2004年12月5日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

ひとはなんで生きるか

中世エチオピアの写本より



聖書研究
ローマ7章    中村栄光教会
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新約聖書@【マタイによる福音書 第2章1〜8節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第7章1節】






ひとはなんで生きるか

北川一明

T.
 「東方の博士たち」と呼ばれます、外国の天文学者が、長い旅をして。イエスさまのお誕生を祝うために、エルサレムにやって来ました。教会で語られる、クリスマスの物語りです。
 古代にあって、「学者」ですから。生活には、何の不足もなかったはずです。むしろ、こんな旅行が。当時は命がけです。ある程度の年齢に達している人たちだったのならば。家族に、一応別れを告げてから出発するような、そういう旅行です。財産も、健康も。この旅行で、損なうことはあっても、増えることは、ありません。それでも、旅に出ました。
 何が、この人たちを、旅立たせたのか……考えさせられます。
 旅行の目的は、2節に書いてあります。「ユダヤ人の王」を、「拝みに来た」のです。星のお告げで。イエスさまは、まことの「王」であるト、思ったのです。
 「王」とは「支配者」ということです。
 人間を、本当に支配している者は、誰なのか。ローマの信徒への手紙を、続けて読んでまいりまして。そこでは、人間は、罪の支配の下にあるか/キリストの支配の下にあるか、どちらかであるト、言われていました。
 自分を支配しているものは、何なのか。自分はどのような支配の下に生きれば良いか……。博士たちは、それを見極めることが、命をかけるに値するト、思ったのでしょうか。
 そういうことは、あるかもしれません。

U.
 ヒトは、なんのために生きるのか。その答えは、「なんのために生きるのかを知るために、生きる」、なんていうヒトが、あります。
 言ってることは、論理的には堂々巡りですが。それでも、そうやって言われるのが、なんとなく分かる気もします。
 なんのために生きるのか、なんて。考えたって、どうせ分からない。かといって、それを全然考えないのならば……。私どもの一生涯は、実りのないものになってしまいます。
 じゃァ何のために生きるか。
 東方の博士たちが、エルサレムにやって来た時。それを迎えたのは、ヘロデ王でした。イエスさまが十字架にかかった時のヘロデ王と同じ名前ですが。その、お父さんです。息子と区別して、ヘロデ大王と呼ばれています。ユダヤの王です。
 ヘロデは、自分の快楽と欲望のために生きた……。そういうヒトでした。やりたい放題。快楽と欲望のために生きたヒトです。
 欲望を満たすのも、やりたい放題でしたが。やりたい放題をやるためには権力が必要です。その権力を保つ、保ちかたも、やりたい放題でした。「逆らう者は殺す」……。あるいは、「疑わしい者は殺す」というやり方で権力を保っていました。
 その人生、何から何まで徹底して、やりたい放題だった……。
 それで仕合わせだったかと言うと。そんな風でしたから、最期は恨みを買って、敵がどんどん増えて行きました。奥さんや実の子どもも信用できなくなって、殺すようになった挙げ句に。ほとんど錯乱状態のうちに……。何の病気か分かりませんが、身体が内側から腐って行った。それで、蛆虫が身体を食い破って出てきて死んだと伝えられています。
 ヒトは、なんのために生きるのか。自分の快楽や欲望のために生きて良いはずが、ありません。
 まぁ、ヘロデは極端です。私ども、まさかヘロデのようなことは、ありません。
 それでも、人間は、罪の支配の下にいるか/キリストの支配の下にいるか、どちらかである……。信仰に生きないのならば、罪の奴隷である……ト、聖書は言います。
 自分のために生きていては。自分の生涯を、実りのあるものにできないのです。
 ヘロデのように極端に、自分勝手になったら、極端に不幸になります。適当に妥協して、ホドホドに自分勝手だったら、きっと、ほどほどに楽しくもあり、楽しくもなし……。「実り豊かな人生」というわけには、いきません。
 ヒトは、なんのために生きるのか。考えたって分かんないんですが。「考えたって分かんないヨ」で、済ませるならば。ヘロデのような悪いことは、しなくっても……。「自分」のために生きている。それは、かわらないのかもしれません。
 それが、罪の支配下に生きることなのだ……ト。聖書は、それを言っているのです。

V.
 「それとも、兄弟たち」と……。ローマの信徒への手紙の続きは、「わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか」。
 あなたがた兄弟は、みんな、世の中の道理を知っている。……そういう意味なら、私どもも、そうです。世の律法を知っています。
 人間は、ひとりで生きているんじゃぁないんだから。ヘロデのようであっては、ならない。ひとり勝手に、自分の欲望、自分の快楽を貪るような生き方は、いけない。楽しみを追い求めるのが悪い訳ではないとしても。ひとに迷惑をかけない程度に、ホドホドに……って。
 それは、その通りである。「ヒトは行ないによらず、信仰によって救われる」って、いくら言っても。だからって言って、欲望に溺れては、ならない。そんな生きかたは、実りのない生きかたです。
 しかし、そういう世の道理は、生きている間は、当然必要です。だけれども、それは「人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか」、知っているでしょう……ト。聖書は、そう言うんです。
 ヘロデのような生き方……自分の快楽、自分の欲望を追い求める生涯は。何の実りもない生涯だ。それは、その通りです。
 じゃぁ、それがいけないんだったら。何のために生きるのか。自分の快楽、自分の欲望を、我慢すれば良いのか。
 我慢することは、もちろん必要です。ヒトは、ひとりで生きるンじゃァない、社会を形成しているんだから。生きている間は、迷惑にならないように、邪魔にならないように、「悪いことをやらない」のは、もちろん必要です。
 でも、それは……。ヒトが、生きている間のことです。生きている間、どんなに大切であっても。この世の命を超えて大切なことじゃぁありません。それに縛られていては、自分が何のために生きるのかは、分からない。だから、やっぱり……。自分の人生を、実りのあるものにすることは出来ない……のです。
 ローマの信徒への手紙の少し前の所(6:12)に、出てきました。私どもは、「死ぬべき体」で生きています。「ヒトは何のために生きるか」……どうせ、じきに死んでしまう肉体しかもっていないのに、それでも生きるのは何のためか。生きている間に限って必要な世の道理に縛られていては。その答えは、分からない。
 世の道理とは……聖書の言葉では「律法」ですけど。生きている間に限って、ヒトを支配している。生きている間だけ、大切です。そんな律法に縛られていたら。死すべき人間が、何のために生きるのか。それが、分かりません。
 それで……自分の生涯を、実りのあるものには、出来ません。

W.
 自分の人生を、実り豊かなものにしたい。「生きていて良かった」……と。快楽を満たした時に、じゃァありません。この世を去る時にも、「生きていて良かった」「実り豊かな、良き生涯を送ることができた」ト、思うような生涯を送りたい。
 そう願っていた東方の博士たちは……。自分を本当に支配するものは、何なのか。王が生まれたのなら、拝みたいと思ったのです。
 やっぱり、星ばっかり見てたから、浮世離れしたんでしょうか。
 だけども、世の道理に縛られていた人たちは、そうではありませんでした。
 ヘロデをはじめ、エルサレムのひとたちは。東方の博士たちから、救い主がお生まれになったト、聞かされました。自分を救い出してくださる王が、生まれたんです。それなのに、エルサレムの人たちは「これを聞いて、……不安を抱いた……(マタイ2:3)」って。不安になりました。
 ヘロデと新しい王様の間で、権力闘争で面倒なことになるのが厭だったのでしょうか。今の有り様には、全然満足していなかった。しかし……それを変えるために、自分が何かをやる、なんてことは、もちろんありません。それどころか、救い主が、何か事を起こすのが怖かったのです。新しいことが起こるのが、厭だったんです。
 ヘロデの治世が続けば。自分勝手なやりたい放題の王様なんですから。不愉快ですし、怖いです。理不尽な目に遭うかもしれません。それでも、どんなに悪いことをされたとしても。今まで知っているヘロデ大王ですから。今より更に悪くなったとしても、だいたい計算できる範囲です。世の道理でもって判断できる範囲のことです。
 しかし救い主なんてェものが出てきて。この世の中を全く新しく変えてしまうのなら。何が起こるか分かりませんから、不安です。ヘロデなら。不愉快で、腹立たしいだけで、普通です。普通が良い……。
 しかし、この世を去る時に、「生きていて良かった」ト。ヘロデの政治に苦しめらて、不愉快であった、腹立たしくもあった、だけど普通の生涯だった……。それが人生の実りでしょうか。そういう生涯を終えた時に、「実り豊かな、良き生涯を送ることができた」ト、思えるんでしょうか。
 そうじゃァなく、生きている間だけ通用する道理が毀れてしまって、全てが新しくされる。私の常識は、もう通用しない。それでも、その新しさが自分の救いにかかわる新しさなんだとしたら。それを経験できた生涯の方が、ずっと良いはずです。
 それなのに。律法に支配されている……死んで行くこの世をどう過ごすかという考えだけに支配されていたヒトたちは。新しいことを起こしてくださる救い主の誕生を……。喜ぶことが、出来なかったのです。

X.
 救いを求める人間のために、イエスさまがやって来たというのは。そういう人間のところに、イエスさまは来てくださったト、いうことです。人間とは、そういう、この世の道理に縛られているもの……。世の道理に縛られて、天の命が見えないものだ……。その人間を救うために、天にいらっしゃった神が、地に住むヒトになったのです。
 ヒトは、なんのために生きるのか。その答えは、「なんのために生きるのか、それを知るために生きる」……って言うくらいで。考えても、分からない……。考えるだけでも尊いくらいで、とても答えは出せない問題です。
 なんでかって言えば。死すべき肉の身体では、見えない……生きている間だけではなく、死んだ先まで大切なことを考えないと、「何のために生きるか」は、分からない。でも、死んだ先は、見えないから。「ひとは何で生きるか」、私ども人間には、分からないんです。
 それを、分かるように顕われてくださった神が。ベツレヘムでお生まれになった、イエス・キリストです。
 死すべき肉の目には見えない、命の目的を。キリストに対する信仰で、霊の目で見ることができるようになったのが、私ども、クリスチャンです。
 ですから私どもは、この世の秩序から解放されて。この生涯で。聖なる生活の実を結ぶことが出来る(ローマ6:22)のです。
 この生涯で、……世の中の目で見て、大きな業績を残せるワケじゃァないとしても。「何のために生きるのか」、それを霊で知って。その通りに生きて。世を去る時には、「実り豊かな、良き生涯を送ることができた」ト感謝することが出来るのです。

Y.
 「実り豊かな本当の命」は、キリストさまに触れた時に、分かります。
 うちの二人の子どもが……。小学校低学年ですが。「聖書に触れていて、本当に良かった」……ト。「イエスさまを知っていて本当に良かった」ト、ほっとした表情を……。この前していました。それを見て。「導かれる」って、こういうことなんだなァと、神の力を感じさせられました。そういう経験をさせていただきました。
 ローマの信徒への手紙が、「奴隷」ということを言っている所だったので。そんな関心からか。図書館にあった、『もしもあなたが奴隷だったら』という絵本を、借りて来たんです。
 読んで聞かせていた時のことです;
 アフリカの黒人が、欧米の白人に捕まえられて。家畜以下です。ただの物です。船底の商品を並べる棚……隙間が50cmしかない棚に、仰向けに寝かされて、大西洋を渡った所から始まる絵本です。
 もし家畜だったら。もったいないから元気なままでアメリカに着くように。いくら船の中でも、もう少し広い場所を用意するのですが。黒人奴隷の場合は、数がたくさん、いくらでもありますから。どんどん詰め込んで、弱いのが死んだら途中で海に棄てる。そうすれば、強い、よく働けるのだけが残って、高く売れる……っていう、そういう時代です。
 アメリカに着いてからも、家畜か、家畜以下の扱いを受ける。白人の方は、それ程悪気があるワケじゃぁ、ありません。今じゃァ考えられないことですが……。黒人が、自分と同じこころを持った、自分と同じ人間であるっていうことを、知らないんです。
 特にアメリカ南部では。キリスト教会までが、黒人を人間とは思っていなかった。
 それで法律は、逃げ出した黒人奴隷をかくまったりしたら、かくまったヒトは、泥棒になりました。
 逃げ出して捕まった奴隷は、二度と逃げれないように、リンチにされますけど。それで死んだって、それは、それで見せしめになって。「もったいないけど、まぁ良いか」みたいな扱いを受けている。本当に、「人間」ではなくて「奴隷」です。

Z.
 で、アタシ……自分は、本の読み聞かせの「才能」があるなァ……って、自画自賛ですけど。その後で小学校から回ってきた「何か教育ボランティアをやってください」っていうアンケートで。調子にのって、「読み聞かせ」の所に丸をつけて提出しちゃいましたけど……。
 上の二年生は、アタシの話しに息を呑むように。身じろぎひとつしないで聞いて、絵本の絵を食い入るように見てまして。下の一年生の女の子の方は。半べそをかきながら「もう、こんな本読まないでくれ」「やめてくれ」って、何度も懇願します。
 それでも読み続けました。
 そうしたら……アメリカも、北部まで逃げたら。黒人奴隷をかくまってくれる白人が、あったそうです。
 北部でも、かくまったら罪になります。だんだん、奴隷解放について世の中が対立する様になってきた頃には。かくまったら、奴隷制度擁護の白人たちに殺されるひとたちも出てきた。それでも、かくまうひとたちがあったんですネ。
 なぜ、自分の命の危険を冒してまで、黒人をかくまったのか。逃げて来た奴隷は、その時初めて会った、見ず知らずのヒトです。それを、自分の命を危険にさらして、どうしてかくまったのか。かくまったヒトたちは、「聖書を読んでいるひとたちだった」……ト。その絵本に書いてありました。
 そこを読んで、二人が。本当にホッとした表情をしました。
 奴隷が助かったことにホッとしたというよりも……。これは、アタシの感じかたですが。自分たちが「教会に居る」ということ、「聖書のそばに居る」っていうこと……。黒人奴隷を物として扱うんじゃぁなくて。黒人奴隷を、命の危険を顧みずに助けようとした教会の側に、自分たちが入れてもらっている……って。そのことに、ホッとした……ト。そう感じました。

[.
 今時、キリスト教会でなくっても。「奴隷制度はいけない」なんて、誰でも言います。「人権尊重」なんて、誰でも言いますし、「福祉が大切」って、みんな言います。
 社会福祉は。今では、キリスト教会よりも、行政や民間がずっと大規模にやっています。
 けれども……。自分の命の危険を冒してまで。初めて出会った知らないヒトを助けることは。行政には出来ないでしょう。企業には、出来ないでしょう。神を畏れているヒトじゃぁなきゃぁ、できません。
 もちろんキリスト教だけじゃぁないかもしれません。お役人でも、法を犯して、命をかけて、ヒトを助けたヒトは、あります。けれども、それは、公務員として助けたんじゃぁない。神を畏れ敬う人間として、助けたんです。
 奴隷をかくまったひとたちは、神を畏れ敬って、聖書を読んで生活していました。
 聖書には、ヒトは神の似像として……尊いものとして造られたと書いてある。また、イエスさまは「隣り人を愛しなさい」ト、言い……。「傷付いた旅人を助けたサマリア人が隣り人になったのだ」とお教えになりました。
 それを、そのまま信じて。神の僕として、そのまま実行したんです。

\.
 同じ「聖書を読んでいるひとたち」でも。南部のひとたちは、別の読み方をしました。
 聖書には、「盗むな」と書いてある。だから、逃げ出した奴隷をかくまうのは、所有者に対する罪だ。それは神に対する罪でもあるから、逃亡奴隷を見つけたら、捕まえるべきだ……ト。聖書を、そういう風に読みました。
 南部のヒトたちが、特別に悪いひとだったワケじゃぁ、ありません。奴隷の労働力に頼った農業をしている南部では。隣のスミスさんち奴隷が逃げ出して、スミスさんが困っている。親切で、奴隷を捕まえてあげなくっちゃぁいけない……って。それが、南部の道徳だったんです。
 白人を取り囲んでいる常識が、北部と南部で違っていたから。結果的に、南部のヒトたちが、聖書に反する……。神が喜ばれない行動をとってしまった……ト、いうだけです。
 だからどちらも、罪赦されて、天国に行けるのかも分かりません。
 それでも。間違った正義感から奴隷をリンチにするよりも。自分の命を捨ててまで、一人の奴隷を助けた方が。「意味のある命を生きることが出来た」ト、言えるンじゃァないか。「この地上で、豊かに聖なる生活の実を結んだ生涯であった」ト、言えるンじゃァないかと思うのです。

].
 奴隷だけでなく。南部のヒトも、北部のヒトも。いずれも、救いの必要なヒトたちでした。この世の道理に縛られている。死んで行くこの世をどう過ごすかということに縛られている、救いの必要なヒトたちでした。
 救いの必要なヒトたちに。キリストさまは訪れて。この世に限った律法の支配を終わらせたてくださったのです。
 それを、ある一部のひとたちは。正しく導かれて、聖書を通して。この世を超えた外から来た新しい命を、この世にあって、生きることが出来たんです。

 私どもも……。うちの二人の子どもと、一緒です。そういう教会の側に、入れていただいているんです。
 黒人奴隷を、物として取り扱うんじゃぁなくて。命の危険を顧みずに助けようとする、教会の側に、私どもも入れてもらっているんです。子どもを見て、子どもだけじゃぁない。自分がそうなんだト、ホッとしました。感謝でした。
 教会に入れられて。さらに正しく導かれたい。聖書の通りの、「聖なる生活の実を結ぶ」ような生き方に導かれて。自分の生涯を、意味があったと言えるようになりたいと願っています。

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