2004年12月12日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

天使になる

中世エチオピアの写本より



聖書研究
ローマ7章    中村栄光教会
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新約聖書@【マルコによる福音書 第12章18〜27節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第7章1〜4節】






天使になる

北川一明

T.
 現代の日本は、まだまだ男性中心社会です。ここ数十年、ずいぶん性差別が減ったとはいえ。産業、経済を動かしているのは、おもに男性です。
 喰っていく「カネ」を作り出すのが男性中心ということですから。世の中は、どうしても、男の都合にあわせて動きます。
 聖書の時代も、そうでした。もっと、そうでした。男性が支配し/女性が支配される……という、世の中でした。
 そういう世の中では。今日の、ローマの信徒への手紙は……女性にとって、心を惹かれる言葉だったのではないでしょうか。多くのご婦人がたが、この手紙を読んで「本当に、そうだ」ト。「胸がスッとする」ト。そういう気持ちになったように思いいます。
 「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれている(2)」……って。そうなんです。夫の都合を中心に、暮らして行かなくッちゃぁ、いけない。
 もちろん、夫に逆らうことは、できます。いっけん対等に、喧嘩をすることも、あります。それでも、お金のこと/生活のこと/その他、いろいろな理由で。夫の都合を中心に暮らす。そういう、生活の「大きな流れ」みたいなものには、逆らうことが出来ません。夫の生存中は、夫に縛り付けられている。
 しかし「夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放される(同)」のです。そういう生活から、解放されます。
 したがって、「夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません(3)」。他の男と一緒になりたいというのではなくて、ただ自由がほしいだけです。夫が死ねば、その自由が、手に入ります。
 どんなに仲の良い夫婦でも。社会全体が、男中心になってるのですから。そんな束縛から解放されたい。そういう希望は、あったでしょうし……。ですから、「夫が死ねば」という言葉は、女性にとって、何かしら心を惹かれるところがあったと思うのです。
 既婚の男性は、ちょっと、良い気はいたしません。世の女たちが、「夫が死ねば、長く待ち望んでいた自由が手に入る」……ト。世の女たちが、そんなことを考えていのを想像すると、ヤなカンジです。
 この手紙を書いたパウロは、生涯独身を通しヒトでした。それだモンだから、こんな厭なこと書くんだ……ト。これが奥さんのいたペトロだったら、書かなかったかもしれない……ト。ワタクシの聖書研究緒論学では、そういう風に分析しております。

U.
 「夫が死ねば、待ち望んでいた自由が手に入る」……ト。それは夫に縛られている女性たちの、ささやかな希望でした。
 本当にささやかな。禁断の木の実に似て、考えちゃァいけない「希望」です。夫が死ねば自由にはなるのですが。だからといって……、まさか夫に毒をもったりは、いたしません。
 殺さないのは……。夫を疎ましく思いながらも、同時に、愛してるト。男女の関係なんて、複雑ですから。そういう面も、あるのかもしれませんけど。それよりも、生活に困る。死んでくれたら、自由になるのは良いんだけれども、私が困る……ト。それも、あったかもしれません。
 何故縛られているのかと言えば、男性中心社会だからです。社会全体が、そういう風に出来上がっているから、夫に縛られていたのです。
 夫が死ねば、後に残された女性は……。現代のように、福祉が充実している時代じゃぁ、ありません。世が男性中心社会である以上、たちまち、困ります。たちまち物乞いをしなくちゃいけなくなるかもしれない。
 「夫が死ねば、待ち望んでいた自由が手に入る」というのは。……だから、考えちゃァなんない、希望です。
 マルコ福音書の方で引き合いに出されている女性も。本当にこんなことがあったとしたら、悲惨です。
 どこぞの跡取りと結婚したけれども、夫に先立たれて。その夫からは、自由になりました。けれども、他に行く所があったら良いですけど。その夫の家に引き取ってもらわなかったら、行くあてがない。
 次男と結婚し、次男にも先立たれ。三男と結婚し、これにも先立たれ……ト、繰り返しているのならば。夫に死なれて手に入る自由なんて。今までの厭なことが、一つなくなった。代わりに、別の厭なことが。大抵の場合は、もっと大きな不自由、大きな苦しみがある。そんな自由しか、手に入らないんです。

V.
 こんな不自由は、何のためかって言ったらば。この女性の場合、具体的には、「跡取り」を残すためです。
 そういう意味では、女性たちは、夫に縛られているというよりも。そういう、男性中心で、跡取りを残すっていう、社会に縛られているんです。
 本当は、男性に縛られているんじゃァ、ありません。「男性の労働力を中心にしないと動かなかい」という……、そういう、既に出来上がってしまった「社会」というものに、縛られていたんです。
 世の中は……。「家」の名前が、代々信用を受け継いで来ていて。それで世の中が進んでいるのだから。ずっと続いて来た家の名前は、途切らせちゃぁいけない。跡取りを残すのが、当たり前だ、ト。
 社会が、すでにそういう風に成り立っていたから。この7人兄弟とその妻は、そうした世の中に従わなくっちゃぁ、いけませんでした。
 夫が死んだら、その夫、そのヒトからは自由になりますが。そういう世の中からは、相変わらず、縛られたままなんです。
 そう考えれば……。男性も、一緒です。
 いちばん末の弟は、何を思ったか。想像しますと……、こっちも悲惨です。
 自分は初婚です。相手は、既に六回結婚している、うんと年上の親戚です。いちばん上の兄と結婚した時には。自分のことを、ちっちゃな甥っ子みたいに扱ったような。そんな女性と、何が悲しくて結婚しなくッちゃぁいけないか……。
 何で結婚しなくちゃいけないかト言いますと。律法に、定められているからです。
 弟は、未亡人になった兄嫁を娶って妻として、子どもができたら死んだ兄の名を継がせ、「その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない(申命25:6)」ッて、旧約聖書には、書いてあります。跡取りのために、自分の半生を棄てなきゃいけない。
 人間ひとりひとりが、神さまに造っていただいた、尊い命で。人間ひとりひとりが、それぞれ与えられた命を生きていると思ったら。子どもが出来なかったら出来ないで、それで良いはずです。自分たちの人生を、忠実に、しかし楽しんで、ただ生きて。跡取りを残さず死んでも、それで良いはずです。
 しかしイスラエルの社会は、父方の名前を代々残して、そうすることで秩序を保ってきた。秩序を乱せば、社会が迷惑する。だから結婚しなくっちゃぁいけない……って。律法には、決められていたんです。

W.
 結婚のことは、ひとつの例えでしょう。ローマの信徒への手紙で言っているのは。人間は、律法に縛られて、生きている……ということでした。
 社会の秩序は。たいてい、良いものです。自分が、それを守ることが出来ている間は。当たり前です。みんな、守った方が良い。
 けれども、時には。社会秩序は、不自由で、窮屈で。私どもを苦しめるものにもなります。私どもは、そういう世の中の道理に縛られている。それでも、人間が互いに譲り合って生きるためには、必要で。そのために神は、律法を与えてくださいました。
 マルコ福音書の、こんな兄弟は。本当には、いるハズが、ありません。イエスさまを陥れようとたくらんだサドカイ派がでっち上げた、作り話です。
 しかし・こんな滅茶苦茶な話で、どうしてヒトを陥れることができるのか。どうしてその当時、こんな滅茶苦茶な話しに説得力があったか、って言いますと。律法が、正しいものだ……ト。それを、みんなが認めていたからです。
 人間が、ひとりぼっちじゃぁ、ない。みんなで生きている以上。欲しいからって、盗んじゃァ、いけません。嫌いだからって、殺しちゃァ、いけません。愛せなくなったからって、他の男と一緒になってはいけない。そんな律法から自由になりたかったら、十年でも二十年でも、夫の死ぬのを待たなきゃいけません。
 それでも、「夫が死んだら、解放される」……ト。この言葉が、こころを惹くのは。いつになるのか分からない、あやふやな希望でも。女性たちに、希望を与えたからです。
 現実には、夫に死なれたら自分が困るけれども。しかし、こころの中までは、束縛されないゾ。こころの全部、そっくりは、束縛されない。死んだら自由だ……ト。
 男性だって、そうです。家を継ぐためには、意に添わない結婚も、する。泣く泣く世の中に従うけれども。こころの中、全部そっくりは、束縛されないゾ。死んだら自由なんだ……ト。
 世の中の秩序の中で生きるというのは。そんな・いじましい希望を抱いて。世の中に支配されながら生きる……ト。そういうことなんです。
 だから、そんな人間を、神は憐れんでくださって。切ない、こころの中だけの自由しか持たない人間を、憐れんで。そういう苦しみから救い出すために、キリストさまは、来てくださったのだ……ト。それが、ローマの信徒への手紙が、言っていることです。

X.
 人間は、律法に縛られている。支配されている。けれども・それは、「人を生きている間だけ支配するものである(1)」。それは、そうなんです。知っています。
 しかし、われわれは。もう既に、キリストにあって、「律法に対しては死んだ者(4)」となっている。新しく、別の生き方が始まっているというのです。
 「このひとが死んだら、私は自由だ」なんて思っているよりも。結婚したからには、「死なないでほしい」ト。「ずっと一緒にいてほしい」って、そう思えるのが……。仕合わせって、本来は、そっちです。
 そういう当たり前の仕合わせになれないのだとしたら。それは、夫が悪いからでしょうか。そうじゃァ、ない。夫も妻も。世の中に、縛られているからです。
 跡取りのために、しょうがない。未亡人と、結婚は、する。けれども「こんな女に、こころまでは渡さないゾ」と思っているよりも。結婚した相手をこころから愛する方が……。仕合わせとは、本来は、そっちです。
 そういう当たり前の仕合わせになれないのは。相手女性の、欠点のせいよりも。そのひとが、過ぎ去って行くこの世界に、縛られているからです。
 キリストの救いは。夫の束縛、とか。跡取り問題、とか。そういうことからの救いじゃァ、ありません。ヒトを不当に縛っている、過ぎ去って行く、この世の中からの、救いです。
 「死ねば自由だ」と、こころの中だけで思っているしかない。そういう生きかたから、本来の仕合わせに戻るために。救い主が来てくださったのです。

Y.
 跡取り問題なんて、本当は、どうだって良いはずです。
 自分が死んだら……。死んだ後、名前を残したって、関係ありません。
 もし復活がないのならば。死んだら終わりです。名前が残ったって、残んなくったって。死んだヒトには、関係ありません。
 しかし、もし復活があるのならば。そうしたら、尚のこと。跡取り問題なんて、どうだって良いはずです。
 私どもの信じる復活は、永遠の命です。天国で生き返って、もう一回100年間だけやり直せるとかっていうことじゃぁなくって。永遠の命です。それならば、こんな過ぎ去って行く地上の時間の中で。名前を残したって、意味がありません。復活があるのならば、尚のこと。跡取り問題なんて、てんでどうでも良いことです。
 それが、どうでも良いことなんだったら。今の命を、十分に、尊く用いて生きる……って。それだけで、良いはずです。今、この地上で与えられている地上の命を、ただ尊く用いて生きるだけで、良いはずです。
 末の弟の場合だったら……。ことによったら、別のひとと駆け落ちするのも、しょうがないかもしれません。でも、相手が誰であれ。妻にするひとを、深く愛して。どんな暮らしでも、その暮らしを喜ぶように生きるのが、本当です。
 過ぎ去って行くものに縛られて。「こんな女に、こころまでは渡さないゾ」なんて思って暮らすよりも。相手を愛して、労って生きるのが、本当です。
 相手を愛し、労って。今の暮らしを喜んで。そして、与えられている地上の命を、ただ尊く用いて十分に生きる……。それが出来ないのは。過ぎ去って行くこの世界に、縛られているからです。
 愛し、いたわり、喜んで。今の命を尊く生きるために、必要なことは。過ぎ去って行くこの世界から、解放されなくては、いけません。
 解放されるために必要なことは。過ぎ去って行く、この世界から、ひとたび消え去って。死んで、消えて無くなって。しかし死者の中から復活させられたキリストさまと出会うことで、です。
 復活のキリストさまと出会ったときには。私どもは……。もう、その時から。過ぎ去って行くこの世界に、雁字搦めになっていたことが。もうすっかり馬鹿馬鹿しいことになっています。律法に対しては、死んだ者になっています。

Z.
 それで、社会秩序を守るか/守らないかは……。それは、ヒトそれぞれです。
 夫の生存中も、他の男と一緒になって。「女性解放」の最前線を行くひとも、あるかもしれません。逆に、夫との生活を、もう一回見直して。社会が期待するのと同じように、夫を愛し、夫に仕えるヒトも、あるかもしれません。
 ただ……。社会が期待する通りに、夫に仕えて良妻賢母をやるのでも。今度は、我慢してやるんじゃぁ、ありません。社会が期待するから、嫌々やるんじゃぁ、ありません。復活のキリストと出会ったからには。滅び行く社会が期待するかどうかは、関係ありません。自分で、夫を愛し、夫に仕える生き方を選び取って。進んで、そう生きるんです。
 ですから、反対の道を選んだとしても。夫の生存中も、他の男と一緒になったとしても。ただ自分の欲望に負けて、神の前から逃げ出すんじゃぁ、ありません。
 「夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われ(3)」て、世間から裁かれます。他の男と一緒になったことが、前の夫に対する配慮だったとしても、律法では裁かれます。しかし復活のキリストと出会ったからには。滅び行く世間が裁くかどうかは、関係ありません。
 畏れて待っている裁きは、世間の裁きではなく、神さまの裁きで。終わりの時に、神が、「仕方なかった」と言ってくださるか。むしろ「正しい判断だった」と言ってくださるか。そう信じたならば、世間に裁かれようとも、信じた道を生きます。
 終わりの時に神が、悲しまれると信じたならば。世間に裁かれるかどうかは関係ない。神さまに申し訳ないですから。周囲にも、為し得る最大の配慮をして。罰を受ける覚悟をして。償うことのできることなら、償うべく、精一杯つとめながら。自分で「姦通の女」と言われる生き方を選び取って。この世間では苦しみながら、でも自分の命を、精一杯に尊く生きるんです。
 世の中が期待するのと、たまたま同じ生き方をするのも。世の中の期待に反して生きるのも。どちらも、滅び行く世の中の期待は関係ない。神さまの前で、尊く。神さまが喜んでくださる生きかたを探しながら。ただ精一杯に、与えられた自分の通りに、生きるのです。
 復活のキリストと出会ったならば。私どもは、自由です。滅び行く律法から自由にされて。自分の命を、精一杯に尊く生きることが、出来るのです。

[.
 そのキリストさまと、どこで出会うか……ト、言えば。
 私どもが、キリストさまとの出会いを、どこで経験するかと言えば。人間同士の愛を通して、本当に、「あ、主が生きておられる」って、分かると思うのです。
 御言葉に親しんで。祈っていて。そんな中で、ひととひととの関係の中に、自分を献げてしまうような愛に気がついた時に。「主が生きておられる」って。
 誰か、「こんな厭なヤツが、自己犠牲の愛をやってるヨ」って、見た時にも。「奇跡だ」、とか。「主は生きておられる」って思うかも分かりませんけど。それよりも、「こんな自分勝手で我が儘な私が、苦しんでいる隣り人に、自分を献げることが出来た」……って。
 生きている主が、私を動かしてくださった。この穢れた罪人を、清めて、用いてくださった……と。復活の主との出会いを、確信できるのは、そういう時です。
 聖霊は、風のように自由にやって来ますから。聖書を読まなくったって、祈らなくったって、そういう経験をすることが、あるかも分かりませんけど。それよりも……。
 「求めよ、そうすれば与えられる(マタイ7:7)」って言う通り。御言葉に親しんで、祈って、神が喜ばれることは何か、主とはどこで出会えるのか。「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人(詩1:2)」は、幸いです。「こんな罪深い私が、主に用いていただいている」って。キリストとの出会いを、もっとさやかに。もっと頻繁に。必要な時には必ず、経験できると思うのです。

\.
 復活のキリストと出会った人は、滅び行く世から、自由になります。
 自由ですから、世の中の秩序だ、規則だ、習慣だ……。そんなものは、大事にしません。キリストと出会った人は、規則だからじゃぁなく/習慣だからでもなく。自分で考えて、隣り人のために、精一杯に配慮をするようになるのですが。
 じゃぁ、どうやったらキリストさまと出会えるのか……。キリストの「救い」って。「良いことをやったら救われる」ンじゃァないけれども。救いは、何か……良いことをやっているのと同時に来る……っていう面が、あるように思えて、なりません。
 隣り人のために配慮し始めたら、いつの間にか、出会ってしまう……。罪深い者には、出会えないワケじゃァ、ない。罪人が、自分で、その罪に留まろうとして。自分で出会わないように避けていたら、出会えないだけです。
 愛を実行し始めた時に。キリストさまに、気がつくんです。
 そして、私ども……。洗礼を受けた者は。聖霊を注がれています。もう既に、キリストに結ばれて。神に対して、聖なる生活の実を、結び始めています。だって、自分勝手な、あれこれ欲望がたくさんある者でも。隣り人のために、献身的に、精一杯に配慮することを。そっちの方が良いことだ……ト、もう、そう信じています。
 だから……。そういう愛に、私どもは、もう方向付けられているから。きちんと求めさえすれば。解放と、自由と、永遠の命に、自然と導かれて。これから、それを克ち得るのだと思います。

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