啓示されたのです。

Y.
 そういう誠実さ……。そういう、赦す愛っていうのは。さすがに神さまだから、できるんです。私どもが、誰に対してでも出来る訳では、ありません。たいていは、害を被ったら、相手を憎みます。復讐するか/泣き寝入りするか、どちらかです。
 だけど、愛が踏みにじられて。その相手を赦すことが……私どもに、絶対にあり得ない……ということ・でも、ありません。相手によって、出来ることが、あります。わが子であったり、恋人であったり。こちらの愛が踏みにじられて。いっときは、臓腑が煮えくりかえって。それでも赦すために、ひたすら働きかける。そういうことが……全く無いわけでは、ありません。
 そういう時は。「我慢しよう、我慢しよう」と、我慢することを目指しているんじゃぁ、ありません。我慢じゃぁありません。腹は立てるんです。確かに、無茶苦茶・腹を立てながら。けれども、怒りと憎しみを掻き立てられた相手に対して、わざわざ近付いてって……。
 ……腹ァ立ててる相手に近付けば。「何て事してくれたんだ」と、口では罵るかもしれません。だけど、そうやって・やろうとしていることは。相手を裁くことではない。相手との関係を、取り戻そうとしているのです。
 どっちが悪いか。相手が悪いのです。それなのに、こちらから近付いて行って、関係を、取り戻そうとしているのです。
 大事な盆栽が、壊れてしまったら。元には戻りません。恋人が浮気をしたら、その事実は消せません。ですから、以前と全く同じ状態には、戻りません。関係のありかたは変わります
 それでも、相手を愛する関係。相手はともかく。少なくとも・こっちは、愛するように、戻る。愛を踏みにじられて、傷を負わされた分、余計に、掛け替えのない相手になる。そうするための働きかけが、……本当に、「ひとを赦す」ということです。
 「赦す」って、ですから、こころが静まった、ゴールに到達した状態じゃぁ、ありません。愛するために・こころが燃えている。「赦し」とは、そういう「過程」です。だから、赦しは7回じゃぁ済まない。こころは、7の70倍でも。生きてる限り、こころは燃え続けるのです。

Z.
 私ども、憎しみと愛情とが混じり合った情熱なら、あります。愛するひとに、愛を踏みにじられた時。愛憎入り交じった情熱は、持ちます。その情熱を、本当に愛して受け入れる気持に持って行くことは、なかなか、出来ません。
 でも、諦めて、我慢するよりも。愛とは、ゴールじゃぁない、過程なんですから。臓腑をよじりながらも受け入れたいと願っている。そういう情熱は、神の誠実の、すぐそばまで来ています。愛憎入り交じった情熱を、本当に愛して受け入れる気持に、清めるには。最後、神の力が必要です。
 祈りが必要です。愛は、祈りで完成するんです。
 「祈り」って、「ああしてください、こうしてください」をお願いすることじゃぁ、ありません。愛する者のために、臓腑をよじっている。そんな私の罪と、そんな私の惨めな魂に対して、神さまが、何を語りかけてくださっているか。それを聞くのが、祈りです。
 祈って、御言葉を聞いた時には。相手をどう赦すか、その方法が分かるんじゃぁ、ありません。ハウ・ツーがマニュアルとして示されるんじゃぁ、ありません。相手をどう赦すかじゃぁ、ありません。私が・どう赦すか・じゃぁ、ない、私を赦した、神の誠実さに触れるんです。それで、私どもの中に、その神の誠実さが、生まれてくるんです。
 「誠実」とは、簡単に言ったら、「正しいことに対して、損/得抜きで一生懸命やる」ってことです。自分が踏みにじられて、苦しくって、どうにもしょうがない時にも。損/得抜きで。ひたすら正しいことに対して一生懸命、尽くす。そういう神の誠実が、私どものこころに、生まれてくるんです。
 その誠実は。神の、ただ私に対する裁きと赦しの御言葉を聞く、そういう祈りで、生まれてきます。
 誠実なひととは、ですから静かなひとじゃぁない。やっていることの結果だけ見たら、静かでも。こころの中では、激しく闘って。赦すべき相手に、激しく働きかけている。そういうひとです。
 教会とは、この私どもが、そういう誠実さを、取り戻す所です。利害・損得じゃぁ、ない。ひとが見てても/見てなくても、関係ない。神の誠実さを、この心に注いでもらおう。煮えくり返るこのこころを、それでも「愛」に近づけて行こう。そのまま……こころを燃え立たせたままで、愛する者になろう……と。
 教会とは、そういう誠実さを追い求めて。神さまから、その誠実を与えていただく。聖霊が注がれる場所が、教会です。
 神が、そうやって、私どもに近付いてきてくださったからです。
 私どもは、神に愛されて、選ばれて。そういう教会に、招かれているのです。

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