2004年8月29日
日本キリスト教団中村栄光教会
私ハ大切ナ人間デス


ロシア型十字架



聖書研究
ローマ5章    中村栄光教会
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旧約聖書【ダニエル書 第12章1、2節】
新約聖書【ローマの信徒への手紙 第5章12〜17節】






私ハ大切ナ人間デス

北川一明


T.
 自分が「大切な人間である」ということが、信じられなかったなら。たいへん辛い思いをしなければなりません。キリスト教信仰とは、「私ハ大切ナ人間デアル」と、それを良く悟ること……であると思います。
 今日のローマの信徒への手紙の最後の所。神の恵みを豊かに受けている人は、「イエス・キリストを通して生き、支配するようになる(5:17)」と、書いてありました。私どもクリスチャンは、イエス・キリストを通して生き、支配するようになる……、支配者になるのです。
 何を支配するかが、書いてありませんが……。自分のことを「支配する」……自分の命を、きちんと生きれるようになる……と。他にもあるかもしれませんが。少なくとも、そのことは必ずあるだろうと思います。
 死に支配されたまま生きるんじゃぁ、なくて。自分の命を、きちんと自分のものにする……。ですから、信仰に生きるヒトは、自分の命を尊んで……。仕合わせであるのが、当然です。

 「心の病」と言われるような苦しみを負っているかたたちの中には、自分が「大切な人間」だとは思えないというかたが、あります。自分なんかには価値がないと思うから。それでも生きて行かなければならないときに、こころが病んでしまうのです。
 逆に、私は大切な人間である……はずなのに。現実が、そんなようになっていない。そういうことから、病んで行くかたも、いらっしゃいます。
 信仰は、自分の命を尊ぶことを、知らせますから。そういうかたたちを癒やします。
 至って健康なアタクシの場合は。ちょっと、神経の細やかさが足りないんでしょうか。「世の中で俺ほど大切な人間は、他に、いないゼ」なんて。根拠もなくそう信じ込んでいます。ご近所からは、「あそこに無駄な人間が住んでいる」って、思われてないとも限らないのに。自分が本当に大切かどうか、確かめることもしないで平気で居ます。
 ひとりで勝手に「私は大切だ」と思っているのは……。それは・それで、お気楽で、結構なことかもしれませんが。しかし信仰の知恵で、自分が大切な人間であるということの意味が、もっと本当に分かった時。自分の人生というものを、本当に良いものとして受け取ることが出来るのだと思います。

U.
 「私ハ大切ナ人間デス」という言葉は、新聞(8/21朝日新聞)で、見つけました。実の親による子どもの虐待の問題を扱っている所でした。「虐待を受けた子どもは、自分が大切だと思えなくなる」というのは、分かる気がしますが。そういう話しじゃぁ、ありません。親のことでした。
 虐待する親の多くは、「こんなこと、やっちゃぁ・いけない」と思いながらも、暴力がやめられないのだそうです。
 そういう親たちを助けようっていうプログラムのひとつ(「MY TREE ペアレンツ プログラム」)です。常識もあり、周りに配慮もできる、いっけん普通のお母さん……というか、できたお母さんが。子どもへの暴力がやめられなくなって、治療に来ました。
 治療プログラムの最初の方で、先生から「『私は大切な人です』と、声に出して言ってください」って言われました。そんなこと言ってどうするのか、訝りながらも。プログラムですから、素直に言おうとした。そうしたら、どもって、どもって、その言葉が出てこないんです。
 この自分が、大切な人間なんだ……って。言おうとしていることの意味を、考え初めたら。実の子どもをぶん殴っている自分のような人間が、どうして大切なのか。どうしても言えないんです。一生懸命、私は「タ、イ、セ、ツ、ナ……」って。ひとことひとこと言おうとして、声が出ない。出るのは、涙ばっかりだった。
 自分で、それに慄然としました。
 ショックを受けて、家に帰って。小学校に上がったばかりの男の子を呼びました。……生まれてから6年間、殴る、蹴るをやり続けた相手です。それでも愛している、大切な息子に。「『私は大切な人です』って、言ってみなさい」って……。
 小学生ですから、意味は、分かります。それで息子は言おうとして。子どももやっぱり、言えません。言葉に詰まって、泣き出してしまった。それで、親子でただ抱き合って泣くしかなかった……と。
 そのかたは、幸い後に症状がずいぶん緩解したので、そういうことを話してくれました。

 鈍感で、図々しくって乱暴で。子どもをぶん殴っても平気な親だったらば、もっと悪いですけれども。そういう悪い親なら、その親子の場合ほどには、子どものこころは傷付かなかったかもしれません。
 そのお母さんの場合は; 子どもを愛して、大切に思っている。「親の苛々を子どもにぶつけるなんて、最低だ」と、それも良く分かっている。分かっていながら、どうしても自分を押さえることが出来ないで。だから「私は、最低の人間だ」って、悲痛な気持ちで殴りかかってくるから。子どもは、余計に傷付くんです。
 子どもの側からすれば。最低の親から生まれたんですから、最低以下の子どもです。しかも、その最低の人間から小突き回されるんですから。「自分は大切な人間です」なんて。どうしたって、認めることが出来ません。自分を大切に思えないのは。親が、やっぱりそう思えていないからです。二人とも、悲しくって、泣きます。

V.
 自分が大切でないひとは、ないはずです。それなのに、どうしてこんなことになってしまったか……。
 私ども。自分は、コレコレこういう人間だ。こういう人間であるはずだ、あるべきだと思っています。
 そのお母さんだったら、愛する息子の将来を考えて、大事に大事に、育て上げる。自分は、そういう人間だ……とか。アタシだったら。信仰深くって、そのうえ能力もあって。毎週、毎週立派な説教をして、十数人の教会を、たちまち100人、200人の教会にしてしまう……とか。自分は、そういう人間であるべきだ。
 ところが、現実は違います。現実は、ちっとも100人の教会にはならないんですが。どうしてでしょうか。
 それは、決してアタシが無能だからじゃぁ、ない。たまたま時期が悪い、とか。環境が悪い、巡り合わせが悪い……。あるいいは、神の御心ではないんだ……とか。あと……まぁ、そんなことはないですけど、たとえば、うちの教会は信徒が悪い、とか。
 そうやってヒトのせい、環境のせい、御心のせいにしていれば、大丈夫です。それなら滅茶苦茶やりながら、脳天気に「私は大切な人間だ」と、信じていられます。
 それが……。愛する息子に手を振り上げて。その手が、どうしても振り下ろされてしまう。その手を止めるのは、誰でもない、ただ私の意志だ。それなのに、私は手を止めないで、わが子の顔を拳固で殴りつける。
 誰のせいにも出来なかった時に、「私って、何者なんだろう」……。それが、ずっと続いたら。「私は大切な人間です」なんて思えなくなってしまう……ことも、あろうかと思います。
 そのお母さんも、ぜんぶ自分のせいだと思っていました。ですから、どうしても自分で自分が赦せませんでした。その苛立ちが。ますます、近くの弱い者への暴力になっていた。
 それに対して、治療プログラムは「暴力はいけません」なんて、役にも立たない理想は、言いません。「こどもが、身体だけじゃぁない、身体よりもこころがもっと傷付いてますヨ」なんて。そんなことは、カウンセラーよりも、お母さん自身がとことん痛感していますから。ンなこたァ言いません。
 何故、暴力になるのか。愛する者に対する「怒り」になるか。原因になっている、おかあさんのこころの傷を……。お母さんのせいじゃぁ、ない。むしろ環境や社会のせいで、周りのひとの悪意で、たまたまの巡り合わせで。これまでお母さんの方が傷付いてきた。悔しい、惨めな思いをして来た。心理療法は、そういうことを、お母さんの味方になって、明らかにするんだそうです。
 そうしたら……。自分が思い描いていた、自分の理想の通りに、自分がなっていない。それは……、私が「価値のない人間だから」じゃぁ、なかった。それとは別な理由だった。私が、私自身が傷付いて来たからだった……と。
 そう思ったら。その時は、自分で自分のことを受け入れることが、出来ています。こんな可哀想な、傷付いて来た私……。しかも、真面目だ・もんだから、それを全部自分の責任と思ってしまった。そんな私は決して無価値な人間じゃぁ、ない……。
 そう思えた時には。自分の苛立ちを子どもにぶつける必要が、なくなります。自分をどうすることも出来ない苛立ちから、救い出されて。だから子どもにも、「あなたも大切な人間なのよ」と、愛し、労ることが出来ます。「こんなに大切にしているでしょう」……と。実際に、大切にすることが出来るようになって行きます。
 その親子は、そうやって癒やされて行きました。

W.
 こういう福祉の働きは、もとはキリスト教の隣人愛なんていうことが関係あったのかもしれませんが。今は特に信仰とか宗教とかとは関係のないかたたちが、今、そういう尊い働きを、どんどんやっておられます。私ども教会も、そういう尊い業に、積極的にかかわって行くべきだと思います。
 そして、そういう働きの根本には。どうしても、神さまを見上げて自分の大切さを悟る……って。それがないと本当の癒やしにはならないでしょうと思いますから。私ども、まだまだもっと。世の中のかたたちに役に立ってあげられる……ところが。たくさん、手つかずで残っているように、思います。
 「私は立派な母親であるべきなのに」と、苦しんでいるひとに対して。癒やしのプログラムは、「無理することはない」と教えます。「私は、世の中で成功するはずの人間なのに」と苦しんでいるひとに対しては。「世での成功だけが理想ではない」と教えます。
 「自分を受け入れることが出来ない」っていうのは。いちばん大変な苦しみかもしれません。自分が考え出した理想が、自分自身を縛っていて。それで自分を受け入れることが出来ないのなら。そんな間違った理想から、ヒトを解放してあげることは、尊い働きです。
 ただ……そうやって言ってもらって、間違った理想を棄てることが出来た。その後です。世の中で成功する代わりに、何を理想にするんでしょうか。立派な母親になる代わりに、どんな理想を持つんでしょうか。
 「俺は、すっごく大切な人間なんだゼ」って、お調子にのっていい気になるのが本当の癒やしじゃぁ、ないだろう。いっときのことに過ぎないでしょうと思います。
 キリスト教が、豊かな福音を伝え続けて来たのは。自分の死を、きちんと見据えて来たからです。
 人間が、自分勝手に。自分の理想を、アレからコレへ、取っ替えて。新しい理想がうまく行っている間、「私は大切な人間だ」ッて。それじゃぁ、解決になっていません。ひとりで死んで行く時に。何にも出来ずに、死んで行く時に。それでも「私は大切な人間だ」って、喜んでいられるでしょうか。死ぬ時、絶望しなくっちゃぁ、なりません。
 そうやって、人間が、自分勝手に。神さまに関係なく理想を思い描くことを。聖書は、「罪」って言ってるんです。
 理想の一つ一つは、正しいコトかもしれません。「立派な母親」も、「虐待防止」も、「みんなの仕合わせ」も、「世界平和」も。そういう理想のひとつひとつは、全部、それぞれ正しいことです。けれども、そういう理想を掲げる自分が。死んで虚しく滅んでいく自分のままだったらば。どんな理想も、死の前では、挫折させられます。
 神を知らずに、永遠を知らずに、ひとりで勝手な理想を掲げているんだったら。結局は、自分の理想が、自分を苦しめるようになります。理想を掲げる自分の根本が、死に支配されたママだからです。
 だから、罪に縛られているひとは、死に支配されているのです。
 「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下される」って、書いてありました(5:16)。事柄としては良いことを、どれだけ志しても。虚しく死んでいく自分のままで良いことをやっているのならば。天の御国に、実りはありません。ひとつでも罪があれば、もちろん有罪です。そういう意味で、まじめなわれわれも、罪人なんです。

 だけど、続けて書いてあります、「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される(同)」。
 やること、具体的には、大差ないかもしれません。「立派な母親」も、「虐待防止」も、「みんなの仕合わせ」も、「世界平和」も。そういう理想のひとつひとつは、全部、それぞれに正しいことです。洗礼を受ける前でも後でも。やんなきゃいけないことは、同じです。自分を愛し、自分の隣り人を愛するっていうことです。
 だけども、同じ人間が、同じことをやるんでも。キリストの恵みが働いている、その下にあってやる時に。われわれのやっていること、全部が、虚しくならない。良いものになるんです。
 死んだら、消えてなくなります。虚しく死んで行く、その自分のままで、何をやっても。どんなに正しいことをやっても、虚しいんです。それが、死者の中から復活したキリストの力が、今、ここに働いている。それを信じる信仰の中で。同じことをやったら。一切が、全部。いっぺんに、意味のあるものになるんです。永遠に、意味のあるものになるんです。
 いかに多くの罪があっても。どんなに悪いことして来たひとでも。愛する子どもの顔を、拳固で殴ってきたお母さんでも。キリストの恵みが働く中で、生きるならば。それからは、死から救われた中で、ひとつひとつのことを、やれるんです。
 死に支配されたままで、勝手に、一生懸命、自分で自分を「私は大切だ」って言い張るのか。死を克服した、復活のキリストへの信仰のもとで働くのか。前者であれば、どれだけ良いことをやったって、死罪です。「死罪」っていうか、いくら「私は大切だ」って言い張ってたって、死に支配されたまま、滅びます。
 しかし後者であれば。復活のキリストへの信仰のもとで、ひとつひとつのことをやるのならば。いかに罪を犯してきたひとでも、救われて生きることが出来る……って。
 「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されます」とは、そういう意味です。

X.
 死者の中から復活したキリストの力が、今、ここに働いている。それを信じる信仰の中で、ひとつひとつのことをやっていたら。自分が大切な人間だ、と確信します。
 いくら信仰があっても。この世の能力が少ないひとだったら、ケチな働きしか、出来ません。それでも。やってることに、全然成果があがらなくったって。復活のキリストが、今、私に働きかけている。それを信じる信仰の中で、ひとつひとつのことをやっているのなら。神さまの業を、この世で私がやらせていただいているんですから。私は、大切な人間です。掛け替えのない、大切な人間です。
 同じ人間が、同じことをやっていながら。罪によって、死に支配された所から。恵みを受けて。自分のことを、自分が、キリストの命によって支配するようになっているんです。
 それが、「一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになる(17)」っていうことだと思います。
 どんなに大きな罪を犯したひとでも。愛する子どもの顔を、自分の拳で思いっ切り殴ってしまうような、そういうお母さんでも。自分を、永遠の中で支配することが出来るように、変わります。
 「そういうお母さんでも」って言うよりも。そういうお母さんこそ、救われます。
 聖書の今日のところを読んでいて。このお母さんの話題を、ぜひご紹介したいと思いました。
 それは、一つには; 「キリストさまが私どもの身代わりになってくださった程に、私どもを愛してくださった。私どもは、それ程までに大切な存在なんだ」と、キリスト教会は言います。それはその通りなんですが……。
 キリストさまが、私どものために、私どもの身代わりになってくださったということを本当に感じるのは……。そのお母さんみたいに。自分のことを、「こんな私が、どうして大切なんだ」と苦しんでいる時ではないか……と思ったからです。
 少し先の方には、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました(5:20)」って、書いてあります。愛する我が子の顔面を、思い切り殴ってしまうお母さんが、かえって、満ちあふれる恵みに、気付くんです。
 だって……自分で勝手に「私は大切な人間だ」って決めていたら。神さまが、私のことを本当に大切な人として扱ってくださっているのが、かえって分かりません。「復活したキリストの力が、今、ここに働いている」って、それを信じるのは。そういう自分であっては、出来ません。自分が自分で理想を描き出して、自分で頑張っている。そういう昔の自分であっては出来ません。
 後の方に、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、その死にあずかるために洗礼を受けたのです(6:3)」とも、書いてあります。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです(6:4)」とも、書いてありました。
 キリストさまが、十字架で死んで。そういう古い、死に支配された、自分勝手な世界を、全部終わらせました。そのキリストの死に与るとき、「新しい命を生きる」ように、なるんです。
 愛する我が子の顔を、殴りつけてしまう。それを止められないから、「私は大切な人間です」って、どうしても声が出せない。そんな罪が増し加わって。「こんな自分に死にたい」って感じる、そういう所で。古い自分に耐えられない所で。神さまから注がれている、「新しい命」に気付くんだろうと思います。
 神は、高慢な者を厳しく裁いて。へりくだる者に、恵みをお与えになります。同じ人間が、どちらにでも、なれます。至って健康で、「俺は大切な人間だ」って、脳天気に根拠なく威張っていることだって、出来ます。そして「私は大切な人間です」って、声に出して言えない。そんなのは辛いですから。「俺は大切な人間だ」って、勝手でも傲慢でも、そう思っていたいです。
 けれども私ども。誰だって、本当に、自分は間違いなく「大切な人間である」って。そんなこと知っているひとは、いません。誰でも、自分の価値は、本当には知りません。生まれてきた者は、この世に生み出してくださった、永遠からの力の理由を、知りません。だから「私は本当に大切か」。ちょっとは、不安もあります。
 そんな時、「私は偉いんだ、偉いんだ」って無理して、そう考えていたら。死に支配されたままです。誰も認めてくれないまま。「私は偉いんだ」って、ひとりで言い張りながら、滅んで行かなきゃぁ、いけません。
 けれども、「私は大切な人間です」って、どうしても言えなくって、泣き出してしまう者は。その泣き出してしまう真摯な気持ちのままで、祈ったら。「私は大切な人間ですか」って、祈ったら。キリストさまの死んでくださったわけを、御霊によって悟らされると思うのです。
 お祈りで、いちばん嬉しいのは。「私は、本当にこれで良いんでしょうか、全部私が悪いからじゃぁないでしょうか」って。それを尋ねながら、福音書とか。イエスさまのお話しを読む時です。
 そういう時じゃぁないと。復活のキリストさまが一緒にいてくださることは、なかなか感じられません。……けど、そういう時は必ず、神の霊が、ここに、共にある……って、分かります。イエスさまが、私のために死んでくださったことが、分かります。
 福音書を読んだって。私が大切な人間かどうかは、分かりません。けれども、大切かどうか分からない。そんな私を、神は、大切に扱ってくださった……って。それは、分かります。愛されて、赦されていることが、分かります。

 祈って。復活のキリストさまが一緒にいてくださることを感じながら、今日のつとめを果たすことが出来たなら。自分は、絶対に大切な人間です。どんなにつまらない小さな働きしかできなくったって、大切な人間です。
 働きは、貧しくても。神さまが必要としておられる業を、この世で私がやらせていただいているんですから。私は、絶対に、大切な人間です。これ以上尊いものはない。掛け替えのない、大切な人間です。
 そうやって、神さまのために働いている時。死に支配されて、滅んで行くはずだった私が。神さまの永遠の命によって、今は、自分を支配している。死にとって代わって、自分が、今や自分を支配している。天の御国を、ここで少しづつ感じながら。自分の命を尊んで、豊かに生きることが出来るんだろうと思います。

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