2003年8月17日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教
罪を犯して知ったこと


中村栄光教会牧師 北川一明


ローマ書
3:5-7中村栄光教会
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旧約聖書【レビ記 第1章1〜9節】
新約聖書【ローマの信徒への手紙 第3章 5〜7節





罪を犯して知ったこと

北川一明

T.
   感謝でいっぱいになって、神さまの前に、ひれ伏さないではいられない。……そういう気持から、神の御国は始まります。
 宝くじが当たった時。クリスチャンならば、「一応、神さまに感謝した方が良いのかな」くらいは、思い出します。けれども、そういう時に。教会にすっ飛んで行って、額を床に擦りつけて感謝を捧げたい……と。そこまでの気持には、なかなか、なりません。
 そういう溢れるような感謝は、永遠の、聖なる何ものかを感じた時に、出てくるものです。たとえば、宝くじが当たったのであれば。ただ、儲かったとか、楽しめるとか、家計が助かるとかではなくて。自分を愛し、導いている……天国にまで導いている、永遠なるもの……永遠にして、聖なるものを、宝くじを通して感じ取って。それで感謝を捧げたくなるのです。
 宝くじも、欲しくない訳では・ない、欲しいですけれども。宝くじよりも、もっと欲しいものは、そういう、神に対する感謝です。おそらく・それが、信仰というものですし。いつもそういう、永遠にして聖なるものを感じていれば。何につけ、感謝できます。あらゆることに、感謝できます。それが、今の・この世を生きながら、永遠の命を生きることだと思います。
 だから、宝くじも決して拒みは・しませんが。何よりも、聖なる神に触れたい。そして、神に対する感謝を与えられたいと、願っています。……願っている……積もりで、います。
 ところが、聖書は。今日のローマの信徒への手紙の、すぐ先の所ですが。人間には、正しい者なんか、いない。誰も、神さまを求めてなんか、いないんだ(3:10,11)……と。私どものことを、そういう風に言うんです。
 誰も、神さまなんか求めちゃいない。それは、人間の罪なんですが……。今日の聖書は、そんな罪が、かえって神さまを明らかにして、私どもを、今言ったみたいな、感謝に導くのです。
 聖なるものは、それを犯して、聖なるものを汚してしまった時に、始めて分かる。罪を犯して、逆に、感謝に導かれるのだ……と。今日の聖書は、そういう教えです。
 理屈はヘンですけれども。そうなんだと、実感します。
 使徒パウロも。使徒パウロでさえ、罪を犯して、始めて神を知りました。パウロとは、大勢のクリスチャンを殺したひとです。その結果、神を知って、信仰に導かれたのです。聖なるものを汚してしまって、そのために、感謝と信仰に導かれたのです。
 聖なるものは、暢気に求めている間は、見つからない。私ども罪人は、罪を犯して。汚して、壊して、失って初めて、聖なるものに気が付くのです。その後、何か大きな逆転があって。私ども、聖なる、尊いものとの交わりに、入れられるのです。

U.
 パウロの犯した罪に比べたら、私の罪など、たいしたことないかもしれませんが……。聖なるものは、私も・やっぱり、それを汚して、駄目にしてしまった時に、ようやく知ることができました。そんな気がします。
 「罪の思い出」というようなものが、いくつか、あります; 説教の原稿として、文字にしてしまうと。何でもない。どこにでもある話しみたいになってしまいますが。本人にとっては、聖なる、永遠なる何ものかを壊してしまった……と。そんな、苦い経験が、いくつかあります。
 その・ひとつ、たとえばですが……;
 大学を出た年です。「このひとこそ」と思っていた女性に、振られました。そのためプライドが壊れかけました。自信を取り戻すためには、誰かに、どうしても愛してもらわないではいられませんでした。
 それで一生懸命相手を探して、何とか新しい恋人らしきものが、出来ました。それでも「このひとこそ」という女性に振られた後でしたから。ただ「代わりが出来た」と落ち着くことは、出来ませんでした。他の女性も、手当たり次第、誘って廻りました。
 牧師といたしましては、「そういうことは、いけません」と、ひとには言いますけど。その時は、こちらは破れかぶれな上に、崩れかけたプライドを何とか立て直そうと、それだけですから。倫理だ/道徳だ、なんか言っちゃいられません。教会の友人も何人かはありましたが。クリスチャンの忠告は、全部、無視しました。
 そんな危険人物ですから、落ち着いた交際を望む女性は、相手にしなかったと思います。けれども大学を出るか出ないかの、自信もある、好奇心もある女性にとっては、かえって関心を惹くこともあるようでした。他にも好意を寄せてくださるお嬢さんが、ありました。
 せっかく、こちらに好意を抱いてくれた、その中のひとりとのことです。私の、ある友人が、そのお嬢さんを好きだった……みたいでした。(以下、一部割愛)
 いくら「倫理も道徳も、ない」とは言っても。彼のことは、ちょっと心にかかっていました。あと、付き合っていた、いわゆる「本命」の恋人のことも、もちろん気にはなりました。けれども、こっちは命の次に大事なプライドがかかっているんです。夏目漱石の『こころ』じゃぁないですけど、自分が最優先です。やけっぱちの力で、そのお嬢さんのアパートに行きました。
 ……あのう……パウロは、ひとを殺してるんすが、私は殺しちゃいません……し。25年前の話ですから、人間の世の中では、時効です。時効が成立していますので、申し訳ないんですが。アパートに行きまして。(以下、一部割愛) 電話もしない、予告もしないで・おかしな時間に尋ねて来る乱暴な所を、彼女は喜んでくれまして。「良く来てくれた」という訳です。でも、こっちは重苦しい気持で、面白くも何ともありません。彼(友人)のことを考えているので、相手のお嬢さんも、何か、生まれて初めて出会った動物のように見えました。
 しばらく、その部屋で過ごしてから、「帰る」と言うと、「勝手に自分の都合で来ては、自分の都合で帰って行く」と。甘ったれた恨み言を言います。
 それ以前に十分焼け糞になっていた積もりでしたが、その時、さらにもう一段階、焼け糞の度合いが深まりまして。「じゃぁ、もう来ないよ」と言って、立ち上がりました。本当に、「もう絶対に来ない」という積もりでした。
 こっちが本気で言ったのが伝わったのか、ピタッと何にもしゃべらなくなりました。その沈黙を無視して出て行きました。帰り際に、チラッと見ると。彼女の顔は、唖然とした所から、泣き顔に変わる途中の、ちょうど顔が醜く歪んで行く最中でした。
 黙って、背中でドアをしめて。また後輩の彼の部屋の前を通って、アパートの階段を、降りました。
 降りながら、「俺は、何かを壊してしまった」……と。彼女の歪んで行く途中の顔に。(以下、一部割愛)「俺は今、何か尊いものを壊して来た」と。それを、感じました。
 命の次に大事だったプライドのために、何かを壊したんですが。壊したものは、プライドよりも、もしかしたら命よりも大切なものだったんです。
 「このひとこそ」と思っていた女性に振られて、大切なものなんか、何も持っていない。無くすものなんか無い積もりでした。
 でも……その時、何か大事な、尊いものを自分で壊したんですから。思い定めたひとに振られた後にも。私の中には、大事な、尊いものは残っていたんです。少なくとも、その時までは、命よりも大事なものが、あったんです。それを、自分で壊したんです。

V.
 キリスト教が「罪」って言う時の「罪」とは、神さまに対する罪です。女性を傷付けたとか、友だちを裏切ったとか、ひとを殺したとか。女性や、友だちや、ひとに対する罪ではなくて、神に対する罪です。
 ですけど、神に対する罪とは。具体的には、女性を傷付け、友だちを裏切り、ひとを殺すことで、起きるんです。そういう時、ひとと同時に、ひととひととの間にある、聖なる、尊い何ものかを傷付け、汚してしまうんです。
 壊さないで。汚さないで。聖なるものを尊びながら、それに触れることが出来るのならば。そっちの方が、良いに決まっています。神さまは、それが出来るように。十分な律法を与えてくださいました。
 レビ記には。聖なるものをどう崇めるか。手順が詳細に記されています。
 今日読んでいただきました、レビ記の1章の書き出しなんて。血まみれです。牛や羊を殺して献げる、捧げかたが書いてあります。
 遊牧民族ですから。一緒に、家族のように暮らしていた、家畜です。それを殺す前に、「これから死んでもらうヨ」と、牛の頭に手を置いて。それから殺して。血を採っては、振りまいて。頭を切り落として。皮を剥いで、切り裂いて。それを、火にくべて。さらに内蔵を自分の手で洗って、それも火にくべて……って。そういう手順で「殺せ」と書いてあります。
 血まみれになるのは……。レビ記のずっと後の方(17章)に出てきます。牛でも羊でも。その命の中には、聖なる何ものかが宿っているんです。だから、その命を支えていた血によって、私ども人間の命の、贖いをするんです。
 家畜を、血まみれになって殺すことで……。人間を殺さないでも。人間を傷付けたり、裏切ったりしないでも、家畜を残虐に殺すことで。神さまは、私どもに、尊い、聖なる何ものかを思い出させようとしてくださったんだと思います。
 聖なる、尊いものを知らないでは、われわれ、神の似像として、尊く生きることが出来ません。人生は、行き当たりばったりのものになります。聖なる、尊いものを知っていれば。私ども、神の似像として、尊く、今のこの命を生きることが出来ます。
 だから神は。過ちを犯すことなく、聖なる尊いものに触れることができるように。こうして十分な導きを与えてくださっているのです。
 だけど、規則というか、決め事では。聖なるものと触れることは、どだい無理です。
 子どもが、バッタの脚をもいで遊んでいて。ある時、バッタの命ということに突然思い当たることが、あります。そうして、自分のやっていることに慄然とすることが、あります。それも、聖なるものに触れる体験です。
 だけども、「聖なるものと触れるために、バッタの脚をもぎましょう」なんて。そんな決め事をつくったら。バッタの脚なんて、たちまち、何でもない。聖なるものでない/俗なるものになってしまいます。
 パウロは、律法は全部守っていた。牛を殺す時には、書いてある通りの手順で。ひとつも手を抜かずに殺していたに違いありません。だけど、刺激は麻痺してきます。牛の血をどれだけ流しても、聖なるものを思い出すことは、出来なくなりました。
 それで……気が付いた時には、パウロは、ひとを殺して、何も思わないひとになっていました。聖なるものを知らなかったから、罪を、知らなかったんです。クリスチャンを、石を投げつけて殺しました。

W.
 ひとを殺すっていうのは、たいへんなことです。ピストルか・なんかで撃ち殺すのだって。今まで生きていた人間が、どたっと倒れて。死体は残っても、そのひとの魂は、突然、無くなるのです。生きて考え、喜びや悲しみを感じていた人間が、パッタリ、無に消えるのです。その殺すということに、自分が手を染めるのは、たいへんなことです。
 それを、このひとの場合は。石をぶつけて。石だから、すぐには死にません。死ぬまで、ひくひく痙攣していたのを、全く動かなくなるまで……。一生懸命、石をぶつけたんです。
 聖なるものを知らない、とは。ひとのこころを持っていない……ことに通じると思います。殺される被害者のことは、一応考えないでおくとしても。加害者だって、不幸です。殺して、何ともない人間は、わざわいです。人間なのに、人のこころで生きることが、出来ていないんです。
 しかし……じゃぁ、ひとを殺さなかったら。ひとを傷付けなかったら。バッタの脚をもいだ経験がなかったら、幸いか。罪を犯さなかったら、幸いなのかっていうと。
 聖なるものの尊さを、本当に知っているのならば、幸いです。聖なるものの尊さを、本当によく知っているのならば。いっさい罪を犯さずに、ただ、聖なるものに従って生きているはずです。この世の聖人です。そんなひとは、幸いです。ひとを愛し、誰からも愛されて、完全な人生を歩むかもしれません。
 けれども、私ども、そんな賢いんでしょうか。
 聖なるものに従って生きていないのならば。バッタの脚をもいだ経験が、あっても/なくても。傷付けても/傷付けなくても。殺しても/殺さなくても。聖なるものを知らないのならば、私どもは、不幸です。
 パウロは、殺しました。血を流して苦しんでいる、……魂を持った、まだ生きている人間に。とどめを刺そうと、石を取り上げて。投げて。骨を砕きました。だからパウロは、不幸でした。
 けれども、その最中に。そのような迫害の最中で、パウロは、聖なるものに触れたのです。ひとを殺そうとしている真っ最中に、突然、天からの光が彼の周りを照らして。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける、神の声を聞いたのです(使徒9:3,4)。
 プライドよりも、命よりも、大切な……尊い、聖なるものを自分の手で壊している時に。その壊し方が、あんまり残酷だったから。牛を屠って捧げるよりも、ずっと惨たらしい壊し方をしたから。パウロは、聖なるものに、気が付きました。
 神が、呼び掛けてくださっている。その呼び掛けに、気が付いて。我に返って。自分が壊してしまったものの尊さを、思い知りました。
 ……、……。
 不思議なのは、その先です。
 自分が、絶対に犯してはいけない聖なるものを、犯してしまった。それが、聖なるものだった。自分が傷付け、汚したのは、ただ相手の人間というだけではない。キリストさまを、そうしてしまったのだと気が付いた時。パウロは、壊してしまった聖なるものと、触れることが出来たのです。壊してしまったから、もうなくなったはずの、聖なる、尊い永遠のものと。どういうわけだか、触れ合うことが、出来たのです。
 それでパウロは……。私の「不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきか」と、慨嘆します。他に、何とも言いようが、ないんです。
 ひとを殺した時に、聖なるものに触れました。そのお陰で、正しい人間に。神さまが、「こう生きなさい」とお望みになる・通りの人間に、戻ることが出来たのです。

X.
 ひとを殺した罪は、どうなったのか。悔い改めたから、もう無罪放免か……っていうと。そんなの、とんでもありません。被害者がいるのに、無罪放免とは、いきません。罪は、裁かれなくっちゃぁ、いけません。
 ただ被害者のためだけでは、ありません。こちらの……罪を犯した側だって。もう、聖なるものに触れさせていただいた以上、聖なるものを、求めています。ですから、あのときの過ちは、裁かれなければ困ります。
 けれども……じゃぁ私は、なおも罪人として。惨めな被告として、裁かれるのかというと……。聖なるものを知らせていただいて、今は、聖なるものと共にあるのですから。私どもが、世を裁く…=…終わりの時には、世を裁く、神の側にあるのです。そうなるために、主は、私どもの罪のただ中で、私どもに、御声を聞かせてくださったのです。
 この不思議は、何とも言えません。人間の論法では、何とも、言いようがありません。この私が、罪人でありながら、神さまの側の人間にされたのです。
 キリストとの出会いによって。ひとを傷付けたことが、実は、聖なるものを汚したことだと知りました。聖なるものがあった……のに、壊してしまったことを、知りました。
 ところが、それを知って。壊して無くなったと思っていたはずの、聖なるものが、こちらのこころに触れてきたのです。それが、キリストさまによって、この罪が贖われたということなんだと思うのです。
 私の罪が、私に対して、神の真実を明らかにして。私の罪によって、神が、私にとって栄光となり始めたのです。この不思議は、何とも言いようが、ありません。罪の被害者が、不当だと訴えて来るならば。それには答えようがありません。ただ「ごめんなさい」しか、ありません。「ごめんじゃぁ赦せない」って言われたら。「赦せませんヨね、ごめんなさい」としか、言いようがありません。
 でも、この罪のために、神は私にキリストを賜わって。この罪を通して、聖なるものに触れさせてくださった。それは、私が聖なるものを知って。残りの日々を、尊く生きるためだ。天国というものを知って生きるように、なる、そのためだ。それが全部、私を愛してくださってのことなんだ……と。
 それについては。罪の被害者に、どれだけ「不公平だ」と苦情を申し立てられようとも。「私は、愛されて、得しちゃったんです」としか……。それも・やっぱり、他に言いようが、ありません。
 神は……たぶん被害者の方も、愛しているに違いないんです。私は傷付けたとき、聖なるものと出会いましたが。相手は、傷付けられた時に、聖なるものと出会ったはずです。本当は、そうだと思うのですが……。
 こんなことは、盗人猛々しい。加害者としては、とんでもない言い草です。牧師として、クリスチャンとして、一般論なら、言えますが。自分が傷付けた相手には、とてもじゃないけど、言えません。
 ただ、傷付けた最大の相手。私が汚してしまった大元のおかたに対しては。「罪を犯して、良かったです」と。「それで聖なるあなたを知らさらえました。神の不思議な導きに、万々歳です」と。そう言って良いし……。神は、私どもが、そうやって讃美することを、求めてらっしゃる。それが、神の愛なのだと思います。
 聖なるものの愛に触れた時、神さまの前に走っていって、ただ感謝と讃美とを捧げるしか、どうしようにも……。私どもには、他にやることがなくなるのだと思います。

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