2004年7月25日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教
ネックレス/嬉しく照れくさく

ロシア型十字架



聖書研究
ローマ5章    中村栄光教会
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新約聖書@【マルコによる福音書 第9章38〜41節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第5章8〜11節】






ネックレス/嬉しく照れくさく

中村栄光教会牧師 北川一明

T.
 「わたしたちは神を誇りとしています」と、ローマの信徒への手紙の11節には書いてあります。
 「誇る」という言葉は、新約聖書の時代には、むしろ「悪い意味の言葉だった」と言われます。「誇りとする」というのは。悪く言うと、「得意がる」、「自慢にする」ということだからです。ここはお上品に、「神を誇りとしています」と翻訳されていますが。「神を自慢にしています」と言った方が、もともとの雰囲気は良く伝わるのかもしれません。本来は、あまり良いことではありません。
 そのうえ、「神を誇りとする」というのは。自分が努力した結果を自慢するのでは、ありません。自分は何もしていないで、ただ、「こっちには神さまがついているんだ」と威張っている……ということでしょうか。弱い人間が、自分には自慢する所が何にもないもんから。宗教に入って、宗教を自慢するのなら……。ちょっと、情けないことです。
 それでも、このローマの信徒への手紙を書いたパウロは。堂々と、「わたしたちは神を誇りとしています」と言います。「神を、自慢しています」と言い切ります。
 何故、威張ってるんでしょうか。
 パウロというひとは。キリスト教に入信する前は、イスラエルでエリート中のエリートだったひとです。だから、妙な自慢なんか、する必要はない。取りたてて、何か言わなくても。もともと、みんなから尊敬される立場にいました。
 私ども。本当に自信のある時は。全然、威張る必要が、ありません。何事かを「自慢する」なんていうのは、かえって自信のない人がやることだ……と。パウロだって、そのくらいは知っていたはずですし。パウロ自身は、威張る必要のない恵まれたひとでした。
 しかしキリストさまと出会わされて、気が付いたのです。
 人間は、誰でも。何か「誇り」がないと、生きていけません。
 そして、かつての自分は。自慢していないつもりでも。実は、自慢する価値のないものに誇りにして、生きていたのだ。しかしキリストさまと出会った今は、誇るに足るものを誇って生きることが出来るようになった。それで、「わたしたちは神を誇りとしています」と言うのです。
 覚えてらっしゃるかたも、あるかもしれませんけど。ローマの信徒への手紙をずっと読んできて。パウロは「あなたがたは神を誇りとしているけれども、そんなことじゃぁ、駄目だ」と言っているところが、ありました。
 第2章の真ん中辺り(17〜29節)で、「律法に頼って神を誇る」のは、間違っている……と言います。しかし今日のところでは、「キリストによって神を誇りにしている」と言います。
 神を誇るのは一緒なんです。ただ、律法によって誇るのは、駄目で。キリストによって誇るのだと言うのです。
 パウロは、エリート中のエリートです。つまんない自慢話しなんか、全然、する必要もなかった。そういうつもりで生きていた時も。誇りは、もっていました。自分は、立派に律法を守っているという誇りをもっていました。
 だけど、キリストさまに出会った後。そんなプライドは、間違っていた。キリストさまによって赦されて、神さまに愛されて、生かしていただいているんだ。そっちのほうが、誇りに、変わったんです。

U.
 クリスチャンになる前後に、教会に行きましたら……。先輩信徒のみなさんが、「近ごろの若い者は、信仰もないのに教会で結婚式を挙げたがる」と、嘆いておられました。クリスマスの時期になると、「世の中は、クリスマスの意味も分からずに、お祭り騒ぎをしている」と、嘆いておられました。
 牧師さんは、もっと厳しく、「近ごろの若いモンは、信仰を、アクセサリーにしている」と言っておられました。そして、十字架を、ネックレスとかイヤリング、ピアスにして飾っているけれども。「十字架は、アクセサリーじゃぁない。キリストを処刑した……(電気椅子とかギロチンとかと同じ)……死刑執行の道具なんだヨ」と言うのです。
 素直で真面目な私は、「そりゃ、そうだ」……と。ちょっと厳しいけれども、そうかもしれないと……。その牧師さんに出会う前に、十字架のネックレスをしていたことが、ちょっと恥ずかしくなりました。
 長いこと、そう思っていたんですが。しかし今回、聖書を良く調べてみて。ネックレスやピアスで十字架を自慢しても。それは、良いことにもなり得る……。自慢した方が、良いのかもしれないと、思えてきました。

 今日は、高校生は、誰も礼拝に来ておられませんので、お話ししても良いかと思いますが; 中学か、高校か、反抗期に、です。友だちの前で、■■とか■■とか、形ばかりの不良の真似事をやっていました。
 他の友だちも。ひとりの時は、それぞれ大学には進める程度に、チャッカリ勉強してるんですけど。真面目と思われるのが厭で。ひ弱なお坊ちゃんたちが、無理して格好つけるんです。
 それでも、そんな中でも……。他の人とは違う、何か「オリジナリティのある悪いこと」をやらないと。人の真似して■■■吸ってるだけだったら、それも情けないと思いまして。アタシは、銀の十字架のネックレスを下げてました。
 規則違反というだけで、たいして悪いことじゃぁ、ないかもしれません。本当の不良だったら、(当時「カツアゲ」と言いました)恐喝したお金で、そういったものを買うべきなんでしょうが。アタクシの場合は、親からもらったお小遣いを、可愛くコツコツ貯めて買っただけですけれども。
 なんで十字架だったのか……。
 信仰なんか、全然、持っちゃァいません。キリスト教の知識も。「カノッサの屈辱」と、「十字軍」と。世界史の教科書に載ってるのの他は、「99匹を残してでも、迷った一匹を捜す」とか。「医者を必要とするのは病人である、私は罪人を招くために来た」とか。その程度を知っている位でした。
 それでも十字架が得意でした。……何で得意だったんだろう……。
 「99匹を残してでも一匹を捜す」というのと。それと、「医者を必要とするのは病人である、私は罪人を招くために来た」というのと。それだけで、十分、得意でした。
 キリストが復活したなんて。そんなことは、あるワケがない。けれども、もし本当に復活して、今、キリストがいるんだとしたら。キリストは、俺の味方だ。僕のことを分かってくれる。だって、罪人を招くために来て、「迷った一匹を捜す」って言ってるんだから……と。
 自分のこと……。他の人と比較して、自分だけが罪深いとは、決して思いませんでした。それでも、「罪人を招くため」っていうのは、つまり「俺のためだ」って……。思い出すと、いじらしいですネ。小さな銀の十字架を、歯磨きをつけた布で一生懸命磨いてました。
 十字架をぶらさげて、何を得意になっていたんでしょうか。多分、聖書のメッセージに気が付く、自分の感受性です。
 学校の先生は、授業でキリスト教を教えながら、平気で「悪いこと、スナ」って言って来る。だけど、先生の教えていることが本当なんだったら。先生の方が、神さまから「偽善者よ」って叱られる。この(胸の)キリストは、こっちの味方なんだゾ……って。教えている先生よりも、教わっている俺の方が、中身をよく理解しているゾ……って。
 誇っているのは、自分の感受性です。九割がた、自分の能力です。けれども、そこから始まって。残りの一割は、キリストを誇っていたのかもしれません。「俺の味方」になってくれる、キリストを知っているのが、得意でした。信じてなかったので。何の御利益も期待しません。それでも、得意でした。
 キリストの十字架を得意がって。そのすぐ後で。教会の悪口なら言えますし、牧師の悪口も言えますけど。キリストさまの悪口は、言えません。
 結局、キリスト教の大学に入ってしまって。「宗教なんて弱い人間の頼るものだ」と腐しながらも……。どうしても、キリスト教から離れられないようになって行きました。

V.
 「誇る」って何をすることか。「誇りを持つ」とは、何かを「得意がる」のと一緒なのか……。考えさせられます。
 私ども、お金持ちが、財産をひけらかしていたら、不愉快になります。だけどそれは、貧乏人のやっかみで。お金持ちの側から言えば、決して・ただ財産を誇っているワケでは、ありません。
 お金持ちが、部屋にピカソの絵とかを飾って。「これは本物だ」と威張っている場合ですけれども。絵が上手なのは、ピカソの手柄で、お金持ちの手柄にはなりません。
 それなのに何で威張るのかって言いますと。二つの理由があります。
 ひとつは、同じ高い買い物をするのでも。即物的な財産、金の延べ板を買うんじゃぁなくて、一枚の絵にお金を払う……。そういう、自分のおカネの使い方。やっぱり、感受性を誇っているのです。
 だから、そういうひとは。持っていないものまで、自慢できます。「本物は、さすがに手が出なかった。オークションで、つい気後れして買いそびれた。ケチくさい自分が恥ずかしい」なんて。そんな、オークションで買い損ねた話しを、自慢話として聞かせます。口では「恥ずかしい」なんて言いながらも、オークションでピカソを求める自分を、自慢します。
 あと、もうひとつ。応接間にピカソを飾って威張るのは。こんな高いモノが買えるようになるまでには、人一倍、苦労して、頑張ってきました。自分の持っている能力を、目一杯に使い切って、とうとう成功しました。そういう自分も、誇ることが出来ます。
 お金持ちが、おカネを自慢するのは。貯金通帳の残高がいくらあるか、その金額を威張っているんじゃぁ、ありません。自分が頑張ってきた、自分の努力を誇るのです。そうじゃぁなかったら、そうやって成功しただけのことは、ある。自分の、ものの考え方、感じ方、感受性を、誇るのです。
 ですから、貧乏なアタシだって、一緒です。
 金持ちに、財産を見せびらかされて、悔しい思いをして帰って来て。帰り道で、「あんな財産なんか、持ってたってしょうがない」って言います。「私は、何も持っちゃぁいないけど、それでも、今のままで仕合わせなんだヨ」とかって言って。貧乏でも仕合わせになれる、自分のものの考え方、感じ方、感受性を、誇るのです。

 だけど……。お金持ちになったことを誇るのでも。貧乏でも仕合わせを感じ取れることを誇るのでも。「誇る」っていうのは。自分の、何から何まで全部を自慢しているワケじゃぁ、ありません。自分の中の、ほんの一部分を。特に、「ここを見てください」って。事実の中の、ほんの一部を取り出して。それを、うんと強調します。
 そうやって、自分が何をやっているかっていうと。自分のことを、そういう風に意味付けしているんだと思うのです。

 「誇る」っていうのは、「誇張する」とか「誇大妄想」とかと言うときの、「コ」の字です。
 私ども、物事を誇張して言う時が、あります。それは、決してひとを騙すためでは、ありません。自動車の往来が危ない時。子どもが事故にあったら大変ですから、自動車の危険性をうんと誇張して、脅かします。それは、子どもを騙すためでは、ありません。
 自動車には、便利な面もあります。便利である、けれども、危険である。そのほか、音がうるさい面もあれば、ボンネットが熱い一面もあれば、クーラーが利いている室内が涼しい一面も、ある。自動車にはいろいろな要素があります。
 その中から、特に、子どもにとっての、今の意味。「危険である」っていう意味を……。沢山の要素の中から取り出して、それだけは分かってもらうために。それで誇張するんです。
 近所のオバサンが厭な感じなのを、「ねぇねぇねぇねぇ、聞いて、聞いて、あのひとったらサ」って誇張して話すのも。騙すためじゃぁ、ありません。その厭なオバサンの、自分にとって「厭だ」っていう意味を。……そのオバサン、別のひとにとっては素晴らしい人物かもしれませんけれども。自分にとっての意味を、はっきりさせるために。私ども、誇張して、噂さ話をするんです。
 嘘をつくためじゃぁ、ありません。「真実」……なんですけれども、「客観的な事実」ではなしに、「自分にとっての真実」を明らかにするために、誇張します。

 ピカソの絵を誇るのは。自分のことを、「ピカソにカネを惜しまないような人間である」って。そういう意味付けしているのです。貧乏なのに仕合わせを感じられることを誇るのは。自分のことを、そんな「精神生活」っていうことで、意味付けようとしているのです。
 何の誇りもないひとは、ありません。みんな何かしら、自分を意味付けないと。人間として、人間らしくは生きれません。
 誇りっていうのは、そういう意味で、「自分にとっての真実」です。
 卑屈になって、「私には何の誇りもありません」って言うひとが、あります。そういうひとは、本当は、プライドの高いひとです。
 自分で何かしら自分を意味付けているんですけど。今の自分が、自分で意味付けした通りになっていない。なりそこなっているもんだから。「本当はこんなハズじゃぁないのに」……って。恥ずかしがっているのです。だから、「私には何の誇りもありません」っていうのは、傲慢の一種です。
 そして、十字架を誇るっていうのは。「罪人を招くために来て、迷った一匹を捜す」キリストさまとの関係で、自分のことを、意味付けようとしているのです。
 意味づけの仕方は、稚拙かもしれません。それでも、神さまとの関係で、自分っていうものを捉えようとしているから。自分のことではない十字架が、自分の自慢になるんです。そういう意味では、ネックレスを誇るのは、良いことじゃぁないか……と。そう、思い直しました。

W.
 ……同じ、神を誇るのでも。律法によって。律法を、全部きちんと守っていると思って。そこのところで、自分を意味付けしていた。そこの所を、自分の誇りにしていた。……その時には、自分が、全然ちゃんと生きれていなかった……って。パウロは、それに気が付いたんです。
 何か、頑張った結果、うんとお金持ちになった。それで誇るのは。だけど、お金が目当てじゃぁ、ありません。自分にとって、もっと大事な何かのために頑張って。その結果、お金持ちになったのです。本当に誇るべきは、自分にとってもっと大事な何か。金持ちになるまで頑張ることの出来た、何か、その目的です。
 だけど、金持ちになったのを威張っちゃうと。その「何か」が見えなくなることがあります。
 お金持ちになる程に、俺には才能があるんだ……って。それを誇るのでも。貧乏でも仕合わせを感じられるんだ……って。それを誇るのでも。感受性がある、とか。才能とか、感受性も。自分にとって、もっと大事な……いちばん大事な何かのために、才能や感受性を使い尽くす。大事なのは、その目的のほうです。
 その、いちばん大事な何かを誇ったならば。われわれ、いつも、いちばん大事なもののために生きることができます。
 けれども、その目的を忘れて、ただ才能や感受性を誇っていても。意味がないです。無駄な、虚しい誇りになっています。
 律法を、きちんと守るのも。もっと大事な何かのため、なんです。その大事なことを見失っていなければ。律法を守るのは、素晴らしいことです。誇りにして、良いことです。けれども、パウロは。律法にあって誇っていた時には。どうして律法を守るのか。もっと大事な何かを見失ったまま、意味なく誇っていたんです。

 「私はクリスチャンだから、クリスマスをドンチャン騒ぎとは思っていません」って。そういう風に自分の信仰を誇るのでも。素晴らしい、尊い誇りにもなれば。厭らしい自慢にも、なります。
 いちばん大事なことのために信仰を誇っていたら、尊い誇りですけど。ほとんどやっかみか、無理して自分を偉く見せる、そんな自慢話になってしまう時だって、あります。

 そう言えば、思い出します。「近ごろの若い者は、信仰をアクセサリーにしている」っていう批判は、いろんな場面で聞かされてきました。その中で、「牧師さんは、やっぱり信仰者だなァ」って、聞く方が清々しい気持ちにさせられたのは。
 眉をひそめてそう言っている時では、ありません。怒って言っている時では、ありません。ほほえみながら、今はアクセサリーになっちゃってるけれども、それでも、若者たちは。他のものじゃぁ、ない。信仰を、アクセサリーにしてくれている……って。
 若者が、自分の意味を考えて行く中に、ほんのちょっとでも「信仰」っていうことを入れているのを喜んで。そこに神さまの導きを見ている時に。口では、「けしからん」って言っていても。その牧師さんを見て、信仰っていうのは、こういう温かいものなんだなァと思わされました。
 若者が、神さまに赦されて、愛されて、導かれていることを、信じているからです。
 同じ牧師さんです……。クリスマスだからって、サラリーマンがキリストのキの字も思わずに酔っぱらっているのを見て。「日本のサラリーマンたちは、疲れている。その疲れを、本人たちが知らないままに、クリスマスが癒やしている。キリストさまが、少しは癒やしてくださっている」って。そういう風に、見ていました。
 もちろん、「そんなキリストさまに自分を献げたら、もっと豊かにされるのに」って、それは残念がりながらも、です。
 そういう牧師さんを見た時に。キリストのもとには、ネオンや赤提灯よりもずっと確かな癒やしがあるなァ……って、思わされました。
 その牧師さんは、若者よりも先に、まず自分自身が。「罪人を招くために来て、迷った一匹を捜す」キリストさまによって、生かされている……って。その牧師さん、それを信じているから。若者のことも、サラリーマンのことも、それぞれを思い遣ることが出来たんです。

X.
 その牧師さんの思い遣りは、信仰の本質に近いところにあるような気がしました。そうやってひとを思い遣ること自体が。もしかしたら、自分の意味……。私どもが、「隣り人と一緒に、神さまのもとで生きている」っていうことの意味なのかもしれない。私どもの目的の、中心で。十字架を誇ることは、そういう生き方に繋がって行くのだろう……と。
 だって、そうやって誰かがひとを思い遣る心に触れている時には。こちらまで、生き生きした気持ちに導かれます。そういう時には、妬みとかやっかみとか、卑屈な思いや傲慢や。そういう悪いものからはすっかり自由にさせられています。
 全部、「キリストさまは、罪人を招くため、迷った一匹を捜すために来てくださった」っていう所から始まっている、優しさです。

 「キリストを通して神を誇りとする」っていうのを。今は、「罪人を招くために来た」、「」迷った一匹を捜すために来た」って言い換えてみましたけど。今日の聖書で言えば; ローマの信徒への手紙の、8節から10節まで、です。自分がキリストによって赦されて、生かされているっていうことを、私なりに言い直してみたのです。
 他の言い方も、あると思います。クリスチャンひとりひとり、それぞれの言葉遣いがあると思います。どんな言い方でも良いんですが。
 ただ、赦されて、生かされているひとは。赦されて、自分のことだけを考えている……ままじゃぁ、ありません。自分のことにこだわって、意味のないモノを自慢しているままじゃぁ、ありません。
 神と和解させていただいた……というのは。律法をひたすら守っていて、私が正しいんだ。私が救われるんだ私だけが間違い無いんだ……なんていう。恐ろしい、苦しい、虚しい傲慢から。キリストさまによって救い出されて。それで、ひとを思い遣れるようになった……。
 自分に余裕のある時に思い遣るんじゃぁ、ありません。ひとを思い遣るなんて、出来る時も/出来ない時も、ありますけれども。自分の献げ、ひとを喜ばせて生きて行こう……って。そういう方向に、自分が生き生きと生きる意味を、見つけてしまった。それが、喜びになっている、ということです。
 それが、キリストを通して神を誇る。神さまを信じているのを自慢して、自信をもって生きて行く……そういう、信仰の生き方なんだと思います。

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