2004年9月26日
日本キリスト教団中村栄光教会
生前葬儀


12世紀オーストリアの写本より



聖書研究
ローマ6章    中村栄光教会
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新約聖書@【マルコによる福音書 第10章38、39節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第6章3〜7節】






生前葬儀

北川一明

T.
 まだ元気な間に自分のお墓を建てる習慣は、しばしば見られますし。このごろは、自分のお葬式を、元気な間に予約しておくということも、ずいぶん増えたそうです。
 昔だったら「縁起が悪い」と嫌われそうですが。費用の問題も含めて。生きていた証しを立てる正真正銘最期のイベントとして、自分で段取りするという考え方が、増えてきました。葬儀の生前予約と言うのだそうです。
 それに比べて、まだ多くはないようですが。このごろは、生きている間に自分のお葬式まで挙げてしまう……。「お葬式」というか、「別れを告げる」という意味で「告別式」を、生きている間に済ませておくことが、あるんだそうです。
 実利上の理由から考えると、……まぁ、合理的です。
 まだまだ気持ちは元気なんだけれども。身体は、もう思うように自由には、ならない。かつて親しかった友だちも、そういう年齢になったという場合です。
 若い頃親しかった誰とかさんが、今は東京に住んでいて。今でも季節の挨拶は交わしている。その誰とかさんが死んだなら。かつての親友として、ぜひとも葬儀には出席したい……。仮に、今すぐ死ねば。ちょっと無理して、東京まで出かけて行く。けれども、5年、10年あとだったら。体力的に、家族が行かしてくれないだろう……なんていう場合があります。
 相手だってそうだろう、と考え始めますと。お葬式に出て、ただ一方的に<懐かしんだり/悲しんだり>よりも。<出かけて行く/来てもらう>……ことが、出来る間に、きちんと別れを告げておこう……と。他にも理由は様々だそうですが。そういう気持ちで、元気な間に告別式をするかたが、あります。
 そういう理由なら、いちおう「合理的」と言えるかもしれません。
 もっとも、それだと葬儀というよりも、、ほとんど「最期の同窓会」という趣旨にも思えます。けれども、わざわざ「生前葬」「生前告別式」と銘打つのは。主催者側に、それなりの決意と覚悟があるからです。
 自分のお葬式をやった後で。電話で、「この間は、遠くまで来てくれて、ありがとう。懐かしかったネ」なんて、参列者と話すようでは。「オマエわ、ユーレーか?」ってことになります。
 「葬儀」という以上、惜しみつつ、「今生の別れ」を告げたということです。もう、自分は死んだものとするということです。相手は、「これを機会にまた電話ででもしゃべりたい」と思ったとしても。自分はそれには応じない。死んだんだから……という覚悟があって、別れを告げたのです。
 大きな会社の創業者が、社葬を行なうなんていう時には。何があっても。たとえ会社が潰れるとしても、もう二度と……。死んだんですから、二度とおおやけの場には出ない、発言もしないということです。
 ただの同窓会じゃぁ、ない。元気な間に、自分が世を去ることを、はっきりと考えて。覚悟して。それで世に別れを告げるのが、「生前葬」と言われるものでしょうと思います。

 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました(ローマ6:4)」と、書いてありました。私どもクリスチャンは。洗礼を受けたときに、いわば、お葬式を済ませた……。私は、死んだのだ、と。洗礼とは、そういう意味がある。イエスさまは、十字架で苦しまれて死にましたけれども。私どもは、その死にあずかるものとなったのだ……というのです。

 自分が洗礼を受けた時に。いったい、それだけの覚悟があったのか、と言われますと。少々心許ない気もしますが。洗礼とは、これはキリストの死を、自分も引き受けることだ……と。本来は、そういうものです。

U.
 そう思って、この新約聖書が書かれた時代の「洗礼」を調べましたら。なるほどと思わされることが、二つありました。

 ひとつは。イエスさまより前の時代の洗礼は、ひとりのひとが何回か、受けることも、あったようなのです。
 今でも、大事な席に行く前に……。たとえば、お茶をいただく時なんか。お茶室に入る前に手水を使いますが。罪や汚れを洗い清める「禊ぎ」から来たんだそうです。大事な席に出る前に、汚れを落とした状態にしておく……と。洗礼は、そういう意味で。一生涯のうち何度かは、やっていたそうです。
 それが、イエスさまが十字架でお亡くなりになって、復活した後は……。われわれの罪は、だいたい、そんな水で洗った位で清められるようなものじゃぁ、ない。死ななきゃ、赦されない。
 洗礼とは、そういう罪に対して死ぬ・死を、キリストさまの十字架の死にあやかって、一緒に死ぬことなんだ……と。そういう意味で、洗礼は、お葬式になりました。
 お葬式ですから。二度も三度も挙げることは、ありません。その時の本人の決意が、ちゃんとしていようとも/好い加減であろうとも。神さまの前では、もうお葬式を済ませたんだから。二度やらない。一回限りのものになりました。
 洗礼なんて「信仰の出発点に立っただけだ」と。キリスト教の「お勉強とか、理解とかは、洗礼を受けてから始まるんですヨ」と。私は、牧師にそうやって勧められて受洗したクチです。
 勉強とか、理解とか、そういうことは。確かに、信じる決意をしてからが、本格的な出発でした。信じるつもりも無しに勉強しても、さっぱり分かりませんでした。そういう意味では、洗礼は「出発点に過ぎない」っていうのは、本当です。
 けれども、神さまの前で。キリストの死に与る洗礼を受けた。受けてしまった。ある意味、自分は世の中で、もう死んだのだ……と。それは、望むと望まざるとにかかわらず、もうやられちゃったことですから。本人の理解が進んだから、もう一回洗礼を受け直す……なんていうことは。私どもの教会では、あり得ないんです。

 この、イエスさまの十字架以来、洗礼は、ただ一回切りのことになったということと……。もうひとつ、新約聖書の当時の洗礼は。ヨルダン川にドボンと頭まで沈められたんだそうです。
 この教会は、牧師が水を手にとって、受洗者の頭につけます。水滴の滴と、洗礼の礼で、「滴礼」と言うんだそうです。
 昔でも、川がない砂漠の道路で。病気で死にそうなひとに、緊急に洗礼を授けるという場合には。もって来た飲み水で滴礼をするということもあったみたいですが。一方、頭までドボンと沈める洗礼は、浸す礼と書いて「浸礼」と言います。聖書の時代には、浸礼の方が普通でした。
 今でもやっている教会が、あります。この夏、伝道実習に来た渡辺神学生の教会は、同じ日本基督教団の教会ですが。もとはディサイプルズという教派です。私も、25年前に、その教会にちょっと通って。牧師に叱られたもんだからフテ腐れて3ヶ月でやめちゃったんですが。その教会の洗礼は、「浸礼」でした。
 説教壇の前に、小さなプールというか、タイルの風呂桶みたいなのが埋め込まれてまして。洗礼の時には、そこに沈められます。
 洗礼を受けたひとに聞きました。緊張してるから、沈められた時に鼻から水がはいって苦しかった、とか。本当に、死を連想するそうです。
 90歳とか、ご高齢で洗礼を受けるかたも、あります。心臓麻痺を起こさないとは限りませんし。ちょっとした事故で、たいへんなことにならないとも限りません。
 洗礼を受けてから死にたかった。だから、万が一洗礼の儀式で死んだとしても。それなら・それで、本望だ……と。そういう覚悟で洗礼を志願するかたも、あるみたいです。
 水に全身を浸されるという、この浸礼は。はっきり、溺れ死ぬことを連想させます。生きているひとを、水に押し込めて、溺死させるんです。
 どうして……何によって死ぬのかと言ったら。洗礼を授ける水は、聖い聖水であるハズですが。溺れる方にとっては。水は、自分の身体を覆い尽くしてしまう。身体に絡みついて、死に引きずり込むものですから。……どうしても……死なない限り逃れられない、自分の罪によって死ぬのだなァ……と。
 そして、この死の苦しみを。キリストさまは、十字架の上で本当に最後まで忍ばれた……と。
 私なんかは、水から上がったら、たちまち清められてハッピー・エンドだけど。こうしてハッピー・エンドで終わることが出来るのは、キリストさまが、代わって最後まで苦しんでくださったからなんだ……と。
 浸礼で受洗したかたは、鼻に水が入ってむせながら、それを思わされたそうです。

V.
 その、溺れる水に象徴されるものですが。私どもに絡みつく、そういう「罪」とは。その正体は何だろう……と、考えますと。
 それは・きっと、生きている間に自分の葬儀を挙げたひとが。葬儀の後は、もう拘ることのないものです。死んだ後は、こだわるベキでないし、こだわることが出来ないものです。そういう罪に、死んだのです。
 私どもがキリスト教信仰を与えられて、幸せに感じますのも。その、この世で暮らしていたらどうしても拘ってしまう……。それで二進も三進も行かなくなる罪……不自由にさせられている罪から解放されるから、幸せなんです。
 それを考えた時に。私どもに絡みつく「罪」ですネ……。私どもを、水の底に引きずり込んで溺れさせる「罪の正体」は、何か。聖書の言っていることが、よく分かって来ます。
 聖書に関係なく、普通に「罪」と言われて思い浮かべますのは。「泥棒」とか、「人殺し」とか。そういう法に触れる悪いことです。
 そんな悪いことは、私もやっていませんけども。真面目なヒトは、もう少し深く考えまして。実際に不法に手を染めるかどうかとは別に。そういう「泥棒」とか「人殺し」とかのモトになっている、ひとを憎む気持ちである、とか。妬む気持ち、とか。虚栄心とか。そういうものを「罪」と考えます。
 それは、そうなんでしょうけれども……。
 しかし、それで「罪と闘おう」としますと。「ひとを憎む気持ち」だとか、「妬む気持ち」だとか、「虚栄心」だとか。そういったものは、全部「気持ち」ですから。なかなか、罪に打ち勝つことが出来ません。自然に湧き起こってしまう気持ちは、なかなか抑えられません。
 本当に真面目に、絶対に悪い気持ちは起こさない。本気でそうしようと思ったらば。なんだか自分の「気持ち」を麻痺させて。無関心、無感動の状態にするしかない……ような気さえ、して来ます。
 無関心、無感動で、欲望もない、志しもないならば。妬みも虚栄もないかもしれません。そして、本当に死んじゃったひとは、欲望も志しもなくって、妬むことも憎むことも、ありません。
 じゃぁ……元気なうちに、自分の葬儀を挙げて。もう、この世とは別れを告げた。そういうひとは、その先、無関心、無感動になるのかって言いますと。そうじゃぁ、ないと思うのです。
 生前葬をやって、社会での自分の立場を捨てたひとは。全てに気持ちが麻痺するのかというと、むしろ逆……のことも、あります。
 それまで世の中で必死になっていた時には、気付かなかった、道端に生える雑草にさえ関心を持つことが出来た。草の上を這う虫にさえ感動出たる……。そういうことも、あるし。罪に死ぬとは、無感動になるんじゃぁなくて、そっちの方じゃぁないかと思うのです。

 お葬式までは、挙げなくても。病気で入院して。自分では、もうどうにも動くことも出来ない。治るかどうかも分からないという時です。
 焦ったり、とか。その焦りや不安から、妬み心、恨み心が湧いてくることも、あります。きっと、そういう焦りや不安を生み出すもとが、聖書の教える「罪」です。
 しかし逆に、そういう時に。たとえば、窓の外。空を雲が流れていることに感動する、なんていうことがあります。窓から吹き込む風にも、感動できる……。自然だけじゃぁ、ありません。検温に来る看護師さんの若さにも感動できる……。
 病気に対して焦る気持ちがあった時には、むしろ腹立たしく感じていた看護師さんの態度にも。自分の葬儀を挙げてしまった後では。何か「つづまやかな人間」ってものを感じさせられて。感動し、感謝できる。そういう時が、罪から自由にされている時だと思うのです。
 そう考えると。聖書で教えていることが、実際に感じる感じ方と、だんだん繋がって来ます。
 聖書は、何を「罪」って言っているか。
 結論から言うようですが……; 罪とは、自分のことを、自分で「正しい者だ」と、しようとする気持ちである……と。キリスト教は、そう教えます。それが、少し分かる……気がしてきました。

W.
 私どもは、「正しいこと」を、求めています。自分が正しくなくって苦しむんなら、酷く後悔しますし。ひとが正しくっなくって苦しむ時などは、むかッ腹が立って、黙ってはいられません。
 私どもは、「正しいこと」を求めています。その「正しいこと」の、いちばんの頂点は。クリスチャンですから知ってます。たぶん、「愛」です。
 ですけど。「愛」って言っても、難しいところがあります。
 愛とは、「無関心」とは違うだろう。愛する者が「正しくない」ときは、体を張って「ただしてやる」のが愛だろう……なんていうことを考えてますと。「愛」が、怒りの原因にもなり、憎しみの原因にもなります。
 生きている間に、自分のお葬式を挙げたひとは。それから後、「愛」を無くすのかって言ったら、そうじゃぁないと思いますが。だからといって、怒ったり、憎んだりする「愛」で愛するのとも違います。
 生きている間に自分のお葬式を挙げたひとは…=…水の中に沈められて、自分にからみつく罪に死んで、水から上がったひとは。愛する者が「正しくない」と思ったときには。体を張ってただそうとするよりも。まず、祈るんだろうと思います。
 それで、自分が考えている「正しさ」っていうのを、神さまの前で、省みるんです。
 「自分はもう死んだ者だ」と思うということは。自分が考えている正しさなんて、ほんの小さなつまらないものだった……って。それを悟ること……かもしれません。
 病気で入院して。流れる雲にさえ、感動できる。病気に焦っている時には腹が立ってならなかった看護師の態度にも。……それはきっと、看護師さんの「正しくなさ」に腹が立っていたんでしょうけど。今は、そういう態度の中にも、人間の命の営みを感じ取って、なんだか大いなるものに対して感謝ができる……って。それが、罪から解放されている状態かなァと思うのです。
 罪から解放されて、本当に穏やかにされている時きに、です。そういう時に、自分が大切に感じている「正しさ」っていうのは。今までこだわっていた「正しさ」とは、ずいぶん違ってきているハズす。腹を立てていた時の「正しさ」とは、ずいぶん違った正しさを貴んでいるハズです。
 自分が自分を苦しめていた、ひとのことを「ただしてやろう」っていうような、そういう「自分の正しさ」じゃぁ、なくって。もっと「神さまの所にある正しさ」を思っている時に。流れる雲にも感動できるし。目の前で、具体的な行動としては罪を犯しているヒトのことをも、愛おしむことが出来るんだろうと思います。
 そういう風になっている時には。愛する者の「正しくなさ」にこころが痛んだ時には。まず……真っ先に、お祈りしています。それも、愛する者のための祈りよりも前に、自分の悔い改めと、こころを痛めながらも、祈ることのできる感謝を、祈っているんだろうと思います。
 だから、愛する者に対しても。腹を立てるんじゃぁなく、いちばん良いことが、出来ます。愛せなかった隣り人に対しても。そのひとを、人間として、愛おしむことが出来ます。
 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは……」わたしたちもまた「新しい命に生きるためなのです(4)」って書いてありました。自分のお葬式を済ませてしまって。後は、「新しい命に生きる」っていう生き方は。そういう生き方でしょうと思います。
 「罪に支配されていた古い自分(6)」は。信仰の不思議な力で、滅ぼされたから……。新しい命に生きることが出来るんです。そんな風に新しい命に生きるには、古い・しょうもない自分は、やっぱり死ななきゃ治らない……し。本当に肉体的に死ぬよりも前に。信仰の不思議な力で、今から少しだけ……そういう新しさに、生きはじめているんでしょうと思います。

X.
 古い自分に、きっぱりと死ぬ。もう、おおやけに自分の葬儀を挙げるだけの覚悟をもって洗礼を受けたのかと問われますと。イエスさまから「このわたしが受ける洗礼を受けることができるか(マルコ10:38)」と尋ねられて。一生懸命「出来ます、出来ます」と、一応その気になっていたのですが。私は、「自分が何を願っているか、分かっていない(同)」っていう状態だったのかもしれません。
 それでも、確かに、キリストさまが飲む杯を飲み、キリストさまが受ける洗礼を受けることになったのは、導きのうちにあって、たいへん感謝だと思うのです。
 「自分で自分のことを正しいとしたがっている」……。そんなの、世界中全部の人間に共通です。誰もがそう思っています。けれども、私どもは。「自分は正しい」って考えたがるのが、「私の罪」だ……と。それを信じる、信仰の知恵を与えられているのですから。本当に、不思議な導きのうちにあると思います。
 「正しさ」を巡って、腹が立つ時は、もちろん、いまだにあります。焦る時。妬みや憎しみを感じる時は、ありますけど。そういう時に「自分の悔い改め」をまず祈る……なんて。出来ないことの方が多いですけど。
 それでも、自分が悔い改め、祈るしかないし……。そうした時に、信仰の平安があるんだ・と、いつも思い出さされる……。私どもは、聖霊の知恵を授けられているのですから。やっぱり、神さまから。もう既に葬儀を挙げていただいた者であると思います。
 罪はキリストさまとともに葬られて、今、新しく生かされようとしている……。そう導きのうちにあると思うのです。
 身を慎んで、そういう信仰にしっかりと立っていれば。肉体が、本当にこの世を去る時にも。身の回りの小さなこと、あらゆることに感謝して。また、周りにいるひとたちを愛しながら。信仰の平安のうちを、去って逝けます。
 自分の葬儀を済ませた者にふさわしく過ごしたいと思っています。

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