2004年10月17日
日本キリスト教団中村栄光教会
死んでも生きる


12世紀オーストリアの写本より



聖書研究
ローマ6章    中村栄光教会
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新約聖書【ローマの信徒への手紙 第6章11〜15節】






死んでも生きる

北川一明

T.
 死んでも生きる、生きている者は死なない」とは、ヨハネ福音書(11:25、26)にあるイエスさまの不思議な言葉ですが……。今日の聖書(ローマ5:11)では、「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」……と。
 私どもクリスチャンは、もう既に、もう新しい生き方を、始めている。天国が、もう始まっている……と。だから、私どもは、永遠に生きることができるのだ……と。それを、理解しなさいと聖書は言います。
 キリストさまが十字架にかかってくださったから、です。罪に対しては死んでしまっている。そして、神さまに対して生きるようになった……と、言うのです。

 世の終わりがやって来ると……「その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くす(Uペトロ3:10)」とも、聖書には書かれています。今日、文語訳聖書で、ご一緒に交読いたしました。
 2000年前に、科学的な知識など全くないひとが書いたものですから。「熱に熔ける」という言い方は、ちょっと精確ではないかも分かりません。でも、「宇宙が消え失せる」とは、現代科学も同じことを言います。
 最新の宇宙物理学が、ようやく辿り着いた結論を。教会は、もう既に2000年前から預言していました。終わりの日、宇宙は消え失せます。
 しかし、それまで待たなくても。私どもの肉体は、もうちょっと前に、消え失せます。ですから今日の聖書は、私どもの身体を、「あなたがたの死ぬべき体」と言っています。
 消え失せるんですから。生きている間に、ちょっと悪いことをやっていたって。死んだらそんなもの、関係なくなります。「死んだ者は、罪から解放される(7)」からです。
 では……死んだら、一切が消え失せるのか。何にも残らないのか。
 今、「罪には生きていない、神に対して生きているのだ」と、言える。自分の中のそういう部分が、永遠に続く神の領域です。そういう部分は、キリストと共に生き続けます。
 そして……。「今、神に対して生きている」と言える、そういう生き方が。この世にあっても、今日を本当に生き生きと生きることが出来る、生き方です。
 「悪いこと」、したって構いません。欲望に溺れたって、構いません。どうせ死んだら、そんな罪は関係なくなります。死んだら、自分もろとも、罪も消えて無くなります。けれども、今、悪いことをして。欲望に溺れて、「どうせ消えて無くなってしまう」という生き方をしていて。幸せであるハズがありません。
 だから、信仰が大切なんです。
 信仰が分からなくなる……。神に逆らったままである……。キリストと共に死ぬのではなしに、独りぼっちで勝手に生きて、勝手に死ぬ……。それは勝手ですが、不幸ですし。永遠の命は、ありません。だから信仰が大切なんです。
 信仰とは、そういう死に方では死ぬのではない。だから、そういう生き方で生きるのではない。神に対して、新しい生き方を始めている。
 罪と死に支配されていた所から、そうじゃぁない、キリストに支配される者になっている。「永遠の命」を得て、今から、天国にいるような生き方が始まっているっていうことです。

U.
 聖書の、今日の最後の方に。「罪は、もはや、あなたがたを支配することはない(ローマ5:14)」と書いてありました。
 ですから私ども、悪いことをしても、全然平気なんです。
 信仰によってキリストと結ばれた私どもは。罪に対しては、もう死んで、律法から自由になっています。もう既に、キリストさまの愛によって支配されています。ですから、悪いことをしたって、罪に支配されることは、ありません。永遠の命の約束は、私ども、もう既にいただいているのです。「悪いことをしたら、約束が取り消される」っていうワケじゃぁ、ありません。
 そういう点では、欲望に身を任せて、だらしのない生活を続けたって。誰も困りません。クリスチャンは、罪を犯して、全然、大丈夫です。
 信じていない、キリストと結ばれることを拒んでいるひとたちだって。罪を犯して、全然、大丈夫です。そういうひとたちは、キリストの支配に入れられた訳ではない。罪の奴隷になっているとしても。死んだら、どうせ罪から解放されますから。生きている間、一生懸命、善い行ないを心がけたって。欲望に身を任せて、だらしのない生活を続けたって。死んで消えて無くなるのは、一緒です。
 だから……。信じるひとも、信じないひとも。罪を犯したって、……そういう意味では、全然平気です。特にクリスチャンは、どうせ天国に行けるんだから、全然大丈夫です。
 それなら、欲望に従って生きた方が、良いんじゃぁないか……。それならば、欲望を満たした方が「お得」じゃぁないか……と。自分自身にうんと正直なひとなら、そう考えるかもしれません。アタクシも、根が正直者でございますから。最初、そう思いました。
 でも、代々のクリスチャンたちは。「そうじゃぁ、ない」って、気が付いたんです。自分を、「罪の道具」にしてしまうよりも、自分を義のための道具にした方が、ずっと良い……。
 「ずっと良い」どころか、比べられません。
 死んだら、自分もろとも、罪も消えて無くなります。今、欲望に溺れて生きるっていうのは。将来、自分というものが、「どうせ消えて無くなってしまう」という生き方です。それで、「今」だけだって、幸せであるハズがありません。
 クリスチャンは、消えて無くならないで天国に行けるとしても、です。せっかく天国に行ける自分を持っているのに、消えて無くなる自分で生きているんだったら、幸せであるハズがありません。
 それを……今、キリストと共に生きるのならば。この肉の体は、死によって滅びても。今、死ぬべき体でありながらも、死なない、永遠の尊い命を生き始められるのです。
 「神に対して生きている」、そういう生き方が出来たならば。「永遠の命」を得て、今から、天国にいるような生き方が始まります。天国は、既に約束されているけれど。「罪に死に、神に対して生きている」っていう通りの生き方を選べば。生きているうちから、天国の喜びを味わうことができます。
 だから……。「どうせ罪から解放されるのだから、だらしなく生きた方がお得じゃぁないか」なんて。そんな惨めな生き方は、ありません。私どもは、罪から解放されて恵みの下に居るのだから。絶対に、「神に対して生きる」っていう通りの生き方を、したいんです。

V.
 「神に対して生きる」って。具体的には、どういう生き方か。
 それをここでは、自分を、「義のための道具にする」。自分自身を、「神さまの正しさを顕わすための道具にする」と、教えてくれています(ローマ5:13)。

 道具は、何かの目的のための、手段です。
 人間と動物と、どこが違うのか。近代の科学は、色々なことを考えました。その中のひとつに、道具を持つっていうのが、あります。
 人間と動物と、どこが違うのか。言葉を話すか/話さないか、とか。笑うことができるか/出来ないか、とか。自意識をもっているか/持っていないか、とか。色々なことが考えられました。
 それでも、高等動物を調べてみると、人間にしかないと思われていた能力が。わずかだったら、他の動物にもある……ということが、たいがいは、確かめられるんだそうです。
 道具を使うか/使わないかだって。オランウータンやチンパンジーはもちろん。今時、ゴミをあさるカラスでさえ、道具を使います。
 ですけど、道具をただ使うんじゃぁ、ない。高級な道具が必要な時に、道具で、道具を作るのは人間だけである……って。そういう考えが、あるんだそうです。経済用語ならば、「設備投資が出来る」って言いますか。「道具を作るために道具を使うのは、人間だけだ」って言うんです。
 それだって相対的な違いかもしれません。お猿さんの中には、道具を使って道具を作る賢いのも、だんだん出てくるかもしれません。
 ただ、そういう話しを聞いていますと。人間は、目的を、うんと遠くに置くことができる……ということを、感じさせられます。
 目先のことしか考えられなくなっている時は。自分自身が、卑しいもののような気分になって来ます。遠くにある目的を見失わないのは、人格の尊さです。
 大きな目的のためだったらば、小さなものは、惜しくはありません。「天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う(マタイ13:44、45)」……って、イエスさまはおっしゃいました。その通りで。大事なもののためには。相当なものまで差し出すことができます。
 「自分の五体を道具にする」っていうのは。自分の身体を、手段にすることですから。つまり、自分の身体よりも大事な目的のために生きる……っていうことです。
 さらに……。これは、何度かお話ししているかもしれません、聖書の知識ですが。聖書で「身体(12:swma)」って言う時には。ただ肉体のことを言っているんじゃぁありません。理性や、知性や、こころまで含めた全部を言うのが普通です。
 つまり、自分自身、全部を道具にして。何か、大きな目的のために生きるんです。
 その、自分を犠牲にするような大きな目的が。身体の欲望だったら、どんなにつまらないか。自分自身を全部、罪のための道具にしてしまうなんて。どれだけ、つまらないことか。それは、地獄でしょう……と、思います。
 けれども、自分自身全部を手段にすることが出来る程、尊い目的を持つことが出来たら。それは、どれだけ豊かな生き方か。

W.
 そういう生き方とは。悪いことをしないように、コソコソと道徳を守る生き方じゃぁ、ありません。
 実際の過ちなんて、なんでもないんです。
 私どもクリスチャンは。「罪なんか、別にいっくら犯したって大丈夫、赦されている」っていう約束の中で生きています。そして、「だから、わざと」っていうワケじゃぁなくっても。罪は、犯します。
 実際には、罪は、犯しちゃいます。犯すだけじゃぁなく、過ちを繰り返します。それでも自分のことを、罪の道具にしない。罪を犯しながらも、罪の道具にはしないで、神さまの正しさのための道具に出来るんです。
 どれだけ罪を犯すひとだって。自分自身を尊い正しさのための道具にすることは、誰でも出来る……。どれだけ欲望を我慢できるかに関係なく、自分を尊い正しさのために献げることが、出来るんです。
 「道具」っていうのは。目的のための手段です。罪を犯さないことが目的なんじゃぁなくて。目的は、神に対して生きることです。罪を犯すか/犯さないかは、「自分の身体」という道具を、義のために「どれだけ上手に使うか」って話しです。
 道具の使い方は、もちろん上手であるにこしたことは、ありません。上手であればあるだけ、自分にとっても良いですけど。道具の使い方が上手か/下手か……と。そもそも「何のために道具を使う」とは、別な話しです。
 道具の使い方が、上手じゃぁなくっても。何の道具にするかは、自分で、自由に決めて良い。自分自身をコントロールすることが下手で、すぐに罪を犯してしまうひとでも。自分自身を、何のために使うか……は。自分で選び取れます。
 こそこそと道徳を守るんじゃぁなくって。自分を使う、その目的を。神さまの正しさにしちゃえば良い……だけのことです。

 「あなたの五体を道具にしなさい」って言われています。「自分の身体」っていうことで考えても……。
 私ども、自分自身の身体を、自由には扱える訳では、ありません。普通の意味で。自分の体は、自由にはなりません。
 たとえば、教会の前から、森下病院の入り口まで「ダッシュで行け」って言われて。自由に、走って坂を上って行けるひとなんか、ほとんどない。私どもの身体は、不自由です。やりたいと思うこと、出来ません。そういう意味では、私どもは、自由を持っていない。「自分の身体」という道具の使い方、上手でもなければ、限界もあります。
 けれども、「自分の身体」で何をするのか。「自分の身体」という道具を使う目的を、何にするかは、自由に決められます。
 「罪を犯すな」って言われても。これから先、自由に一切罪を犯さないでいられるひとなんか、ひとりもいません。悪いこと、しちゃいます。そういう意味では、私ども不自由です。自分のこと、コントロール仕切れません。
 けれども、何を目的にするかは、自由です。自分の身体を、この世で生かしておく。その目的を、どこにおくか。何のための道具にするか。自分のことまで手段にしてしまうような大きな目的を、何にするか。
 罪のために、自分というものを、手段にしてしまうのか。それとも、神さまの尊さのために、自分を道具にして使う……と、決めるか。それは、私ども自由に決断できます。
 だから聖書は。「アレをしなさい、コレをしなさい」、具体的なことは、言いません。ただ「自分の身体を義のために使え」と。だって、どうせ使い方では、失敗する時があるからです。
 うまく行っても、失敗しても。自分を、道具にすることが出来た。自分の身体よりも尊い目的を、自分自身が持つことが出来た。それだけで、この世での生き方は、ずっと尊い、豊かなものになります。そして、そういう生き方は、永遠の天国に繋がって行く、生き方です。
 死んで消えて無くなるのではない。天国に続いている生き方が出来るから。具体的には罪を犯す、あなたがたでも。五体を罪の道具にするのではなく、「かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい(同13)」って。聖書は勧めているのです。

X.
 自分の身体を、永遠の正しさのための道具にすることが出来たら。そういう時ほど、自分自身のことを愛せることは、ありません。尊べることは、ありません。
 何をするのが、義のための道具になることか。具体的なことが、あるとすれば。それは……ただ、「愛に基づいて行動しよう」と。そういうことだと思います。
 聖書のあとの方では……「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます(ローマ13:9)」って、出てきます。
 自分の身体を、「自分自身のように隣人を愛する」ために使おう……って。それを志すことができさえすれば、完璧です。自分が、自分の身体よりももっと大切な、尊いもののために生き始めています。
 それでいて、自分を無闇に犠牲にする訳じゃぁありません。自分を、いちばん尊く、大事に使っています。悲壮な決意じゃぁ、ありませんし。コソコソした道徳主義でもありません。隣り人を愛した時、自分も、気分が良いし。楽しいし。……そして、その愛の中に、天国に繋がる命まで、感じ取ることが出来ます。
 じゃぁ、隣り人を愛するとは、具体的には、何をすることか。
 それは、聖書はあれこれ指図することは、やりません。隣り人を愛することは、やり始めなければ分かりませんし。やり始めたら、必ず、失敗もしながら。しかしやり続けている限り、必ず、道具の用い方は、上手になって行きます。
 どれだけ上手に出来たかじゃぁなくて。隣り人を愛し始めた、その最初から。「神に対して生きている」、そういう生き方が始まります。「永遠の命」を得て、今から、天国にいるような生き方が始まります。生きているうちから、天国の喜びを味わうことが、でき始めます。

 終わりの時には、天地は消え失せます。それは、たいへん恐ろしいことです。
 学者さんたちが言うには; 何でも、「真空で、何にもない宇宙空間」っていう、その何もない空間自体が無い……無いが無い虚無です。また、そういう有るとか無いとかいうのは、われわれ、時間の中で「あの時は、あった、今は無い」とかって。そういう意味で、空間の有る/無しを言いますけど。その「昔は」とか「今は」っていう時間自体が、もうなくなっている……って。
 ……どういうことか、皆目、見当玉もつきません。
 だけど、われわれキリストの支配に入れられた者は。その、宇宙空間もなくなった……流れて行く時間もなくなった、終わりの時にも。「永遠の命」を得て、生きている。
 宇宙が消え失せるまで待たなくても。私ども、死んだら、ただちに。空間もない、時間もない、そういう虚無へと堕とされる……みたいに思えます。そういう所から、救い出されて、永遠の命を得て。死んだ後も生きる……。「洗礼を授けられて、復活のキリストに結ばれている」っていうのは、そういうことですし。だから、天国なんです。
 信仰とは、天国を…=…永遠の命を、今から、生きている……。それが信仰です。
 宇宙が消え失せた先まで、生き続ける自分っていうものを。私どもは、もう既に、今から、この自分の中に、持っています。信仰とは、死ぬべき体で生きている今から、その、永遠の命で生きることです。この世にあって、神の国を生き始めることです。

中村栄光教会
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