2004年10月24日
日本キリスト教団中村栄光教会
キリストと共に生きるために


12世紀オーストリアの写本より



聖書研究
ローマ6章    中村栄光教会
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新約聖書【ローマの信徒への手紙 第6章13節】






キリストと共に生きるために

北川一明

T.
 心臓病を抱えている、あるかたです;
 身体が……特に・どこが動かない、何ができないということは・ないのですが。日々、身体全体が弱って行く。それが、自分でも感じられる。……そういうヒトが。心臓発作で急死する、ちょっと前からです。キリスト教を、熱心に学ぶようになりました。
 この世は、いつまでも住んでいられる所では、ない。自分は近い将来、世を去らなければいけない……と。はっきりと意識した訳でもないのでしょうが。どこが、こころの奥で悟ったので。残された一日一日を、精一杯に尊く生きようとしたのです。
 キリスト教の勉強だけでは、ありません。ごはんを食べるのでも。毎食々々、大事においしくいただこう……。だけども、ごはん以上に。死を超越するものを伝えている、信仰の真理については。ぜひ、知りたい……と。
 齢をとると、我が儘になる。欲望に対して意地汚くなる……なんていうことも、言われます。しかし、その方のように。いろいろ経験のあるご高齢のかたが、毎日の一瞬一瞬を尊く生きようと志していたら。たいへん清い人物に見えます。ご本人も、充実して生きることが出来て。喜びも、かえって大きくなったように見えました。
 そういう清い生き方は、たいがい、神さまからも祝福されるようです。
 そのかたが、清い毎日を過ごすようになった、その動機は。「死ぬ前に、なんとか天国を発見したい」ということですから。「自分の都合」って言えば、その通りです。「死ぬのは恐ろしい、だから天国を確信したい」っていう、自分の都合です。
 それでも、真理を知るために「残された一瞬一瞬を大切にしよう」と思ったら。いっそう誠実になりました。周囲に対しても優しくなりました。
 そうすると、「周りのひと」から愛され、敬われますし。「真理」からも、愛されるようです。
 頭の中で、「真理」だ「神の国」だと考えているばかりで。他人のために指一本動かさないんだったら、「真理」だって、嫌になって逃げて行くんでしょうか。しかし一つ一つの小さなことに忠実になった時に。真理の方も、少しつづ近付いて来てくれたみたいです。周囲の、愛する人たちとの愛の関係を、貴んでいるんですから。キリストさまの教えに、だんだん近付いて行きました。
 自分が「死ぬべき者」として。与えられた日々の一瞬一瞬を、尊く生きるというのは。ですから、うんと大切なこと。祝福されることと思います。

U.
 ただ……。そのかたは、結局は洗礼を受けるまでには至りませんでした。それが残念でした。敬愛すべき立派なかた、誠実なかただっただけに。私は、受洗できなかったことが、余計に心残りです。
 「洗礼を受けなかったから、結局は天国に行けなかった」とか。そういう風に残念がってるンじゃぁ、ありません。天国に行くかどうかじゃァありません、この世の毎日のためです。
 信仰の決断をするに至らなかったのは。この世での最後の日々の一瞬一瞬を、誠実に、尊く生きるに当たって。やはり、十分ではなかったでしょう……と、思うのです。
 だって、そのかたは……。自分は「死ぬべき者」として。与えられた日々を尊く生きようとしていました。それは、しかし「信仰の生き方」とは、言えません。「信仰の生き方」は……今日の聖書に書いてあります。「死ぬべき者として」よりも、「死者の中から生き返った者として」生きるんです。
 そしてそうした時に、信仰の真理も、よりいっそうはっきりするんです。
 毎日を、いい加減に過ごしていると、「死ぬべき者」として生きようが、「生き返った者」として生きようが、同じでしょうか……。けれども、一瞬一瞬を尊く真剣に生きようと思ったら。「死ぬべき者」として生きることと、「生き返った者」として生きることとは、全然違ってきます。大違いです。
 「死んだら何も出来なくなるのだから、今日を充実させたい」とか。「死ぬのが怖いから、天国を知りたい。信仰の真理を知りたい」っていうのは。死に支配された生き方です。
 イエスさまは、「求めよ、そうすれば与えられる(マタイ7:7)」っておっしゃっていますから。死に支配されていても、一生懸命「信仰の真理」を尋ね求めたら、与えられるに違いありません。真摯に誠実に求め続けるなら、神から祝福されるでしょうとは思います。それでも……。
 「死ぬ前に、真理を知りたい」っていうのは。死に支配された生き方です。「死を克服することができない人間」の生き方です。私どもが、これまで自分の罪に苦しん来た通りの、元々の、惨めな生き方です。
 「信仰に生きる」とは、そうじゃァありません。
 信仰を与えられた後は、そうじゃァないハズです。
 信仰者は、「死ぬべき者」としてではなく、「死者の中から生き返った者」として生きます。キリストは、既に死に勝利して、死人の中から復活しました。われわれクリスチャンは、その復活に与る者として生きます。
 そういう生き方で、真理を尋ね求めながら生きる、とは……。「死ぬのが怖いから」って、そういう求めかたじゃぁ、ありません。根本に、不安があって。不安があるから尊いものを求めるんじゃァ、ない。根本には安心があって。表面の具体的な所では、相変わらず苦しみながら、試行錯誤をしながら。真摯に誠実に、一日一日を尊く生きる……。
 そういう風に、基本的な「こころの向き」が、全く逆なのだろうと思うのです。

V.
 私どもクリスチャンは、「死者の中から生き返った者」です。キリストの復活に与る者です。
 そういうクリスチャンにも、もちろん悩みはあります。ですから、信仰は闘いです。
 「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」って書いてありました。「道具」というのは、本当は「武器」、「殺戮兵器」っていう意味の言葉です。信仰持ったって、うまく行かない現実は、全部、そのままですから。信仰とは、どうしても……闘いである面があります。
 信仰の闘いは、希望を持ち続ける闘いです。「自分はキリストと共に復活する」っていう希望を持ち続ける闘いです。
 「死者の中から生き返った者」として生きるならば、根本に安心がある……ハズです。ですが・安心とは、「洗礼を受けているから、どうせ大丈夫だ」っていう……。そういう、傲慢な……。傲慢でありながらも、根っこがないから崩れ易い、上辺の安心とは違います。
 「私は天国に行くハズだ」っていうのは。私どもクリスチャンの「希望」です。その希望があるから、死んで行く方向に生るんじゃぁ、ない。永遠の命に向かって生きれます。
 けれども、「私は天国に行くハズだ」……って。私ども、本当に天国に行くんでしょうか。
 それは、目に見えることではありません。自分は「キリストと共に死んだのだ」、だから私は「キリストと共に復活する」っていうのは。目には見えない。信仰のこころでしか見ることができない希望です。
 簡単に見えるシロモノじゃァありません。その希望を。上辺だけの「誤魔化し」ではなしに、本当に抱くようになる……。信仰の闘いとは、そういう闘いだと思います。
 「私は、終わりの時、キリストと共に復活する」って。それが、私どもの信仰の、基礎です。しかしその基礎は、肉の目では見えません。祈りの中でしか、見えません。
 ……祈りって言っても。自分勝手な、「私を助けてください、天国を確信させてください」って、ずっとそこに留まっている祈りでは、見えません。
 書いてあります通り、自分の「五体を義のための道具として神に献け」るような。そういう、聖霊によって清められて祈る祈りでようやく見えてくる、「希望」です。
 「信仰の闘い」とは、この「希望」を持ち続ける闘いです。
 「信仰は闘いだ」って言われたら。私ども、真面目なもんですから。「己れに打つ克つ闘いだ」、「欲望に打ち克つ闘いだ」って考えます。けど……欲望に打ち克つのは、信仰の「結果」です。
 「信仰の闘い」とは、目には見えない希望を、霊のこころできちんと自分のものにする……。そういう闘いなんだと思うのです。

W.
 先ほどの一瞬一瞬を清く尊く生きようとしていたお年寄りは。もともとは、目に見えないモノは信じない、というかたでした。
 昔、偉い哲学者さん(デカルト:Rene Descartes、1650没)が、「我思ふ、故に我あり(Cogito, ergo sum.)」なァんて言ったんだそうですけど。そういう信念みたいなものを持っているひとでした。
 夜寝ていて、夢を見ます。夢の中では、起こった出来事を全部、現実と信じ切っていても。覚めてみたら、全部、100%夢です。夢を見ている間は、自分が夢の中に居るのか、夢の外に居るのか、自分では判断できないことが、あります。
 今のこの世の中だって。いちばん極端な話し……; 子どもの時、実は交通事故に遭って。それ以来、寝た切りの植物状態だ。牧師になったのも、長ァい夢の中に居るだけだ。実は妻も居ない、子どもも居ない、病院のベッドの上だ……なんて。
 『ドラえもん』ののび太君じゃぁ、ありませんが。まさかそこまではないにしても、自分が現実だと思って受け取っていること、実は、ただの思い込みかもしれません。
 特に、誰か他人が、「私のことを良く思ってくれている」「信用の出来るひとで、私に良くしてくれる」なんていう現実認識は。頭の中だけの、現実離れした思い込みである場合があります。「他人」っていうのが、本当に「こころ」として、「精神」として……。どこまで自分の思っている通りに実在しているのか、なんては、分かりません。
 そうしたら、「神」は、尚更です。神は、本当に居るのか。ヒトの頭の中のカンネンに過ぎないのかもしれません。
 それでも確かなモノ。確かに在るモノ。絶対に有るモノって言ったら、なんだろう……。いちばん極端な……今、交通事故で夢を見ているだけだとしても。「夢を見ている自分」が居る。少なくともそれだけは、絶対に有る。唯一確かなものだ。絶対に確かなものは、我思う、故に、有る……この「我」である。偉い哲学者さんは、そうおっしゃいました。
 そういう風に考え始めたら。説得力があって、困っちゃいます。
 今現在のことはともかく。過去、あぁいうことが、あった/こぅいうことがあった……なんて、どれだけ確かなのか。「昔、俺はこんなに立派にやって来たんだ」なんて。齢とって惚けてしまった後、一生懸命そう主張しても、周りは信じちゃくれません。自分でも、「本当かなァ」と。心配になるかもしれません。
 過去の思い出なんて……。自分が通ってきた過去であっても、信じられなくなることがある。まして、まだ経験したことのない未来のことなんか。確かなモノなど、何一つ無い。
 偉い哲学者さんのおっしゃる通り; 人間が、肉の目で・見て、信じることができるのは、「我思ふ、故に我あり」って、それだけです。

X.
 それじゃぁ信仰の甲斐がないから。クリスチャンは、「信じましょう。『天国に行けるハズだ』と、自分自身に言い聞かせましょう」って。信仰とは、そういうものじゃぁ、ありません。
 「大丈夫なハズだ」、「天国に行けるハズだ」と。多くの場合……私ども、多かれ少なかれ、自分自身に言い聞かせています。厳密に、信じられることだけを確かめて行ったら、「確かなモノなど無い」と感じてしまう。それが怖くて、自分に言い聞かせています。
 けれども信仰とは、自分を洗脳することじゃぁ、ありません。目に見えないものを、信じ込んでいることにして済ますのではなしに。目に見えないものに、本当に希望を置くことができるように。そのために闘うのが、信仰の闘いだと思います。
 「闘い」ですから、安全無害では、ありません。「天国に行けるはずだ」と言い聞かせるのをやめたら。たちまち、「確かなモノなど無い」という気分になってしまうかもしれません。信仰につまずくかもしれません。
 けれども、私どもが、「確かなモノなど無い」と感じたとしても。それは、神が居ないからじゃぁ、ありません。
 「自分はキリストの復活に与るのだ」と……。クリスチャンでありながら、この希望を持ち切れなくなったとしても。それは、キリストが居ないからじゃぁ、ありません。罪に、負けているからです。
 「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません」って書いてあります。信仰を与えられて、恵みの下に招き入れられたのに。罪に身を委ねていたら。信じれるモノも信じられなくなります。
 信仰を与えられながら、罪に身を委ねていたら。救われたヒトが、救われていないヒトとして生活していたら。そんな風に、自分が歪んでしまっていたら。信じれるモノも信じられなくなるのが、当たり前です。

Y.
 「五体を義のための道具として神に献げなさい」って言われているのは。信仰は、ただ頭の中のものではない。ただカンネンの遊びではない。信じるとは、実際に、そう生活することだから。実際に、この五体を、信仰生活のために献げなさい……って。そういうことです。
 死者の中から復活させられたキリストの、その復活に、この自分が与る……というのなら。「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げ」る……って。実際に、そう生活しようとするのが、当たり前です。
 恵みの下に居る者は。恵みの下に居る者として生活を始めた時に。恵みの下に居ることが分かります。恵みの下に居る者が。罪の下に居るように生活していたら。恵みが分からなくなるに決まっています。
 救われるのに、こちらの行ないは、一切関係ありません。私どもは、行ないによらずに、救われました。神さまが憐れんでくださって。こうして信仰を与えられて、恵みの下で生きる者にされました。
 恵みの下に生きる者になったけれども、再び罪に身を委ねたら。それは、良いとか悪いとかいう問題じゃぁ、ない。別に、罪を犯したって全然構わない。
 だけど……恵みの下に生きる者になったのに、罪に身を委ねていたら。自分が自分として生きていない。北川一明が、北川一明なのに、橘五郎左右衛門として生きる、とか。そういう訳の分からん。自分で自分が、何が何だか分かんなくなる、おかしなことです。
 恵みの下に生きているクリスチャンは、「死者の中から生き返った者」として、毎日を安心して生きる。「死ぬべき者」として精一杯に生きるのではなしに、「生き返った者」として安心して生きる。それは具体的には、自分を神さまの道具にして生きる……。それが「当たり前」っていうか、「自然」っていうか。そうした時に、スッキリします。
 「スッキリ」っていうのは、ただ「気分がスッキリする」っていうだけじゃァありません。
 そういう、自分を神さまの道具にした……。実際に、どれだけ役に立つ道具かどうかは置いといて。とにかく、罪のためじゃぁない。神の正しさのために生きようとした。そうした中で祈る祈りは。自分勝手な祈りから、ひとつ、良い祈りに変わっています。
 自分じゃ出来ないことを、努力もしないで只「神頼み」っていう祈りから。もっと、「キリストと共に生きるために、キリストと共に死のう」っていう祈りになります。「キリストと共に生きるために」っていう、希望が見えている……。そういう祈りになります。
 そうしたら……今の霊の命が、天国にまでまっすぐ続いている。その道の上に、綺麗に乗っかっていることが分かって来て。ちゃんと生きれるようになる……。そういう意味で、自分の命が、本当にスッキリします。

Z.
 終わりの時には、キリストの復活に与る。だから今も、キリストと共に生きている。……そういうヒトは、頭の中で、「真理」だ「神の国」だと考えているばかりじゃァありません。
 自分は死者の中から生き返った者だ……と。誤魔化しじゃぁない、はっきり信じられるのは。自分がやったことを通して、神さまの働きかけを感じる時です。自分がなんか御利益で得をした時では、ありません。自分の働きを通して、他のひとが、力を得た時です。
 キリストの僕として、神さまの正しさのために、自分自身を道具に用いた。そうしたら、「俺なんかに出来るハズがない」っていうような善き業で、隣り人を助けてしまった。そういう時に、復活のキリストさまが、自分の中に来てくださっていることが感じられます。
 それで聖書は、信徒に、奉仕をしなさいと言うのです。奉仕してもらうヒトのためよりも。奉仕をする本人を、幸いに導くためです。
 病気で寝た切りで、死にそうになっている時でも、です。そういう、「ひとのため」って考えたら、かえって足手まといでしなかいような状態でも。神は、奉仕をしない……と。「自分を『義のための道具』として神に献げて、神に奉仕をしなさい」と言ってくださいます。
 寝た切りで死にそうになっている時に。「私は天国に行けるハズだ」と、確信のないママ自分に言い聞かせるんじゃぁ無しに。霊のこころで、復活のキリストさまを、すぐ側に見るためです。
 実際に何が出来るのかは知りません。寝た切りで死にそうで他人のためになることって言ったら、ただ祈る以外には何が出来るかは知りませんが。死者の中から生き返った者として、生き生きと、喜びと平安の中で過ごせるように。そのために、神は、「隣り人を愛せ」と。「愛して、自分を道具にして、神とヒトとに仕えて生きよ。死ぬんだったら、神とヒトとに仕えて死ね」と。私どもが、キリストと共に生きるために。神は、「キリストと共に死ね」と。そう命じてくださっているのです。

 最初の申しました、清い生活を志したお年寄りは……。隣り人に対しても、誠実に、真摯に向き合うようになりました。お陰で、最後の人生を、ずっと豊かにすることができました。キリスト教の伝えている真理に、うんと近付いたんだと思います。
 けれども、「自分を通して神さまが働きかけてくださっている」と。そのことを、公に告白するには至りませんでした。だから、「死者の中から生き返った者」として過ごすことは出来ませんでした。
 私どもは、どういう訳だか……。ただ神の恵みと憐れみによって、それが出来るように、既にしていただいているのです。神の恵みを無駄にはしたくないと思います。

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