2004年11月7日
日本キリスト教団中村栄光教会
永眠者記念礼拝説教

恵みの下に居る者よ

12世紀オーストリアの写本より



聖書研究
ローマ6章    中村栄光教会
説教集へ

新約聖書【ローマの信徒への手紙 第6章15〜18節】






永眠者記念礼拝説教

恵みの下に居る者よ

北川一明

T.
 今日の礼拝は、「永眠者記念礼拝(洗礼を受けてクリスチャンとして亡くなったかたを記念しての礼拝)」として守っております。今日は、世界中で同時に。多くの教会が、永眠者記念礼拝を守っていることと思います。
 私どもの教会は、歴史がまだ30年ですから。中村栄光教会の信徒として亡くなったかたの多くが、この教会の設立に、何らかの形で携わったかたたちです。ですから、きちんと信仰生活をしていた……教会生活をしていたばかりでなく。神と教会のために、こころと宝とを献身的に献げてこられたかたも多いと思います。
 そういうかたたちが、天国で安らいでいると言われると。私ども素直に、「そうだろうなァ」と思いまして。神の導きと祝福に、感謝を讃美を捧げたいという気持ちに、導かれます。
 しかし、世界に目を向けますならば。これまで、数十億の人間が、この世に居る間に、クリスチャンになり。そして、死んで行きました。
 そうすると、さすがに信仰の形は、色々です。教派によって、信じる内容にも大きな差があります。
 熱心さという点では、今度は信徒それぞれで。ほとんど信仰のためだけに生きたひともあります。逆に、洗礼は受けたけれども、生涯、聖書を開いたこともない……というひとも、あるはずです。
 同じクリスチャンと言っても。洗礼を受けたということ以外……性質も、人間性も、正しさも、真面目さも、やって来たことも、考えていたことも、全然違う。それでも私どもは。洗礼を受けて死んで行ったかたたちを記念して。神の導きと祝福に、感謝と讃美を捧げます。
 一生涯の間に、神さまから「恵みの下に居る者よ」と呼び掛けられた。そのことが、はっきりしているからです。
 どれだけ真面目に信仰生活を送ったか、は……。神さまからの呼び掛けに、どれだけ真面目に応えたか。その呼びかけをどれだけ真剣に受け取ったか、ということです。
 しかし、そういうことを記念しているのでは、ありません。神さまが、「恵みの下に居る者よ」と呼び掛けてくださった……。その、神さまの御業に、感謝と讃美を捧げているのです。
 そして、神さまから、「恵みの下にいる者」とされているのは。言うまでもないことですが、私どもも、全く同じです。

U.
 神さまから、「恵みの下に居る者よ」と呼び掛けられた、とは。もっと具体的に言えば、どうなったことなのか……。考えますと、具体的には色々あるはずです。
 たとえば、その一つとして。私ども、「主の祈り」を祈ります。その中には、「我等に罪を犯す者を我等が赦す如く/我等の罪をも赦し給へ」と、あります。そう祈ることが出来るようになった者……と言えるのではないか、と思いました。
 「我等の罪をも赦し給へ」だけだったらば。アタシなんかはいっつもそう祈らなきゃぁいけないし。実際に、素直にそう祈れます。
 しかし「我等に罪を犯す者を我等が赦す如く」と祈るのは。真面目に考えたら、なかなか難しいことが分かります。ひとのことを、ちっとも赦してないじゃぁないか、と反省は・しても。それで、慌てて赦すというよりも。むしろ、赦せない自分に気がつく。この祈りが、祈りにくくなる……ということの方が、多いかもしれません。
 「我等に罪を犯す者を我等が赦す」と、実際に、本気で祈るかどうか……は。神さまの呼び掛けに、応えるかどうか、です。
 実際に赦す「べき」ですし。赦せなくっても、赦せるように、少なくとも、そう祈る「べき」です。
 ですけれども。赦そうが、赦すまいが。祈ろうが、祈るまいが。少なくとも、そういう祈りを知らされていて。今、祈ろうとしさえすれば、祈ることが出来る。そういう導きを受けた……と。
 クリスチャンとは、そういう者だと思うのです。

V.
 救われるために、真面目に信仰生活をしなくちゃいけないのか……と言いますと。それは言い換えれば、「神の恵みの下に居る者」にしていただくためには、真面目に信仰生活をする必要があるのか……。信仰を深めないと、「恵みの下」に入れていただけないのか……ということです。
 ですから答は。その「必要ない」です。真面目にやるも何も。私どもは、もう既に、恵みの下に入れられているのです。
 じゃぁ、信仰生活をおろそかにして良いのか……というのが。今日の新約聖書の最初に言われている問題です、「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか」……。
 もう恵みの下にいるんだから、信仰生活なんか、どうでも良いのか。
 「決してそうではない」と言われています。常識から言って、そうだろうとは、思います。
 けれども、これは。「恵みの下から追い出されてしまう」っていうよりも……。追い出されるんじゃぁ、ないと思います。
 恵みの下に入れられたことは、変わりません。ただ、洗礼を受けたままで。信仰を深めることをしないのならば。恵みの下に居る幸いが、よく分からないママである……ということです。
 先ほどの言い方で、言い換えますならば。「我等に罪を犯す者を我等が赦す」と、本気で、祈らなくっちゃぁいけないかどうか。実際に、赦さなくっちゃぁ、いけないかどうか。
 私どもが赦さなくっても。祈りさえしなくっても。私どもの罪は、キリストさまの十字架によって、赦されています。私どもは、律法の下にいるんじゃぁ、ない。キリストさまによって、恵みの下に移されたから。もっと極端に、信仰を捨てたって、赦されているんです。
 けれども、それじゃぁ恵みの下に移されたということが、全然、分かりません。
 「決してそうではない」とは、そういうことです。
 そして……実際に、そうです。
 自分に対して罪を犯して来るヒトを、なかなか赦せません。しかし赦せなければ、自分が不幸です。
 信仰の喜び、信仰の幸いが、いちばんはっきり現われるのは。「敵が、愛する者に変わる」という奇跡の瞬間です。相手が良いひとになるんじゃぁ、ない。敵だと思っていたひとを、自分が、愛せるようになってしまう。信仰の仕合わせが、いちばんはっきり現われるのは、そういう悔い改めた瞬間です。
 洗礼を受けたら、受けたままで良いのか。それとも、信仰を深めなければいけないのか。
 良いとか/いけないとかが、どういう意味か、です。「恵みの下に入れられる」ためには、信仰を深める必要は、一切、ありません。しかし、「恵みの下に入れられた」ことを知って、信仰の幸いに導かれるためには。信仰を深める必要があるのも、また当然です。

W.
 キリストの十字架と復活は、神が、私どもを「恵みの下」に入れてくださったということである。しかし信仰とは、「恵みの下に居る者」として生きる。つまり、「私に罪を犯す者を、キリストにあって、私は赦す」……と。そう祈って過ごすことであると思います。
 「私に罪を犯す者を、赦す」っていうのは。物凄く難しい。難しいって言うよりも、出来ない奇跡です。
 それが「信仰によって、出来る」なんては、言えません。赦せません。出来ないんですけれども。そんな出来ないことを、しかし祈れるようにしていただいている……ということが。奇跡と言うか「奇跡以上の奇跡」というか……。
 今日の聖書の後半は。この奇跡に感じて、神を讃美しています。
 「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました(17、18)。」
 このローマの信徒への手紙を書いたパウロは。かつては、自分が罪の奴隷だったということを、よくよく承知しているので。それで、神を讃美しているのです。
 かつては「私に罪を犯す者を、私は赦す」なんていうことは、とても、出来なかったし。する気もなかった。赦せないまま、赦せない通りに生きていました。「私に罪を犯す者を、私は憎む」、そういう生き方でした。かつては、そんな罪の奴隷でした。
 それが今は、キリストさまに救われて。出来ない尊いことです、「私に罪を犯す者を、私は赦す」っていう、尊い幸いを。祈って、本当にしたい。本当に、そうなりたい……って。「伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従う」っていうのは。そう志す喜びを、知らされちゃったんです。
 だから、「神に感謝します。私は、かつては罪の奴隷でしたが、今は、罪から解放されました」って。聖書は、そのことを言っているのです。

X.
 私ども……パウロみたいな極端な生き方はしてません。
 こういう極端なひとは、なかなかいません。何が何でも、信仰の道を窮め尽くそう、とは。そういう生活は、なかなか出来ません。この世で実際に生活をしていたら。色々あって、そうも出来ない面も多い……。
 かといって、洗礼を受けたら「受けっぱなし」ということでも、ありません。なるべく信仰深い生活をするに越したことは、ない。ですから教会生活も、ちゃんと続けたいとは願っていますし。そういう努力もする。
 「私に罪を犯す者を、私は赦します」とは、なかなか言えないけれども。信仰を深める努力も、しますから。はっきり、「私に罪を犯す者を、私は憎む」とか、そこまででは、ない。「愛せないけれども、なるべく憎まないようには、したい」と。……そういう気持ちは、あります。
 でも、それだと。神さまからの呼び掛けに。あなたは、「恵みの下にいるんだ」と。十字架で死にながら、私どもを招いてくださったキリストさまに、きちんと応えている……とは、言えません。
 みんな、誰でもそうでしょうけど。そういう風に……パウロのようには極端じゃぁ、なく。半端ってこともないですが、中庸と言いますか穏やかといいますか。そういう風ですと、なかなか気付くことができません。自分が、「ひとを赦さないで憎んでしまう」っていうことに、気がつきません。それで、何が自分を不仕合わせにしているか……も、なかなか分かりません。
 「あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです(16)」って、言われています。聖書は「どちらかなのです」って言うんです。
 神は、「愛しなさい」とお命じになりました。「愛せなくっても、憎まなければ良いヨ」とは、おっしゃいません。ですから、私どもは。「愛しなさい」と命じられている者であるか/そんな命令は聞いていない者であるか。どちらかなんです。

Y.
 でも、「私に罪を犯す者」のことは、本当に赦せません。
 「私に罪を犯す者」っていうのは。ただ「私に損をさせる者」じゃぁ、ありません。間違って私に怪我をさせた、とか。間違って損害を与えたとか、そういうことじゃぁ、ありません。罪なんですから、「悪意をもって悪いことをする」のです。
 よくあるアレでは; 「バレーのトーシューズに画鋲を入れる」っていうのが、あります。
 プリマドンナの地位を得るために。こっちは正々堂々、ただ良い演技をし、その結果は受け入れようと思っている。「お互い、そうやって頑張りましょう」って励まし合って来た。そのライバルが「トーシューズに画鋲を入れていた」って奴です。
 そんな悪いことをする理由は、行きがかりとか、止むに止まれず、では・ない。罪なんですから。悪いと知っててワザとやっているんです。
 そういうのは、なかなか赦せません。
 赦せないのは、「自分が損したから」じゃぁ、ありません。「悪」だと思うからです。「酷すぎる」と思うからです。
 そうやって思う位ですから。自分は・まさか、そこまで悪いことまでは、やっていない……つもりです。
 もちろん欲望に負けることはあるし、だから罪は犯します。こっちだって過ちは犯しますけど。まさか・そんなトーシューズみたいな悪いことは、やっちゃぁいけないし。いくら罪深い私だって、そこまでは、やらない。
 けれども、聖書が言っているのは。「だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる(16)」のは、分かるだろう。じゃぁ、あなたは誰に従っているのか……って言うんです。

Z.
 罪を犯してしまうことは、あるけれども。「そんな酷いことは、やるべきじゃぁないし、やっていません」っていうのは。「良いこと/悪いこと」を、全部、自分で決めています。何に従っているのかって言ったら。自分の価値観に従っています。
 「伝えられた教えの規範を受け入れ(17)」たんじゃぁ、なくて。「ここまでは良い/ここから先は悪い」っていう「規範」を、自分で作っています。
 正しいことをやるべきだ。罪は、犯すべきじゃぁない。……それは、立派な心がけです。しかし正しいこととは何か。罪とは何か。これは仕方がない。これ以上は駄目だ……って。自分で決めています。
 それを言ったらトーシューズに画鋲を入れる方だって。これは仕方がない。これ以上は駄目だ……って。自分で決めるのは一緒です。どちらも、神に従っていません。どちらも、自分の考えに従う中で。こっちは、ちょっとは道徳的で、あっちはずっと悪辣だ……。こっちから見れば、そう見える……って。それだけのことです。それなら、相手だって、きっと一緒です。
 神に従っていないから。私に罪を犯す者を、ここまでの罪なら赦す。これ以上の罪は、赦さない……ってなります。
 聖書を書いたパウロが、そうでした。
 宗教の問題で。最初クリスチャンに対して、「それは悪いことだから」って、クリスチャンを裁いていました。それが洗礼を受けて。逆に、ユダヤ人からそういう扱いを受けるようになりました。
 それで、自分のやってたことに、気がつきました。「ここまでなら、赦す。これ以上は赦さない」って。それを、自分で決めたがることが、罪なんだ……。
 だって、それは極端に言えば。「私が正しいと思うことは、神も正しいと思うべきだ。私が悪いと感じることは、神も悪いと感じるべきだ」……って。神でもない、自分の小さな正義感の奴隷になっていて……。
 やっていること自体は、たいがい、良いことなんです。正義感から出てるんですから、正しい場合が多いんですけれども。根本は、神さまのことなんか、てんで敬っていないで。目を三角に、私が正しい、私が主だ……。
 そういう生き方が、「罪に仕える奴隷となって死に至る(16)」。かつての生き方だったんです。

[.
 そんなこと言ったら、「人間誰だってそうじゃぁないか」……って、気もします。それを「罪に仕える奴隷」って言われたら「みんな罪に仕える奴隷じゃぁないか」って、思っちゃいますけど。
 そうなんです。その通りなんです。だから、「正しい者はいない/一人もいない/悟る者もなく/神を探し求める者もいない(3:10、11)」って。この手紙の前の方には、書いてあったんです。
 私ども、そういう意味の「罪」に支配されていて。その支配からは自分ではどうしても抜け出せません。それで「私に罪を犯すヒトを、私は赦します」とは、本当の所では、どうしても……言えません。
 主の祈りを祈るとおりの信仰生活は、出来ているのか……っていったら。出来ていない。信仰が、ちゃんとしていない。
 「私に罪を犯すヒト」が居たら、こころが騒いでしまう……。どうしても、腹が立ってしまう。
 腹を立てて、その結果、仕合わせになるんなら良いんですけど。そうじゃぁ、ありません。正しさ、尊さ、清さなんていうことをいちばん考えているつもりでいながら……。その正しさ、尊さ、清さが、全然自分を仕合わせにしてくれないんです。

\.
 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです(3:23、24)」とも……、しかし書いてありました。
 みんな罪の奴隷だった。律法は、それが「罪」だ、と。そういう自分を正義の中心にしていることこそが、「罪」だと教えてくれました(5:13)。
 教えられたって、抜け出せない……はずだったのに。そんな私どもの罪を、キリストの十字架の故に赦した。だから、もう罪は問わない。「私に罪を犯すヒトを、私は赦します」とは言えない罪を、もう問わない。「私に罪を犯すヒトを赦しますから、私を赦してください」って。本当は赦せないままで、そう神に祈って良い。「そう祈りなさい」って……。
 キリストさまによって、そういう風に導かれていることを知ったから。「しかし、神に感謝します(17)」と。「罪から解放されました(18)」って、パウロは喜んでいるんです。
 「私に罪を犯すヒトを赦しますから、私を赦してください」って。本当は赦せないままなのに、誠心誠意、そう祈って良い。神さまは、自分の祈りを受け入れてくださる……って。キリストさまに出会って、分かったんです。

].
 ……じゃぁ、本当は赦せないまま、「赦します」って祈って良いんだから。別に、赦さないままだって、良い「……ということでしょうか。決してそうではない(15)」っていうのが今日の聖書の最初の所です。
 でも、こう考えたら「決してそうではない」っていうのが当然です。
 赦さないままで、良いのか。決して、そうではない。それじゃぁ自分が嫌だ。赦せるようになりたい。
 「正々堂々頑張ろうね」って向こうから言ってきたのに、トーシューズに画鋲を入れてくるような。そういう相手は、どう考えても悪いです。どう考えても、私に罪を犯している。その罪を、キリストさまのように、赦せるようになりたい。
 そうならなくっても、天国には、行けるのかもしれません。でも、それじゃぁ今の不仕合わせは、全然もとのままじゃぁないか。そんなの嫌だ。どんな罪でも赦せるような信仰者になりたい。そこまで信仰を深めたい……って。
 ……常に……いつも・いつも、そういう殊勝なことを祈り続けている訳じゃぁ、ありません。
 それでも、そういう逆転って言いますか。「あ、私が罪人だったんだ」って気がつかされる。自分はそういう恵みを注がれた者だった……。
 私どもクリスチャンは、みんな、そういう……。神さまから、神の恵みの下に入れられた者だった。「あなたの罪は、もう赦された」と。「あなたも愛して、赦して、仕合わせになりなさい」って呼び掛けられている者だったんだ……。
 私どもが、それに気が付くために。神さまは、特別な仕方で働きかけて来てくださった……。その点が、私ども全てのクリスチャンに共通する、神の祝福と導きです。

]T.
 逝去者が、かつて生きている間、クリスチャンとしての仕合わせを、ちゃんと掴んでいたのか。今、天国で仕合わせになっているのか。そういうことは。私どもには、分かりません。そういうことは、そのかたたちの信仰が本物であったか、とか。私ども自分の信仰がどのくらい本物か、なんていうのと一緒で。私どもには、どうだか分かんない。神さまが裁いてくださることです。
 私どもに分かっているのは。天国のクリスチャンたちは。地上の生涯の中で、生きているうちから、「恵みの下に居る者よ」と。神さまから、呼び掛けられたんだ……と。そのことに気付くように、神さまが働きかけてくださった、かたたちだということです。生きている間から、そういう祝福が、神さまから豊かに注がれたかたたちです。
 私どもも、全く同じく。神さまから、特別の働きかけをいただいている。全く同じ祝福のうちに、この生涯を生かしていただいているのだと思います。

中村栄光教会
説教集へ