2004年9月5日
日本キリスト教団中村栄光教会
林間煖酒焼紅葉(林間に酒を温め紅葉を焚く)*

*白居易を『源平布引滝』より孫引き

ロシア型十字架



聖書研究
ローマ5章    中村栄光教会
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旧約聖書【創世記 第3章8〜13節】
新約聖書【ローマの信徒への手紙 第5章18、19節】






林間煖酒焼紅葉(林間に酒を温め紅葉を焚く)】

北川一明


T.
 先週の礼拝の後、みなさんにもご紹介させていただきましたが。東京の教会の役員さんが、ご夫婦で遊びに来てくださいました。
 大学の先生で、夏休みは少し時間が自由になるのでしょうか。中村に三泊されたそうです。そのうちの二晩、わが家で夕食をご一緒してくださいました。
 奥様が、多少はお酒も召し上がるということで。シャンパン(Lanson)で再会を祝した後、シャトー・オリビエ(Chateau Olivier:グラーヴPessac-Leognan, Graves)というの赤ワインを開けたりなんぞ……(それは土曜の晩じゃぁ、ないです。こちらに着いた木曜日ですけども)……そういうことを致しまして。楽しく過ごさせていただきました。
 礼拝の後、お二人が東京にお帰りになりまして、その後です。スーパーに晩ご飯の買い物に行きました。その時に、なんだか寂しいような切ないような。大きな物が失われたような気分になりました。
 東京で、それほど親しかった訳では、ありません。お二人の趣味とか、仕事とか、そういったことは、よく覚えていません。その程度の関係です。それにしては、たいへん大きな喪失感がありました。
 似ているのが……神学校の先生が、こちらに来てくださった時です。個人的に話しをする機会があって……。ちょっと踏み込んだ質問をして、ワクワクするようなやりとりが出来た、そういう後の気持ちに似ています。
 今回も。信仰のお話しが、出来ました。教会を、神さまに喜ばれるキリストの体に建て上げて行くには、どうすれば良いかを話し合ったのですが……。
 具体的な「あぁした方が良い、こうした方が良い」だったら、それぞれの教会の事情が分かってないと、意味がありません。また、信仰の話を、生活の中の「ほんの一部分」として話すのならば。同じ教会でなければ、なかなか共通の話題には、なりません。
 けれども、「生活の中の一部」じゃぁなくって。自分も含めた「人間って何か」「どう生きれば良いか」という、共通の話題をしていたんだと思います。今を「神に生かされている」っていう、同じ価値観で。自分にとって一番大切なことを話し合いました。それが、世間で言う「友人」というようなものとは少し違った、他にない特別な親しさになったのかもしれません。
 掛け替えのない、良い時間で……。「信仰の交わり」っていうものを、感じさせられました。
 「信仰の交わり」と言っても。のべつ幕なし、ひたすら信仰の話をし続けた訳では、ありません。「四万十川で釣り」をということで、釣りの道具も持って来られたそうで、そんなお話しもしました。けれども、それだって、です。
 たとえば; 豊かな自然の中で、毛針を投げる。針を、本当に虫が飛んできて水面に降りる時みたいな感じに飛ばすことが出来たら大満足で、「獲物がなくても喜んでしまう」なんていうお話しは……。
 ちょっと大げさに言いますと; 飛んで行く毛針の軌跡が描き出す放物線にみられる、神の創造の秩序ですとか。毛針を羽虫になぞらえる、そんな神の創造秩序に擬似的に参与することで自己満足する「人間」というものについて、共に考えていた……なんて言うと、かなり大げさですネ。
 だけども、「秩序」っていいますか……話し合う基準って言いますか……。これが「正しさ」だっていう所で一致していて。その上で、「人間とは何か」「世界とは何か」ということを、共通の関心を話し合います。だから釣りをやったことのないアタシでも、良く分かって面白かったデス。

U.
 新約聖書には、「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになった(ローマ5:18)」って書いてありました。「義」っていうのは、「正しさ」っていう意味です。われわれ人間は、「正しいとされて、命を得る」んです。
 何が正しいか。自分が、その「正しさ」にかかわっているのか。そういう関心が、……暇つぶしじゃぁ、ない。いちばん切実な問題で。それを、同じ価値観で話し合えるのが、「信仰の交わり」なんだろう……と、感じました。

 信仰をもっていようが/もっていまいが。「正しいこと」は、大事です。
 もちろん、誰でも「正義は大切だ」と言います。けれども、それがどれ程切実な問題か……。多くの方が、あまり自覚していないように思います。私どもクリスチャンも、「正義」が自分にとって切実な問題であることを、しょっちゅう忘れます。けれども、実は無意識に、私ども誰でも、「正義」を切実に、真剣に問題にしています。
 サラリーマンの時。赤提灯でクダを巻くのは、たいてい上司の悪口、会社の悪口でした。それだって、「何が正しいか」。シモジモの平社員が一致して、「うちの上司は正しくない」って、テンション上げるんです……昔の言い方ですと「メートルを上げる」んです。
 主婦のみなさんの、いわゆる「井戸端会議」も同じです。ご近所の噂、「カドの誰とかさんは、ゴミの出し方がなってない」でも、「あっちのお姑さんはお嫁さんに虐められている」でも。「本来は、どうであるベキだ」っていう共通のモノがあるから、噂話に夢中になるんです。
 イラク戦争を決断する直前の、ブッシュ大統領とラムズフェルト国防長官も。「正義のための先制攻撃だ」って、(まさかお酒は入ってなかったでしょうが)メートルを上げたに違いありません。
 「正しいことは何か」で、誰もが一生懸命になります。赤提灯でも井戸端でも大統領執務室でも。価値観を共有する者同士が集まって、なんらかの「正義」にかかわることで盛り上がります。「信仰の交わり」も、その点では一緒です。
 主婦も、サラリーマンも、クリスチャンも。誰も、自分のことを「正義の味方」だ、なんて考えてる訳じゃぁないし。そんなに「正義を愛している」わけでもない。自分では、悪いこともします。それでも、何かの折りに「正義かどうか」を大問題にします。
 人間同士、一緒にやって行く時に。「正しさ」が。「正義」が、ヒトとヒトとが一緒にやる、モトになっているから……かもしれません。
 だから、嫌いでも一緒にいなくちゃいけない親戚付き合いでは。特に、「誰が正しい/誰が間違っている」っていうのが、大きな話題になるんです。
 クリスチャンでも/そうでなくても。正しさには、重大な関心を寄せています。それで、同じ価値観で、正義について論じ合う時に、夢中になるんです。

V.
 ただ……赤提灯や大統領執務室と比べたら。「信仰の交わり」は、もっと・ずっと「清らか」なモノです。
 大統領執務室や、大学のテツガク研究室は。同じ正義を論じるのでも「高尚」です。信仰の交わりには、そういう高尚さは、ないかもしれません。なくて良いですが。しかし、われわれの方が哲学研究室よりも「清いもの」では、あるべきだし。そうであるハズです。
 何故かって言えば; 研究室でも、執務室でも、赤提灯でも、井戸端でも。メートルを上げる時には、いつでも。自分が考えている正しさに、ひとが従っているか。それを論じています。
 世の中の人間というものは、サダム・フセインは、会社の上司は、シミッタレの親戚は、「正義に従っているのか?従っていない!」と……。話し合う仲間うちでは「正義」はコレだって共通しているから、盛り上がります。
 ……けど、一生懸命「コレが正義だ、絶対そうだ」って言い張るだけで。アラブ人にも、上司にも、親戚にも相手にされない「正義」ですから。飲んでる時にメートルを上げるだけで。後味の悪い二日酔いも、味わわなくっちゃいけません。
 しかしクリスチャンは。聖書の正義に「ヒトが従っているかどうか」を論じているんじゃぁ、ありません。
 だって私どもは……、「本当の正義なんか、人間には分からない」って。それを知っています。
 クリスチャンが共有する価値観とは。何が正しいかじゃぁ、ありません。神さまの正しさに、自分が従わなくっちゃいけない……って。それが、共通の価値観です。はっきりとは分からない神の御心に、自分は従うべきだし、従いたい……って。ただそのことを、共有しているのです。

 教会が、しばしば厭なものになるのは。他人に対して「あのひとはもっとこうすべきだ」って。自分が正義を知っているつもりになる時です。
 信仰の話題は。御心は何か、です。自分がそれに従っているか、です。ですから、同じ正義を語るのでも。イラク戦争に踏み切る直前、厭な親戚と法事で顔を合わせる直前と、切実さは同じでも……。全然違った清らかさで、話し合えるんです。
 それが、私ども信仰者の「正しさ」にかかわる態度だと思います。われわれは、正義を知っているんじゃぁない、ヒトをそれに従わせるんじゃぁない。正義を尋ね求めて、それに従順であろうとしているのです。
 今日の新約聖書の後半には、「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされる(19)」って書いてありました。聖書では、ですから「従順」っていうことが、たいへん大事に扱われています。
 自分の正しさを言い立てるのでは、ない。神の御心に従順であることが、信仰です。

W.
 だけど……本当の「従順」は。なかなか、ないのかもしれません。
 自分だけが正義を知っているつもりで。ヒトに対して「ああすべきだ、こうすべきだ」って、指図するならば、周りはたいへん不愉快です。
 教会で、それが始まると。みだりに「神の名」が唱えられるようになります。「神さまはこうおっしゃってるんだから、あなたは、ああすべきだ、こうすべきだ」って。神の名を借りて他人を責めますから。教会は、世の中よりも鬱陶しい、不愉快なものになります。
 けれども、そういうヒトに対して「ああすべきだ、こうすべきだ」と、口やかましいひとは。たいてい真面目で、自分は従順です。権威に対して、従順です。
 その小さなグループの中の道徳とか、先輩信徒の言うこととかに、従順に従っています。それが正しいか正しくないか、頭を使って考える前に。従うのが、当たり前だ。従うことが出来ないのは、根性が足りないからだ。迷うのは、信仰が足りないからだ……って。
 オウム真理教が典型的でしたけど。教会でも、そうです。何でもかんでも、先輩の言うとおりに従順にやって来たひとが。後輩に、同じように「ああすべき、こうすべき」と指図します。
 「正しさとは何か」、自分で考えることをしないで。ヒトが言ってることを鵜呑みにするのなら。それは「従順」じゃぁないだろう、「奴隷根性」だろォって思います。
 「従順」っていうのは。本人が真面目に考えて「本当にそうだ、そうしよう」と思って、自分から進んでやることでしょう……。進んでやっているのなら。進んで御心に従うのは、タイヘンですけど、充実しますから。ヒトに対して「ああだ、こうだ」、ウルサイことなんか言えなくなくなるハズです。
 けれども、われわれ……なかなか、自分で考えません。宗教なんて「ムツカシイから」と言って、自分で考えず、一方的に教えてもらいたい。それで、奴隷の従順さになります。
 逆に、自分で考えるのでも。中途半端に、いい加減に考えると。今度は、従順ではなくなります。自分に都合の良い風に、勝手に決めちゃいます。「赦されたんだから、何でもOKだヨ」みたいな信仰は。今度は神の御心への従順さを、失っています。
 御心に従順であるのが、信仰なのに。われわれのやることは。奴隷根性で、「アレしちゃいけない、コレしちゃいけない」か。御心に無関心で、「私は救われた」って良い気になっているか。どちらかになることが、多いのではないでしょうか。
 本当は、私どもみんな。「正しい」って何か。絶対に、大切なんです。それなのに。それを見極めることを、やらないで。口やかましく、「アイツは正しくない、コイツも正しくない」って、なるか。「私は正しくない、最低だ」って、泣き上戸にでも、なるか。あるいは「アレも構わん、コレも構わん」って、好い加減になるか……。
 中では「アレも構わん、コレも構わん」の笑い上戸がいちばんマシでしょうけど。それが信仰なら。そんなの、赤提灯でメートルを上げる程度の楽しみです。命の助けには、なりません。なかなか……私ども、不従順か、奴隷根性か……どちらかになってしまうのです。

X.
 「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされた(19)」って、書いてありました。不従順な「一人の人」とは。エデンの園で、禁断の木の実を食べたアダムのことです。アダムから、罪が始まりました。アダムは、不従順でした。
 けれども。「従順」って言っても。何にも考えないで、ただヒトの言いなり、神の言いなりになっているだけだったら。「生きている」とは言えません。アダムが神に背いたことにも、いくらか意味は、あったのかもしれません。
 アダムは、神さまから、木の実を食べちゃぁ駄目だと言われたんですが。言いつけを守ろうか/破ろうか。神さまは、あぁ言ってるけども、「自分」はどうするか。アダムは考えて、神に逆らう決断をしました。その時に、アダムは「自分」で生きている……自立した人間になりました。
 一回、そうやって神さまとは違う「自分」を発見しちゃったからには。神さまと自分は、もう、違うんです。だから……もし仮に、その時は、神さまの言いつけを守ったとしても…=…創世記3章の時点では、リンゴを食べるのを思い止まったとしても。いつかは、御心に背いたはずです。
 「神さまはああ言ってるけども、俺はどうしようか」って思った時点で、神さまと違う「自分」が、もう始まっているからです。その「自分」っていうのが、罪のモトになります。
 それでも……そういう「自分」に気が付かないママ。エデンの園で、チンパンジーと変わらない生活をしているのが良かったのか。それも疑問です。それは「従順」じゃぁなくって「奴隷根性」……かもしれない、と思うんです。
 「従順」とは。自分でちゃんと考えて。判断して。やっぱり神さまに従おう……って。自分の方から進んで従うことです。ロボットみたいに操作されてるだけだったら。生きてることには、なりません。
 ただ……。自分の方から進んでするっていうことは。進んでやらないこともある……っていうことです。自分で考えて、自分で判断するっていうことは。神の御心よりも、自分の考え、自分の判断を優先する……。自分の判断を優先した結果、たまたまそれが神の御心と一致したら。この件については、「神に従おう」って……。
 それは、神さまに従っているのではなくて。自分で決めているんです。「何が正しいか」、御心に従うのではなく。自分で考え、自分で決めているだけです。そうしたら……いつかは神さまと利害が対立して。御心に背きたくなるに違いありません。
 「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされた」っていうのは。アダムの時から、人間は、神さまとは違う「自分」を見つけちゃった……っていうことです。だから人間は、いずれは罪を犯さざるを得ない。今までは「アダムと同じような罪を犯さなかったひと(ローマ5:14)」でも、神さまの正しさとは別な正しさを考え始めている。……そういうことだと思います。
 人間は、そうやって神さまに逆らうことで……。一方で、豊かに生きれるようになった……みたいだけれども。その時から、正しさとは何かを考える度に……。口やかましく「アイツは正しくない、コイツも正しくない」か。情けなく「私は最低の人間だ」か。無責任に、「アレも構わん、コレも構わん」か……。人間同士でも、一致することができなくなってしまったんです。

Y.
 人間同士、一致することができなくなってしまった。ですから、まして神さまとは、敵対する関係になってしまった(ローマ5:10)。
 けれども、人間が、自分で考えて、自分で判断するのは、悪いこととは思えません。必要なことです。ただ、そうすると……神との一致が失われてしまう。だから、ひととの間でも、一致できず。「俺の正義にお前は従わない」って。親戚でも会社でもアメリカ対アラブ世界でも、敵対関係になってしまう。
 ……その一致を。「天国で」じゃぁない、この世にありながら、少しだけ取り戻せるのが、信仰の交わりです。キリストへの信仰です。
 一人一人別々に、きちんと自分で考える「自分」として……、すなわち、神に背いてしまう罪人として、われわれは、自分というものを手に入れました。その代わりに、その代償として、エデンの園から追放されました。私どもは、永遠の幸いを失いました。
 ……その罪を、一人の人の従順が、贖ったから。このキリストへの信仰で一致する時に。私どもは、平和を取り戻す(ローマ5:11)のです。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです(19)」っていうのは、そういう意味です。

 私ども、クリスチャンでも/そうでなくても。「正しさとは何か」切実な関心をもって、話し合います。
 しかし私どもクリスチャンが論じることは、自分の知っている正義に、ヒトが従っているかどうかじゃぁ、ありません。「神さまの正しさに、自分が従わなくっちゃいけない」って、それを、話し合う相手のひとと共有して。良くは分からない御心に、しかしわれわれは従うべきだし、従いたい……って。それを共有して、一緒に「この罪人に働きかけてくる御心とは、何だろう」って、尋ねているんです。
 だから、自分に働く恵みを、見つけることが出来るんです。そういう信仰は、苦難の中にあっても、助けになるんです(ローマ5:3-5)。最低、最悪のことになってしまった時にも。自分のことをしっかり支えて、助けてくれるんです。
 だって、最初から「コレが正しい」って決めていたら、神のメッセージなんか関係ありません。せいぜい、神を持ち出して、自分の正しさの保証にしするだけです。けれども、自分できちんと考えて、判断しながら。同時に、それが本当に御心か、畏れをもって尋ねている時には。自分の考えを、全然超えちゃうような、神さまからの働きかけが、見えてきます。
 しっかり「自分」を保ちながら。けれども御心に従順であろうとする時に。神の恵みに気が付きます。
 そして……そんな、ちょっと矛盾することが出来るのは…(すなわち)…神さまとは違う「自分」としてしっかり立ちながら、同時に神さまに従順であれるのは。私どもが、キリストを主と仰ぐからです。
 「自分」っていうものが、ちゃんと確立していながら。完全に神さまに対して従順であった、キリストさまに従おうとして、そのキリストさまの命に与ろうとしている時に……。しっかりと「自分自身」でありつつ、しかし御心に従順で。神の恵みに気が付くことが出来るのだと思うです。

Z.
 Y教会のNさんご夫妻と、たいへん楽しかったのは。雑談したんじゃぁ、ありません。釣りの話しはしましたが。それも含めて。「フライ・フィッシングを楽しむ人間の、その『楽しみ』とは何を意味するか」も含めて、神の御心を、一緒に尋ねていたんです。
 御心を尋ねる時。御心全部が分かる訳ではありませんが……。恵みの一部には、必ず気が付きます。
 だいいち、そうやって自分が御心を尋ねていること自体が、喜びです。この不信仰な者が、「どうやって神さまに従ったら良いんだろう」って、真剣に、切実に考えているんですから。一生懸命話し合い、考えていること自体が、恵みです。
 「自分が正義だ、みんなが従わない」って。ヒトに相手にされない正義を言い立てていた自分が。「どんな正しさに従えば良いんでしょうか」って、全く逆に。傲慢な自分が、謙遜な信仰者に変えられているんですから。話し合えること自体が、喜びです。
 一人の人の従順によって。私まで、本当に正しい者にされつつあるんです。そういう喜びです。
 教会の交わりとは、そういうものだと思います。
 ……礼拝だって。礼拝は、神さまの御言葉を受ける所ですが。それに対して、罪の告白と、讃美と献げ物を、表現します。それは、御心を尋ねることで実現している交わりの場だし。
 たとえば祈祷会が。クリスチャンとして。御心を尋ねることを共有して、恵みを受ける、そういう場です。
 全て、キリストの命に与ることから始まる、信仰の交わりだと思います。

中村栄光教会
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