旧約聖書【創世記 第12章1〜5節】
新約聖書【ローマの信徒への手紙 第6章19〜22節】
【信頼】
北川一明
T.
今日のローマの信徒への手紙、21節ですが。「では、そのころ、どんな実りがありましたか」と。私どもが、信仰を持つ前にやって来たことは、どんなだったかと、問います。そして「今では恥ずかしいと思うものです」と、決めつけます。
「あなたがたが、信仰を持つ前にやって来たことは、今では恥ずかしいと思わざるを得ないような、汚らわしい、罪の生活だったのだ」と言うのです。
これは、必ずしも私どもの「実感」ではないかもしれません。周囲の信仰を持っていないかたたちが、毎日々々「恥ずべき行ない」をしている、なんて……。そんな風には、思えません。また、自分がやって来たことだって、そこまで悪かったとは、思えません。
それでも……この聖書が、本当だと思える時が、あります。
「信仰を与えられて、私は本当に仕合わせだ」と。「感謝である、信仰のお陰で、仕合わせになることができた」と、感激する時があります。そういう時には。信仰を持つ前は、なんてつまらないことにこだわっていたのだ……と思うのです。
U.
「信仰を与えられて、私は本当に仕合わせだ」と感じるのは、どういう時かと言いますと。何か、ラッキーなことがあった時じゃァ、ありません。病気が治った時、苦しみが取り去られた時じゃァ、ありません。
そういう時は、もちろん「私は仕合わせだ」と思います。でも信仰がなくっても、「仕合わせだ」と思います。
「信仰が与えられたからこそ、私は本当に仕合わせだ」と感じるのは; 苦しみ、悩み、痛み、心配事……。そういった悪いことを、「信仰によって乗り越えることが出来る」……と。そう確信できた時ではないでしょうか。
特別な幸運に恵まれた時、病気が治った時、心配事が解決した時には。信仰に関係なく、まず「仕合わせだ」と感じます。それが信仰者だったらば。「これも神さまのお陰だ」と考えて。「神さまが私を仕合わせにした」と思うかもしれません。
それは、神に感謝して、讃美して、信仰を深めてゆ行く上では、良いことでしょうけれども。だけど何故仕合わせかって言ったら、「信仰があったから」じゃァありません。具体的な苦しみがなくなったから、仕合わせなんです。
「信仰があったからこそ、本当に仕合わせであれた」と感じるのは。苦しみが無くならなくっても、仕合わせである時です。
痛みがあっても、苦しみ、悩みがあっても、心配事があっても。神が共に居てくださるから、大丈夫だ……と。苦しいけれども、こころの芯には安心がある……と。そういう時に「信仰を与えられて、私は本当に仕合わせだ」と感じることが出来るのです。
そういう時。今さっきまでは、「私は本当に仕合わせだ」と感じることが出来なかったのなら。そんなさっきまでの自分は、何てつまらないことにこだわっていたんだろう。神さまを信じていると言いながら、何て恥ずかしい考え方をしていたんだろう。何て馬鹿馬鹿しい生き方をしていたんだろう。死に向かって生きていた。罪と死に支配された生き方をしていた……と。
聖書に書いてある通りです。「今では恥ずかしいと思う」という通りです。しかし今は、「罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」と。このことが、そのまま、私どもの実感になります。
V.
「信仰を与えられて、私は本当に仕合わせだ」と感じた、ひとつの具体的な例ですが……。私どもの信仰の先輩に、アブラハムという人が、あります。
ユーフラテス川の下流で生まれ育ったんですが。途中から上流に引っ越して。そこそこの生活をしていました。特に不自由はなかったのですが。全然知らない外国に「行け」と。神さまから、突然言われました。75歳の時だそうです。
ここで言えば、蕨岡で生まれて、中村に出てきた。一通り成功して、半分引退しかけているような頃です。急に、カザフスタンのアスタナに住んでください……と。たとえば、息子さんがそっちの駐在員で、どうしても一緒に住まなきゃいけない。
しかも、長くなるから、そこで死んでください。もう中村には帰りません……って、ことです。
カザフスタンは、ロシア語も通じますけども、基本的にはカザフ語で。(……何じゃ、そりゃ?)英語は通じません。買い物も出来ないでは日常生活に困るけれども、幸い国立ユーラシア大学にカザフ語講座があって。「受講手続きはしてあげたから。お母さん、そこに通ってください」とかって言われたら。
「ちょっと待て」と。目が点になりす。何が「幸い」だ。今さら、こっちを幾つだと思っているんだ……と。
アブラハムは、そういう状態でした。しかもアブラハムの場合は、語学講座は、ありません。
そんな状態で、アブラハムは、神さまから「行け」って言われました。大昔のことだから、神さまが、直接現われたのかもしれません。それとも、どうしても行かざるを得ない状況になったのを、神の示しと信じたのか。細かなことは分かりませんけど。とにかく、そんな転身をしなくちゃいけなくなった。
アブラハム……どうしたかって言いますと。神さまのご命令に従います。
今日の新約聖書では、人間は、神の奴隷であるか/罪の奴隷であるか、どちらかだと言います。「神さまの言うことには逆らうけれども、自分は罪人じゃぁない」なんていうことは、あり得ない。神さまの言うことをきくか、罪に支配されたままか、どちらかである。
それで、アブラハムは、神さまの言うことをききます。
W.
立派な信仰ですが……。じゃぁ「神さまにお委ねします」で平気で行ったのか。信仰があるから、不安はなかったのかっていったら……。そんな、神経が切れてるワケじゃぁありません。「信仰」って、鈍感になることじゃぁ、ありません。
大きな意味での安心は、心のどこかには、あったかもしれませんが。個々、具体的には、もの凄いストレスだったと思います。
「蓄えた財産をすべて携え(創世記12:5)」て行ったって、書いてあります。
もう中村には帰って来ないんですから。家も土地も、換金できるものはお金にしなくちゃ、いけません。あっちの銀行なんて、アテになりません。ルーブルと、それだけじゃぁ心配だからアメリカ・ドルにして。心配しいしい大量の現金抱えて。高知空港から関空、ソウル経由でアルマトイ着、そこから更にカザフ航空の国内線に乗り換える、なんて言ったら……。
カザフの国内線じゃぁ、もう英語は通じませんから。信仰が、あろうが無かろうが、物凄いストレスです。持病を抱えたひとだったらば。<倒れて動けなくなるか/もう持病まで吹っ飛んでなくなっちゃうか>っていう程のストレスです。昔はもっと大変だったろう……。
それでも「蓄えた財産をすべて携えて行った」っていうのは。「私は信仰があります、神さまに、全てをお委ねします」とかって、手ぶらで行くんじゃァ、ないんです。神さまの言うことは、聞くんだけど。心配で心配で。自分に出来ることは、端から細かに一生懸命考えて。出来る限りの準備を、やって……。
ある面嫌々です。「何で私が、そんな聞いたこともないような土地に行かなくっちゃぁ、いけないの。今、ここで十分出来てるじゃぁないか」という……。恨み辛み、神さまに対するちょっとした気持ちは、あったかもしれません。ある面、嫌々ですが……。
その反面、希望もある。神さまの命令に従うんですから。「あなたを祝福し、あなたの名を高める」って言われた、神さまの約束も信じて……。
それで、財産抱えて。強盗団が待ち伏せしてたらどうしようって心配しいしい。出発しました、その時、「七十五歳であった」。
X.
信仰は、「ひとを自由にする」と、言われます。ローマの信徒への手紙を書いた同じパウロが、「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです(ガラテヤ5:1)」と。別の所で言っています。
ですけど、今日の聖書では。ひとは、誰かの奴隷である。罪の奴隷か、神の奴隷か、どちらかだ……とも言います。
われわれ、クリスチャンになっても、ストレスが無くなるわけじゃぁありませんし。心配がなくなるワケじゃぁありません。苦しみも、病気も、死も、なくなりません。あります。そのまま、残っています。
心配や苦しみがある中で。私どもは、神さまの言うことをきくか、きかないか、どちらかなんです。
そして、神の奴隷となった時。神さまのご命令に従ったときに。自由があります。ある面、自由ではない、神の奴隷です。しかしそれ故に、魂は、自由にされます。
アブラハムは、不安を抱かない「強さ」を持っていたんじゃぁ、ありません。十分苦しみ、十分心配し……。しかしその苦しみや不安を、神さまに委ねる自由を持ったんだと思うのです。
Y.
信仰とは、自分が信念を持つことじゃぁ、ありません。
「揺るぎのない信念」なんて。それは、ただ頑固だっていうだけです。頑固でヒトの話しが聞けないヒトは。神の言葉だって、聞けません。
信仰とは、むしろ……揺るぎのない信念など、私には持てない……。自分は、そういう小さな人間であるということを、まず認めることだと思うのです。
自分の信念は、揺らいでしまう。つまり不信仰である。信仰深くない。すぐにオタオタしてしまう。信仰とは、それを知るのが、第一です。そういう自分の弱さを知るのが、罪を悔いるということです。
自分が弱いということが、分かっていて。だけども、そんなオタオタしている自分を神が導いてくださっている。この、不安になっている私に、神の恵みが注がれている……。それを信じるのが、信仰です。
自分に対して、神さまが何をなさってくださるか。不安の中で、それを一生懸命見ている。待ち望んでいるのが、「信仰深い」っていうことでしょうと思うのです。
信仰とは。信念が強いことじゃぁ、ありません。不信仰な自分に、神の恵みが働いていることを、いつも、見つけようとしていること……。それが信仰です。
信仰があれば、神さまの言うことをききます。神の奴隷になります。けれども、自由です。信仰があれば、不安で不安でしょうがない中で。でも「大丈夫だ」と信じていて。不安の中で、75歳になっても、どこにでも引っ越せます。
Z.
そして信仰があれば、仕合わせです。
アブラハムは、この後。もとの土地にいた時よりも、もっと栄えました。新しい土地でも成功しました。だけど、「成功したから仕合わせだ」っていうんじゃぁ、ありません。
もちろん、成功したら仕合わせですけど。それは、最初に申しました。信仰があっても無くても、成功すりゃァ、仕合わせです。
信仰があるが故の仕合わせとは。神さまから、カザフスタンの道を示された。「えぇ〜、そんなァ」と思いながら。だけども、神さまが示してくださった道だから、進もう……と。不安の中で、そうい決心できたことが……。信仰があるが故の、幸いです。
神の道に従う者の上には、結果として、神さまの約束が成就します。アブラハムも、「子孫が繁栄する」っていう神さまの約束の通りになりました。
神さまの約束が実現したことは。「あ、やっぱりアブラハムは仕合わせだったんだ」って。後で、私どもがそれを知る、私どものための、神さまからのしるしです。アブラハム自身は、死んだ後、子孫が繁栄したって、それを見るワケじゃぁ、ない。
そういう約束を信じて、不安の中でも神に従うことができたこと。そのこと自体が、アブラハムの仕合わせです。
「何で私が、そんな聞いたこともないような土地に行かなくっちゃぁ、いけないんですか」みたいな恨み辛みは、言ったかもしれません。ただし、神を恨んで、ヒトに愚痴るんじゃぁ、ありません。文句を言ったとしたら、直接、神さまにです。
神の祝福を、信じてるから。「勘弁してくださいよ、アタシにばっかり厳しすぎますヨ」って。神に、訴えることが出来るんです。「どうせだったら、もっとちょっと楽に祝福してくださいヨ」って。信頼していればこそ、愚痴も文句も直接神さまに申し述べながら。苦しみつつ……だけど、ある意味、喜んで……。絶対に、神の示してくださった道に、従うんです。
それは、本当に自由です。
アブラハムの仕合わせは、75歳になっても、神さまを信じて引っ越すことが出来たことです。その仕合わせの結果、当然、神さまから祝福されて。仕合わせの実りとして、子孫が栄えたのです。
[.
不信仰なひとは。「そんなの厭だ」と言います。「引っ越したくない」って言います。
今、そこそこに出来ているんだから、神のご命令なんか、聞きたくないと言います。それはアブラハムも同じです。だけど、そう「考える」だけでなくて、実際に、神の命令に従いません。
アブラハムが、仮に神の示してくださった道を拒んだとしたら、どうだったでしょうか。アブラハムは、仕合わせでしょうか。
罰が当たって貧乏になる・とか、そういうことじゃァなく。金持ちのまま、豊かな生活のママだったとして、です。アブラハムは、仕合わせなのか。
神のご命令に背くということは。「勘弁してくださいよ、アタシにばっかり厳しすぎますヨ」って、神さまに、恨み辛みを訴える。そういう神さまと自分の関係を、自分で棄てるということです。
「どうせだったら、もっと楽に祝福してくださいヨ」って。信頼していればこそ、冗談半分、愚痴も文句も、直接神さまに申し述べることが出来ました。しかし神を信頼せず、神に従わないのならば。「どうせだったら、もっと楽に」って愚痴る相手は、もういません。
これから先、もっと金持ちになるかもしれません。これから先、世界を征服できるかもしれません。それでも、これから先、「勘弁してくださいよ、アタシにゃしんどすぎますヨ」って言う、信頼する相手を、自分で棄てたんです。裏切ったんです。
これから先……思わぬ幸運に恵まれた時、仕合わせを感じるはずです。苦しみが取り去られた時、病気が治った時、死に瀕した危機から脱した時には。そういうひとでも、仕合わせを感じます。それは、信仰者でも同じです。
これから先……しかし、思わぬ不運にみまわれた時、苦しみに襲われた時、病気になった時、死に瀕して、そのまま死んでしまう時が。この後、ないのならば。そのヒトは、ずっと仕合わせです。
でも、そういうことがあったら、どうするんでしょうか。
\.
アブラハムなら、思わぬ不運にみまわれた時、苦しみに襲われた時、病気になった時、死に瀕して、そのまま死んでしまう時。事柄それ自体は、厭にきまっています。だけど、「勘弁してくださいよ、神さま」って。「アタシにばっかり厳しすぎますヨ」って。信頼して、永遠の神さまに対して愚痴りながら。神の示された道を、歩みます。
苦しみを乗り越えられるのが、仕合わせだ……というだけじゃぁ、ありません。自分には苦しみに見える、それらのことを。神の示された道だからと歩むことが出来る。尊いおかたを信頼しているということ自体が。神に逆らうひとには知ることができない、大きな幸いです。
神に逆らうひとは。自分を喜ばすために、ケチな喜びを追い求めます。その時、信頼するものは、何もありません。
喜びを追い求め、楽しみを追い求め……。具体的なことは、手に入るかもしれません。何者をも信頼しないで、ただ自分を喜ばせるケチな喜びを、追い求めて、それを、そこそこ手に入れます。
それが、神に逆らう者の自由です。真理から自由で、罪の奴隷であるということです。
しかし信仰者は。自分の喜びを、もちろん、それも追い求めます。だけど神を信頼して。自分のことよりも、神さまの導きと祝福を信頼して、神のご命令を、慕い求めます。それは、この世を超えた、永遠の命に関係のある……。完全な喜びです。
].
信仰を持った後だって。私ども、しばしば、神のご命令に逆らって来たかもしれません。
だけど、信仰を持つ前とは、全然違います。
まず、神さまが、私どもに、進むべき道を与えてくださっていることを、知っています。
その道が、はっきり分かる訳ではありません。はっきり分かった気になった時は。しばしば、ちょっと厭です。「勘弁してくださいヨ」って、「アタシにばっかり厳しすぎますヨ」って。「もうちょっと楽させてくださいヨ」って愚痴らざるを得ないような、辛い道であることが、しばしばです。
しかし信仰を与えられた今は。愚痴らざるを得ないような辛い気持ちになった時に。苦情を訴えるべき、信頼できる神さまを、知っています。辛い気持ちのまま……、だけど、この神のお示しになる道に従おうという決意が、どれだけ潔い、清々しい決意であるかも、知っています。
そして、神のお示しになる道に従った時に。神は、一層倍の祝福をお与えくださる。それ程、私のことを愛してくださっているということを。キリストさまの故に、知っています。
そのことを思い出す限り……。かつて、神のご命令に逆らった時の自分が、いかに恥ずべき、馬鹿馬鹿しい生き方を選んでいたのか。そのことが、分かります。
それが分かって、信仰の道に立ち返ろう……。そう思えるだけで。十分に、聖なる生活の実(22)を結び始めていると思います。聖なる生活の実を結び始めていて。ここに立ち返った以上……。行き着くところは。神さまが備えてくださっている、永遠の命の幸いなのだと思います。