2004年11月28日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

自由を与える真理

12世紀オーストリアの写本より



聖書研究
ローマ6章    中村栄光教会
説教集へ

新約聖書@【ヨハネによる福音書 第8章31〜36節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第6章20〜23節】






自由を与える真理

北川一明

T.
 半月くらい前の新聞(朝日新聞)だったでしょうか。人間の「死」と「医療」みたいなことを扱ったシンポジウムの記事が、ありました。何人かの学者さんが、発題していました。
 ちゃんと切り抜いたりしませんで、主題がなんだったかさえ、はっきりは覚えていないんですが。そんな中で、ひとつ、印象に残った講演要旨が、ありました。
 ただのお医者さんで、言ってることは、学術的でも何でもない。自分の患者さんのことを、そのまま紹介しているものでした;
 九州の病院の副院長先生(森山成彬さん)です。大分かどこかなので、「炭鉱労働者」って言うんでしょうか。そういう患者さんの多い病院だった。
 ある患者さん……Mさんって書いてありました。職場が酒浸りのような所で。15歳から飲み始めて、そこいらでも有名な、酒乱のアルコール依存になった。そのまま30代半ばで肝硬変とC型肝炎になって。入院してお酒をやめたのに、60歳で肝臓癌に進みました。
 それから7年後に亡くなったそうですが。癌がみつかってから後は、そのMさんの生き方が、変わってしまった。一変した。病院の掃除をしたり、空き缶を拾ったり。亡くなる4、5日前まで、一人で勝手に、そういうことをやって。病棟のみんなに喜ばれていたんだそうです。
 ひとりのひとが大きな病院の掃除をしても、実際には、たいして役に立ちません。
 ちかごろの大病院が綺麗なのは。綺麗な方が、客が入って儲かるからだそうです。損得計算したら得だから。経費をかけて、業者を雇って、組織立って綺麗にします。
 ひとりの患者が、空き缶を集めても。病院経営上は、ほとんど無意味です。Mさんが、「自分は役に立っている」と思っていたのなら、「勘違い」だ……と……。
 それでも……そのお医者先生は、Mさんの死にかたに、こころをひかれたんです。
 病院の副院長です。「うちの病院は、金儲けのために業者を雇って掃除させている」って、そんなことは十分承知しているはずです。
 そして、他のパネラーたちが、「人間の死とは何であるか」みたいな。学術的って言うんでしょうか。「死に瀕した患者に対する対応は」とか、「そういう時のストレスは」って。いわゆる「立派な」お話しをする中で……。
 その副院長先生は、どうしても、その炭鉱労働者Mさんの死にかたを紹介したかったんです。死にかたというか、最後の生きかたが、その副院長先生を動かしたんです。

U.
 ローマの信徒への手紙には、「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした(6:20)」って、書いてあります。
 私ども、ただ「自由」であるだけだったら。さっぱり良いことは、ありません。
 Mさんは、15歳からお酒を飲み始めた……。法律では、お酒は20歳からと決められていますが。Mさんは、自由です。法律を守っても破っても自由ですから。自由に法律を破って、お酒を飲みました。
 飲んで、暴れて、病気になっても。ひとのせいにするワケじゃぁない。俺のカネで俺が酒飲んで俺が死んで行くんだから、俺の自由だろう……って。その通りです。自由です。
 でも……どうして身体を毀すまで飲んだのか。きっと、飲んだ方が、まだマシだったから、飲まずにはいられなかったんです。
 飲むのは自由ですが。飲まずにはいられないで飲み、暴れずにはいられないで暴れていたのなら。自由でありながら、自由じゃぁ、ありません。何ものかに支配されて、何ものかに動かされているんです。
 自由に飲んで暴れていた頃、あなたには「どんな実りがありましたか」って聞いたら。死を前にして。身を慎んで、ひとのために奉仕をしている時だったら。「恥ずかしい、思い出したくない」って言うかもしれません。
 ただ……そういうMさんに、「世のため、ひとのために正しいことをしなさい」なんてお説教しても、ナンセンスです。「お酒なんか飲んでないで、掃除をしなさい、空き缶拾いをしなさい」なんてお説教したって。飲まずにはいられなくなる大元が解決しなかったなら。飲まずにはいられないんだから、どうしようもありません。
 飲まずにはいられなくなる、その大元とは。「大元」なんですから。きっと、生きる上での「大元」の悩み、苦しみ、迷いと関係のあることです。

V.
 もう来月、クリスマスを迎えます。ご承知の通り、クリスマスはイエス・キリストさまの誕生日で。今年は、2004回目のお誕生日……。考古学的に厳密に言えば、2010回目……2010プラスマイナス3回目の誕生日です。
 イエスさまが、地上を生きた間。イエスさまには、何か神々しい真理のようなものを、感じさせられる。そう感じたひとたちが、ありました。それで大勢のひとが、イエスさまに従いました。
 イエスさまについて行ったのは。……何か、求めるところがあったからです。
 具体的に、何を求めていたかは、ひとそれぞれでしょうと思います。世を生きる上で、どうしても必要な、何かです。生活や、将来のことでしょうか。自分や愛する者の命や、健康のことでしょうか。それとも対人関係で、大切にすべきひとを呪わなくてはならないようなことになっていたのでしょうか。
 具体的には、まちまちでも。とにかく、今の自分に解決をつけたい……と。そう願っていた。
 ただの野次馬根性でイエスさまについていったひともあったかもしれません。そんなひとでも、そうです。今の自分に満足できないで。何か新しいものを見つけたくって。自分の大切な時間を野次馬に使っていたのなら、同じです。今の自分に、解決をつけたい。
 そういう所に。イエス・キリストという……。何か真理の光を放つような、そういう話しをしてくれるひとが来た。ここに解決があるかもしれないと思ったのです。
 イエスさまは、そういうついて来たひとたちに。今日のヨハネ福音書(8:34)ですが……。「あなたたちは、奴隷である」、「罪の奴隷である」って言いました。
 これは、ついて来たひとたちが、うんとびっくりするような……。たいへん失礼な……。侮辱ともとれるような発言でした。イエスさまの時代は、実際に人口の何割かが、本当に奴隷でした。普通のひとに向かって、「奴隷である」なんて。あなたがたは「まともな人間じゃぁない」っていう意味です。
 まぁ、確かに。飲まずにはいられなかった、暴れずにはいられなかった頃のMさんは、「欲望の奴隷」っていう風にも見えます。だけども、そういうしょうもないことをやっているから「奴隷」だと行ったのか……って言ったら、そうじゃァありません。
 イエスさまについて行ったひとたちの中で。ヨハネ福音書で「ユダヤ人」って言われているヒトたちは。もっと「お上品」なかたたちです。道徳を守り、世のためひとのために立派なことをし。それで、「自分は酒を飲んで暴れるような連中とは違うのだ」と思っていた。そういうヒトたちです。
 だけども、そういうヒトたちが、何故イエスさまについて行ってたかといいますと。何か、求めるところがあったからです。みんな、それぞれに、今の自分自身に解決をつけたくって。それで、そういう解決の糸口になりそうな、何か尊い真理に関係がありそうな……イエスさまに。みんな、ついて行っていたんです。
 つまり、何らかの意味で、不自由だったんです。
 生活や将来のこと、命や健康のこと、生き甲斐や、人間関係のことで。何かに縛られていて、思い通りにならなかったんです。だから、自由ではなかった。そういった諸々のことでの自由を、切に求めていたんです。
 Mさんは。生きて行く上で、どうしようもない。解決をつけなくっちゃァ、いけない。けれども解決させられない問題に縛られて。それで、それから逃れるために、飲んで暴れざるを得ませんでした。
 「ユダヤ人」たちは。宗教家ぶって。道徳を守り、世のためひとのために立派なことをし。それで得意になることで、そういう根本の問題を忘れようとしました。
 それでも、何かを求めてイエスさまについて行ったのは。救われる必要が、あったからです。道徳を守ることじゃぁ、そういう問題は、解決させることが出来なかったからです。
 Mさんも、ユダヤ人も。どちらも、最初から足りなかったんです。生きるために一番大事な何かが足りなくって。それでMさんは、お酒を飲まずにはいられなかったし。ユダヤ人は、偽善をやって、得意にならざるを得なかったんです。

W.
 その、「生きるために一番大事な何か」のことを。イエスさまは、「真理」と言います。
 「真理」って言われても、何のことやら……。もう一回福音書を読んでみますと。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする(ヨハネ8:31、32)」って……。そういうことですから、つまり、キリストの言葉にとどまっていれば、真理を知るようになる……らしいのです……。
 じゃぁキリストの言葉って、何か。
 弟子たちによって、キリストさまのいろいろな言葉が残ってますけど。まぁ大雑把に言えば、要するに道徳……みたいなことが大半です。ただ、じゃぁ道徳を守っていたら、真理が分かるのかって言ったら。
 ……ここで、ちょっとだけ……。どうしても、聖書の研究成果を言わないと、説明し切れないで、申し訳ないんですが……。
 キリストの言葉に留まるって言った時の、「キリストの言葉」とは何か。聖書をうんと研究して来たひとたちが、みな一様に考えてますことは……。
 イエスさまがおっしゃった道徳も、もちろんキリストの言葉です。ですけれども、キリストさまが十字架で死んで、復活した……っていう。そういう、キリストさまの全部、そのものが、聖書の伝える、「キリストの御言葉」なんだそうです。
 道徳的な、お説教じみたうるさいことを言い、しかしひとを愛して奇跡で病気を治し、そののち裏切られて十字架で殺され、死者の中からよみがえらされた、人間でありながらも神であり、神でありながらも人間である。そういうキリストそのものが、神の御言葉なんだそうです。
 そこに留まるならば、真理が分かって来て。それで、自由にされるのです。
 ……難しいでしょうか……。難しいですよネ。難しくって、ワケ分からんので。それで、炭鉱労働者Mさんのお話しを紹介させていただいたんです。
 Mさんの生き方が、キリストの真理と関係ある。だからMさんは、最後にずい「自由」にされた。良い意味での「自由」になって行った……と、感じさせられるからです。
 私だけじゃぁ、ありません。大きな病院を経営し、人助けをしながら金儲けもして、豊かに暮らしている。そんなお医者先生も。Mさんの生きかたに、真理と関係する、何かを感じたんです。ひとを自由にする、ひとを、本当によく生かす、何かを感じたのです。キリストさまに従っていたひとたちが求めていた「何か」を、Mさんの中に、感じたのです。

X.
 Mさんを見て、キリストさまのことを考えますと。似たところがあります。
 「自分のため」に生きるっていうことを、すっかりやめてしまっています。「ひとのために生きる」「自分を献げて生きる」っていう所が、Mさんは、キリストさまと一緒です。
 「キリストの言葉」とは。「道徳を守れ」っていうことじゃぁなくって。自分を献げる生きる……って。そういうことなのかなァ……と。
 自分を献げた時に、私ども、本当に自由にされて。本当に、仕合わせになるのかもしれません。
 だって……自分を献げるつもりがない限り。われわれ、どうしたって悩みは尽きません。
 生活や将来/自分や愛する者の命や健康/対人関係/生き甲斐。そういうもの全部、どこまで整えたって、キリがありません。キリがないどころか。逆に、齢をとったら、そういうものの自由は、次々に奪われて行きます。どんどん不自由になって行きます。
 そういう自由は。カネがあって、能力があって、人脈にも恵まれている子どもが。成長して、更に少しづつ力をためて行っている間は。自由が増えるのかもしれません。
 しかし自分を献げるつもりがない限り。そこから先、あとは、自由は、だんだんと減って行き、奪われて行き、失われて行って。最後は、全部を無くします。死ぬ時、全部をなくします。「罪の自由」の行き着くところは、「死にほかならない」と、書いてある通りです(ローマ6:21)。
 むしろMさんみたいに。自分のことをスッパリ諦めてしまって。いっそ、ひとのためだけに生き始めたら。ずっと、身軽になります。自由になります。自分に出来ることをやるだけで、満たされた気持ちになります。
 イエスさまがお教えになったのは。「道徳を守れ」っていうことじゃぁなくって。自分を何か尊いものに献げる生き方なのかなァ……と。
 自分を献げるつもりもないのに道徳を守ろうと思ったら。道徳は、不自由で、小うるさくて、やり切れません。「ひとのため」であろうが「神のため」であろうが、「自分以外のもののため」に何かやるっていうのは、不自由です。
 そういう時には。昔のMさんみたいに飲まずにはいられなかったり。ユダヤ人みたいに偽善で取り繕って、ひとから誉められてなかったら満足できなかったり。救われた後には恥ずかしいとしか思えない。そんな生きかたになってしまう。
 ……そんな生きかたをしながらも。悩みは、苦しみは、減るんじゃァない。齢をとるとともに、増えていきます。そして、行き着くところは「死にほかならない」。
 けれども、自分を、何か尊い、永遠のもののために献げてしまって。そうして、自分のために生きるのをやめたならば。自由になります。自分に出来ること、小さなことでも、ただ出来るからやる……っていうだけで、満たされた気持ちになります。
 道徳なんか、どうだっていいんです。別に、ひとに尊敬されるためにやってんじゃぁないんですから。細かなことなんか、どうでも良い。それでもやってることは、外から見たら。全部、尊い、隣人愛の働きに……。結果として、そういう風に、なって行くのかなァ……と。

Y.
 だから、私どもも。自分を献げて。世のため、ひとのために生きれば良いんですけれども。そうやって言われても。ここに、どうしても一つ、矛盾があります。
 私ども、救われたいんです。
 罪の自由は、齢をとって行くに従って、減って行き、奪われて行き、失われて行って。最後は、全部を無くします。それは、考えれば分かります。
 だから、そんな「罪の自由」じゃぁない。聖書は「永遠の命」って言います。そういう、イエスさまが持っていたような、尊い、清いものかがほしいです。
 そのために、「自分を献げて。世のため、ひとのために生きなさい」って言われたら。厭だと言うワケじゃぁない。そうしたいんですが……。
 だけど、そもそも「自分が救われたい」から「自分を献げる」とか。「自分が救われたいから、世のため、ひとのため」なんて、言うんだったら。ここで「ユダヤ人」って言われているひとたちの、偽善と一緒です。結局、全部自分のためです。
 自分のためになるのなら、自分を献げるつもりにも、なる。「世のため、ひとのため」でも何でもやるんですが。その「自分のため」っていう所から、どうしても、自由になれないんです。
 それが、私どもが、罪の奴隷にされている……。人間は、罪からどうしても逃れられない……っていうこと……でしょうか。
 そういう意味で。イエスさまは、「あなたがたは奴隷である」と。真面目に、品行方正にやって来たユダヤ人たちに。そうやって言ったんです。品行方正に、教会生活を続けているひとも。飲んで暴れているひとも。「みんな、罪の奴隷だ」と、おっしゃったんです。
 しかしキリストの言葉に留まるならば。そういう、罪の奴隷である私どもが。真理を知り、その真理によって、自由にされるのです。
 「道徳をやろう」とか、「空き缶を拾おう」ってことじゃぁ、ありません。やることは、何でもよくって。「自分のため」っていう気持ちから、自由にされて。自分を献げることが出来れば、良いんです。
 だけど、それが出来ない……。そういうことは、本当に肝臓癌になって。もう絶対に助かるはずがない……って、諦めた後。自分のことを「完全に諦める」なんていうことが、出来たとして。その後で、じゃぁないと……出来ません。
 自分を献げることができない、そのせいで。生活や将来/自分や愛する者の命や健康/対人関係が、だんだん苦しくなり。罪の自由を、順々に奪われて行って。だんだんと、絶望に近付き。一歩一歩不幸になって、死んで行くんです。
 つまらない生き方しか出来ないのは、自分を献げることが出来ないからです。「罪」だからです。
 そんな私どもを、神さまは憐れんでくださって。そうして、イエス・キリストとして、ご自身を私どもに啓わして。ご自身を、私どもに献げてくださったのが、「キリストの言葉」ということです。
 ここに留まれば。私どもは、自由にされるのです。

Z.
 それは……本当だと思います。
 死に瀕した時、Mさんのようになることが出来なければ、災いです。生活や将来/命や健康/対人関係/生き甲斐のことを、自分が本当に死のうっていう時にまで、何とか自分の自由にしたいと願っているのならば。そうやって死んで行くひとは、災いです。惨めな死にかたです。
 死んで行く時に。手に入らない物ばかりを求めて、苦しみながら、一生涯を終えるのならば。そんな惨めな人生は、ありません。
 私も……死ぬ時に。完全な、聖人君子として微笑みながら死んで行けるとは思っていません。それでも牧師ですから。それでも……聖書を読んで、お祈りをしています。ともかく聖書を読んで。イエスさまの生きかた、死にかたをいつも思っていて。そうして祈って生活しています。
 完全に、満足し、安心して死んで行くことは、ちょっと怪しいとしても。自分を献げて感謝のうちに死んで行く……。そういうことが、完璧に、ではないにしても。多少は出来る……。死を怖れ苦しんで、ジタバタするとしても。少なくとも、ただジタバタするだけじゃぁ、ない。「この命をお献げします」っていう気持ちも、多少は持てるだろうと思っています。
 しかし、死に瀕した時じゃァ、ない。今のうちからです。まだ自分で何かが出来る、今のうちから。Mさんのように、自分を献げて生きることができたら。自分の人生が、どれだけ幸いなものになるかと思うのです。
 こうして教会に導かれて……。多少なりとも、「キリストの真理の御言葉」といわれるものに、触れているんです。それで、罪の自由は、死に至る惨めな自由であることも、分かっているんです。
 「自分のため」っていうことを、いっぺんに全部棄ててしまうことが、どうしても出来ないとしても……。キリストにつながっているから。
 エゴが、どんなに強い人間でも。今、まだすぐには死にそうにない、今のうちからでも。キリストさまの力で、少しづつ、そういう真理に導かれる。もう、導かれている……って、思うのです。
 Mさんの生きかた、死にかたには、今日の聖書で言う、「聖なる生活の実り(ローマ6:22)」があるようです。罪から解放されて、聖なる生活の実を結び始めた。だから、その自分自身を献げる生きかたから、イエス・キリストによる永遠の命が、Mさんの場合は始まっています。
 「俺だって、死に瀕したら。多少はそういう聖なる実りを見せてやる」って思ってますけど。死に瀕する前に。既に今から、です。Mさんの生きかたに「聖なる生活の実り」を見出して、こういう生きかたに憧れを抱くことが出来るのならば。私どもは、キリストさまの御言葉を、もう真理として、受け入れ始めているのだと思います。
 御言葉を受け入れる者は。既に、祝福を受けている。ちゃんと自覚的な信仰生活を始めれば、豊かに賜わる祝福を、きちんと受け取ることが出来ます。この恵みを拒む理由も、私は、ないと思っています。

中村栄光教会
説教集へ