2004年9月19日
日本キリスト教団中村栄光教会
もっと大切なこと


12世紀オーストリアの写本より



聖書研究
ローマ6章    中村栄光教会
説教集へ

旧約聖書【詩編 第36編2、3節】
新約聖書【ローマの信徒への手紙 第6章1〜4節】






もっと大切なこと

北川一明

T.
 神さまの前に出て……「自分」というものを考えた時に。「ハッ」と。「悪いのは、自分だった。私は最低の人間だ、私が、救われるはずがない」……と。それが分かった、その瞬間に。……逆に、いっぺんに。こんな自分に、神の恵みが満ちあふれた……と。今日のローマの信徒への手紙を書いたパウロは、そう感じました。
 「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた」と、感じました。
 そう思って考えると……「なぁんだ、聖書に書いてある厳しい規則は。私が正しいひとになるためじゃぁ、ない。私の罪が増えるためだったんだ」と、それにも気が付きました。
 今日お読みしました新約聖書の、ひとつ前の所には、そういうことが書いてありました。
 ですけど、それならば。理屈の上では、「じゃぁ、悪いことは、やった方が良いのか」という問題が起きます。罪が増えるために、神さまが厳しい規則を作ったのなら。罪を増やさなくッちゃぁ、いけないんじゃぁないか。
 まぁ……常識から言っても、そんなハズは、ありません。罪が全部赦された後で、また罪を犯しちゃいけないに決まっています。
 恵みが満ちあふれた後で。仮に、もう一回もっと大きな罪を犯したら。きっと、もっと・もっと恵みが満ちあふれます。ですけれども、「悪いこと、せっかく赦されたのだから、もう悪いこと、しちゃいけない」と。理屈を抜きに、私ども、そう感じます。
 ……そう感じながら。しかし私どもは、過ちを、繰り返します。
 けれども、パウロは違いました。
 罪が赦された後は、「もう、罪を犯しちゃ、いけない」とは言いません。「もう、罪の中で生きることは、出来なくなっている」と言うのです。
 私どもが考えます……「折角赦してもらったんだから、もう罪を犯しちゃ、いけない」というのは。罪を犯したくなっても、我慢しなくちゃいけないということです。それでは、「救われた」とは、言えません。そうじゃぁなくて、「もう、罪の中で生きることは、出来なくなっている」……って。生きることが出来なくなっているのです。
 ですから; 赦してもらって、有り難いから……「感謝の気持ちがあるはずだから、もう罪を犯すことが出来ないだろう」っていうのとも、違います。
 「感謝の気持ち」は、「気持ち」ですから。ヒトの気持ちには、波があります。そういう気持ちが強い時には、悪いことはできませんけど。必ず……感謝の気持ちが弱まることも、あります。
 聖書が言っているのは、そういう「気持ち」の問題では、ありません。「存在」の問題って言うんでしょうか。私の上に、神の恵みが満ちあふれた以上、私というものは、罪の中では生きられない。そういう者に変わってしまったのだ、ということです。
 私が……自分が、もう別なものになったのだということです。

 聖書は……それを、「洗礼を受ける」ということと結びつけています。
 私どもは、キリストの恵みを信じて。自分の罪が、キリストの十字架によって赦されたことを信じて、洗礼を受けました。その時に。聖霊の力が働いて、私どもは、造り替えられてしまった。だから、今は、もう罪の中では生きて行くことが出来ない存在なんだ……ということです。
 そんなこと言ったって。実際は罪を犯します。気が付く/気が付かないに関係なく、クリスチャンだって罪を犯しますし。わざわざ意図して、悪いことをすることだって出来ます。
 じゃぁ、どうなのか……。
 聖書に書いてある通り、われわれは。クリスチャンだけじゃぁない、人間は全部。「罪の中では生きることが出来ない」んだと、思います。清い、尊い神さまに造っていただいた以上。誰でも、罪の中で生きることは出来ない。
 それでも罪を犯す場合には。生きることが出来ない状態に、どんどん、なって行っちゃってんだろうと思うのです。だから聖書は、罪は犯すなと。厳しく教えているんだと思うのです。
 そのことを……。
 今度のオリンピックで、「ドーピング疑惑」っていうんですか。男子ハンマー投げのアドリアン・アヌシュ選手が、薬を使って金メダルを取ったらしい……ということで。日本の、室伏広治選手が繰り上がりで金メダルになりました。そういう事件が、ありました。
 あの事件で。そういう「存在」っていうことについて……。選手たち、悪いこと、物理的には、やれば出来ます。だけど、悪いことをやってしまうと……「自分が自分でなくなる」っていうか……。そういう「存在の問題」なのかなって。それが、何かこころにピッタリと分かった気がしました。

U.
 ドーピングの問題は、難しくって。なんでも、普通のかぜ薬の中にも、禁止薬物成分があるものも、あるんだそうです。
 ですから、同じスポーツマンが風邪をひいた時に。その薬物が禁止されている大会に出る予定のひとは、このかぜ薬は使えない。ある薬が、風邪の症状にいちばんピッタリだったとしても。別な薬から選ばなくッちゃぁいけない。しかし、そういう大会に出ないのならば。ピッタリの薬で、風邪をさっさと治しちゃって、何の問題もないんです。
 ですから、薬を使っちゃいけないというのは。道義的に許されないっていうのとは、違います。神さまの前で、絶対に良いとか/悪いとかではなくて。ただルールとして、飲んだら失格にすることにした、ということです。
 薬は、ルールに反して飲むことは、物理的には可能です。私どもが、罪を犯そうと思ったら出来るのと一緒です。簡単に、出来ます。それで、アヌシュ選手の場合、本当に薬を使ったかどうかは知りませんが。他にも、薬を使った人は大勢いるだろうと言われています。
 私ども、ハタで、そういう不正を裁きたくなりますし。実際に、世間は厳しく裁くのですが。不正の背景には、国の事情、個人の事情に大きな違いがあるそうです。
 日本の選手の多くは、名誉のため、また人間の能力や自分自身への挑戦として闘っているのでしょう。しかし世界には、家族、親戚大勢の生活がかかっていて、どうしても金メダルが「必要」な選手もいるのかもしれません。生活どころか、家族の命がかかっていて。金メダルを取れば、何人かの命が救えるという選手だって、あるかもしれません。その点は同情できます。
 それに……; 練習環境、生活環境に差があるのですから。薬さえやらなければ、公平に競技ができるのかと言ったら。国力が違えば、厳密な公平なんて、もともと、ありません。「公平」なんて、もともと幻想です。恵まれたスポーツ先進国の選手に比べて、圧倒的に不公平な環境でしか練習できない選手が、大勢います。
 そういう不利な選手に限って。生活のため、命のために金メダルが必要だ、という場合が多くなります。限界への挑戦だ、名誉だ、なんて。ほとんど「遊び」というか、「趣味」の世界です。こっちは、そんな綺麗事でスポーツやってんじゃぁ、ない。生活と、命がかかっているんだ……って。禁止薬物を使うひとたちの多くが、そういうことなんでしょうか。
 薬自体は、悪くない。ただ、使っているのがバレると、その試合では失格になるという薬を。愛する家族の命を救おうと思って使ってしまうことは……。バレない工夫ができるのならば……やろうと思う選手がいるのは、当然って言えば当然です。
 私ども。キリスト教から言ったら「良くない」とされていることを、全然やらない訳ではありません。罪だと分かっていながら、やる場合は。……他のひとから見たら、「とんでもない」と言われるかも分かりませんけど。自分としては、それが必然だ。これしかなかった、と思うような事情は。たいがい、あるものです。
 そして、罪は、犯せます。
 禁止薬物が使えるのと同じように、罪を犯すことは、出来ます。物理的には、簡単です。だから、スポーツ選手は禁止薬物を使いますし。私どもは、罪を、犯します。

 けれども、スポーツ選手は、禁止薬物を使うことは出来ない「存在」ですし。私どもは、罪を犯すことが出来ない「存在」なんだと思うのです。
 繰り上がり金メダルになった室伏広治選手は。同じハンマー投げの仲間が、そういうことになったのは。「寂しい、悲しい」とコメントしていました。言葉だけ聞いたら、格好つけてるみたいにも聞こえますけど。自分の「存在」っていうことを考えたら。あれは本音……というか。本当に、本心で。一方では、自分が金メダルになって大喜びしながらも。こころのどこかに、物凄い「寂しさ、悲しさ」が残ったんだ……と。私は、思っています。

V.
 生活のため、愛する者の命のために、どうしても金メダルが必要だった。……そうだとしても。あの時も、ほんの数十センチでした。禁止薬物を使ったら必ず金メダルがとれるわけでは、ありません。
 それに、生活のため、命のために、どうしても金メダルが必要だ……というひとは。自分の他にも、いるかもしれません。自分がこっそりルールを破るのなら。他のひとも、こっそりルールを破るかもしれません。
 それを考え始めたら。自分が、確実に金メダルがとれるようにするのに。どこまで準備しても、キリがありません。自分と同じように、ひとも不正をするかもしれない、なんて考え始めたら。どこから、どこまで何を頼りに悪いことをすれば良いのか、頭がグッチャになります。
 だから、そういうことは考えないのかもしれません。
 競技会に出る人は。その競技会は、ルールにのっとって運営されている……と。そういう前提で、選手になって。そういう前提で、競技してるんです。
 自分は、オリンピック選手です。なぜかと言えば、オリンピック選手になるルールにのっとって、選手になったからです。
 ルールの中で選手になって、ルールにそって競技をしている。そのまっただ中で、ルールをこっそり破ったら。自分が選手である根拠は、何なんでしょうか。自分を立てている、そのモトになっているルールを破ってしまっては。自分が何者であるか。その根拠を、自分が毀してしまっているのです。
 クリスチャンが罪を犯すことの恐ろしさは、ここです。
 罪に死に、キリストの正しさによって、私どもは、新しく生きるようになりました。悪いことをしても。こころに邪な思いを描いても。バレなきゃ、この世では、裁きを受けません。バレなきゃ……そういう意味では、平気です。
 だから、罪を犯している……。それだったらば。自分が今生きている根拠を、自分が毀してしまっているのです。罪にしに、キリストにあって新しく生きるようになった、その自分のモトを、自分が毀してしまっているのです。
 不正をしてまで取った金メダルに、いったいどれだけの価値があるのか、というひとがあります。しかし、価値はあります。バレなきゃ、お金がもうかって。自分の生活を豊かにし。家族の……たとえば、手術を受けなきゃ死んでしまう子どもに手術を受けさせてあげて……って。金メダルには、それだけの価値があるから、不正をするひとが後をたたないんです。
 不正をしてまで取った金メダルにも、そういう価値は、確かにあります。
 けれども、そういう価値を手に入れるために失っているものは何かというと。自分自身です。
 バレたら、自分自身を失っていることが、世界中のひとに知られてしまいます。バレなければ、神さま以外は、誰も知りません。けれども、そこで損なわれているものが分自身である、ということは……。バレても/バレなくても。全く一緒です。
 クリスチャンが罪を犯す恐ろしさは、ここです。
 バレた方がどれだけ幸いか……。悪いことがバレてしまって。この世で、人間から裁かれて、人間から、報いを受けた方が……。バレずに、そのまま神さまの前に引き出されるよりも、どれだけ幸いかと思わされます。

W.
 繰り上がりで金メダルになった、日本の室伏選手は。「金メダルを取るよりも大切なことがある」と、発言していました。それは、「金メダルを取るまで努力して来たことだ」と言っていました。
 メダルとか、栄誉とか、お金とかは、結果であって、「大切なのは、努力である」なんて言えば。何だか誰でも言えるような、当たり前のこと……。当たり前なだけに、力のない空虚な言葉に聞こえるかもしれません。
 だけど、自分が罪を犯したら。自分の、存在の根拠を、自分が毀してしまう……。それを知っている私どもクリスチャンは、室伏選手の言葉の意味が、分かると思うのです。
 自分は、……彼の場合は、ハンマー投げですか。自分は自分の競技を愛してきました。その競技に参加するライバルたちを、尊敬しつつ、闘ってきました。絶対に負けないように、金メダルを取れるように、努力して来ました。
 そして、日本中から金メダルを取ることを期待されていました。だから、是非とも金メダルを取りたかったでしょうと思います。
 そして、尊敬するライバルたちの中には。不正をやっているという噂がある。自分が正々堂々と闘って、実力ではトップだったとしても。不正をやっているひとに、負けるかもしれないし。負けても、不正がバレなければ。自分に実力がなかったことになります。
 だけど、自分が不正を暴き立てることは。それは専門外なので、能力的に、無理です。
 そうすると……。自分に残された選択は、二つです。他のひとがやっている以上の不正をやって、何が何でも金メダルを取るか。他のひとがどうあれ、自分はルールを守って、その結果を引き受けるか。いずれかです。
 私ども。そんな世界の檜舞台に出ることは、ありませんけど。私どもに与えられている選択も、同じ二つです。
 キリストによって、罪に死に、新しい義の命を生きるようになりました。全ての罪は、赦されました。これから犯す罪だって、赦されます。何をやったって、赦されます。だから、罪を犯すか。罪を犯さないか。その、いずれかです。
 そう思った時。「金メダルを取るよりも大切なことは、それまでの努力の過程だ」っていう、いっけん月並みな表現ですけど。この言葉の、本当の豊かな意味が、良く分かります。
 それまでの努力の過程っていうのは。どれだけトレーニングをしたかっていうこともあるでしょうけれども。それよりも、もっと根本的なことが、あります。
 ひとに期待され、多くの誘惑も、あり。そういう中で。自分は、精一杯のことをやって、その結果がどうであれ、その結果を、そのまま引き受けよう……と。
 どうも、インチキをやったっていう噂の絶えない勝利者の横で。外から見たら敗者になる悔しさを乗り越えて。この結果は、全部自分のものだと引き受けよう……っていう。そういう風に、自分の気持ちを作り上げていった「努力の過程」が、メダルよりも尊いものなのかなァ……と。

X.
 私どもに与えられている選択も、二つです。私どもは、キリストによって、罪に死に。新しい命を生きるようになりました。全ての罪は、赦されました。これから犯す罪だって、赦されます。何をやったって、どんな酷い罪でも、赦されます。
 だから、罪を犯すのか/罪を犯さないのか。……まず、その二つの選択が、あります。
 そして、私どもは。罪を、犯します。罪は、「絶対にやらない」って決心すればしないで済むものじゃぁ、ありません。気が付いていないところで、ひとを酷く傷付けているかもしれない。危ないかな、と思ってやったことだったら。相手は、こころの中がグチャグチャに傷付けられているかもしれません。
 「私は絶対に罪を犯しません」なんて、そんなこと言える人間は、ありません。罪を犯さなかったとすれば、それは、たまたまです。
 オリンピック選手だって。不正をする気はなかった。だけど、たまたま飲んだカゼ薬に、禁止薬物が含まれていた、なんていうことは。特に、チーム・スタッフが整っていないスポーツ途上国なら、多いかも知れません。
 たまたま、禁止薬物に引っかかったら。そのひとの、それまでの努力の過程は意味がなかったのか……って言ったら、どうでしょうか。
 やっぱり、金メダルを取ることよりも大切なことは、それまでの努力の過程です。努力の過程とは、ただ精一杯のことをし、その結果は正々堂々と引き受ける……と。そういうこころを作り上げて行ったことです。
 ですから、たまたま禁止薬物が入っていたのなら。ただ粛々と、金メダルを返上すれば良いだけのことです。そのことで失われるものは、金メダルという、天国にはもって行けない、ただの物質です。天国にもって帰れるものは、尊い自分自身です。

 私どもが、「罪を犯すか/犯さないか」も。どうしても、「たまたま」である要素が残ります。
 それならば。金メダルを取るよりも大切なことがあるように。「罪を犯したか/犯さなかったか」よりも、大切なことが、あるに違いありません。
 罪は、犯すんです。犯してしまうんです。しかし、それを世の中からどう言われようが、神のご支配の中で、結果は引き受ける。そういう自分を作り上げて行く、努力の過程は。きっと、尊いことだろうと思います。
 決してあってはならないことは。バレなきゃ、平気だから。バレなきゃ、結果を引き受ける必要は、ないのだから……と。救われた後も、そういう生き方を選ぶことです。
 それだと、今のクリスチャンとしての自分自身のモトを、毀してしまいます。罪に対して死んだ私たちが、どうして、そんな「罪の中に生きることができるでしょうか(ローマ6:2)」。自分が自分でなくなってしまいます。
 けれども。どんなに罪を犯しても。神さまのご支配の中で、その結果を引き受ける自分自身を作り上げる。その努力は、祝福されます。どんなに酷い罪を犯したとしても、祝福されます。
 世間に裁かれて、この世の持ち物全部を取り去られたとしても。永遠の命を受ける魂は。神の前で、確かな、立派なものにしていただくことが出来ます。

 私ども、キリストさまへの信仰を持った後……。洗礼を受けた後。欲望がなくなった訳では、ありません。過ちを犯さなくなったわけでも、ありません。
 ただ、邪な思いを抱く自分が、歪んだ自分である。本当は、キリストさまの示してくださった、聖なる生き方へ。そっちの方向に歩み出した……。私どもは、それを知る者になったのです。
 クリスチャンでなくても、そうかもしれません。でも、私どもは、キリストさまを知って、いっそうハッキリと。そういう正しさに向かって歩み出した罪人である……と。今も罪を犯す、けれども、神さまと同じ尊さに向かって歩み始めている。それを、知らされているのだと思います。
 ですから、この世での色々な悩みについては。自分がやって来たことの結果については。隣のひとと比べて、うんと不公平に見えるとしても。私どもは、それを粛々と受け入れて。ただ、自分は悔い改める……と。そういう、祝福された毎日を、この世にあって過ごせるのだと思います。

中村栄光教会
説教集へ