2004年7月11日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教
死なうかと囁かれしは蛍の夜*

*鈴木真砂女

ロシア型十字架



聖書研究
ローマ5章    中村栄光教会
説教集へ

新約聖書@【ヨハネによる福音書 第15章11〜13節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第5章7〜10節】






死なうかと囁かれしは蛍の夜

中村栄光教会牧師 北川一明

T.
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、イエスさまはおっしゃいます。
 ちょっと、真面目に考えたら大変なことですが。何故そんなことを言うのかと言えば。ヨハネ福音書の11節ですが、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。ですから、喜びのためです。
 友のために死ぬことが愛であり、それが喜びだというのです。
 死んだらお終いですから。そんな馬鹿な、と。ひとのために死ぬなんて、われわれ凡人には、とても無理だ。……そうも思います。
 それで、聖書のこういった所は、あまり本気では、なかなか読めません。クリスチャンでも、多くのかたが、このイエスさまの言葉を、普段は無視しているのではないでしょうか。
 私は、牧師ですから。こういう言葉も、しょうがない。一応、真面目に考えますが……。「あ、例の、辛く苦しい掟だな」と。「分かっちゃいるけど出来ない律法だ」と思って。それっきり忘れてしまう……というか、忘れようとするのですが。
 だけど、イエスさまは。こういう掟を私どもに与えて。こうやって命じられている私どもは、喜びに満たされる……というのです。これは、辛く苦しい掟ではなくて、私どもが、喜びに満たされるための掟だと言うのです。
 改めて・よく考えてみますと、そうかもしれません。
 まことの喜びって、命を捧げることが出来るほど、人を愛せること……かなァ、と。本当に考えたら。やっぱり、書いてあることの方が、正しいのかも、しれません。友のために命を捨てることが出来るほどの愛なんて、ありませんけど。もしそんな愛をもっていたら。本当に喜びに満たされているかもしれません。
 自分が、何のために生きるのか……とか。ひとを愛するとは、どこまで、どうすることか……とか。そういうことを考えますと。「ひとのためには、死ねません。自分のためだけに生きています」っていう生き方よりも。「友のために死ねます」っていう方が、喜びに満たされているはずです。
 ただし……。そうは言っても、死んじゃったらお終いですから。やっぱり、命は、捨てれそうには、ありません。この掟だけを、ポンと投げ与えられたら。「そりゃ、そうかもしれないけれども、私には出来ない」って。これは、やっぱりそういう種類の言葉でもあるのですが……。
 それが……、神の子キリストは、そんな私どものために十字架の死を遂げてくださったのです。そういうかたが、「友のために命を捨てる程に、愛し合いなさい」と命じられました。それを思って。これを自分の掟と信じたなら。本当に、喜びに満たされます。
 「私には、出来ないかもしれない」とかって。出来るか/出来ないか、よりも。そう出来るように努め始めた時に。本当に、喜びに満たされ始めます。

U.
 ひとを愛するのは、大切だ……と。誰でも知っています。相手のためよりも、世の中のためよりも、まず自分のために。自分がひとを愛せなかったならば。誰のことも愛せなかったならば。そりゃぁ、喜びなんて何にもないです。
 「誰のことも愛せない」って、そういう気分になることは、あります。そういう気分が長く続くことも、あります。若い時、いっときそんな気分が続いても。また愛せるようになった……とか。その時の試練で、もっと愛せるようになった……ってなれば、仕合わせです。
 それが……年老いて、寝たきりになった。そういう時に、身の回りの世話をしてくれるひとと、うまくいかない。不愉快でならない。誰のことも愛せない。そう思いながら死んで行くのならば、不幸です。
 周りのひとから、うんと愛されていても。自分が、誰のことも愛せずに死んで行くのならば、不幸でならないでしょうと思います。
 逆に、周りのひとが自分を疎んじても。こっちの側が、そういうひとたちを愛おしく思っていたら。ずっと仕合わせです。
 だから、ひとを愛することが大切だって、誰でも知っています。誰でも、そう思います。

 じゃぁ、「愛する」って何をすることか。
 「あなたのことが愛おしい、大切だ、好きだ、好きだ、好きだ、大好きだ」って。そういう気分でいることが、愛なんでしょうか。
 気分も、もちろん大事です。それでも、愛とは気分だけじゃぁ、ないだろう……。「好きだ、好きだ、大好きだ」っていう気分は、愛した結果として、出てきたものです。「愛する」って、「好きヨ、好きヨ、大好きヨ」という気持ちを溢れ出させる、何か、気分よりも、そのもっと奥にある何ものかであろうと思います

 愛とは「自分を捨てる決心」だ……と。昔、まだ洗礼も受けていない頃に、そう思わされたことが、あります。
 お付き合いさせていただいたお嬢さんが、ありました……。あっちの方から先に関心を寄せてくださったもので。アタシったら、「こいつに決めちゃったら、他のあの子と付き合えなくなる」みたいな。そんな、煮え切らない気分でした。
 そんな風でしたから、しばらくしたら振られたのですが。振られて後に。そのかたがアタシのために色々自分を犠牲にして、愛してくれていたことに気付きました。そうしたら、そのかたが、掛け替えなく、愛おしい……と。俄然、そういう気分に、気持ちが切り替わりました。それで何とか縒りを戻そうと思ったのですが。もう、まるっきり相手にしてもらえませんでした。
 その時、愛とは、何をすることか。彼女がしてくれたように、自分を捧げて行くことだろう……と。相手がどうであれ、自分が、自分を捧げることだろう、と思わされたのです。
 前後左右に、美女をはべらせてたって。斜め前方後方まで全部で八人の半裸の美女に囲まれたって。まぁ、気分は悪かァないでしょうけど……。自分が愛せなかったら、大勢の中で、ひとりぼっちです。愛するって、王様が側女を寵愛するみたいな、そんなペットを可愛がるのとは違います。
 今思うとエラく可愛かった、掛け替えのないそのお嬢さん。こちらのために自分を犠牲にしていました。命までは捨てませんでしたけど。少しは、自分というものを捨てて、捧げてくれました。それが、愛だろう……と、私ァ反省しましたから。これからは、自分が捧げよう……と。
 そして、綺麗な女性にコロコロ目移りする。そんな気分に任せて自分を捧げるなんて。それだったら、捧げたことに、なっていません。
 自分を捧げるっていうのは、捧げちゃうんですから。そこから先、自分の身の振り方を決めるのは、もう自分じゃぁないんです。自分じゃぁなくて、相手です。まぁ、捧げた相手の女性が全部決めるんじゃぁないにしても。そのひととの関係が、自分の先行きを決めるのです。
 もう、自分をその関係に捧げた以上、自分の一生は、自分の自由にはならない。そのひととの関係が、私というものを決めて、作り上げて行くんでしょう……。
 そういう意味で。愛とは、自分を捧げる決意です。
 だから、聖書に書いてある通りです。大切なひとのために、自分を捧げてしまうこと、それ以上に大きな愛は、ありません。そういう愛で、互いに愛し合いなさい、それは「あなたがたの喜びが満たされるためである」っていうのは。全部、その通りだと思います。

V.
 ただ……。そうやって決意しても、友のためには、死ねないんです。その後、愛するひとのために、やっぱり死ねませんでした。
 死ぬのが怖い、勇気がないっていうことじゃぁ、ありません。
 自分を、相手との関係のために捧げてしまうというのは、正しいことだと思います。自分を捨ててでもひとを愛そうとするならば。愛さずに、閉じこもっているよりも、いくらか豊かな人生です。
 そして、何でもかんでも相手の我が儘の言いなりになることが、捧げる愛では、ありません。愛するとは、相手の要求に合わせることじゃぁ、ない。相手と自分の関係に対して……。大切な関係に対して、自分たちを捧げて行くことです。だから、時には相手の我が儘を、命を捨ててでも糾すのが、愛です。
 その一番極端な時は、相手のために死にますけど。結婚だって、同じ決意です。結婚して、それから先の人生を、一緒にやってく決意をするのだって、そうです。
 そういう恋愛や夫婦の愛に限りません。お嫁さん、お婿さんを迎え入れて一緒に暮らして行く時にだって。これからは、自分も譲って、お嫁さんとの関係のために、自分が新しくなろうと決意をするならば。それも、愛の始まりだろうと思います。
 そうやって、自分を捧げて愛することは、もちろん尊いことです。ですが……;
 そんな捧げ方ができるのは。相手と自分との関係が、確かな時です。自分の魂を捧げる「関係」が、確かな時に、出来ることです。相手と自分のその関係が、良く分からない、あやふやなものだったらば、自分を、どこに投げ出して良いのかも、分かりません。
 折角、自分を捧げる立派な決意をしても。捧げたハズの関係が、いつの間やら、どこかに……あやふやになくなって行ってしまうことだって、あります。私どもの隣り人との間柄は。捧げることをも、させてもらえなくなるような……。
 ひととの関係は、しっかりと・ひとの決意を受け取ってくれるようなものとは、限らないのです。

W.
 そのお嬢さんに振られた後、私ァもういっぺん失恋して。目の前が真っ暗になる経験を、させられました。
 ……って、振られた話しばっかり、したかァ、ありませんけども。その後の方では、私は、このひとこそと思い定めて、今度こそ、決意していました。相手がどうあれ、自分を捧げようと。相手が私を愛さなくなったとしても、もう捧げたんだから……と思ってました。
 ところが、相手がこちらを愛さなくなったらば。自分を犠牲にしようにも、やりようがありませんでした。振られるっていうのは、そこが「振られる」っていうことのようです。
 失恋なんて、誰でもみんな、やってまして。それぞれに辛いし、また、どこにでもあることでしょうけど。アタシの場合は、前の経験の反省から。「このひとを愛する」って決めた。その決意を元に生て行こうとしていたんです。「このひとを愛する」っていう決意を人生設計の大元に据えていたんです。
 そのひととボケるまで一緒にいれたら、仕合わせです。けれども、愛するって決めた決意を、生きる基本線にしていたわけですから。そのひとのために死ななきゃいけないことになったら、当然、死ななきゃいけないと思ってました。
 自分の決意を裏切って生き延びたとしたら、ずっと作り上げて行った自分が、無意味になってしまいます。だから、死ぬことになったら、絶対に死ななきゃいけない。
 出来るかどうか……。気分としては。ちょっと出来そうにないような「気分」も、ありましたが。でも気分は信じない。自分の意志を信じるんですから。命を捨てることを、意志すべきです。
 しかも、そのお嬢さんを口説き落としたのは。そういう極端な考えを、乱暴に、本当に実行してしまいそうな、若者らしい「勢い」だったみたいですから。この路線を変更することは出来ません……。
 ところが、そのお嬢さんに振られたのも。同じ、そういう極端な感性から出てくる、極端な関係が。ちょっと、ついて行けないものになって行ったようです。
 そしたら、どうすりゃ良いんですか。ここで死ななきゃ、惚れられた自分じゃぁなくなるんですが。ここで死んじゃぁ、そういう極端だから、振られたんです。しょうがないから他の女に乗り換える……って。それじゃぁ、「俺の決意」って何だったのヨ……って。どうすりゃ、良いの……って。
 がっかりして、落ち込んで死ぬのでは。そりゃ、愛に殉じたことにはなりません。失恋した途端に、愛に死ぬことが出来なくなってしまいました。振られた以上は、死んだって全然そのひとのためにはなりません。命を捧げたことになりません。死んでもしょうがない。そして・もちろん、死にたかぁ、ありません。
 でも、死なないってことは。死んでも良いはずだった尊い目標が、あっさり無くなっちゃったっていうことです。どうしていいか、途方に暮れました。

X.
 本当は、恋愛に限ったことじゃぁ、ありません。愛でなくても、良いのかもしれません。仕事でも何でも。「そのためには死んでも良い」という、命を賭けるだけの理想があるのならば。その分、生きている人生も、尊くなります。
 しかしそれ程の理想なんて、滅多にありません。
 仕事のために死ぬのは、馬鹿馬鹿しいですし。カネのために死ぬなんて、最低です。昔のお侍さんは、名誉のために死んだみたいですけども。でも、カネ貯めて死んでも、貯めたお金は使えないように。名誉に死んでも、死んだら終わりです。
 われわれが、命を捧げて良いものとは。仕事とか、お金とか、名誉とか。そういう、人間が考え出したものじゃぁ、ありません。人間が考え出したものは、人間以下です。ですから、そういうものために死ぬのは、本末転倒です。
 人間以上の価値のために死ねる時。人間以上の価値のために、生きることも、出来るようになります。
 そして、普通は死んだら終わりですけど。人間以上の価値があるのならば。そこから、この世の命以上の命が、見えてくるかも分かりません。
 尊いもののために生きながら、そうしていることで、死を超越する命が見えてくるかもしれない……。そんな人生が、あるとしたら、もちろん喜びに満たされています。

 その、人間以上の価値。人間以上でありながら、人間に関わっている価値って。それが、イエスさまが地上を生きる間、ずっと説き続けた……「愛」であろうと思うのです。
 死を超越する尊い価値とは、「綺麗なお嬢さん」じゃぁありません。そのお嬢さんとの間に出来上がって行く、愛です。
 恋愛に限りません。お母さんが、子どものために死んで、子どもが助かることを心から喜んでいるのは。何か、命以上の価値に思えます。
 やっぱり、尊いものは、愛なのだろう……と。恋愛で、お互い傷付く中で……。そういう、ひととひととの関係の中で本当にちゃんとした「一致」みたいな何かが出来たら。それは、ひとりの人間を超えた、価値かもしれない……と。「世界平和」とか、「人類愛」みたいな立派なものであっても。決して頭の中のものじゃぁ、ない。自分が、ひとりの隣り人を具体的に愛して、具体的に自分を捧げる、そういう隣人愛です。
 しかも・それは、命を捨てても良いほどの愛であって初めて。そのために生きるに足る、尊い愛になるんです。

 だから、「友のために自分を捨てる愛で、互いに愛し合いなさい」っていうのは。ですから、本当に喜びのための掟です。
 こうやって真面目に考えて、真面目に生きていた分、良いセン行ってたんです。隣り人との具体的な愛以上に、尊いものはない。それは、そうなんです。
 ただ、その尊い愛を実行するには、人間の力だけでは……決意だけでは、どうしても、足りなかったのです。
 どんなに尊くっても。人間同士の愛、そこまでだったらば。どうしても、死ねません。死ぬだけの価値には、至らない……。
 自分が愛に貧しいからなだけじゃぁ、ありません。私だけのせいじゃぁ、ない。自分を捧げるべき隣り人との関係が。私ども、人間同士だったら。どれだけ決心したって、決意したって。永遠の、最終の関係には、ならないんです。いつかは毀れて行く、所詮はいっときの関係なんです。

Y.
 それが……、神の子キリストは、そんな私どものために十字架の死を遂げてくださったのです。その神の愛を信じて、この掟を受け取り直した時。ちょっと……私ども自身の愛が。その尊さが……。少し、変わってくると思うのです。
 キリストを、神の御子と信じないのならば。キリストは、ただ「正しい人のために死んだ者」です。ただの立派な人物です。
 イエス・キリストは、本当に神の子なのかは、今日はお話し出来ません。私どもは、それを福音書を通して、とか。自分が信仰へ導かれた、その導きを通して、イエス・キリストを、神の御子と信じたのですが……。
 神の子イエスは、アタクシ人間北川と同じくらい、立派な決断をしました。裏切られても、死ぬまで愛し抜こうと決意しましたが。それは、不肖このキタガワだって一緒でございます。
 ただ私の場合は、失恋した時。死ぬ対象が、無くなってしまいました。
 しかし……人を作って、人に魂と、愛を吹き込んで地上を生きさせた神さまは。その対象を、無くしませんでした。
 神さまご自身と、人間の関係は。こっちの側がどれだけ裏切っても、神さまにとっては尊いままでした。イエスさまにとって、私との関係は、死ぬだけの価値のあるものだったのです。こっちが、そういう関係に応えなくっても。死ぬだけの価値のあるものであり続けたのです。
 神が、私のために死んでくださったっていうのは。私との関係が、それだけ大事だったっていうことです。そして、私のために命を捧げたから。キリストは、復活したんです。私を愛するっていう愛が、完全なものだったから。そこから、この世の命以上の命が……死を超越した永遠の命が、始まって行ったのです。
 そして私どもは、死なれた側です。
 かの・お嬢さんのために私が死んでたら。もちろん、チョー迷惑だったでしょうけど。そこから先、彼女は、違う人間にならざるを得ません。死ぬだけ愛した私との関係を、ずっと、ひとりで負ってかなきゃ、いけない所でした。
 キリストさまが、死ぬほど愛した、キリストと私との関係を。私どもは、今、負っているのです。
 われわれクリスチャンが、キリストの命をこの身におびているというのは、そういうことです。
 好い加減な信仰のひとは、居ます。あやふやな信仰のひとも、居ます。けれども、そういうひととご自身との関係のために。キリストさまは、もう命を捧げてしまったのですから。どんなひとでも、キリストの命を、もう、その身におびているのです。

Z.
 それで今や、「わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、……御子の死によって……和解させていただいた今は、御子の命によって救われる(ローマ5:9、10)」って、言われます。
 そうなんです。こっちが、どんな状態だって。もうキリストの命をおびていて。神の愛は、私どものうちに、注がれているのです(5:5)。
 信仰の平安とは、永遠の神さまが、一緒にいてくださる平安です。この世の死を超えた神さまが、一緒に居てくださる平和です。その平和なこころをいただく基礎は、もうキリストさまの献身によって、すっかり出来上がっているのです。
 そういう平安は。キリストさまがわたしどもを愛してくださったように、私どもが、ひとを愛し始めた時に、始まります。
 世の中では……、「死ぬ気になって頑張れば、大抵のことは我慢できる」って言われます。けれども、愛の場合は、我慢どころじゃぁ、ありません。死んでも良いだけの愛があれば、どんな困ったことだって、たいした問題じゃぁありません。
 死んでも良いだけの確かな目標があって。しかもその目標が、「愛している」っていう、喜びの目標なんだったら。恋人に対してでも、子どもに対してでも、友に対してでも、あなたが大切だから、命をも捧げるっていう喜びの目標なんだったら。死ぬ気になって頑張り抜くよりも、ずっと、ゆとりをもって苦しみを耐え忍ぶことができます。
 私どもの愛が、神の力によって完成させられる……、そういう希望が、あるからです。希望は、私どもを欺くことが、ありません(ローマ5:5)。
 愛する者には、そういう平安が、あります。
 私どもには、今は、まだそれだけの愛は、ないかもしれません。命を捨てるだけの価値は、まだ、誰も持っていないかもしれません。だから、生きていることにも、十分な価値は、まだ足りないかもしれません。
 けれども、キリストさまの命によって。命を捧げる愛に、もう既に、方向付けられています。誰も、友のために死ねるとは言えないかもしれませんけれども。私ども、誰も、「自分のためだけに生きる」とも言いません。命を捧げることが出来るほどの愛を持ちたい……と。私ども、既にそっちの方へ、キリストさまによって、向かわされています。
 命を超えた価値を、手に入れてはいませんけれども。持ち始めています。
 だから、信仰をもつ私どもには、平安があるのです。
 平安って、「こころが静かだ」とか、「気分にゆとりがある」とか。そんな、生温い気分じゃぁ、ありません。この世を超えた命を、生き始めている。そういう、永遠と一体になりはじめた、平安です。永遠の愛に方向付けられている、平安です。
 そして、この世を生きる以上の喜びに支配されるのです。だから、掟を得て。「互いに愛し合いなさい」と命じられて。私どもは、喜びに満たされるのです。

中村栄光教会
説教集へ