2004年9月12日
日本キリスト教団中村栄光教会
いれものがない両手で受ける*

*尾崎放哉

ロシア型十字架



聖書研究
ローマ5章    中村栄光教会
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新約聖書【ローマの信徒への手紙 第5章20、21節】






いれものがない両手で受ける

北川一明


T.
 「恵みはなおいっそう満ちあふれました(ローマ5:20)」と、書いてあります。恵みが満ちあふれる……「満ちあふれる」という気持ちを、いかがでしょうか。実感したことが、ありますでしょうか。
 続いて、「恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです(21)」と、書いてあります。私ども信仰者は、永遠の命に導かれています。
 永遠の命……死んだ後の天国は、どこにあるのか。今、自分に、神の恵みが満ちあふれている……と。恵みが、もう十分で受けきれないほどやって来ていて、溢れ出ている。自分のところから神の恵みが漏れ出てしまっているほど、十分過ぎるほど恵まれている……。そういう状態の先に、永遠の命があります。
 私は、十分過ぎるほど恵まれている……と。クリスチャンは、いつでも、そう感じているのです。それが、信仰です。

 それだけの恵みとは。欲望が満たされる喜びでは、ありません。お金がうなるほどあったら、うれしいですけど。それは「恵みが満ちあふれている」というのとは、ちょっと違います。
 そういう物質的なものは、クリスチャンになっても/ならなくても、同じかもしれません。同じ環境にあって、その受け取りかたが違う……ということです。
 ただ、たんなる「心構え」とか「気の持ちよう」の違いではありません。物質的に恵まれない環境にあって、それを心構えで満足しようとしたら、少しは我慢できるかもしれませんが。恵みが有り余っている、溢れ出ているとは、感じられません。
 溢れる恵みとは、「永遠」とか、「完全」とか……。何か、そういうものと関わった所で、感じることが出来る。そういう種類の喜びです。

 病気で苦しんでいて、それが急に良くなったら嬉しいですけど。それだけだったら、「恵みが満ちあふれる」のとは、違います。病気じゃぁないのが本来の状態だとすれば。病気が良くなったのは、嬉しいけれども、ようやく普通に戻ったことでも、あります。
 ただ……それが、「神さまが、自分の病気を治してくれた」と感じられたら。「私は、神さまに守られていたんだ」と感じることが出来たら。私には、恵みが溢れている……。そう確信させられます。
 同じように、お金でも。私の必要のために、神が、お金をくれた。……どういう形か分かりませんけど、宝籤でも、株でも、神さまが、私の必要を満たしてくれたと感じたら。一万円札が、全部、恵みに見えるかもしれません。
 神さまと関係した所で、私どもは、溢れる恵みを受け取ります。「永遠」とか「完全」とか。そういうものと関係した所で、恵みは溢れます。

U.
 信仰者でありながら、神の恵みを「感じない」というのでは。信仰している意味がありません。「信仰が足りない」と言わざるを得ません。
 しかし、そういう信徒さんが、います。
 上辺は模範的な教会生活をしています。教会の義務は、全部、きちんと守っています。だから、教会では指導的な立場につきます。しかし自分は神の恵みをちっとも感じていなくって。だから・そのために、こころの中は、妬み、嫉みでいっぱいです。
 こころの中がそういう風ですから。やっていることは、他人の批判ばっかりです。ほかの信徒や、自分の教会、よその教会の批判です。
 そういう信徒さんが、います。今日の、ローマの信徒への手紙を書いたパウロが。悔い改める前まで、そういう信徒でした。後には、正しい信仰を世界に広めたひとですが。初めは、そういう信者さんでした。
 神の、溢れんばかりの恵みが分からないで。妬み、嫉みから、他人の批判するのは、もちろん良くないことです。良くない以前に、本人が不幸です。
 けれども、どんなに「良くない」って言われても。溢れんばかりの恵みが感じられないんですから。仕方ありません。
 最初に申しました通り。神の恵みを感じるのは、ただ「心構え」や「気の持ちよう」では、ありません。「永遠」とか、「完全」とか。そういったものが、こころに触れて来ない限りは、どうしようもないですから。どんなに「良くない」って言われても。感じれないものは、どうしようもありません。
 本人も、そんな信仰生活に満足していた訳では、ありません。模範的な教会生活をして、教会の義務を、全部きちんと守ってきたのは……。自分も、善い信仰者を志していたからです。
 ちゃんとした信仰者であろうと志して、信徒の義務を、全部きちんと果たしながら。それでも神の溢れんばかりの恵みが感じられないんですから。そんな自分に満足しません。
 根が真面目なもんですから。もっと一生懸命、奉仕しました。

 信仰者でありながら「神の恵みを感じない」というのでは、信仰の意味がない、「信仰が足りない」と言わざるを得ない……なんて言われても。われわれ、みんなそういう所があると思います。誰でも、自分の今の信仰に満足している訳ではないかもしれません。
 だけどもパウロさんは、真面目ですから。不満なママ、「どうせ、こんなもんだろう」で手を抜くことは、ありませんでした。自分に満足できない分、もっと一生懸命、信仰生活にのめり込みました。聖書に書いてあること、端から全部守って。必死で「教会のため」に働きました。
 その結果、反対者を粛正するまでに至りました。結果的には、人殺しになりました。聖書に書いてあることを守ろうと、最高のことを志して。最低のことをやるようになりました。
 聖書には、ご承知の通り。もちろん、良いことが書いてあります。守るべきことが、書いてあります。みんながコレを守ったら、世界は平和であるに違いありません。
 ですけど……今日の聖書で、後のパウロが言っています。人間に聖書が与えられたのは、自分が正しいひとになるためじゃぁなかった。「罪が増し加わるため」だったと言うのです。
 「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました(ローマ5:20)」と言われます。聖書に、こんな良いことばっかり書かれているのは、人間が、正しいひとになるためじゃぁ、ない。人間が、もっともっと罪深くなるためだ……ということです。
 聖書は、そういうものだった……と、パウロは気が付きました。ほかの信徒や、自分の教会、よその教会の批判ばっかりをしている信徒が、それに気が付いて。世界に恵みを溢れさせる信徒に、変わったのです。こころの中が妬み、嫉みでいっぱいだったひとが。感謝と讃美でいっぱいになったのです。

V.
 聖書に書いてあることは「守らない方が良い」ということでは、ないです。
 聖書に書いてあることをみんなが守てっいたら、世界は平和です。少なくとも、自分の周りの、今ちょっとうまくいっていないひとたち。そういう人たちと、お互いが、聖書に書いてること全部を、みんな守っていたら。お互いもめごとはなくなるでしょうと思います。
 そして、聖書に書いてあることは、守れないことではありません。守れることです。
 守りにくい・は、守りにくいです。全部をきちんと守ったら、現代社会では、普通の社会生活は出来ません。それでも、守れば守れます。
 聖書は、守れるし。守ったらお互いに幸せになれます。それを、守らない方が良いということでは、ありません。守った方が良いに決まっています。
 それなのに……。そういう良いことが沢山書かれたのは。われわれの罪が、増し加わるためだと言われています。
 そうなんだと思うのです。
 昔のパウロは、聖書を全部、きっちり守りました。われわれは、「普通の生活が、出来なくなっちゃうヨ」と……、守りません。パウロとわれわれと、聖書に書いてあることを巡って、逆のことをやっています。
 ですけど、逆のことをやりながら。聖書のお陰で、われわれも、罪を増し加えていますし。パウロも、そうでした。
 まず、私どもは……;
 聖書なんか、あっても/なくても。ほどほどに、善いことを志します。正義や真理を、ある程度は、追い求めます。けれども、「ホドホドに」だし、「ある程度」です。だって現代社会で、聖書に書いてあることを、文字通りに本当に守ったら。普通の生活が出来なくなるからです。
 世界中みんなが守っていたら、そっちが普通の生活になりますし。クリスチャンだけが頑張って守っていたら、周りが、徐々に感化されるということは、あるかもしれませんけど。現代社会で聖書を本当に守っちゃったら、当面は、普通の生活は、出来なくなります。
 けれども、現代社会の「普通の生活」が、ひとを幸せにしている訳じゃぁ、ありません。現代社会の普通の生活が、人間を苦しめています。だからわれわれはキリスト教信仰に関心を持ったのです。現代の「普通の生活」では駄目だから、聖書には何が書いてあるか、読んでみたんです。「普通」よりも、もっと良い生き方のために、キリストに従う決意をしたのです。
 それなのに、「普通の生活が、出来なくなっちゃう」って言って、聖書を守ろうとしないのも……理屈を言えば、妙な話です。
 でも、それが私どもの、自然な気持ちです。現代社会の「普通の生活」には、満足できない。けれども、あんまりタイヘンなこともしたくない……というのが、自然な気持ちです。
 私ども、正義や、真理や、愛や、平和や、福祉を、ある程度は追い求める、そこそこに善い人間です。聖書がなければ、私どもは、善い人間でいられました。それが、聖書のお陰で、「普通の生活」にも満足できない。そのくせ、神に本気で従う気もないことが、明らかになってしまいました。
 聖書が入り込んできたのは、そうやって、罪が増し加わるためでした。
 パウロは;
 パウロは、聖書に書いてあることを、全部守りました。「普通の生活が、出来なくなっちゃう」なんて言い訳しないで。普通じゃなく守りました。
 その結果、他の信徒、自分の教会を批判してばっかりいるひとになりました。自分ばっかり、厳格に聖書を守っているのに。みんなやってないじゃぁないか……って。他の人間、世の中全部を批判してばかりの人間に、なりました。
 パウロだって。聖書がなければソコソコに正しい人間だったでしょうに。聖書のお陰で。「神の恵みが満ちあふれている」というには、ほど遠い人間になってしまいました。
 聖書が入り込んできたのは、人間の、罪が増し加わるためでした。

W.
 それでもパウロは、後には、神の溢れる恵みを、知りました。
 神の溢れる恵みを知ったのは、どこでかっていうと。自分の罪が、どんどん増し加わって。恵みでなしに、罪が、溢れ出て漏れ出すばかりになった時です。

 パウロとわれわれと、やり方は正反対ですけど。同じだと思わされますのは、聖書を「どう使っているか」という点です。
 パウロは、神さまの前で、正しい人間でありたかった。だから、自分は正しいひとです、自分は価値ある人間です……と。そうするために、聖書を使っていました。聖書に書いてあることを全部守って、自分で自分のことを「正しい人間」にしようとしました。
 私どもは、そこまで信仰深くはありません。「神さまの前で」正しい人間であろうとするよりかは。「世間様の前で」正しい人間であろうとします。だから、私どもにとっては、「普通」であることが大事です。
 聖書に書いてあることを、程々に守って。世間の、もっと悪いひとたちよりかは、ちょっと余計に聖書を守って。それで、「私は常識のある、正しい人間だ」、自分は価値がある……って。そう感じます。
 パウロとわれわれと一緒なのは。自分で自分のことを「正しい」とするために、聖書を使っている点です。
 これはわれわれが特別に悪い人間だからじゃぁなくて。むしろ、どっちかって言えば、善い人間だからです。正しいことを、求めているから……。自分で自分のことを「正しい」、「価値がある」って、思いたいんです。

 だけど……。自分で自分のことを「正しい」、「価値がある」ってするのは。本当は、馬鹿馬鹿しい努力です。
 だって人間は誰でも……。自分にとっては、自分はいつでも、正しいんです。
 人間は誰でも、ある程度は、努力もします。ある程度までしかやらないのは。あんまり極端にやったら、病気になっちゃうから。人間として、自然な通りに努力している……とか。時には、投げ出すこともありますけど。それは、しょうがなかった……というだけの理由が、何かしらは、必ずあります。人間は誰でも、いつでも自分は正しいんです。
 そういう人間の中で。世の中の普通のひとは、ただ漠然と、「私は正しい」って思っています。しかし普通のクリスチャンは、「私は正しい」って、もっとはっきり安心するために。聖書に書いてあることを、ほどほどに守ります。パウロは、「私は正しい」って安心するために。聖書に書いてあることを、極端に、全部守りました。
 パウロとわれわれと一緒なのは。自分で自分のことを「正しい」とするために、聖書を使っている点です。
 それでも、聖書は良いものなんです。

X.
 「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」って、書いてあります。
 人間の世界に、聖書が入り込んできたのは……。罪が、増し加わるためでした。だけど、罪が増し加わって。その頂点で、私ども……。恵みが満ち溢れていることを、知ることが出来るのです。
 人間の世界に、聖書が入り込んできたのは……。罪が、増し加わるためでした。
 われわれ、人間誰でも、自分は正しいと思いたい。ちょっと悪いことをしちゃうのは、しょうがない経緯が、あるからで。環境さえ整っていたら、私は正しく、私は価値がある……。誰でも、そう思いたい。
 だけど、聖書を読んだら。イエスさまがおっしゃったこと、なさったことと自分を比べてみたら。「私は正しい」とも、「私は価値がある」とも、ちょっと言えません。
 ひとと比べたら、いくらかマシだということは、あるかもしれません。けど、そんなの比べる相手次第です。下と比べりゃマシだし。上と比べりゃ劣っている……って。ンななァ当たり前です。
 それなのに、自分を正しいもの、価値のあるものと考えたいから。そのためには、何でも利用する。聖書だって、聖なる神さまだって、尊い信仰だって、何だって。「私は正しいんだ」って、そう思い込むためだったら利用する……。
 そういう罪に、パウロが、気が付いたんです。
 人間の世界に、聖書が入り込んできたのは……。罪が、増し加わるためでした。パウロは、聖書のお陰で、卑劣な仕方で信仰を利用するようになりました。卑劣な偽善者になりました。
 けれども、それで終わったのでは、ありません。それが罪だと、気が付きました。どんな尊いものでも、それを罪のために悪用してしまう。自分は、……あるいは人間は、そういう罪に支配された、罪の奴隷なんだ……と。それに、気が付きました。
 それに気が付いた時に。キリストさまが、「人間の罪のために十字架にかかった」っていうことの意味が、全部、分かったんです。
 人間は、どんな尊いものでも、それを罪のために悪用してしまう。そういう罪に支配された、罪の奴隷です。その罪を贖うために、キリストさまが十字架にかかったんだ……って。それが分かったんです。

 罪が増し加わらなかったなら。神の恵みは、分かりませんでした。
 罪が増し加わらなかったなら。適当な所で、自分のことを善いひとだと思っていたら。キリストさまには、気が付きませんでした。善いひと、正しい人間として。「満ちあふれる神の恵み」なんていうことには関係なく、死んで行く所でした。
 だけど、パウロは。聖書のお陰で、尊い信仰まで卑劣な仕方で利用する罪深い者になってしまいました。そして、キリストさまのお陰で、そのことに気が付きました。
 罪に気が付いたら……。そういう仕方で、神さまが、本当の正しさを教えてくださったんだ……って。そんな、罪が増し加わったのも、神さまの導きのうちだったんだ……って。それに気が付きました。
 全部が導きのうちにあった……っていうことにも、気が付きました。そして、満ちあふれる恵みを、感じました。

Y.
 お金が……うなるほどあったら、うれしいですけど。それは、恵みが満ちあふれているというのとは、ちょっと違います。溢れる恵みとは、「永遠」とか、「完全」とか……。何か、そういうものと関わり合った所で感じる、満たされた思いです。
 パウロは、「永遠」とか「完全」とか。そういった所から、自分に導きがあることを、感じました。
 具体的なことは、全然変わらなかったかもしれません。貧乏で困っていた所に、カネが降って湧いた訳じゃぁありません。病気も、パウロは「祈っても治らなかった」って、別な所(2コリント12:7-9)で書いています。
 「自分には、永遠の、完全の、聖なる神さまから導きがあったんだ」って分かった時に。具体的なことは、同じでも。世界が、全く違って見えて来たんです。
 だって、今までは……この先、どうなっちゃうか、分からない。何も確かなものがなかったのに……。
 永遠の神が、導いてくださっている。しかも、自分が最低、最悪の偽善をやっていた……そのことまで、ちゃんと神さまの導きの中にあった。私を、こうやって恵み、祝するために。この豊かな恵みに気付かせるために、最低、最悪のことまで、神は用いてくださっていたんだ……って。それが分かったんですから。最低、最悪に見えることの中にも、導きを見つけることが出来るようになりました。

 このローマの信徒への手紙の5章は、「苦難をも誇りとする」っていう言葉で、始まっています。まぁ、クリスチャンだったら、そうじゃなきゃァいけないとはいえ、なかなか出来ないっていうような言葉で、始まっていました(3)。
 だけど、永遠の神さまから、永遠の命に導かれている……。その溢れる恵みを感じているひとにとっては。苦難の中でも、恵みを見つけることが出来るんです。だから、本当に苦難を誇りにすることも、出来るんです。
 それは、自分に確かな導きがある……永遠の命に向かっての導きがあるって。それを確信させられているからです。

 「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでした」って、書いてあります。
 私ども、人間なんですから。弱い人間なんですから。聖書を利用して、神さまを勝手に利用して、自分のことを「私は正しい」って言い立てたって、良いのかもしれません。そんなこと。その程度のこと、神さまは、織り込み済みです。私どもの罪が増し加わるために、聖書があるんです。
 私どもが、やんなきゃいけないことは。ただ、それを「罪だ」と気が付くこと……。それだけ、です。私は罪人だと気が付いた時に。溢れる恵みに、気が付くんです。こんな罪人を、罪を通して導いていてくださった……って。溢れる恵みに、気が付きます。
 そうしたら、世界が違って見えます。永遠の命に向かって、いろいろなことを通して導かれている。そうした命を生きているっていうことに、気が付きますから。周囲の、あらゆることの中に、神の恵みを見つけることが出来るようになって行きます。
 悔い改めがなければ、信仰は、無意味です。悔い改めた時、世界は、全く違って見えて来て。溢れるばかりの恵みに、気が付くようになります。

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