2004年4月11日
日本キリスト教団中村栄光教会
復活主日礼拝説教
墓のうらに廻る*

*尾崎放哉より

中村栄光教会牧師 北川一明



聖書研究
ローマ4章    中村栄光教会
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新約聖書@【マルコ福音書 第16章1〜8節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第4章23、24節】






墓のうらに廻る

北川一明


T.
 今日は、イエスさまが死者の中から復活したのを祝う、イースターです。「キリストは、死者の中から復活した」というのが、私どもキリスト教会の信仰です。
 それは「信じがたい」と言うひとが、あります。完全に死に切ったひとが生き返ることは。他には、例がありませんから。信じがたいですが。信じがたい奇跡を信じるのが「信仰」です。……解釈に幅はあっても。クリスチャンである以上、私どもは「一応」それを信じております。
 その「解釈の幅」で、いちばん極端なのは……。「イエスの自己犠牲的な愛のこころが、人間のこころの中に甦ったのだ」……と。そういう解釈でしょうか。それに対して普通のキリスト教会は、もう少し「保守的」に。キリストさまが身体を具えて復活したと。復活を、「奇跡」として信じております
 「愛の精神」だけが復活したのならば。別に奇跡でもなんでも、ありません。宗教とは言えないかもしれません。
 それでも……どんなに幅はあっても。キリストは、復活した……と。あるいは、何か霊的な、キリストと呼ぶしかない何ものかが、復活した……と。クリスチャンは、それを信じています。
 しかし私どもには、もうひとつ、信じていることが、あります。キリストさまが復活したことが、今の私と、関係が、ある……と。神さまが、私と関係している……と。それを、信じています。
 「キリスト」というのは、「私の救い主」という意味です。私どもが信じているのは、ナザレのイエスが、ただ生き返ったということじゃぁ、ありません。ナザレのイエスが、それぞれ「私の救い主」として復活して、今、生きているということです。
 2000年前の歴史上の出来事が、今の私に関係している。「私の問題なんだ」と。そういう意味で、「キリストが復活した」と、信じているのです。
 クリスチャンにとって、イースターが喜びであるのは。復活のキリストさまを受け取るからです。そうして、この二つのこと。キリストが復活したということと、それが私のためだということと。二つが一緒に確かにされて行く……。それが、イースターの喜びです。
 死者の復活が、いわば「派手に信じにくい」のと比べると。「キリストが復活したことが、私に関係が、ある」というのは。目立たないですけれども。よく考えたら、これも同じ「信じる」という問題です。
 ローマの信徒への手紙には、「アブラハムが、神さまから義としていただいたから、われわれも義としていただけるのだ」……みたいなことが、言われていました。けれども、アブラハムが義とされたのが本当だとしても。だからって言って、私も義とされるのか。アブラハムが、どうして私と関係あるんだ……って。それと一緒の問題です。
 「キリストが復活した」というのが本当だとしても。「『だから』われわれも永遠の命に与れる」というのが、本当か、ということです。
 どちらも、科学的な根拠は、ありません。聖書に書いているというだけです。神さまが約束してくださったことを、信じるか……という問題です。
 信じるか/信じないか。根拠は何か……って考えていたら、訳が分からなくなります。それが、復活のキリストと出会うことで……。約束が、いっぺんに確かなものとされて行くのです。
 復活のキリストと出会うのは。最初は、キリストさまと、なかなか、はっきりとは出会うことができないかもしれません。それでも、日常生活の中で、クリスチャンとして行動し始めた時に。キリストさまとの出会いは、必ず、はっきりして来ます。
 初めに大きな奇跡に出会うひともあるでしょうけど。初めは、この世のものではない愛に出会ったり。この世のこととしては、到底できそうにもなかった悔い改めに導かれたり……。クリスチャンとして行動した時に、最初はそういう仕方で導かれて。それがだんだんとはっきりと、復活のキリストという経験を、させてもらうようになって行くんだと思います。
 救いを確信するのは、だから、私どもの行動と、関係があります。キリストの復活と無関係に生きるのならば。愛と奉仕をやらないままに、生活しているのならば。そのひとの命は、すっかり空しいものになってしまいます。クリスチャンとして行動する……正しく、立派に生きることが、キリストさまと出会う始まりです。
 ただ、キリストが復活しなかったならば。「立派に生きる」っていうことが、無くなってしまいます。どんなに立派な行動をしても。復活のキリストなしにやるのでは、人間の行動は、全部、空しいものになってしまいます。

U.
 人間の、いちばん立派な行ないは、「愛の業」でしょうと思います。
 ひとのことを、本当に無私のこころで愛することが出来て。愛して、精一杯の働きかけが出来たら。そんな自分は、全部を失っても、仕合わせです。それはキリスト教を信じていなくても。世界の、賢いひとたちが、一様に言っていることです。
 けれども、キリストの復活と無関係に愛するのならば。私どもの愛は、非常にしばしば、たいへん的外れなことになってしまいます。それも、私どもが経験することです。
 今日のマルコ福音書の女性たち……。「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」は、イエスさまを深く愛したひとたちでした。愛して、行動したひとたちでした……けど。今日の聖書に書いてある、この時はまだ、復活のキリストを信じていませんでした。ですから、このひとたちの愛の業は、的外れの、間違ったものでした。
 マグダラのマリアは、「以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である(マルコ16:9)」と、伝えられています。イエスさまと出会うまで……。このひとの人生は、大変辛いものだったはずです。悪霊にとりつかれて以来、喜びのない、不幸だけの人生でした。
 自分自身の体も、思い通りにできません。悪霊につき動かされて、自分でも忌み嫌うような恥ずかしい振る舞いをしてしまいます。自分自身を生きることも、できない。そういうひとでした。
 そんなマリヤを、イエスさまはお癒しになって。悪霊の支配から解放してくださいました。だからマリヤは、自分の将来に希望が持てるようになりました。それでイエスさまに感謝して。主の伝道旅行に従って、身の回りのお世話をするようになりました。主が十字架におかかりになったときにも、ユダヤ人やローマ政府さえ恐れず、逃げずに見守りました。
 イエスさまがなくなった後も。自分たちに出来る、精一杯のことをして。愛を示そうとしました。
 金曜日の午後、イエスさまは十字架でなくなりました。しかし十字架から、イエスさまの遺体を降ろしたら、すぐに夕方です。
 ユダヤの日付では、日が沈んでからが新しい一日だそうです。日が沈んだら、もう「土曜日」で。当時は土曜日が安息日でしたから、何にも出来ません。それで、金曜の夕方のうちに。イエスさまの遺体を、急いで葬りました。
 ただ、遺体を埋葬する準備は、何も出来ていませんでした。それで、当時の習慣で、遺体に香油を塗りに行きます。お墓は、城壁の外の、荒野にありますから。危なくって、夜は絶対に近づけません。それで、日が昇るのを待って、大急ぎで出かけました。それだけ、キリストさまを大切に思っていたのです。
 けれども、この女性たちのやっていることは、結構「まぬけ」です。お墓は、横穴式の洞窟で。その入り口には、大岩で蓋がしてありました。
 「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた」と、あります。3人で石を動かすことは、出来ません。朝早く、お墓に出かける人も、ありませんから。行ったって、香油は塗れません。無思慮というか、無計画というか。「何しに行ったんだよ」ということになります。
 けれども……「何しに行ったんだ」というようなことを言うならば。死体に香油を塗るのは、何のためでしょうか。何しに塗るのか。遺体が腐敗するのを、少しでも遅らせる、とか。遺体が腐って臭くなる、その臭いを誤魔化すとか。そういう効果は、あるようですが。そんなことをして、何になるのか。
 遺体の臭いは、お墓の外まではもれませんから、臭くったって関係ありません。三日で腐り始める所を五日に引き延ばしたところで、何の意味があるのか……。
 婦人たちが、そうやりたかったのは、イエスさまを愛していたからでしょうが。愛しているから、尽くしたことでも。尽くされる方のイエスさまにとっては、何の役にも立っていません。はっきり、「無駄」です。無駄で、無意味で、無関係のことを、やっているのです。

V.
 愛するひとに対して。誰でも……何か、してあげたいです。
 愛するひとが、苦しんだり、傷付いたりしていたら。精一杯のことをしてあげたいです。それが、愛です。無私のこころでひとを愛することが出来て。精一杯の働きかけが出来て。それが本当に相手の役に立ったら、仕合わせだと思います。
 ですが、相手のためになること……って。具体的には、何をするか。
 「カネが必要だ」なんて・ことなら、簡単です。愛していれば、お金は惜しくはありません。
 けれども実際は、そんな単純なことばかりでは、ありません。アレが要る、コレが要る、なんて。物で解決できるなら、小さな問題です。本当に苦しんだり、傷付いたり。そういうのは。何か物を与えたら解決するような問題では、ありません。
 それで……愛しているんですから。そういう時こそ、何とかしてあげたいと思うのですが。本当に、相手のためになる、ピッタリのこと。正しい援助は、なかなかありません。
 こどもが病気で熱を出しているとき、いつももどかしく思います。お医者さんに連れて行くとか、やれることがある間は。ともかく、やれることをやるんですから、良いんです。やれることを全部やってしまって、子どもが寝たけれども、寝ながら苦しんでいる時です。
 相手は、愛する大切な人間なんですから。こっちは愛を、実行したいのです。だけど、寝てる子を起こして抱きしめたら、病気はひどくなって。相手にとっちゃぁ、迷惑です。
 あるいは……。若い恋人同士で、一方の気持ちが、冷めてしまった時。もう一方が、まだ愛していたら。悲しい経験を、します。
 愛しているから、何か、してあげたいんです。けれども、尽くせば尽くすだけ、尽くされる方は「負担」っていうか、重たいっていうか……。「あなたの仕合わせを願っているだけです。自分が愛され返さなくっても、良いんです」って、それが本当だとしても……。
 「あなたにとってどうすれば、一番良いんですか」と聞いて。「だったら消えてなくなってくれヨ」って……。悪い奴は、そうやって言うんですネ。それが相手の本心だったら。愛するひとに対して、愛しているからって実行できることが、何にもないんです。
 若い恋人同士。一方が、まだ愛しているのに。もう一方が死んでしまった時も、一緒です。愛しているから、その愛を、実行したいのですが。意味のあることが、出来ません。死体に取りすがって泣いて、死体を愛おしんで抱きしめても。死体は何にも感じません。
 婦人たち……マリヤたち。自分が、何か行動したいんです。愛しているから、何かを実行したいのです。ですが、油なんか塗ったって、しょうがない。婦人たちは、意味のあることが、できませんでした。
 死んじゃった相手には何にも出来ない……っていうのは、いちばん極端なケースかもしれませんけど。気持ちの冷めた恋人に対しても。病気のこどもに対しても。傷付き苦しんでいる隣り人に対しても。愛を実行しようと思っても、空回りしてしまって、意味のあることが出来ない……っていう時が、あります。
 それは、愛を実行することの、おおもとの意味が無いと。愛するのが、気持ちばっかりで。ちっとも意味のないものになってしまうんだろうと思うのです。

W.
 さっき申しました……油を塗るのは、死体を腐らせないためです。意味があるみたいですけれども。それだったらば、死体を腐らせないのは、何のためか。生前の尊敬を表わすためか。それだったらば、尊敬を表現するのは、何のためか。
 そういう、実際にやることの、おおもとの意味が、はっきり分かっていたら。私たちの人生、どれだけぴったりと、ちゃんと生きれるだろう……と思います。おおもとの意味が、ちゃんとないと。愛していても、「空回り」です。
 けれども、ちょっと落ち着いて考えたら。大元の意味は、良く分かりません。私ども、将来は、死ぬんです。何をやっても途中までしか……。途中で終わってしまう命の中で、何のためか。大元の意味は、良く分かりません。
 愛の気持ちが、どれだけ真剣であっても。大元の意味が分からない中では。やることは、どうしても的外れです。大事な、切実な、どうしても何とかしたい、しなくっちゃぁ・いけない時にこそ……。どうして良いか分からない。愛すれど/愛は為し得ず/我が手は虚し……ということになってしまいます。
 それは、特に愛だけじゃぁ、ありません。全てのことで、そうです。何事をするにも、おおもとの意味が分からなければ、的を射たことはできませんけど。「愛」や、「命」や。そういった、私ども人間にとって特に大事なことについて……。自分の意味が分からないのが、いっそうはっきりと現われ出るのだろうと思います。
 それが、キリストさまが、死者の中から出てきて。私どもの前に現われ出てきてくださった時に。私どものやっていたことが、いっぺんに。全部が繋がって来るんです。
 今日の聖書を読んで。二人のマリヤとサロメに対して。お墓にいた天使は。おおもとの意味が、人間の側にはないことを、悟らせようとしているように、思えました。
 墓に入って、そこがからっぽだったのなら。来てもしょうがなかった。意味がなかった……と。マリヤとサロメは、考えたでしょうか。けれども天使は、それだけじゃぁ済ませません。だめ押しします。「御覧なさい。お納めした場所である」って言って。三人を、墓の裏まで調べさせます。
 墓のうらに廻っても。何もありません。「ここを探しているのか、こういう所ではない。よく見なさい」って、死の世界を、見せつけます。
 若い時……。大学で、信仰なしに「自己実現」を考えていた頃を思い出します。キリスト教に逆らっていましたが。今思えば、あのとき既に、導きがありました。
 どうすれば、俺が俺として完成するか。いっくら考えても……。石油を掘り当てようが、世界中の女を全部自分のものにしようが……。死んで行く俺は、完成しないじゃぁないか、意味がないじゃぁないか……と。途方に暮れていました。
 天使は、「よく見なさい、ここには何もない」と言うのです。全然違う所を探している、というのです。私ども、自分の中には、大元の意味は、ないんです。意味は、ひとには生み出せません。
 神さまと人間の関係を。聖書には、陶工……陶器職人と器に喩えているところが、あります(エレミヤ18:6ほか)。作られた器は、どんなに尊く用いることができるとしても。その器の大元の意味は。陶器が自分で考えたって。自分の側には、ありません。陶器師が考えて作ったんです。
 意味は、外から与えていただいた時に、出来るのです。
 墓のうらに廻る……けど、何もない。ここじゃぁなくて、キリストと会いに、ガリラヤに行きなさいと言います。
 「ガリラヤ」は、婦人たちが生まれ育ったところです。普通に生活して……。ずっと不幸であったけれども、そこでイエスさまの愛に触れて、癒やされた場所です。復活のキリストとは、「そこでお目にかかれる」のです。
 キリストが死者の中から復活したことも。そのキリストが、私と関係が、ある。神さまが、私に関係している……っていうことも。日常生活の中で、キリストさまが現われてくださって、出会うのです。
 この婦人たちは。そうやって言われて。あわてて逃げ出しました。「震え上がり、正気を失って」、誰にも何も言いませんでした。それなのに、後にキリストの復活を証しする、復活の証人になりました。第一番の証言者になりました。
 ガリラヤに帰って。最初は言わなくても。このひとたち、前とは生き方が変わったんだと思います。
 前も、イエスさまを愛していました。けれども、キリストの復活に関係なく、ただ、意味無く愛していました。しかし・この時から。ガリラヤで、キリストさまを探して暮らし始めました。

X.
 キリストを愛して、キリストを、自分のすぐ側に尋ね求めて暮らすっていうのが……クリスチャンが、クリスチャンとして行動するっていうことでしょうと思います。
 私が愛したキリストが、復活なさって。日常の……生活の、このすぐ側に、今、生きておられるのか……。そう思いながら暮らしているひとは、キリストさまの言いつけを思います。
 それでも、前と同じように罪は犯します。そして、何をやったって、どうせキリストの十字架で赦されています。それでも……;
 自分が、誰かを憎んでいたら。そんなことは、ありますし。それだって赦されているんですが。それでも、キリストさまは、そいつのことも愛しているなら。そのキリストが側にいちゃぁ、ちょっと申し訳ないですし。ひとを憎む自分は、自分で厭になっちゃいます……。
 自分が、偽善的に振る舞ったら。それだって誰が困るわけでもないし、赦されてますが。私のこころの中を全部ご覧になっているかたが、ここに生きておられるんですから。偽善やってちゃ、かえって格好悪いし、恥ずかしいです。
 そんなことをやっているよりも。「苦しむ者を憐れんで助けなさい」って言われていたのを、思い出したら。実行するチャンスがあれば、やってみたいですし。やってみたいと思っていたら。そんな機会は、すぐにも出てきます。
 だけど……愛と奉仕の業をやった時。助けてやるつもりだったのに。自分が豊かにさせられています。十分仕合わせにさせられています。
 ですけど、そういう時。復活のキリストを、すぐ側に探していたから、そうなったんですから。2000年前の出来事が、どうしたって今の自分に関係していますし。前の生き方とは全然違う生き方に。自分でも、奇妙に感じる程に、違った人間にさせられています。こっちが助けたはずの相手を通して、キリストさまに出会い始めているのです。
 偽善を捨てて、楽に、正直にしながら、ひとに対して良いことをして……って。いちばん自然な、良い生き方をしながら。墓のうらを探していた時には、絶対に見つからなかった「おおもとの意味」が、感じられてくるんです。
 復活のキリストの顔や手や足が見えなくても。この世のものとはちょっと違う、清い愛が、あちらの側から、近付いて来てくれるんです。
 そうなった時は。2000年前のキリストは、今の私と関係がある……なんて。科学の根拠がなくったって、絶対に確かなことです。キリストさまが復活して、今、生きていらっしゃるっていうことも。「根拠がない」って言われたら。「それでも本当なんだ」って、証言せずにはいられません。
 死んだ後の希望も、そこから確かにされて行くのだろうと思います。

 ですから……。そうしてキリストと出会った私どもの愛の業は。虚しくされません。
 そうやってキリストさまと出会っても。相変わらず、子どもが熱を出したら、おろおろしますし。愛するひとに離れて行かれたら、どうしようもなくって追いすがりますし。愛するひとが死んだら、相手のためにはしょうがないと分かっていても、死体に取りすがって泣くかもしれません。腐るのを一日でも延ばそうと、油を塗るかもしれません。
 それでも、虚しくおろおろするのではないし。虚しく追いすがるのではない、泣くのではない。キリストさまがとなりに居てくださる中で。また、永遠の命に導かれている中で。ただ今与えられた、痛みと悲しみとして。
 ……なんて言うんでしょうか。こころのいちばんの芯では、安心している中で。痛みは痛みとして痛み、悲しみは悲しみとして、悲しむことが出来るのだと思います。

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