2004年10月31日
日本キリスト教団中村栄光教会
遠くのひと


12世紀オーストリアの写本より



聖書研究
ローマ6章    中村栄光教会
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新約聖書【ローマの信徒への手紙 第6章15〜18節】






遠くのひと

北川一明

T.
 先週の新聞、テレビは、新潟中越地震の報道に終始していました。
 私どもの教会では、(地震の前に台風による)豪雨災害被災教会のために、有志で献金を送ったばかりでしたので。……新潟と言つても、東の端と西の端は、室戸と足摺よりも離れてますから。もちろん、直接両方の被害があったかたは、一部でしょうが。中には、こころがくじけてしまつているかたも多かろうと思ひます。
 お祈りをする時に。信仰者として、被災したかたたちのために祈る「べき」だろうなァ……と感じています。
 でも……どういうお祈りが良いのでしょうか。

 真面目な……すごく真面目なクリスチャンの若者で。こういう時に、祈って。そのために、かえって信仰につまづくひとがあります。
 お祈りをしてみて……選挙と一緒なんです。自分が投票しても/しなくっても、世の中、全然変わらない。お祈りしても/しなくっても、被災者の状況は、全然変わらない。
 「祈ったって、被災者の役に立ちゃァしないじゃァないか」と。それよりも、「自分のお金を使い、手足を動かして助けるべきだろう」と。……そういうことから、です。イエス・キリストにつまづくというよりは、教会と先輩クリスチャンにつまづいて、教会生活をやめて行ってしまうのです。

 祈りは、もちろん役に立ちます。役に立たないハズがない、祈るべきだと思います。
 しかし……若者たちが、そういう風に教会につまづくのは、明らかに、真面目だからです。先輩信徒が本当に良い祈りをしていたら、一緒に熱心に祈っていたハズです。
 「信仰によって救われた」と言っている自分が、本当にふさわしい祈りを祈ることが出来ているのか。……朝、お祈りをしに礼拝堂に下りてきて……毎度、考えさせられます。
 役にも立たない祈りを祈って、「祈ったゾ」って満足していたら。若者は、つまづきます。私どもが、家族に信仰を伝えることが、ヨゥ出来ないでいるのも。御心に適った祈りを祈ることが出来ていないからかもしれません。
 若者がつまづかないような祈りが祈れたら、どんなに良いかと思います。

U.
 信仰も、隣人愛も。「行ない」じゃァないと言われます。身体が弱くって、ヒトのために全然動けない。そういう人は、信仰がないのか、愛がないのかって言ったら、そうとは限りません。
 だけど、聖書のどこだったかに、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです(ヤコブ2:17)」とも書いてありました。
 信仰も隣人愛も。実際に何かをやることではないにしても。やらずにはいられなくなる……何らかの行動を、生み出すものであるはずです。
 そして、どこだったか、その「行ないが伴わない信仰は死んだものです」って書いてある、その・すぐ前には。開いてみたら、こう書いてありました、「着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう(同15、16)」。
 そうやって書かれると、ドキッとします。新潟のヒトたちに対して、何て祈っているか。「安心できますように、温まりますように、満腹するまで食べますように」位しか、祈れません。口で「言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう」って聖書に言われたら。若者がつまづく祈りだったのかもしれません。「どーしよー」って思っちゃいました。

 信仰とは、行ないでは、ありません。クリスチャンが出来る隣人愛の業で、いちばん尊いことは。「隣り人のために祈ることだ」と言われます。
 お年寄りが、「私は、もう身体も動かないし。年金暮らしだから、経済的にヒトを助けることも出来ない」って漏らします。教会は、そういうお年寄りに対して。「いいえ、あなたは祈れるのです」って、励まします。「ヒトのために祈るのが、いちばん尊いことですヨ」って言って、励まします。
 それは、本当だと思います。本当だと思う……ンですけど。嘘にもなる……。「嘘」っていうか、ヒトのためには何もやらないことのイイワケになっている場合も、多いと思うのです。

 身体も動かない、お金も出せない人が。いちばん尊い隣人愛の業として、ヒトのために祈ったら。たとえば、「出せない」と思っていたおカネが、「いや、出せるお金だった」って。キリストさまの前で、気がつくかもしれません。
 どうしても、何にも出来ないとしても。本当に尊い隣人愛の業としての祈りがあったら。周りのヒトが、変わるかもしれません。祈っているひとは動けなくても……。そのひとの祈りに動かされて、周りのひとが援助に腰を上げるかもしれません。
 教会で、だって。ここで新潟のために、うんと良いお祈りがされていたら。極端な話し、みんなが自分の田畑・家屋敷を売り払って献げようっていう気になるかもしれません。
 ……まぁ、「家屋・田畑」は極端で、非常識で。現代では、そこまでは、あり得ない……と。そうも思います。
 でも、最初に教会を作った、イエスさまに従っていたひとたちは、実際に、献げましたし。キリスト教が盛んになっていた時代には。「非常識で、極端で、あり得ない」とは、誰も思わない。逆に、「本当に、そう出来るようになりたい」って思う方が、当たり前でした。
 今でも。家屋・田畑までは、なかなか出来なくても。それを「極端だ、非常識だ」って考えるよりかは、「本当に、そう出来るようになりたい」……。「もっとも尊い」って言われるだけの祈りなんですから。最低でも、それ位には、なるはずです。
 私どもクリスチャンが、隣り人のために、そういう祈りを祈ることが出来るようになったら。御心が天になるように、地にもなるんだと思うのです。

V.
 そして……。信仰が人間を幸せに導くのは。援助を受けるひとよりも。そういう祈りを祈ることができるのが、幸せです。
 援助物資で幸せになる、幸せは。教会が提供するよりも、自衛隊が提供する方が、ずっと大きいかもしれません。信仰の援助では、援助を受ける側よりも、まず最初は、援助したいと志す側が、幸せにされます。
 家屋田畑を売り払って施すなんて、「非常識で、狂信的だ」と。「あり得ない」と思っていた所から。自分も、アッシジのフランチェスコのようになりたい、使徒たちのようになりたい。少しでも、しかし本当に、実際に、手足を動かして、十字架にかかったイエスさまのようにしたい……と思えるように、変えられた時に。信仰が、自分を幸せにしていることに気付くんです。
 もし仮に、本当に家屋田畑を売り払ったら。その人自身が、まず幸せになっています。
 お祈りをしていたために。自分たちのことを犠牲に、もっと苦しんでいるヒトのために動き出したら。この自分に、神が生きて働いておられる……っていうことを、ありありと感じることが出来ます。自分も、信仰の仲間も動き出す祈りが祈れたら。神の力を確信できます。だから、まず・われわれ自身が救われていることを確信します。
 それで、キリスト教が盛んになっていた時代には。自分を全部犠牲にすることだって、「非常識だ、極端だ、あり得ない」なんては、誰も思わない。逆に、「本当に、そう出来るようになりたい」って思う方が、当たり前だったんです。そして、実際にそうしていたんです。それで救いを確信して、教会は、ますます盛んになって行ったんです。
 家屋田畑は、自分の罪のために、どうしても手放せなかったとしても。「祈っても、役に立ちゃァしない」と思っていた若者が「そうじゃぁ、ない。先輩信徒のみなさんの祈りに支えられて、ボランティアに行こう」って、回心するような祈りを祈ることが出来たら。祈っている自分が、神の力を感じることが出来ます。
 そういう祈りが、尊い隣人愛の業なんでしょうと思います。

 この中村に居ながらにして。新潟の役に立つ祈りを祈れるか。イラクでも、チェチェンでも、一緒です。ここに居て、遠くのヒトの役に立つ祈りを祈れるか。遠くのヒトのために祈って。自分の祈りに力を感じることが出来るかって言ったら……。
 それが、出来てこそ。信仰は、救いです。
 ……けど、「自分の祈りに、力を感じる」って。普段から、たいして祈る訓練もしていない……。神さまに、自分を献げる覚悟もない。祈る時にも、時間を惜しんで、また真剣さも足りなくって……って言ったら。自分のためにさえ、ロクな祈りが祈れません。それでヒトのために祈っていても。若者をつまづかせる祈りにしか、なりません。
 今回の新潟のこと。自分の信仰と祈りが問われている……と。そう思ったら。災害に遭われたかたたちは、本当にお気の毒ですけど。自分にとっては。信仰を問い直されて、祈りを深めさせていただける……。そういう導きが神さまから与えられている……と。つくづく、感じさせられています。

W.
 じゃぁ、どう祈ろうか。何を、どう祈れば良いのか。
 会ったこともない、知らないヒトのために、祈って。本当に役に立つ。あるいは、自分の祈りを聞いて、神が、この祈りに応えてくださるだろう……って。そんな祈りって、いったい、どういう祈りでしょうか。神さまに、何か御利益をお願いする祈りでしょうか。
 具体的に、どういう言葉で祈ろうかって、よぉっく考えますと。具体的には、どうしても、お願いになるように思えます。具体的には、「苦しんでいるかたたちが、安心できますように、温まりますように、満腹するまで食べれますように」って。その現物三箇条だって、神さまにお願いすることになるのかもしれません。
 ただ……。お願いしても、すぐに「たちどころに御利益が降ってくる」っていうことは、滅多にありません。
 それに、「役に立つ祈り」の「役に立つ」って、どういう意味か……。「たちどころに奇跡が起きる」っていう意味とも、限りません。
 私ども、病気の時には。結構切実に祈ります。「お願い」の祈りをします。
 祈って、病人が、少し良くなったとしても。あるいは奇跡が起きたとしても。祈ったひとの力じゃぁ、ありません。病気を治すか治さないかは、神さまのなさることです。お願いするのは良いんですが。お願いが実現するかどうかは、我々人間のあずかり知らぬ所です。
 「安心できますように、温まりますように、満腹するまで食べれますように」ってお願いして。実現するかどうかは、神さまがお決めになることです。神さまが、必要ならば安心させ、温め、満腹させてくださいます。私が祈らなくっても。それが必要だとしたら、実現してしまいます。
 それでも神さまにお願いするとしたら、何を、どうして、どういう風に、お願いするのか。
 特に、遠くのひと。神にお願いをして、……それが実現したかどうか。テレビのニュースを見ても、なかなか確かめることは出来ません。それでも、お願いをして。自分が祈っている時に、神の力を感じることが出来る。この祈りには、力がある。目に見える御利益があるとは限らなくっても、霊の力が溢れている……って、そういう祈りがあるとしたら。神さまに、どうお願いすることなのか……。

X.
 ヒトのために、真面目にお祈りしようと思ったら。その人の苦しみを、あれこれ思い巡らします。どうなったら、その人が幸せを取り戻せるか、思い巡らします。
 家をなくしたヒト。これからの生活をどうすれば良いんだか、さっぱり目途が立たないヒト。家族が死んだヒト。そういう人たちが、どうやったら幸せを取り戻せるか、思い巡らします。
 幸せは、温まっても、満腹しても、取り戻せません。家族が死んだヒトは。家族が生きてた時と同じ幸せは、取り戻せません。だから《諦める程度で、もう幸せにはなれない》か/それとも《新しく前とは別の幸せになる》か、どちらかです。

 中村に居ても、避難所に居ても。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです(ローマ6:16)」って、書いてありました。
 災害に遭ったひとも。そういうひとのために祈ろうとしている私も。自分の罪に仕えていて。自分の欲望に従っていて。それで、その欲望を満たすことを幸せだと思っていたら。欲望を満たす道具がある間だけ、幸せです。
 しかしそういう道具は全部、いずれは失われて行く、この世の物質です。
 震災でいっぺんになくすこともあれば。老いて、病気になって、死の床に伏して。少しづつ、欲望を満たす道具がなくなって行くこともあります。いずれにしても、やがては失われます。
 私どもが、罪に仕える、欲望の奴隷である限り。死に至る生き方しか、できません。
 家をなくしたヒト。これからの生活、どうすれば良いんだか、さっぱり目途が立たないヒト。家族が死んだヒト。そういう人たちが、どうやったら幸せを取り戻せるかって言いますと。幸せの取り戻しかたは、被災していない私どもと、そっくり一緒です。
 われわれの幸せとは、さっき言いました。
 いちばん極端な、いちばん完全な幸せは。家屋田畑を売り払って、ひとに施すことが出来る、幸せです。
 祈って、神さまが喜んでくださる生き方をしたいと思い出して。自分のことを後回しに、もっと苦しんでいるヒトのために動き出すことが出来たら。自分に対して、神さまが、生きて働いておられるのを、ありありと感じることが出来て。神の力を確信できて。まず、自分自身が救われます。
 この罪深い者が、そういう生き方を目指すことが出来た時に。神の、生きて働く力を感じることができます。
 もっとも、最初ッから正しいヒトは、どうってことないかもしれません。最初ッから立派なヒトは、自分を犠牲にひとに施したって、神の力なんか、感じないかもしれません。けれども、「最初ッから正しいひと」は、いない……って、書いてあります(ローマ3:9以下)。今日の聖書では、「あなたがたは、かつては罪の奴隷でした(同6:17)」とも、書いてあります。
 罪の奴隷だったのに。キリストと出会って。罪の奴隷から、救い出されたから。この罪深い者が、「ヒトのため」なんていう立派なことを、本気で考えちゃうんです。「正しいことに仕えた時に幸せになる」なんて。そんな、とんでもなく殊勝なことを、思いつくんです。
 それが、我々の幸せです。

Y.
 でも、震災被災者の幸せも一緒です。
 避難所で。不便な中で、「何とか自分の欲望を満たしたい」って思ったら、どうするんでしょうか。不便で、みんなが困っている中で。どうせ、どれだけ掻き集めたって、以前に比べてずっと不便で貧しくて苦しいのに。ひとを押しのけて、自分を楽にする道具を掻き集めるんでしょうか。欲望に仕える罪の奴隷になったならば。そんなことをしなくちゃいけませんし。それを幸せと思わなくっちゃぁ、いけません。
 けれども、不便な中で「何とか、神に従って、隣り人を助けたい」って思ったら。テレビカメラの前で格好つけてじゃぁ、ない。本気でそう思うことが出来たならば。いったいどっちが幸せか。明らかです。
 自分の欲望を満たしたいひとは、不幸です。家を無くしても、生活の目途が立たなくても、家族が死んでも。それでも、「神を喜ばせ、隣り人を助けたい」って。本気でそれを願うことが出来たならば……。
 かつての幸せとは、全然別な形です。かつての幸せを取り戻せた訳じゃぁ、決してないですけれども。新しい……、悲しい……面はあるけれども、ちょっぴり聖い、尊い、別の形の幸せです。

 神の力を感じる祈り……って。だから、ただ「神を喜ばせ、隣り人を助けたい」って。どこまで純粋に、そう願うことが出来るか……なのかもしれません。
 自分のためじゃぁない、ヒトのために祈るんですから。口で言ってることは、基本的には全部「神を喜ばせ、隣り人を助けたい」です。だけどもそれが、どこまで純粋に、本当にそうか……。
 自分の中の偽善が、少なくて。神さまに向かうこころが、多ければ多いだけ。神さまの力が、私どもにも働いてくださっていることを、感じることが出来ます。それで……。
 自分のためじゃぁ、ない。神と、ヒトとのために祈ったはずなのに。生きて働いてくださる神さまを感じて。苦しんでいるヒトには申し訳ないみたいですが。まず自分が、助けられて、救われて、幸せにさせられちゃいます。

Z.
 だから……。私ども、クリスチャンのやること。やっぱり、祈りに始まって、祈りで終わるんでしょうと思うのです。
 苦しんでいるヒトのために。実際に、手は動かさなくても。おカネは出さなくても……って言ったら。自分が働かない言い訳……にも、なり得ます。
 だけど、自分の祈るべき祈りを、きちんと。神さまの力を感じることが出来るように、ちゃんと努めて祈るならば……。
 直接奇跡が起きるのか。あるいは、自分が直接大きな働きをするようになってしまうのか。それとも、人づて人づてで巡り巡って、か。どういう仕方かは分かりませんが、結果的には、祈りが役に立っている……。
 神さまが、世の中にどう入って来るのかは分かりません。分かりませんし、それは、われわれがどうこう言うべきことじゃぁないですけれども。ちゃんと祈るならば、本当に、離れたひとの励ましになり、慰めになり、力になる。そうして、だから、祈っている自分も。神さまに、改めて救われて、改めて祝福されて。そこで、改めて、信仰の喜びと幸せを、確認できているんだと思います。

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