2004年8月15日
日本キリスト教団中村栄光教会
どうしようもないわたしが歩いてゐる*

*種田山頭火

ロシア型十字架



聖書研究
ローマ5章    中村栄光教会
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新約聖書@【ヨハネ福音書 第5章2〜14節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第5章12〜14節】






どうしようもないわたしが歩いてゐる

北川一明


T.
 キリスト教会に、こうして加えていただいていて、たいへん幸いに感じますのは……。その日の出来事のひとつひとつを、生き生きと感じることが出来ることです。
 「かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる(コヘレトの言葉1:9)」と、聖書には書いてあります。それは、その通りかもしれません。
 「太陽の下、新しいものは何ひとつない(同)」のかもしれません。「見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、永遠の昔からあり/この時代の前にもあった(同10)」……って言われる通り。私どもが、日々、出会います出来事は全部、当たり前のことに過ぎないかもしれません。
 それでも、あくまで「自分にとっては」ですが。日々を、きちんと祈って始めて。事柄ひとつひとつに祈りをもって向かうならば。同じ小さな出来事が、自分にとっては新しいことに、変わります。新しいこととして、受け取ることが出来ます。
 同じことが新鮮に受け取れるならば。それは、こちらが新しくされているのです……。同じ、小さな出来事に対して。新鮮に、生き生きと、それを受け取ることが出来るのならば。それは、祈りによって、こちらが新しくされている、ということです。
 信仰の喜びとは、この喜びです。自分が、新しく改めさせられることで受け取る、喜びです。

 もしも、こうした喜びが、全然ないのならば。人生は、悲惨です。
 自分が新たにされることがないと、どうなってしまうか。悪い《お手本》みたいなものが、ヨハネによる福音書に出てきます。以前にも、ご一緒に読んだことがありますが;
 「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり」……と。エルサレムの神殿から、ほんの100メートルほどの所に、羊の門というのがありまして、そこに溜め池がありました。
 神殿のそばだからでしょうか……。天の神さまの所から、時々天使が池に降りて来ることが、ある。天使が水を動かした時に、真っ先に水に入る者は、「どんな病気にかかっていても、癒やされる」と。そんな言い伝えがありました。
 そこで、池の周り四方と、池を横切る中央通路と、五つの回廊は、いつも病人で溢れていました。水が動いた瞬間に、一番に飛び込もうと。みんな、待ちかまえていたのです。
 「さて、そこに」……と。5節ですが、「三十八年も病気で苦しんでいる人がいた」。38年、この貯水池にいても、病気がちっとも治りません。
 そこに、イエスさまがやって来て。「良くなりたいか」と、聞きます。
 病気なんですから、良くなりたいに、決まっています。それでも、イエスさまは、敢えて「良くなりたいか」とお聞きになりました。どうしてだかは、この病人の答を聞いたら、分かります。この病人は、すっかり歪んでしまいました。
 「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」……と。「病気が良くなりたいのか」と問われて、「誰も助けてくれないんです」と、答えます。
 38年間の苦しみが、このひとをすっかり歪めてしまいました。病気が治りたいとか、自分の足で歩けるようになりたいとか。そんな、当たり前の望みさえ、なくなってしまって。「誰も私を介護してくれない」とか、「ほかの人ばかりが良い目を見ている」。要するに、周りのひとたちが、冷たい、愛が足りないとイエスさまに、言い立てます。
 このひとの生活に、喜びは、ありません。

U.
 それは病気のせいか、と言えば……。確かに、この病人にも同情すべき点は、あります。
 38年病気だったら、誰だって、妬みっぽくなるのは、しょうがないかもしれません。
 その上この病人は。他のひとたちは、優しい、温かい、隣り人を持っている……。それを、ずっと見せつけられて来たのです。
 世の中の迷信っていうのは、得てして好い加減で傍迷惑なものですが。ベトザタの池の言い伝えは「水が動いたときに、真っ先に水に入ったひとだけが、癒やされる」というものでした。
 ところがこの病人は。一番に水の中に入ろうとしても、水が動く度、一番は必ず別の人です。家族でしょうか、友人でしょうか。誰かに助けてもらえる人が、入れてもらって。本当に効き目があったのか知りませんけど、満足して、喜んで帰って行くのです。
 38年間、そういう事が、続いてきたのです。一日三回水が動くとすれば、一年で1000人の計算です。だから38年で、38,000人のひとが、愛する者たちと喜んで帰って行くのです。そうした場面を、見せつけられ続けて来たのです。
 それで、「周りが悪い」。「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」って。そう感じてしまうのは、仕方がないかもしれません。この病人にも、同情できます。

 ですが、38年って言えば。星野富弘さんが、寝たきりになってからよりも、ちょっと長いですが……。そろそろ、同じ位の期間になるのでしょうか。
 星野富弘っていうのは、カレンダーや絵はがきに出てくる……。例の、口で絵筆をとって、詩を書いている、あのひとです。
 体操の先生になって間もなく、跳び箱だか鉄棒だか存じませんけど、落ちて、頸椎挫傷で首から下が一切、動かない。そうなってから、聖書に出会って、キリストさまと出会って。恵みを数えて生きるように、なりました。
 「寝た切りになって、良かった」とは、もちろん言えません。けれども、寝た切りになったことで、それまで知らなかった喜びと、感謝を知るようになって。その喜びと感謝こそが、人間が生きている意味だと分かって……。
 もちろん、体は健康で、しかも、その喜びと感謝を常に意識できるようになるのが、いちばん良いに決まっています。けれども、その喜びと感謝を知らないままで生きて、死んで行くんだったら。それは、もっと悲惨であった……。この喜びと感謝が、ひとの命が永遠の神さまに繋がっ行く、信仰の喜びなんだ……と。
 そうだとしたら。寝た切りになったのは、もちろん、たいへん辛いことではありますが。「事故に遭わなければ良かった」と、そうも、単純には言えません。
 今の困難は、事故のせいですけれども。今の喜びと感謝も、事故のお陰です。
 そして、信仰によって。今の困難は、永遠の前では、どんどん、たいした問題じゃぁないように感ぜられ。今の喜びと感謝は、信仰によって、どんどん大きな、豊かなものになるのです。

V.
 同じ、寝た切りで。しかも、この病人も、イエスさまと出会っているのです。
 さらに、この病人の場合は。……星野さんの場合は、自分から一生懸命、救いを求めたらしいですけど。この病人の場合は。ただ、周囲を妬ましく恨んでいたら。イエスさまの方から、近付いて来てくださったのです。
 そのうえ、健康が回復したのです。
 星野富弘さんは。お母さんが、献身的に介護してくれたお陰で、今の自分が、ある。それで、「神さまがたった一度だけこの腕を動かしてくれたならば母の肩をもんであげたい」と、書いています。……事故で得た喜びと感謝は、そのままに。体の健康を、少しでも取り戻せたら、どれだけ嬉しいかと思います。
 それが、こっちの病人は、すっかりよくなって歩き始めたのです。このどうしようもないひとが、歩いてゐるのです。
 でも、癒やされる時期じゃぁなかったのでしょうか。感謝も、喜びも、知りません。それで、イエスさまに注意されます、「あなたは良くなったのだ(5:14)」。自分で、それも分かっていないようなのです。「もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない(5:14)」と、注意されます。

 キリスト教は、「全てのひとに、救いをもたらす」というのは。この病人や、星野さんのように。神さまは、全てのひとに、こうやって顕われてくださる。キリストさまは、どんな仕方でか。全てのひとに、働きかけてくださるということです。
 けれども、折角キリストさまが現われてくださっても。私どもが、主を正しくお迎えすることが出来た時には、喜びと感謝に溢れます。しかし主をないがしろにしたら、「もっと悪いこと」が起こります。

 私ども、星野富弘の絵と詩に、こころを動かされます。気持ちが、癒やされます。それは、星野さんの喜びと感謝が、理解できるからです。ああいう正しい、清らかなものに反応する清さが、私どものこころの中にもあります。
 けれども、このベトザタの病人にも、同情できます。三万八千回、池の畔で妬ましい思いをさせられていたら。きっと、こんな風になってしまいます。それは、私どもが、このベトザタの病人と同じものも、持っているからです。
 星野さんだって。神さまじゃぁない、人間なんですから。たぶん、同じ邪な思いも、あるはずです。
 それが、聖書の言う、ひとの罪です。

W.
 もう一つの聖書の方では、「罪によって死が入り込んだ(ローマ5:12)」って、書いてあります。
 星野富弘さんでも。キリストと出会う前。自殺したい、生きていたってしょうがないと、何度も思ったそうです。それと、ベトザタの病人の妬み心と。それを思い浮かべた時に。「罪によって、死が入り込んで来た」っていうのが、良く分かります。4節には、死が人間を「支配した」とも書いてありますけど。それも、良く分かります。
 「生きていたってしょうがない、自殺したい」と思っていたのは。死に支配されているからです。
 ベトザタの病人は。「自殺したい」とは思わなかったかも知れません。むしろ、「癒やされて喜んで帰って行く奴らを、殺してやりたい」と思ったかも分かりません。その妬み心も、死に、支配されています。
 喜びと感謝を知らないままだったら、たとえ健康であっても、生きている意味がない……と言うとおり。生きている意味がない。死に、支配されているのです。
 それが、罪です。
 私ども、このベトザタの病人に、同じ悪いものを、こころの中に、持っています。三万八千回、目の前で喜びを見せつけられたら、きっと同じようにします。それが、ひとの罪です。
 この罪に、気が付くことが出来なかったら……。ずっと、このベトザタの病人みたいな気分で居るんだったら。本当に、生きている意味が、ありません。
 生きる意味がないのは、身体が動かないことじゃぁ、ない。「他人のせいだ、周りが悪い」と感じながら、過ごしていることです。感謝できず、喜べないことです。
 それが……。そういう、「周りのせいだ、ヒトが悪い」と妬んでいることが、死の支配なんですから。「救い」とは。われわれが「救われる」とは。私どもでも、良く理解できる、星野さんのような喜びと感謝に、立ち返ることです。

 ただ……そうは言っても。「喜びと感謝に立ち返れ」って言っても、ごもっともなんですが。それが、難しいのは、どうしてでしょうか。
 私ども、あんまり、悔い改めません。あんまり、祈りません。それで大丈夫だと思っているのは、どうしてでしょうか。
 私ども、このベトザタの病人程には……。こんな、何でもかんでも「周りのせいだ、ヒトが悪い」なんて。そこまでのことは、ありません。ちょっとはマシなもんだから。それで「この罪人と一緒だ」とは、思えないのでしょうか。
 しかし死の支配は。「私は大丈夫だ、悔い改める必要がない」と思うところに、極まります。
 自分で、良いつもりで過ごしていたら。改める必要も、ありません。
 「律法がなければ、罪は罪と認められない(ローマ5:13)」と書いてありましたけど、その通りです。聖書を読まない……だけじゃぁ、なく。聖書なんてどうでも良いと決めてしまったら。「自分が罪人かどうか」なんて。それも、別にどうとも、生活には、何の影響も、ありません。罪を、別に罪と認める必要も、ありません。
 でも、そうやって罪を認めることが出来なくっても、「死は支配し(ローマ5:14)」ているんです。「アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました(5:14)」って書いてある通り。そういうひとも、死にます。
 いちおう正しく振る舞っているから、「私は正しい、大丈夫だ」と思っていても、「死はすべての人に及ん」でいるのですから。「大丈夫だ」って思っている分、余計に、惨めです。
 先週は、マタイ福音書を読みましたけど。どんなに正しい行ないを積み重ねていたても。こころが本当に清められていなかったならば。やって来る苦しみを、乗り越えられるはずが、ありません。
 死の支配は。「私は大丈夫だ、悔い改める必要がない」と思うところに、極まります。
 「私は罪人でございます」と、教会で聞かれた時には、そう答えるけれども。このベトザタの病人とは全然違って、私は大丈夫だ……。そういう傲慢が、典型的な、死に支配された生き方で。そうした生き方では、日々、新しくされる……。日々に出会う出来事を、新鮮に生き生きと受け取りながら生きる、信仰の喜びは、どこにもありません。
 死の支配は。「私は大丈夫だ、改める必要がない」と思うところに、極まります。

X.
 だけど、それで気が付くことが、あります。……救いはどこにあるのかって言ったら。そういう、罪の極まった所の、すぐ傍なんだと思うのです。
 聖書のもうちょっと先の所には、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました(ローマ5:20)」とも、書いてあります。
 自分は、「大丈夫だ、改める必要がない」と思っているからこそ、こんな自分じゃぁ、まずい……と。それに気が付くっていうこと自体が。もう、新しくされることなんだと思うのです。
 多分、星野さんだって、そうだったんです。ひとを妬んで、運命を恨んで。私が悪くないのにって思っていた自分の惨めさに気が付いた時が。同時に、喜ぶべきことや、感謝すべきことが沢山あったっていうことに気が付く時だった……に違いありません。
 それが、悔い改めるっていう、喜びです。
 「こんな自分じゃぁ、まずい」って。何の希望もなしに、ただ気が付いたら、絶望します。死に支配されている自分の惨めさに、ただ気が付いたら。死に、絶望します。
 しかし、キリストの十字架を通して、それに気が付いたら。キリストの十字架を通して。今までの自分じゃぁ、まずい。これは、死に支配された生き方だって気が付いたら。身の回りに、喜ぶべきこと、感謝すべきことが沢山あったことが、たちまち、分かると思うのです。
 それが、キリストの救いです。

 私どもの日々出会う出来事が。同じ小さな出来事が、自分にとっては新しい喜びと、新しい感謝になった時には。「周りのせいだ、ヒトが悪い」なんていう気持ちで居るはずが、ありません。日々の小さな出来事を通して、尊い神に関係する、尊い何ものかを、見つけています。
 同じ出来事なのに、それを新鮮に受け取ることが出来るのは。こちらが新しくされるからです。自分が新しくなっているんです。
 そういう時は、私どもを取り巻く、周りのモノが。自分に敵対するものじゃぁ、ない。新しく、愛すべきものに、変わり始めています。
 それが、信仰の喜びだと思うのです。

Y.
 救いはどこにあるのかって言ったら。罪の極まった所の、すぐ傍なんだ……と。そう感じさせられたのは、「アダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです」って書いてあったからです。
 「アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです(ローマ5:14)。」
 「来たるべき方」とは、もちろん、イエスさまのことです。
 死に支配されている、だから亡びるアダムは、実は、キリストを前もって表わしている……っていうのが、聖書の信仰です。

 イエスさまが、人間になったのは。ベトザタの病人の、病気を治すためでは、ありません。この病人の罪を担うため、です。どうせ死んで腐って行く、この下劣な人間の、痛ましさを、その身に受けるために。神が、死に支配されている人間になったのです。
 尊いおかたが、尊いままで遠くに居るんじゃぁ、なくて。この病人のように、罪に死んでしまうために、ひととなられて。十字架におかかりになったのです。ベツレヘムでお生まれになった時から。イエスさまは、もう死に支配されて、死に定められた人間に、なっていたのです。
 だから、「私は、もう変われない」……なんて、思う必要は、ないんです。
 「私は、正しい」と、ずっとそう思い続けてきたから。この病人ほど卑劣じゃぁないから。そのためにかえって「悔い改め」なんて殊勝な気持ちは、持つことが出来ない。そんな立派な信仰者じゃぁ、ない。私は、「ひとが悪い、私が正しい」って言い続ける、罪と死に支配された者なんだ……なんて。信仰にあっては、そんな風に考える必要は、全然、ないんです。
 キリストさまが、そういう罪を・こそ、贖ってくださったからです。
 イエスさまが、ベトザタの病人と同じ卑しさを担ってくださったのですから。「私は大丈夫だ」なんて、傲慢の極みに、留まる必要が、ない。今までが、死に支配された生き方だった……って。認めることが、出来るのです。
 ただ、キリストを信頼すれば。それを認めることは、当たり前のことです。

Z.
 私どもの、信仰の喜びとは。自分が新しくされることで受け取る、喜びです。自分が新しくされることで、日々出会う同じ小さな出来事が、自分にとっては新しい喜びと、新しい感謝になります。
 「新しくされる」というのは。新しく、自分が改めさせられることです。キリストにあって、自分が新しく改めさせられる……っていうことですから。それが、回心です。悔い改めです。
 悔い改めとは。自分のやったことを反省して、申し訳なく思うことばかりじゃぁ、ありません。キリストの恵みを知って。神さまに生かしていただいているっていう感謝と喜びに導かれるだけで、十分な悔い改めです。
 そして私ども。星野富弘の絵と詩とに、こころを動かされます。気持ちが、癒やされます。星野さんの喜びと感謝が、理解できるのですから。ああいう正しい、清らかなものに反応する清さが、私どものこころの中にもあるのです。
 日々を、きちんと祈って始めて。事柄ひとつひとつに祈りをもって向かうならば。日々を、喜びと感謝で過ごすのも。当たり前のことになって行くのだと思います。

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