2004年8月1日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教
初めに死あらず/命ありき

ロシア型十字架



聖書研究
ローマ5章    中村栄光教会
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旧約聖書【創世記 第3章1〜7節】
新約聖書【ローマの信徒への手紙 第5章11、12節】






初めに死あらず/命ありき

中村栄光教会牧師 北川一明

T.
 テレビのドキュメンタリー番組などで; 「末期癌で余命幾ばくもない」というひとの「最期の数ヶ月を密着取材」なんていうのが、時々、あります。
 自分の死を前にして、残った時間を精一杯に生きるひとを見て、頭が下がります。「暑い、暑い」と言っては毎日をだらしなく暮らしている自分が、恥ずかしくなります。
 生きているひとときひとときを、その一瞬も無駄にすることなく、尊く用いている。立派な生き方だと「感心させられる」……と言っては、少し軽すぎます。敬意をもって、そうしたかたたちの生き方、死に方を見せていただきます。
 ただ、そういう生き方が「うらやましい」かと言いますと。「末期癌/余命幾ばく」では、やはり「うらやましい」とは言えません。大事な時間を無為に過ごすのも、厭ですが。死を、目の前に突きつけられても、叶いません。
 図々しい願いでしょうか。ラクで暢気な時間が、ゆったりと、あって。けれども、そのゆったりした時間の一瞬一瞬を、無駄にすることなく、尊く大切に生きることが出来たら……と。正直言えば、そう思ってしまいます。
 欲張りかもしれません。しかし、私どもの人生を、「豊かな人生/そうでない人生」という風に考えてみますと。時間的、量的に豊かでありさえすれば良い訳ではありませんが……。内容があれば短くても良いとも、思いません。とにかく、人生は、豊かであってほしいと思います。
 そして、神さまは……。人間に、豊かな命を生きて欲しいと願ってらっしゃいます。キリスト教信仰は、私どもを、まさにそういう「豊かな命」に導くものなのだと思います。
 あとどれだけの時間、この地上にいるのかは、神がお決めになることでしょうが。次の世に向かって、この地上の期間を有意義に、豊かに生き生きと、生きたいと思います。そしてキリスト教信仰が、私どもを、そうした生き方に導くものです。
 人間が、罪に支配されている時とは。それは、つまりは死に支配されているということでした。その中では、どれだけ頑張っても、豊かには生きれません。けれども今や、キリストによって、罪と死から解放された……と。キリスト教が伝えていることは、まさにそのことです。
 これまでは、死に取り付かれていて。いわば死刑囚のように、死を待つ間だけ生きていた。そんな人間が、キリストによって、救われた。命へと救われた。私どもは、キリストの、命の光の中を歩む者に変えられたのだ……と。それが、キリスト教信仰です。
 このことを、はっきりと掴んでいたら。私ども、自分の人生を、本当に豊かに尊く用いることができるのだろうと思います。

U.
 「末期癌/余命幾ばく」というひとが、どうして日々を尊く生きられるかと言うと。「あと×ヶ月の命なんだから、時間が足りない」と、そう考えるからでしょうか。
 死ぬ日から逆算して、「残っている間にやること、やんなきゃぁ」ということで、充実するのだろう……と。普通に考えると、そういうことです。残りの日々を尊く生きれるようになった、その理由は。己の死を、きちんと見据えた……と。そのことが、まず第一に、あります。
 けれども、それだけでは、尊く生きるには、私ども、力不足です。
 死を宣告されたら。一度は、それをきちんと見据えるかもしれません。しかし「死」なんて。そんな、見続けられるもんじゃぁ、ありません。きちんと見据えるには、「死」は、恐ろし過ぎます。
 これもテレビですが; ジャイアント馬場というプロレスラーがいました。あのひとが、「死」について、「死」の話題が大嫌いで。そういう話題になる度に怒って話題を変えさせていたという話しを聞いたことがあります。
 死を宣告されたら。誰かに怒りをぶつけるなり、くだらない快楽に耽るなり……。恐ろしいですから、誤魔化そうとする方が、普通です。
 テレビでドキュメンタリー番組になるような立派なひとは、違うのかと言うと。そういうひとたちも、やはり苦しんで、恐ろしくなって。居ても立ってもいられない気持ちになったのは、一緒だろうと思うのです。
 もし、はっきりと見据え続けたならば。かえって、尊く生きられなくなることさえ、あります。
 自分が、家族に対して何か義務があるとか/社会に対して何か責任があるとか、そういうことを考えても。どうせ死んじゃうのに、責任なんて言っててもしょうがない、みたいな。そういうニヒリズムみたいな思いが心の中で強くなって行って。残りの日々を頑張るのが、虚しくなってしまいます。
 けれども、特別なひとじゃぁ、ない、まぁ・まぁ普通のひとが、あと何日と言われて。いっときは、ヤケになっても、立ち直った。あるいは、ヤケになりかけながらも、自分を律することが出来た。それで、短い数ヶ月、数週間、数日の間を、きちんと、尊く、立派に生きられた。稀に、そういう場合があります。そういうひとたちがテレビに出ています。
 どういうことで、死の恐怖を克服して、尊い毎日を取り戻したのか……。
 家族に対して何か義務があるとか、社会に対して何か責任があるとか、そう思って努力していた。苦しみ、恐れながらも、頑張っていた。それだけでは、駄目なんですが。そういうことの中で、この世の死を超えた何ものかに出会った時に……。そういう時に、死ぬと分かっていながら頑張れるんだと思うのです。
 「俺には責任がある」って、ひとりで勝手に。死の恐怖を誤魔化すために「忙しい、忙しい」って頑張ってるんだったら。ただ破れかぶれの興奮状態です。そうじゃぁ、ない。死に直面して、必死になる中で。死を超えた何ものかに出会った時に……。死ぬと分かっても、尊く、大切に、生き続けることが出来るのです。
 キリスト教信仰は、死者の中から復活したキリストさまと出会ったひとたちから始まりました。キリストさまに愛されていることを信じて、自分が、死の支配から命の支配に移されたことを知ったひとたちから始まった、信仰です。
 そして、この復活のキリストさまとの出会いは。われわれが一生懸命頑張り、努力し、精進したら得られるのとも、違います。私どもの努力や精進よりも以前に。まず、神さまの方から、触れてきてくださるものです。
 だから、こうして教会に導かれて来たということ。日々、祈りに導かれる。キリストさまを思い出して、愛の業に導かれるということは、たいへん有り難い、素晴らしいことだと思います。
 私どもが、キリストの信徒にさせられているということは。私どもが、死の支配から、既に救い出されている、ということです。永遠の命の支配に、もう既に取り込まれているということです。
 ですから、私どもは、死に直面しても。死ぬと分かっても、尊く、大切に、生き続けることが出来るハズなのです。ただ「暑い、暑い」ってだらしなく生きる必要は、ない……ハズなのです。

V.
 それで、でしょうか。聖書は、死を、見つめさせます。
 (ローマ書)5章11節まで、「今やキリストを通して、私どもは死から救われたのだ」と教えた後に。12節です。死を、しっかりと見据えています。
 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」

 天地創造の初めには、私ども人間は、死ななくても良い。平和に生きれるはずの命を、生きていました。
 初めに、世には、「死」なんか無かったのです。初めにあったのは、完全な調和の世界です。
 ところが、今日の聖書によりますと……; 一人のひとによって罪が、私どもの中に入り込んでしまいました。そして、罪のために。死も、世に入り込んできました。全ての人間が、死んで行くものに、なってしまったのです。
 「一人の人(12)」というのは、14節を見れば分かりますが。旧約聖書、創世記のアダムのことです。
 神さまは、アダムとエバを造って、エデンの園に住まわされました。そこでは何でも好きに食べて良いんですが。ただ園の中央の木の実だけは「食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」というのが、神さまのいいつけでした。
 だけど人間は、神さまの言いつけを守らないで。この木からとって食べました。
 このアダムとエバは。今の普通の考え(近代以降の人間観)では、かえって「正しい人たち」と言えるのかもしれません。アダムとエバは。既存の権威が禁止していることでも。そんな、お上の言うことを鵜呑みにしないで、自分で実証してみるんです。
 この木は「善悪の知識の木」であると、前の章(創世記2:17)には書いてありました。善悪を知ったからと言って、死ぬ訳ではないだろう。善悪の知識を持った方が、かえって豊かに生きれるだろう……と。アダムとエバは、実際に、自分でやってみたんです。
 お上とか、教祖さまの言うことを鵜呑みにしないで。自分で考え、自分で判断し、行動するんですから、正しいひとたちです。そうでなければ、豊かな生き方なんか、出来ません。
 そして実際、アダムとエバは、知識を持ちます。知恵の木の実を食べたお陰で。善悪をわきまえるようになりました。
 それは素晴らしいことなんですが。ですけど、それ故に、アダムとエバは、死ぬことになってしまいました。
 本当の、大切な知恵というのは、自分を知る知恵です。自分を知るというのは、自分が死んで行く存在であるということを知ることでもあるのかも、しれません。
 知恵が無いうちは。アダムとエバは、赤ちゃんみたいなものです。神さまに保護されて、何にも考えない、自分で判断したり決断したりすることなしに暮らしていました。つまり、「自分」っていうものを、持っていませんでした。
 「自分」がなければ、生きるも死ぬも、ありません。「死ぬ」という自我意識がないんですから、そんな彼らには、「死」なんて意味がありません。
 しかしアダムとエバは。神さまの言いつけを耳で聞いて。だけど、その言いつけとは違うことを、自分でやってみました。ですから、この時に。アダムとエバは。それぞれ、ひとりの自分というものに、なりました。
 子どもが思春期に、親を捨てて一人前になって行くのと一緒です。神さまに敢えて逆らうことで、神さまと自分は違うんだ……と。そういう仕方で「自分」を見つけました。この時、アダムとエバは一人前になったのです。
 ですけど同時に……この時、「死」が意味を持つようになりました。神さまとのかかわりを捨てたのですから。もう、神さまに守ってもらうわけにはいかなくなりました。永遠の命との関わりを、自分で捨ててしまいました。
 人間が、他の動物たちとは違って。神さまと同じに、ちゃんとした一個の人格として生きようと思ったら。何よりも、「自分」である必要があります。自分というものを持つ必要があります。
 しかし、神さまではない……全知全能ではない、また永遠ではない肉の人間が。神と同じに自分を知ってしまったら。自分は、神とは違って限りがあるということも、同時に知らなければなりません。人間が自己となるには、まず、死ぬ者であることを受け入れなくてはならないのかもしれません。
 アダムとエバは、「自己」として、「精神」として、本当に生きる者になったのです。しかし・それは……本当に生きる者になったということは、本当に死ぬ者になった……。同時に、そういうことだったのです。

 アダムとエバの、何が罪だったのか。自己意識をもつことは、悪いことなのか。
 そうではないと思います。
 子どもには、どうしても自立して一人前になってもらわなくっちゃぁ、困ります。ですけれども、親に逆らって、親を裏切って、親を捨てることだけが、自立の方法か。それだけが一人前になる方法じゃぁないはずです。
 神さまに、どういうご計画があったのか。今となっては、分かりません。あるいは、こうやって私どもが神に背くことまで、神さまの大きなご計画の中だったのか。それは分かりません。
 ともかく、今となっては……。自分は、神さまとは違うんだ、と。「自分」は、隣りのひととは違うんだ……と。そういう仕方でしか。われわれは、自分というものを見つけることが出来なくなってしまったのです。
 私ども、「罪」は厭です。正しい方が良いに決まっています。けれども、私どもは。神に逆らうことで、自分を見つけました。死に支配されることで、自分というものを見い出すようになりました。自分として生きるようになるために、死を自分の主人にしてしまったのです。
 それがアダムの罪ですし。「すべての人が罪を犯した(ローマ5:12)」と言われる所以です。別に、特別な悪さをしている積もりのないひとも「みな罪人である」っていうのは、そういう意味なんだと思います。

W.
 この罪から。私どもは、キリストさまによって救われている。そして、今、このキリストの永遠の命を纏わされている……としたら。どんなにか、素晴らしいことでしょうか。信仰っていうのは、ここの所なんだと思います。

 私ども、「罪」は厭です。正しい方が良いに決まっています。
 それで、たとえばパウロは。キリスト教に回心する前ですが。一生懸命、神の律法を守ろうとしていました。罪は厭だからです。正しくなろうと、一生懸命に規則を守りました。それで「自分には罪がない、だから天国に行ける」って言っていました。
 だけども、そうやって思う、その「自分」というものが。そもそも罪によって作り上げているんです。だから死に支配されている「自分」です。
 死に支配されたままで、「私は正しい」とか、「天国に行ける」とかって自分で言い張るのは。何て虚しいことでしょうか。破れかぶれの興奮状態です。覚醒剤を打ちながら、ロシアン・ルーレットやチキン・レースをやってるのと、かわりません。
 親に逆らい、親を捨てて飛び出した子どもは。自分を見つけたのは良いんですが。その見つけた自分をどうすることも出来なくって。破れかぶれに……。ある人々は、欲望に身を任せ。別の人々は、虚しい禁欲に一生懸命だったんです。
 どちらも、同じです。死の支配に打ち克つことの出来ない人間が。それぞれの仕方で、誤魔化しているのです。

 しかし……親に逆らい、親を捨てることで自分を見つけた子どものことを。イエスさまがお話しになった放蕩息子の喩え(ルカ15:11-32)では。親は、戻って来るのを心待ちにしています。
 復活のキリストに出会ったパウロは。キリストさまが復活したんですから。死の支配が、キリストによって終わったことを知ったのです。自分と同じ、ただの人間が。しかし神の御子で、罪に死んだ後に生き返ったことから。死の支配が終わったことを知ったんです。
 そして復活のキリストが、自分のところに出て来てくれたことで。神さまは、自分のことも待っててくれてることに、気が付いたんです。
 神に逆らい、神に背いて「自分」を見つけた人間にしなくっちゃぁいけないことは。神さまに立ち返ることでした。
 神に逆らい、神に背いて「自分」を見つけたパウロは。神無しで、破れかぶれになっていました。しかし、そうやって「自分」を見つけたままで、ただ神の下に帰れば良い。キリストの命を受ければ良い。神は、待っていてくださることに、気が付いたんです。

X.
 神に立ち返るとは。キリストの霊を注がれて。復活のキリストを通して、祈りと愛の業で、神さまとの交わりを持つことです。
 ですから……。こうして教会に導かれて来たということ。日々、祈りに導かれていること。キリストさまを思い出して、愛の業に導かれるということは、たいへん有り難いことだと思うのです。
 私どもが、キリストの信徒にさせられているということは。私どもが、死の支配から、既に救い出されているのです。永遠の命の支配に、もう既に取り込まれているのです。

 信仰が、浅いもので。「自分の死」なんて、絶対に考えたくない……と。ジャイアント馬場と一緒です。ひとりでだったら、そう思います。それで、「今日を尊く生きよう」よりも、「暑い、暑い」になってしまいます。
 しかし教会は……今日も、聖餐の食卓が準備されていますが。教会の礼拝は、キリストの、復活の命に触れる場所です。キリストが、死者の中から復活したのだから。死の支配は、もう終わっていて。私どもは、罪と死から救い出されて、もう神さまの下に取り込まれている……と。その、新しい命に与る所です。
 だから、ここでは。私のような意気地のない者でも、力を得て。復活のキリストを通して、祈りと愛の業に、自分を整えて行こうと。己の死を覚えつつ、世の日々を尊く用いよう……と。そういう志しに、また立ち返ることが出来るのだと思います。
 私どもは、苦しみを与えらます。人間の、この世の苦しみとは。結局は、全部、罪と死とから始まっている苦しみです。
 そうした「苦しみ」に直面して。「自分」というものに悩んだら。私ども、その悩みを誤魔化すか。破れかぶれの興奮状態になるか。それとも、信仰にあって、祈りと献身を深めるか。いずれかしか、ありません。
 信仰にあって、祈りと献身を深めることが出来た時。私どもは、改めて。復活のキリストさまとしっかりと出会って。そして、死から命へと救い出されたのだということを。改めて、確かなものとして受け取り直して行くのだと思います。

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