2004年5月16日
日本キリスト教団中村栄光教会
こども合同礼拝説教
漬物桶に塩ふれと母は産んだか*

*尾崎放哉より

中村栄光教会牧師 北川一明



聖書研究
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新約聖書@【マタイ福音書 第7章7〜12節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第5章2〜5節】






漬物桶に塩ふれと母は産んだか

北川一明


T.
 「大きくなったら、何になりたい?」と……。私ども、こどもに、気軽に聞きます。
 ですが、いかがでしょうか。愛する我が子に対してだったら……、もちろん聞きますけど。よく考えたら。そうそう気軽には、聞けません。
 小さい時、誰でも、「大きくなったら、アレになりたい/コレになりたい」と思います。ですが、思った通りになれる人は、世の中で、ほんの一握りです。私どもは、それを知っています。
 自分のことを考えたら。「大きくなったら、何になりたい?」は、やや自嘲気味の、皮肉か嫌味になってしまう……ことも、あるかもしれません。叶わぬ夢なら、夢なんか持たない方が、まだ仕合わせだ……。そういう風に言うかたさえ、あります。
 しかし私ども信仰者は、違います。教会に来ているクリスチャンは。「大きくなったら、何になりたい」と、誰にでも、明るく聞ける……と、思うのです。

 ……なんちゃって。大人の言葉を使っちゃいましたけど……。アレ?今日は、こども合同礼拝でしたネ。
 みなさんは、大きくなったら何になりたいんでしょうか。教会学校に、毎週来ているひとが、4人ありますけど。そのうちの3人には、聞いたことがあります。「サッカー選手」と、「お医者さん」と、「バオリンの先生」です。どれも、なるのはちょっと、たいへんです。
 う〜んと練習したり、お勉強したりしないと、なれません。
 だけど神さまは……。いつも教会学校で言ってます。神さまは、みなさんのことを愛してくれて、大切にしてくれてます。その神さまが。今日の聖書では、「求めなさい、そうすれば、与えられる」って。きちんと、ちゃんと求めたら、求めたものが、必ず与えられる……って。約束してくださっていました。
 えぇと……「求める」っていうのは、何かを「ください」って。きちんと、神さまにお願いすることです。
 求めたら、与えられるんです。ですから、僕たち、いっつも自分は何がしたいのか。何がほしいのか。良く考えておいて。それを、求めるのが、うんと大事です。
 求めなかったら、もらえないかもしれませんけど。求めたら、もらえます。だから、欲しいのに求めないのは、ちょっと、馬鹿ですよネ。欲しかったら、ちゃんと求めれば良いんです。

U.
 だけど、大人のひとの中には……。結構、求めないひとが、あります。
 大人だって、ほしいものは、いっぱいあります。それなのに、求めなくなっちゃった大人が、いっぱい居るんです。
 欲しい癖に、どうして求めないかって言うと。「どーせ、手に入ンねーヨ」と思ってるんですね。「どーせ、駄目よ」と、思うんです。
 そうやって諦めちゃうことほど、悲しいことは、ありません。つまらない人生は、ありません。
 サッカー選手になるのは、どーせ駄目だよ、とか。バオリンの先生になるのは、どーせ駄目だよ、とか。そういう、何のお仕事をするかを諦めるだけじゃぁ、ありません。「どーせ駄目だよ」って言うのが癖になってるんです。
 そういうひとは、自分が仕合わせになることだって……「どーせ駄目だよ」。ちょっと無理そうだったら、すぐに、「どーせ、どーせ」って言って、諦めちゃうんです。
 そういう大人を見て、神さまは、うんと悲しんでらっしゃいます。
 本当は、一生懸命求めて、一生懸命探して、一生懸命門を叩けば、たいてい手に入ります。何かひとつだけだったら。ホンットに求めたら、すぐにも、手に入ります。
 たとえば、テストで100点をとりたい、なんていうことだったら。
 小学校の1年生や2年生なら、結構簡単に100点かもしれません。でも、高校生になると、それが、かなり難しくなって来ますが。それでも、本気で、それだけ。ただ、それだけ、100点をとることだけに全てを賭けたら。大抵できます。
 それだけ、100点をとることだけ・なんですから。一切、遊べなくても、しょうがない。友だちをなくしても、しょうがない。カンニングで退学になっても、しょうがない。無理して病気になってもしょうがない。何にかえても絶対に100点とろうと思ったら。たいてい、とれます。
 だけど、僕たち。欲しいものって、ひとつじゃぁ、ありません。100点もとりたいけど。友だちとも遊びたいし。恋人もほしいし。退学になるのは厭だし。病気になったら元も子もないし。100点も、友だちも、恋人も、健康も、あれも、これも、いろいろ欲しくって。それで、遊んでたら100点とれないな……って。どーせ駄目だよって……。高校生くらいになったら、たいてい諦めちゃうんです。
 そうやって諦めながら、大人になります。ですから大人も、一緒です。
 お金が絶対に欲しいと思ったら。ホント・ただ・お金を手に入れるためだけ、それだけに一生懸命になって。それ以外のこと、牢屋に入ろうが、ひとが死のうが。絶対にお金は手に入れるッて、何が何でも頑張ったら。お金くらい、たいてい手に入ります。
 だけど……みんな、お金が欲しいなと思って、ちょっとだけ求めて。すぐに、あっちが困るから・とか/こっちが困るから、とか。途中で、やめるんです。それで、「求めたって、どーせ手に入らないヨ」って。自分でやめといて、どうせ駄目だヨって言うんです。
 でも、それは……。求めたのに、神さまがくれなかったんじゃぁ、ありません。求めるのを、自分からやめた、だけです。自分でやめといて、神さまのせいにしちゃぁ、いけません。ちったぁ根性見せろって言いたいですよネ。

V.
 そんな大人でも。途中からでも、神さまを信じたら、大丈夫になります。途中から、大丈夫になります。でも、なるべくだったら最初っから大丈夫な方が良いですね。
 最初ッから大丈夫にするのが、信仰です。
 今日のもうひとつの聖書は。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」って書いてありました。それは、そういう意味です。
 「苦難」っていうのは。お金がほしいのか/健康がほしいのか。遊びたいのか、良い点がほしいのか。みんなと仲良く暮らしたいのか。自分は、何がほしいのか。いっぺんに手に入れるのは、無理そうだから。どうしよう、「困ったな」って。困って、苦しくなるのが、「苦難」です。
 そうやって「苦難」をやっていると、どうなります?「お金」と「健康」と「遊び」と「良い点」と「仲良し」と。どれかを手に入れるには、どれかを我慢しなくっちゃぁいけないなァ……って。我慢するのが、忍耐です。
 だけど……どうでしょうか。そうやって我慢していると、もっと、困ってきます。お金は、少しはないと困りますし。健康だって、身体中、病気だらけじゃぁ、困りますし。「遊び」だって、「仲良し」だって。ちょっとなら我慢しますけど、全然無いのは、困ります。
 僕たち、欲しいモノは、ひとつじゃぁないんです。色々です。色々ってゆーか……、ほとんど全部が、欲しいんです。
 全部、アレと、コレと、ソレと、ドレとって。ばらばらに、あっちが欲しい、こっちが欲しいって言ってたら。自分で、何がなんだか分かんなくなっちゃいます。
 本当は……全部、結局なんのために欲しいかって言ったら。自分が、仕合わせになるためでしょう。そうですよね。アレも欲しい、コレも欲しい、全部ほしいって言っているうちに。自分で何が要るんだか分かんなくなっちゃうのは。それは、自分の仕合わせが何だか、分かんなくなっちゃってるんです。
 仕合わせになるために、自分には何が要るのか。アレがほしい、コレがほしいの、一個一個じゃぁ、ありません。もっとちゃんとした、全部をまとめたものです。私の仕合わせは、コレです……っていう、ちゃんとした確かな目当てが要るんです。
 「サッカー選手」になるんだって、「バオリンの先生」になるのだって。自分の仕合わせは、コレだっていうちゃんとしたものがあって。そのちゃんとした仕合わせのための、サッカー選手だし、「バオリン」の先生なんです。
 それは、子どものうちは、分からないです。大人になっても、分からないひとがいっぱいいます。
 でも、忍耐は練達を生むって言われてました。「練達」っていうのは。私の仕合わせは、コレだ。それが、ちゃんと分かっている人になるっていうことです。

W.
 今の大人の、ほとんど全員が。こどもの時。大きくなったら、ああしたい、こうしたいっていう夢を持っていました。今の大人の中の、ほとんどのひとが。その、思った通りのものには、なれていませんし。思った通りのことは、出来ていません。
 だけども、「私の仕合わせは、コレだ」って、ちゃんと分かっているひとは。思った通りにはなれなかったけれども、それでも、自分は良かった……って。自信もありますし、仕合わせです。
 今の大人の中で、思った通りのものになれたひとも、何人かは、いるかもしれません。「私の仕合わせは、コレだ」って、ちゃんと分かっていて。それで、思った通りのことをやっているんだったら、すごく、仕合わせです。
 だけど、「私の仕合わせは、コレだ」って分からないまま。小さい頃、アレになりたいと思っていたものになれたって。私の仕合わせは、「コレだ」って分からないんですから。仕合わせじゃぁ、ありません。仕合わせどころか、仕合わせが何だか分からないんですから。何が何だか、自分が何に生きてるんだか……。わっぱり訳が分からない。迷っている人です。
 誰かが、ひとりで。糠味噌のお漬け物を、混ぜてたんですって。塩が少なくって。夏になって、腐りそうだから、もっと塩入れなきゃぁって、塩をふったんです。その時、俺は、何やってんだろうな……って。
 「漬け物混ぜたって、しょうがねーじゃねーか」って。だけど、漬け物混ぜなくったって、他に、やっぱりしょーがないから。それでしょーがなく、塩をふったんですって。
 お母さんは……。いい大人になってから、漬け物桶に塩ふれ……と。そうなるように一生懸命育てたのか。違うだろう。でも俺は、どーせ漬け物混ぜ人間だ……なんて思ったら。大人の癖に、泣いちゃったんですって。
 「探しなさい。そうすれば、見つかる」って、神さまは約束してくださっているのに。探さないから、見つからないんです。

X.
 「私の仕合わせは、コレコレだ」っていう、「コレコレ」って、何でしょうか。何が、本当に仕合わせで、本当に生きることなんでしょうか。
 漬け物桶に塩をふるひと。誰か、そのひとにとって、うんと大ッ事な誰かが居て。大事な誰かが、風邪引いて寝てるとか、何だとか。その大事な誰かがお漬け物が大好きで。その誰かのために、おいしいお漬け物を食べさせてあげたい。それで、塩ふってたら、どうでしょうか。
 それだったらば、そのひと、泣きません。こんなことするためにお母さんは育ててくれたんじゃぁ、ない……なんて。そんな風には、思いません。
 「漬け物桶に塩ふるために母は産んだか」って言ったひとは。ひとりぼっちでした。誰かのためじゃぁない、自分のために塩をふっていたから、仕合わせじゃぁ、なかったんです。
 「私の仕合わせは、コレコレだ」っていう、はっきりとした仕合わせは。ひとりぼっちの、反対です。
 でも、人間は。ひとりぼっちに、なります。「ひとりぼっち」っていうのは。誰も、自分のことを好きになってくれない……っていう。それも結構、ひとりぼっちです。誰も、自分のことを好きになってくれないことは、結構、あります。おじいさん、おばあさんになった時に。おカネ持ってなかったら、誰も相手にしてくれない、なんていうことが、あるんだそうです。
 それも、辛いです。
 でも、もっと恐ろしい独りぼっちがあります。もっと恐ろしい独りぼっちは、自分が誰のことも好きになれない、独りぼっちです。
 サッカー選手になっても。お医者さんになっても。バイオリンの先生になっても。誰かのために、何かをやってあげたいっていうことが、何にもない。いっつも自分のためしか考えられない独りぼっちです。
 どんな独りぼっちのひとでも。イエスさまは、友だちになってくれます。知ってるでしょうか。讃美歌の中に、「世の友我らを捨て去る時も、祈りに応えて労り給わん」っていうのがあります。お祈りが出来たら、独りぼっちじゃぁ、ありません。隣りにイエスさまがいます。
 おじいさん、おばあさんになった時に。貧乏だから、ひとが寄りつかない。そうしたら、辛いですけど……。そういう時にも、自分が誰かを大切に思っていて。自分が、誰かのためにお祈り出来たら。イエスさまが、そばに居てくださることが、分かって来ます。
 けど、誰のことも好きでなくって。誰のためにもお祈りする気にもならなかったら。本当に、独りぼっちです。

Y.
 漬け物桶に塩ふれと母は産んだか。母としては、塩をふっても良いんです。ただ、仕合わせになってほしいんです。
 でも、その、お母さん自体が、良く分かっていません。大人が、良く分かっていません。
 仕合わせになろうと思ったら、絶対に、なれるんです。求めたら、与えられます。でも、それには探さなくっちゃぁいけません。
 探せば、見つかります。仕合わせとは、自分以外のひとを大切にして、そのひとのためにお祈り出来るっていうことです。
 でも、そうするには。神さまに、私どものこころを、開いていただかなくっちゃぁ、いけません。イエスさまを通して、ひとのために生きるっていうことに導いてもらわなかったら。本当にひとを大切にするっていうのが、分かりません。
 独りぼっちじゃぁない「愛」っていうのは、ただの自分勝手な「好き」とは違うからです。特別な。天国まで続いた、大切にするやり方だからです。ただ好きじゃぁない、お祈りをしてあげる「好きさ」だからです。
 今日読んだ聖書の、どこだったかで。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(Mt7:12)」って、書いてありました。人にしてもらいたいと思うことを、人にやってあげたら。おかえしが貰える……っていうんじゃぁ、ありません。
 人に、良いことをしてあげたら。良いことをしてあげるのが、自分の仕合わせだからです。自分が、独りぼっちじゃぁなくなって。人のためにやってあげれたら、それが仕合わせだからです。
 漬け物桶に塩をふるんでも。誰かを大切に思って、そのひとのために祈りながら塩をふるひとは、仕合わせです。最後まで、仕合わせです。
 私は……お恥ずかしい話しですが。サッカー選手。Jリーグの選手の方が、小学校のコーチよりも、偉いと思ってました。
 Jリーグの選手になるには、うんと根性入れなきゃいけませんし。それをやり遂げたひとだけが選手になってますけど。小学校のコーチだったら。そこまで根性無かったから、選手になれなかった人も、いるかもしれません。だから、Jリーグの選手の方が偉いだろう……と。ずっと思ってました。
 だけど、後で、分かりました。Jリーグの選手には・なれなかったコーチも。選手と同じくらい、偉くなれます。
 選手は、試合で。スタジアムやテレビで見ているひとたちのことを、大切にして。そういうひとたちのこころを動かしたら。それで、独りぼっちじゃぁ、なくなります。
 コーチは。子どもたちにサッカーを教えて。こどもたちのことを、直接、大切にして。それで、子どもたちのこころを動かして。大切にした相手を、善い方に変えていったら。それで、独りぼっちじゃぁ、なくなります。
 どちらも、人にしてもらいたいと思うことを、自分が人にしてあげたら。同じくらい、偉いし。同じくらい、仕合わせになれるんです。

Z.
 自分の子どもがバイオリンの先生になりたいって思っていたら。昔だったら。バイオリンの先生よりも、バイオリニストになって欲しいって、思いました。バイオリニストっていうのは、バイオリンを教えるひとじゃぁなくて。大勢のお客さんを集めて、そのひとたちに聞かせるひとです。
 うんと上手にならないと、バイオリニストにはなれませんから。バイオリンの先生よりもバイオリニストの方が仕合わせだろうと思ってました。
 けど、そうじゃぁ、ないです。どっちでも、不幸になることだって、ありますし。どっちでも、仕合わせになれますし。
 バイオリンの先生だったら。教える相手のために、お祈りが出来るひとになれたら、仕合わせです。バイオリニストだったら。自分がうまく演奏するため、じゃぁ、ない。聞きに来てくれるひとのためにお祈りできるひとになれたら、仕合わせです。
 誰かのためにお祈りできるひとになれたら。何になったって、仕合わせです。
 ですから。仕合わせになるのは、大人になった後からでも、大丈夫です。
 独りで、漬け物桶に塩をふっていても。私どもクリスチャンは、ちゃんと仕合わせになれるのです。いつからでも。何歳になってからでも、ちゃんと仕合わせになれるからです。
 だから、私どもクリスチャンは。「大きくなったら、何になりたい?」って。子どもたちに、気軽に聞けるんです。夢は、叶っても叶わなくっても。仕合わせになれるからです。
 求めれば、与えられます。でも、それには、探さなくっちゃぁ、いけません。門を叩かなくっちゃぁ、いけません。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるのです。
 だからイエスさまは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」って、教えてくださっているんです。

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