2004年8月8日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教
壁を打つたのを見られていた




聖書研究
ローマ5章    中村栄光教会
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新約聖書@【マタイによる福音書 第5章21、22節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第5章12〜14節】






壁を打つたのを見られていた

中村栄光教会牧師 北川一明

T.
 私ども人間が、仕合わせに暮らすのも。また、不幸になるのも。それには原因や理由が、あります。仕合わせ/不仕合わせは、どういう生き方をしているかということの結果である。言い換えれば、自分の生き方の、報いである……ということです。ひとの行ないには、全て、報いがあるからです。
 無神論者でない。信仰をもっている、とは。私どもの行ないに対して報いる神を、信じているということでもあります。神の報いを畏れかしこんで生きるということです。
 ただ……そういう風に考えた時に、間違えやすいのが、ファリサイ主義になってしまうことです。「功徳を積んだら天国に行けるけど、悪いことをしたら地獄に堕ちる」と。そういう風に、短絡してしまうことです。
 人間は、行ないによらず、信仰によって救われるのです。聖書を良く勉強すれば、それ以外にないようですし。経験から考えても、そうに違いありません。
 ただ、それは……「神の報いなんか無い」っていうことじゃぁ、ありません。神を軽んじたら、必ずその報いを受けますし。弱い信仰ながらも、精一杯に祈り求めたら、神は、必ず報いてくださいます。

U.
 野球の選手に、カタカナで「イチロー」というひとがいます。日本でも超一流で、アメリカに渡っても大成功しています。
 そのひとが言っていました。ピッチャーの投げた球を、バッターとして打って。うまくヒットになるのも、残念ながらアウトになってしまうのも、必ず理由があるというのです。
 バッターが上手に打ち返して、良い当たりだったのに。それが敵の正面に飛んでアウトになることが、あります。逆に、だらしのない弱々しい打ちかたしか出来なかったのに。敵方の守りが乱れてヒットになることがあります。
 われわれには、そう見えますし……。また、二流、三流の選手は、「たまたま、だ」とか、「運が良かった/悪かった」と言います。けれども、イチロー選手に言わせると、そうじゃぁない。「たまたま」じゃぁ、ないんだそうです。
 ピッチャーが投げた球が打ちやすくって、良い当たりが出来そうだ……と。だけど、敵方で守っている相手も一流だったらば。ピッチャーがあの辺りに投げて。バッターはこういう癖で、今、こういう調子だから、打ったらこっちの方に飛ぶだろう……と。予想して守っています。
 それを、バッターがそのまま自然に打ったなら。当たりは良くっても、相手が守っている所に飛んで行って、アウトになります。当たり前だ。それを、「運が悪かった、惜しかった」なんて言ってる連中は、プロフェッショナルとして、どうせうだつが上がらない。
 イチロー選手は、そういう場合は、自然に打つんじゃぁない。とっさに不自然に打ち方を変えて。その結果、当たりは悪いけれども、敵方も守り切れないところに飛んでヒットになる。その上、敵方の守りが乱れるように。打つ前から、見える形、見えない形で様々な牽制をしているから。その結果として守備が乱れるのは、決して「たまたま」じゃぁない……ということのようです。
 この例は、イチロー選手の企業秘密みたいなノウハウの、ほんの一端でしょうが……。ことほど左様に、ヒットになるのも、アウトになるのも、全部理由がある。
 超一流といえども、その理由を全部把握している訳では、ありません。けれども、原因、理由のうち、自分がコントロールする部分が普通の選手より多ければ。その分、普通の選手よりもずっと、成功できるのです。
 (このイチローさんっていう方は。若い頃から、(失礼ながら)割と「生意気」という印象を受けましたけど。自分がコントロール出来ることが多い分だけ、確かな自信があるんだろうと思います。)

V.
 信仰生活にも、報いがあります。
 人間が、仕合わせに暮らすか。それとも不幸になってしまうか。それにも、必ず原因・理由があります。
 人間が、惨めに死んで行くのは。野球に喩えれば、アウトということでしょうか。ゲームセットということでしょうか。それにも必ず原因・理由があります。
 「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです(ローマ5:12)」と、書いてあります。死ぬのは、罪のためだというのです。私ども、罪のために死ぬのです。

 「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです(ローマ5:13)」と、書いてありました。
 信仰のないひとは、二流の野球選手と同じです。死が、罪の報いであることを知りません。
 しかし私どもクリスチャンは、自分がなぜ「アウト」になってしまうのか。なぜ、負けて「ゲームセット」なのか。自分の罪の結果なのに。「理不尽だ」とか、「人が悪い、運命が悪い、神が悪い」と。役に立たない恨み言を言いながら滅んで行く必要は、ないのです。
 神の御旨を、少しは理解しているからです。
 そして、神の御旨を少しは理解しているのですから。少しは、備えをすることも、出来ます。
 超一流の野球選手は。野球で原因、理由を真剣に探求して。野球の成績という報いを受けます。超一流の実業家は、お金儲けのために、その原因、理由を真剣に探求して。その分、事業に成功するという報いを受けます。
 しかし野球よりも、事業よりも、もっと大事なことは。人間として、正しく、仕合わせに生きるということです。野球は出来ても/できなくても、お金はあっても/なくっても。人間として一流、超一流の仕合わせになるのが、信仰生活でしょうし。自分だけが良い目を見るんじゃぁ、ない。愛する者にも、そういう生き方を伝えるのが、伝道だと思います。
 その、仕合わせの基となる信仰の報いとは……; 永遠の命を確信することだと思います。
 永遠の命を確信して、普段は、神の恵みに喜んで生き。大きな困難があっても、信仰の平安を持っていて。そして世を去るときにも天の故郷を仰ぎ見て、安らかに逝くか。それとも、神の恵みに気が付かないで、不平不満だれけで過ごして。小さな困難にもこの世の終わりのように思い煩って。最期、死を前にしてはすっかり絶望してしまうか。
 私どもの受ける信仰の報いとは、そういうものだろうと思います。

W.
 私どもの人生が、神に祝福された恵まれたものになるか。惨めな、希望のないものになるか。私どもの生き方が、原因/理由を作っています。
 それで、昔の信仰者たちは、どうしたかと言いますと。誰も見ていない所でも、全知全能の神さまはご覧になっている。自分たちの行動に対して、必ず報いを与える……と。そう考えました。ひとが見ていても/見ていなくても。きちんと正しい行ないをしよう……と。昔の信仰者たちは、そう、志しました。
 「ファリサイ人は偽善者であった」と言われますけれども。ファリサイ人だって、ひと前で・だけ、格好をつけていた訳では、ありません。そんな宗教だったら、誰にも相手にされません。
 ファリサイ人は、神を信じて、神を畏れ敬っていました。全知全能の神さまは、隠れた行動も、厳しくご覧になっていて。自分たちの行動に対して、必ず報いをお与えになります。ですから、ひとが見ている/見ていないに関係なく。隠れた所でも、正しい行ないをしようとしていました。
 神は「殺すな」と命じておられる。「殺した者は裁きを受ける」と言われてている。だから……殺してやりたいような、腹立たしい連中はいっぱい居るけれども。神の命令には、きちんと従おう。絶対に、誰にも見つからないような場合にでも。神は見ておられるのですから。私は、殺しません、盗みません、姦淫しません、貪りません……と。そうやって頑張っていたのが、ファリサイ人です。
 ところが、ファリサイ人は、救われませんでした。
 それでも不十分でした。行ないによっては、救われませんでしたし。それにも、やはり原因、理由がありました。

 ひとが見ている/見ていないに関係なく、正しい行ないをするなんて。信仰者であれば、当然です。
 ひとが見ている所だけを、飾って、信仰深そうにしているなんて。そういう生き方は、わざわいです。当然の報いを受けます。そういう生き方では、大きな苦しみや、自分の「死」を、乗り越えられるはずが、ありません。
 ファリサイ人は、そんな上辺だけ飾っている偽善者じゃぁ、ありませんでした。
 それでもイエスさまが、ファリサイ人を「偽善者である、わざわいだ」って名指ししたのは。ファリサイ人の、こころの中のことを言ったのです。
 誰も見ていない所で、一生懸命善い行ないをしていたとしても。神さまがご覧になるのは、隠れた所で何をするか、だけじゃぁ、ありません。行ないには出ないけれども、こころの中で、どれだけ悪いことを考えたか。それだって、そっくり、神さまはご存知です。
 ひとが見ている所でだけ、飾っていては。大きな苦しみや、自分の「死」は、乗り越えられません。上辺だけ飾っていたひとは。自分の、本当の苦しみに突き当たった時に、途方に暮れます。
 それと、全く同じです。こころの中をそのままに、行ないだけ正しくしても。そういう生き方では、大きな苦しみや、自分の「死」は、乗り越えらません。
 大きな苦しみや、自分の死に直面した時に。「私はこころの中はグッチャ愚茶だけれども、ああいう悪いことは、やっていない。こういう悪いことも、やっていない。反対に、あんな良いこと、こんな良いことをやって来た」なんて。そんな風に、自分のやったことをいちいち数え上げたって。大きな苦しみは、苦しみとしてやって来ます。死も、やって来ます。
 大きな苦しみや、死の苦しみを乗り越えるのは、まず、心の中で、です。私どもが、新しく……信仰によって造り替えられなくてはならないのは。まず、そのこころの中です。
 それなのに、そのこころを愚茶々々のままにしておいて。行いだけを取り繕ったって。苦しみを乗り越えれるはずが、ありません。ひとが見ていようが、見ていまいが。神がチェックしようが、見逃そうが。苦しみを乗り越えられるはずがありません。
 だから、ファリサイ人たちは、救われませんでした。

 何か結果には、原因があります。私どもの生き方には、報いがあります。
 永遠の命を確信して、……だから、普段は恵みを数えて喜んで生きて。大きな困難があった時にも、こころを平静に保つ。そして世を去るときには、天の故郷を仰ぎ見ながら、安らかに逝く。そうした、祝福された生き方をするには。私どもが、新しく……信仰によって造り替えられていなければ、なりません。

X.
 行ないだけ取り繕ったって、「私は、決して救われない」と。ファリサイ人の中でも、それに気が付いたのが、パウロです。
 神は「殺すな、盗むな、姦淫するな、貪るな」と命じておられる。だから、殺してやりたい連中はいっぱい居るけれども。殺したことは、ない。盗んだことも、ない。姦淫したことも、ない。貪ったことも……。こころの中では貪っていても、それを実行したことは、一度もない。
 それは、そうなんだけど。それじゃぁ、自分は全然救われていないじゃぁ、ないか。問題は、自分のこころの中だ。この罪が解決しなかったら、私は決して救われない……。
 パウロは、それに気が付きました。

 汚いこころは……。努力によって、多少はマシになります。
 けれども、パウロも、ルターも、そういう信仰者たちは。神さまが、全知全能であられることを信じて、神を畏れ敬っていました。
 神は、私のこころの隅々までご存知である。私が、自分で自分を欺いているときでも……。自分自身を欺きおおせたときでも、神は、決して欺かれることのない。全部、知っておられる。私の汚いこころは、頑張って、多少はマシになっているけれども。それじゃぁ全然追いつかない程、穢れている。私は、罪深い。
 だから、私はその報いとして、死に支配されている……。私の生き方は、死を纏っている。それを、悟りました。
 私は、死に支配されているということを悟ったら。そうしたら、どうしてキリストさまが十字架で死んだのか、ようやく、分かったのです。
 キリストさまは、この死に支配された罪を、代わって負ってくださって。十字架で死んだのです。

 問題は、自分のこころの中です。殺していない。盗んでいない。姦淫していない。貪って(いな)……こころの中で貪っても、それを実行していない。けれども、私のこころは愚茶々々で。だから、大きな苦しみや、死の苦しみは、乗り越えられようはずがない。
 その私を、新しく……信仰によって造り替えるために、イエスさまは、十字架にかかって苦しまれたのです。
 パウロの場合は、「幻」と言えば良いのでしょうか。何か訳の分からん光の中で、イエスさまが、突然、語りかけてくださいました(使徒9:4)。マルチン・ルターの場合は、聖書の勉強を通して。イエスさまが、徐々にですけれども、語りかけてくれました。
 私は、罪深く。私は、死に支配されている。そんな私のために、キリストは復活して。死の支配を打ち破って、顕われて、語りかけてくださったのです。それで、イエスさまが十字架で死んだのは、私が罪から解放されるためだった……って。悟ったんです。
 神は、生きておられます。私どものこころの隅々まで、ご存知です。ですから、どんなに行ないを取り繕ったって。私どもは罪人です。裁かれて、肉においては、死ななければなりません。
 けれども、そんな私どもを愛してくださった神は。その罪をキリストに負わせて。私どもを赦してくださった。だから我々は、肉においては死ぬけれども。霊にあっては、永遠の命を生きる者になったのだ……と。
 回心したクリスチャンたちは、それを、悟りました。
 「殺すな、盗むな、姦淫するな、貪るな」……。そういうこと全部、ひとが見てても/見ていなくても、守っている。けれども、それでも尚、救われなかった私が。キリストの十字架の故に、死から解き放たれた……と。そういう信仰を、得たのです。

Y.
 そう、信じた時に。私どもは、豊かな報いを受けます。
 普段、なんでもない時は、恵みを数えて喜んで生きることが出来ます。大きな困難があっても、こころは平静です。そして世を去るときには、天の故郷を仰ぎ見ながら、安らかに逝くことが出来ます信仰によって、新しく造り替えられたからです。

 神が全知全能で、全てをご覧になっている。そのことを信じるのは、窮屈なことじゃぁ、ない。かえってのびのび出来ると思います。
 私ども、こころの中には、よくない思いを、もっています。ひとに対して腹も立てれば。妬みもすれば。ちょっと欲深く、ものをほしがることもありますし。おカネはいつでもほしいです。他人の妻に対して情欲をもって眺めることも、あるかもしれません。
 私ども、こころの中には、邪な思いをもっています。
 余程感情的にでもならない限り、上辺は取り繕えます。こころの中も、ある程度までは、誤魔化せます。
 もしも神さまが、全知全能でなかったら。私どもが、誤魔化したら誤魔化せるんだったら。われわれ、必死で誤魔化さなくっちゃぁ、いけません。いつも必死で。神の目を誤魔化すために、偽善で取り繕っていなければ、なりません。
 今日は神を騙くらかせたか、今日は駄目だったか、いつも気にしてなくっちゃぁ、いけません。
 そして……自分自身、自分の良心は、全知全能じゃぁありませんから。私ども、自分で自分を偽善で誤魔化します。
 けれども、神さまのことは、絶対に誤魔化せないんですから。そんな窮屈なお芝居をしたって、無意味です。お芝居する必要は、ありません。
 私ども、ひとに対して腹も立てれば。妬みもすれば。カネもほしいし、欲も深い。エッチな気分にも、なるかもしれない。神さまは、それを全部、ご存知なんです。われわれが、自分で自分を誤魔化している時にだって。神さまは、私ども以上に、そんなことは分かっているのです。
 我々は、穢れた罪深い者である。そんなことは、そっくり分かっていて。その罪人を、神さまは愛してくださっているんです。
 子どもの誤魔化しと、一緒です。親は、全部お見通しです。だからと言って、愛するのを止めるンじゃぁ、ありません。愛しているから、誤魔化す子どもに心を痛めて。キリストを身代わりに、罪を裁いて。私どもに対して、絶対になくならない愛を、示してくださったのです。

 もうバレてるんですから。この期に及んで誤魔化そうとしたって、意味無いデス。
 私どものやることは、誤魔化すことじゃぁ、ありません。行ないを、取り繕うことじゃぁ、ありません。こころねを入れ替えることです。
 そのために……ひとつひとつ、悪い気持ちを無くそうとしたり。善い行ないをしようとしたり。そういう努力も、良いことでしょうが。こころの底は、なかなか、綺麗になりません。
 特効薬が、あるんだそうです。ひとを「愛する」ことが、善い行ないも生めば、悪い気持ちも消えて行く、特効薬だそうです。

Z.
 神は全てをお見通しで。何から何まで、厳しく監視してチェックしています。
 だから、われわれクリスチャンは、自由です。ちょっとの誤魔化しも効かないんですから、誤魔化す必要が。ありません。だから、ただ出来る範囲で。ちょっとでも自分の中の愛を増そう……と。そういう努力をしたら。神は、喜んでくださいます。
 誤魔化していた子どもが、立ち返って。出来ないなりに、ちょっとでも自分の中の愛を増そうと努力していたら。喜ばない親は、ありません。
 私どものやること、全てに、必ず、報いがあります。私どもの、ほんの小さな信仰の努力も。神さまからは、見られていて。神は、それを必ず喜んでくださいますから、私どもは、自由なんです。

 そうやって愛を積み増す努力をしていたら。こちらも、多少はキリストさまのことが分かってきます。だんだんに、神は愛してくださっていた……ってことも、良く分かってきます。
 それで、普段、なんでもない時は、恵みを数えて喜んで生きることが出来るようになりますし。大きな困難があった時にも、何とか……信仰のない時よりも、耐える力を持っていますし。世を去るときには、天の故郷を仰ぎ見ながら、信じて祈りながら、逝くことが出来るかもしれません。
 私どもの生き方は、そういう風に、必ず報いとなって現われます。
 だから、信じないひとは、わざわいです。信じる者は、幸いです。

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