2004年10月3日
日本キリスト教団中村栄光教会
共同磔刑


12世紀オーストリアの写本より



聖書研究
ローマ6章    中村栄光教会
説教集へ

新約聖書@【ルカによる福音書 第23章39〜43節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第6章5〜8節】






共同磔刑

北川一明

T.
 週刊誌をで、先日死刑の執行を受けた宅間守死刑囚の記事を読みました。付属池田小学校に押し入ったヒトです。犯した罪を、全然反省しない。死刑になることも、怖がらない。そういうヒトでした。
 それでも……その宅間守死刑囚が。子どもを刺している最中です。だんだんと、「誰かにとめてほしい」という気持ちになったんだそうです。
 「申し訳ない」なんていうことではないのですが。「ざまぁ見ろ」と思いつつ、それでも同時に「後ろから誰かが取り押さえてくれたら、ここでやめれるのに」……と。そう感じながら、刺し続けたんだそうです。
 「このヒトにも善い所があったのだ」、なんて。ヒトからそう思われたいなんていう感情の全然ないヒトでしたから。「とめてほしかった」というのは、自分を飾るために言ってるんじゃぁ、ない。100%本当の気持ちに違いありません。殺したい気持ちと、「こんなことは、やめたい」という気持ちと、両方を、同時に持っていたのです。
 それを週刊誌は……宅間守死刑囚のこころの中にある、それが「良心」というものだろうかと書いていました。

 どんな人間にも、良心が、あります。
 ひとのこころに、どうして良心があるのか。それが当たり前だと言うひともあれば、不思議だと言うひともありますが。どんな人間にも、良心があります。
 人間が悪いことをしないのは。ひとつは……悪いことをしたら、何かしら報いがあるからです。罰を受けるとか、信用を失うとか、後でかえって大変になる・とか。悪いことをしたら、損をしますから、損得勘定で・やらない……という面は、誰にでもあります。
 けれども・もちろん・それだけではありません。
 どんな人間にも良心があって。損得勘定にかかわらず、悪いことは、したくない。罪は犯したくないという気持ちも……。必ず、あります。
 じゃぁ、罪を犯した……もう犯してしまったという場合は。
 どんな人間でも、「罰は受けたくない」と。悪いことはしたけれども、その報いは受けないで済ませたい……という気持ちは、あるでしょうと思います。損得勘定から言って。罰は、受けたくない。
 けれども、決してそれだけではありません。
 どんな人間にも、良心があります。「罰は受けたくない」と思いながら。同時に、何とか、この罪を償いたい。損得勘定から言ったら損をしてでも、自分の罪を償いたい……と。そういう気持ちも、また、あると思うのです。
 ですから……。私は教会で、「あなたの罪は赦された」と。そう聞かされた時には、本当にほっとしました。こころの底から、ほっとしました。自分では、自分の罪を償うことが……。どうしても、しようがなかったからです。
 聖書は……。今日の、ローマの信徒への手紙の方ですが。7節、「罪から解放されている」という言葉が、出てきます。
 私どもは、ただ罪を赦されただけじゃぁ、ない。罪から解放されているのです。
 「罪の償いをしないでも良い」っていうんじゃぁ、ない。自分の罪の償いが、すっかり済んでしまって。もう全く、自由になったということです。それが、「罪から解放されている」ということだと思います。

U.
 教会で、「あなたの罪は赦された」と聞かされた時。私は、本当にほっとしました。自分では、罪を償うことが……。どうしても、出来ないように感じていたからです。
 法律を破る、とか。道徳を破る、とか。罪だと感じるのは、そういうことよりも。もっと、ひとを傷付けたからでした。それも、傷付けたくない大切な相手を傷付けたからでした。
 ……あのぉ……お話ししたことが、ありますが。恋愛で、恋人や友だちを傷付けた時に、罪を感じました。
 ハタで聞いたら陳腐な、どこにでもある話しかもしれませんが。ですけど思春期に、一応、結婚とか、将来とか。自分たちの先のことを考えながらお付き合いしているような時です。そういう付き合いかたをしていたのに、二人の間の、暗黙の約束を裏切るような結果になった……。そういう時です。罪というものを、考えさせられます。
 もちろん、失恋の傷なんて時間が癒やす……という一面は、ありますし。そういう挫折や葛藤が、かえって人格を豊かにするということも、ありますし。こんなヒトとは、切れて良かった、助かった、とか。全然、何とも思ってない、蚊に刺された程度で、覚えても・いない、とか。そういうこともあるかもしれません……。
 だけど、いちばん信頼していた大切なひとに裏切られた……と。こころに大きな傷が残ったり、とか。その日から後の一生涯が、今まで思い描いていたものとは、全然違うものにしてしまった、進む方向がおかしくなってしまった、とか。若い、いちばん大切な時を、そっくり台無しにされてしまった、とか。そういうことも、あるかもしれません。
 (アタクシの場合は。綺麗なお嬢さんが何人も、何人も。……まぁ、そういう悩みが尽きなかった訳でゴザイマス。)
 どこにでもある、つまらない話し……とも思いますけど。同じ頃に、法律で「緊急避難」っていう考え方があるっていう話しを聞いて。罪と罰っていうことを、考えさせられました。

 罪って、償わせてもらいたいものです。
 罰を喰らわなかったら、何でも良いっていうんじゃぁ、ありません。罪を犯したんだから、償いたいんです。けれども、罰を受けたからって、それで罪が償えるものではないんだ……って。それを、痛感させられました。
 「緊急避難」っていうのは。ご存知かもしれませんが、「正当防衛」に似ています。
 正当防衛は、悪い奴が向かって来たら。「殺される前に殺しちゃえ」ってなもんですが(刑法第36条)。「緊急避難」は、相手が悪くない場合です。
 自分の命や、財産や、自由を。そういう自分のことを守るためには、ひとを犠牲にせざるを得なかった時です。そういう場合は、ヒトを踏み台にしても、罰せられないっていう法律です(刑法第37条)。
 もちろん、自分の\1,000を守るのに、ひとの\10,000を犠牲にするとか、ひとの命を犠牲するとかは罰せられますけど。たとえば、船が難破して、救命ボートに二人になった。水が一人分しかないっていう時です。私は、水を飲んで生き残った。相手は飲まずに死んだ……。
 ……っていうか。俺が飲ませなかった……から、相棒が死んだ、とか。あるいは、まぁ、自分が助かるために殺しちゃった……と。それでも、そうしなかったら自分の命が危なかったのなら、罰は受けないんだそうです。
 罰を受けなければ、良いのか……。
 確かに、仕方なかったんです。ですから、ヒトからとやかく言われたく・は、ありません。
 苦しんで、苦しんで。あの時は、他にどうしようもないと思ったから。泣く泣く選んだ道だった。それを、安全な場所にいて、「悪いことだ」なんて責めてくるヒトが、いたら。そんな連中は、こっちの立場に立ったら、もっと簡単に「緊急非難」しちゃうだろう……なんて。そう思えば、ヒトからとやかく言われたく・は、ありません。
 でも……。ヒトを傷付けた罪は。なんとかなくなって欲しい。
 罰は受けなくても。相手を傷付けた罪は、そっくりそのまま残っているんです。罰を受けなければこそ、かえって罪が残っています。誰も、罰してくれません。だから、罪が残っちゃいます。
 時間は、逆さには戻せないし。ひとの一生は、一回だけですから。取り返しのつかないことをしてしまったら、もう、取り返しがつきません。
 大切なひとを、傷付けてしまった時。自分の・この罪を、自分から引き剥がしたい。だって、相手に申し訳ないんです。けれども、誰も、私の罪を罰することが出来ない……。だから、罪が残ったままなんです。

V.
 罰してもらいたいのに、人間には、ひとの罪を罰することは出来ないと感じました。
 恋愛で、異性を傷付けることだって。ヒトを殺すのだって、一緒です。人間には、罪を罰することは、出来ません。
 殺人を犯した、その人間に罰を加えることは、出来ます。犯人を罰して、犯人を牢屋に閉じこめることは、人間にも出来ます。死刑にすることも、出来ます。「罪を犯したヒト」の、そのヒトについては、罰することも殺すことも出来ますけど。「罪を犯したヒト」の、その「罪」の方は。人間が、人間に償わせることは、出来ません。やりようが、ありません。
 人殺しの体から、罪を引き剥がしてやって。きれいな、尊い体にして戻してやることは、出来ません。大切なひとを傷付けてしまった、私のことを、悪く言うことは出来ますし。私に対して罰を加えることなら出来ますけど。傷付けてしまったその罪は、帳消しにすることは、出来ません。
 罰を加えようが、罰を免除しようが、どっちにしたって。人間には、ひとに罪を償わせることは出来ない……と。うんと苦しく、そう感じました。
 それなら最初から罪を犯さなければ良い……「じゃぁないかヨぅ」と言われたら。全くもって、おっしゃるとおりでございます。
 ですけど、その時、その時は。いちばん正しいと思っていたことが……。後になって、「それなら最初から罪を犯さなければ良いじゃぁないかヨぅ」ってなることが、いかに多いことか。
 人間が生きているというのは。後から、「あんなことしなければ」って言われたって、どうしようもない。そういう、何か生きていること自体が、「罪と共に在る」っていうか……。それをキリスト教が、「原罪」って言うのかもしれません。アダムの罪をみんなが負っているっていうのは、このことかもしれません(ローマ5:12)。
 この罪が、私の体にべったりとまとわりついて。誰にも罰することが出来ないから。罪は、死ぬまでつきまといます。死んで、ようやく解放されるんです。ただ、死んだ時にだけ。ようやく、罪から解き放されるのです。

W.
 この、強力な罪を。全部一身に引き受けて。この罪を滅ぼしてくださったのが、キリストさまです。
 「緊急避難」は。殺すことは、滅多にありませんけど。私どもの生活は、しょっちゅう緊急避難です。だって自分を守るために、一生懸命にならなかったら。私ども、弱いですから、自分を守り切れません。
 自分のプライドを守るためには。ひとのプライドを犠牲にするのは、やむを得ません。ひとを誤魔化さなきゃいけない時も、あります。
 自分が幸せになるためには。状況が変わったんだから、「あなたの希望には、もう、そえなくなりました」って、言わざるを得ません。それで相手がうんと傷付いたって。だからって言って、自分の人生を、自分が望まない方向に明け渡してしまうことは、出来ません。
 私どもが「自分」っていうものを追い求める存在である以上。自分のことをちゃんと立てるために。日々、緊急避難です。いつも、ひとを犠牲にしなくちゃ、いけません。
 特に踏みつけにしている相手は、誰かって言えば……。その時、いちばん近くにいるヒトです。その時、いちばん大切にすべきヒトです。
 どうでも良いヒトと一緒の時は。自分の幸せなんて、特に関係のない場面でしょう。いちばん大切な隣り人との間でこそ。そこが、自分の幸せを、いちばん真面目に考えるべき場所です。ですから、どうしても。いちばん大切な相手と一緒に居る時に、ヒトのことを、踏みつけにします。
 犠牲にするのは、その相手かもしれません。あるいは、その相手と共犯者になって、別のヒトを犠牲にするのかもしれませんが。誰かを犠牲に、自分を立てる以外に。自分であることが出来ない……のが、私どもの原罪……アダムの罪と言われるものだと思います。

 私どもの心には、良心がありますから。ヒトを傷付けるのは、厭です。大切なヒトと一緒になって、他のヒトを傷付けるのも、厭ですし。特に……。大切なひとを傷付けるのは、絶対に厭です。
 けれども、私どもが、まず「自分」というものを大事にし、自分の幸せを追い求める存在である限り。どうしても、ただ良心のままには行動できません。罪を、犯します。
 罪を犯しても。みんな、お互いにそうなんですから。お互いに緊急避難ですから。ヒトは、罰してくれません。互いに傷付け合うことならできます。相手に報復することなら、出来ますが。罪を罰することは、出来ません。
 私の罪を、誰も罰してくれません。誰にも、この罪から私を救い出すことは、出来ません。

 その、どうしても引き剥がすことの出来ない罪を、神が、罰してくださったのです。私どもの罪は、神さまに罰していただいたのです。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた(ローマ6:6)」っていうのは、そういう意味です。キリストさまが「私どもの罪を負って、十字架で死んでくださった」というのは、そういう意味です。
 私どもの心には、良心がありますから。大切なひとを傷付けるのは、絶対に厭です。それなのに、まず「自分」を大事にし、自分の幸せを追い求める存在である以上。どうしても、ただ良心のままには行動できない。ヒトを傷付けないでは生きられない。そういう、罪に支配された存在です。それが、ここで言っている「古い自分」です。
 「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためである(同)」とは。私どもの、この罪が。キリストと共に十字架につけられて、滅ぼされたのです。
 キリストさまが滅ぼされてくださったから。私どもの罪は死んで。私どもは、罪から、解放されたのです。罪が死んだって言うよりも。「自分の中の罪だけが死んだ」とかっていうことじゃぁ、なくって。罪人という存在であった、古き我が死んだっていうことだと思います。

X.
 教会で、その話しを聞いた時。本当に、ほっとしました。こころの底から、ほっとしました。
 大切なヒトを、傷付けちゃったんです。他にどうしようもなかったんですけど、傷付けちゃったんです。私には良心がありますから。それは罪です。分かってました。
 罰を受けたくないんじゃぁ、なくて。赦してもらいたいんです。でも、取り返しがつかないから、相手が傷付いたことは、もう消し去ることは出来ません。罰を受けて、それが消えるのなら。罰を受けた方がマシなんですが。人間から罰を受けても消えません。
 その罪を、神さまは、全部ご存知で。その罪に、こころを痛めて。その罪を、尊い御子もろとも滅ぼす、最大の罰を与えて。キリストさまが死んでくださったんです。
 相手を傷付けた、その事実は、もう消し去ることは出来ません。会ったら、いくら謝っても足りないから、もう謝りませんけど。この罪のために、キリストさまが死んでくださったんです。
 だから、信仰をもって、このキリストの死の姿にあやかるならば。私の古い自分は、キリストと共に十字架につけられて。もう、死んで。だから、罪無し……と。相手は傷付いたままかもしれません。神にも、隣り人にも申し訳なくって、たまんないですけど。それでも神は、「北川、罪、無し」としてくださったのです。

 教会で、その話しを聞いた時。本当に、こころの底から、ほっとしました。
 それなのに、その平安を、しょっちゅう忘れていました。
 どうして忘れるのかって言ったら。「罪から解放される」っていうのを、「刑罰から解放される」……「罰を受けないで済む」っていうのと、取り違えていたからかなぁと思いました。

 わたしたちの古い自分は、キリストと共に十字架につけられました。実際に二千年前に、共に十字架につけられたヒトが、二人いました。ある意味で世の誰よりも幸いなヒトが、二人いました。
 「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』(ルカ23:39)」って……。
 どうして分からないんでしょうか。イエスさまは、「メシア(救い主)」ですから。この、一緒に十字架につけられた犯罪人の罪を滅ぼして、救ってくださろうとしている、将に、ちょうどその時でした。それなのに、この犯罪人は「自分自身と我々を救ってみろ」って。
 これは、「罪から救ってみろ」って言ってるんじゃぁ、ありません。「刑罰を免れさせてみろ」って言ってるだけです。
 イエスさまが、天の12の軍団を呼び寄せたら。ローマ軍を追い散らして、十字架刑から取り下ろしてあげることなんか、簡単に出来た(マタイ26:53)かもしれません。けれども、十字架刑を免れることは、できても。この犯罪人を、犯した罪から助け出してやることは、出来ません。
 「我々を救ってみろ」って、「刑罰を免れさせてみろ」っていう意味に考えちゃった時。イエス・キリストは、何の役にも立たないヒトでした。イエスさまのお陰で罪から解放された喜びは、全然、分からなくなりました。
 けれども、犯罪人の、もう一人の方は、間違えませんでした……「もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ(ルカ23:40,41)」と。こっちのヒトは、自分のやったことの、報いを受けていると思っていました。
 そして、隣りにいるイエスさまが、「何も悪いことをしていない(同41)」神の御子であることを知って。「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください(同42)」って頼みました。自分が十字架で死ぬのは、当然だ。それで罪が償われるのなら、良いんだけれども。それでも私の罪は、償い切れない。「こんな私を救ってください」って、お願いしたんです。
 「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた(同43)」……。イエスさまから、はっきり、「いついつ天国に居る」って約束されたのは。後にも先にも、このヒトだけです。
 イエスさまは、両方を罪から救い出すために、十字架にかかりました。後の方の一人は。刑罰を免れようっていうんじゃぁ、ない。罪から救い出していただいた……って。それを、完全に信じることができましたから。その場で即、天の楽園が始まったんです。

 キリストさまが、十字架で死んでくださった……。それが私のためだったって分かった時。私ども、肉体の死を死ぬよりも前に。今から……もう罪から解放されている。楽園が、もう始まりかけていることを、この世にあって知れるんだなァ……と。それが信仰だと、改めて思わされました。

中村栄光教会
説教集へ