2004年12月19日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

聖夜

中世エチオピアの写本より



聖書研究
ローマ7章    中村栄光教会
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新約聖書@【ルカによる福音書 第1章46〜55節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第7章4〜6節】






聖夜

北川一明

T.
 クリスマスの季節になりますと。街がいっぺんに華やぐのは、もう今や日本の隅々まで当たり前になりました。特に大都会では、イルミネーションで、大変きらびやかです。
 「クリスマス」と言われて、まずイメージするものは、何でしょうか。
 私の場合は、東京神田の飲食店街や……。もうちょっと高級な、麻生だ、赤坂だの、フランス料理店、イタリヤ料理店の賑わいが、頭に浮かびます。20代のほとんどのクリスマスを、そうした所で過ごしていたからです。
 もっとも、赤坂、九段、神楽坂……。そういった所は、ひと冬に一回。貯金をはたいて行く所で。アドベントの期間の大部分は、神田界隈の赤提灯で過ごしておりました。そこで、今でも思い浮かぶクリスマスの情景には、酔っぱらいのサラリーマンが、必ず登場します。
 よれよれの背広で、頭にとんがり帽子をかぶった男性が二人。肩を組んで、千鳥足で歩いている。そして、すれ違う男女のカップルに下卑た冗談を投げつけている様です。
 しかしみんな、気持ちが明るくなっています。冗談を言われた方も……。まさか、大事なクリスマスの夜に。酔っぱらいを相手に喧嘩なんぞ、しちゃァいられません。失礼な言葉を投げかけられて、困惑しながらも、ただ苦笑いして……。酔っぱらいどもの下品な冗談の通りの、秘めやかな喜びを味わうために、暗がりに消えて行きます。
 からかう方は、たいがい家族を持っていて。若い男女を羨む気持ちがあるから、からかうのです。それでも、からかって、後はいっそう上機嫌です。自分たちの独身時代を懐かしく思い出しているのでしょうか。
 こうしたことは、今やクリスマスでは当たり前の情景です。
 商業資本による儲け主義で街は飾られるのですし。酒も、恋愛も、人間の肉の欲望から出ているものに違いありません。
 ですから、厳格なキリスト教会に言わせれば……って。中村栄光教会も、たぶん「厳格なキリスト教会」ですから。「私どもに言わせれば」ということに、なるでしょうか。……私どもに言わせれば、キリストさまのお誕生日に「何てふしだらな」……ト、非難すべき面も、あるかもしれません。
 それでも、そういうクリスマスの愉しみかたに対して。目くじらを立てるよりかは。つい、微笑ましいような、あたたかな気持ちに……も、させられます。
 それは、「自分がかつてはそういう生活をしていたから」ト、いうだけではない……。そもそも、クリスマスの持っている、大きな喜びの力によるものだ……ト。そういう気が、いたします。

U.
 クリスマスは、多くのひとにとって、喜びです。
 キリスト教信仰はなくっても。世の、多くのかたが、イエス・キリストは、愛のひとであるということを、ご存知だからでしょうか。恋人たちは、クリスマスに愛を語ります。
 いつもよりも、ほんのちょっぴり清らかな気持ちで、自分の心の「愛」についてを考えるのならば。信仰のあるひとも、信仰のないひとも……。等しく、クリスマスを正しく過ごしている……。神の喜ばれる仕方で、クリスマスを過ごしている……ト、言えるのかもしれません。
 しかしクリスマスの、この喜びは。大人になった私どもにとっては、「懐かしい」喜びです。
 「懐かしさ」ト、いうものの中には。いつでも少しだけ……「悲しみ」が混じっています。
 「懐かしさ」とは。今はもう失われた時。取り戻すことの出来ない、過ぎし日々を思い出すことだからです。
 とんがり帽子の、背広をよれよれにして騒いでいるサラリーマンは、何を喜んでいるのでしょうか。何を愉しみに、飲んで騒いだのでしょうか。家族の待つ家に帰ろうともしないで、飲んでは、街を行く二人連れをからかっているのは、どうしてか。
 家族を愛していないからでは、ないのです。ちゃんと子どもにはクリスマス・プレゼントを用意していて。真夜中近くに、ぐでんグデンになりながら、「子どもらは、もう寝たか」と。奥さんの腕に倒れ込むように帰って行くのです。
 どうせ帰るのに。その前に、飲んで、騒いで、道行く二人連れをからかわないではいられないのは。道行く恋人たちに、かつての自分を重ね合わせて。懐かしく、嬉しく、……ちょっと淋しい思いを楽しんでいたのかなァ……ト、思うのです。
 そういう意味で。クリスマスは、やっぱり宗教の日です。
 過ぎし日々を懐かしんで。永遠の時……の前で。永遠と、自分とを見比べて。自分の仕合わせを、こころに思う……。そういう意味で、神を信じるひとも、信じないひとも。永遠の神さまの御前に出て自分の小ささを思うのです。そういう、聖なる夜が、クリスマスです。

V.
 全てのひとが、自分の仕合わせを求めているのは、一緒です。世のクリスチャンも/そうでないひとも。みな等しく、自分の仕合わせを求めています。
 そして、それは本物の仕合わせ……、絶対の仕合わせ、間違いのない仕合わせであってほしい……です。「そんなものが、あれば」の話しですが。絶対の、究極の幸いが、あるのならば、ほしかった。
 そんな仕合わせは。若い時、愛を追い求めていた。その愛の、すぐ側にある……ようでした。
 クリスマスで、ディナーに誰を誘おうか。彼女は誘いを受けてくれるだろうか。レストランを予約するのと一緒に。ホテルの部屋まで予約して、良いだろうか。それでうまく行くだろうか……ト、愛を追い求めていた。
 キリスト教で言う「愛」とは、ちょっと違うかもしれません。それでも、自分なりの愛を、一生懸命追い求めていた。究極の仕合わせは、そういう所の、すぐ側にあったような……。
 ……今は「不仕合わせだ」というわけではない。まぁまぁ満たされている。けれども、かつて……。自分が経験した、「愛」ということのすぐ側に。もっと本当の幸いが、あったような気がする。
 かつては究極の仕合わせを必死で追い求めていました。今も、求めないではないのだけれども。……ただ、もう……。究極の仕合わせなどというものは、夢の話しと、半ば諦めている。
 自分が、追い求めていた「愛」は。性への関心と、ごっちゃになっていて、歪められた愛だったから。結局は、「本当の幸い」のすぐ近くまで来ながら、そこを素通りしたのだろうか……。
 キリストの愛と言われるものは……。人間の愛とは、ちょっと違う……、それが一番大事なものなんだろうか……ト。
 そういう、本当に尊い、純粋なものを。こころの奥の、いちばん真面目な部分では。誰でも、それに関心がない訳ではない。誰だって、心に、清い、本当に尊いものを求める気持ちが、ない訳ではない。そういういちばん善い物を、誰もが求めている面は、あると思うのです。
 ……ただ、そんな美しいものは。「所詮は俺なんかには、縁のないものかなァ」……ト。
 そんな気持ちが、よく整理されないままに……。胸の奥で、懐かしい、愛おしいような妙な気分になって。通りすがりに「おい、そこの姉ちゃん」……ト。酔っぱらって、からまないではいられないのが。よれよれのサラリーマンなのかなぁ……ト。

W.
 こころの奥で、尊い幸いを求めているのは。誰でも一緒です。
 厳しい修行の求道僧も。よれよれのサラリーマンも。凶悪な犯罪者も。こころの一番奥で求めているものは、同じです。本当の、永遠の幸いが、手に入るものなら、手に入れたい。永遠の幸いを、この目で見て確かめられるものなら、見たい。確かめたい。
 神よ、「わたしの魂は主を求め、わたしの霊は救い主である神を待ち望みます」という……。そんな気持ちは、誰でも一緒です。
 しかし多くのヒトが……「所詮は俺なんかには、縁がない」ト、諦めて。一部のひとは、それで破れかぶれの生活をします、犯罪も犯します。大部分のひとは、普通の生活であれば良い、とする。ただ時々、酔ってクダを巻くのだと、思います。
 本当の、永遠の幸いが、手に入るものなら、手に入れたい。ヒトの魂は主を求め、人間の霊は救い主である神を待ち望んでいるのです。
 しかしクリスマスは……救い主がお生まれになった、この日は。永遠の幸いが、目で見えるものとなった……。そういう奇跡の日だから、喜びなんです。
 見えるものなら、見たい。確かめられるものなら、確かめたい。そう願っていた幸いが、目で見えるようになったのが、クリスマスです。
 キリストさまは。今では、生きて、人間の形で目の前に顕われてくださるということは。なかなかありません。もしかしたら、絶対に、ないかもしれません。
 それでもキリストさまは。聖書を通して。また、キリストを信じる信仰に生きるひとを通して、証しされます。ですから、クリスマスは。聖書を通して、またはキリストを信じるひととの触れ合いを通して。永遠の幸いが、目に見えるようになる日です。
 苦しむひとは、「わたしの魂は主を求めます」と言っています。悩むひとは、「救い主である神を、待ち望みます」という気持ちで居ます。しかし、神が、御子をお遣わしになった、その日以来。救い主を、待つのでない。もう出会って、手に入れて。「救い主を、喜びたたえます」……ト。キリストの信仰に生きる者は、そう讃美することが出来るのです。

X.
 永遠の幸い……本当の幸いは、何によって得られるのでしょうか。
 永遠の幸いを手に入れる手段は。お金じゃぁない、物じゃぁない、欲望を満たすことではない……なァんて。そんなことは、誰でも言います。クリスチャンでも/そうでなくても、そのくらいのことは言いますが。分かって言ってんだか。分かっているなら、必死でお金を掻き集めるようなことは、しないはずです。
 しかし、お金や物じゃぁ仕合わせには届かないというのは……、本当のことです。
 それが証拠に。どんなお金持ちだって、クリスマスを、楽しみます。十分に富を手にしたひとも。豊かになった後、やっぱり、どこか満たされなくって、クリスマスに楽しみを探します。お金持ちも、その日には、お酒に酔い痴れます。
 それは、クリスマスが。年末の、年が過ぎて行く時と重なっているから、悪いんです。時が移ろって、若さも思い出も、次第に失われて行くことを思い知らされる時期に。優しく温かく懐かしい、ちょっと清らかな喜びなんかがあるから、いけないんです。
 お金と、良いお酒と、綺麗な女性に囲まれて。どんなに楽しく、嬉しくっても。こころの一番奥では、過ぎ去って行く時を止められないことを、知っています。
 ですから魂は、主を求めます。霊は、救いとしての永遠の幸いを、待ち望んでいます。半ば諦めながら、慕い求めています。
 救いとしての永遠の幸いは、お金や物では得られません。

Y.
 永遠の幸いは、何によって、得られるのか。
 昔、「救い主である神を喜びたたえます」と、讃美したひとが、ありました。「待ち望みます」じゃぁ、ない。「願い求めます」じゃぁ、ない。「喜びたたえます」と、讃美したひとが、ありました。
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます(ルカ1:47)」と言ったひとが、ありました。キリストの誕生に際して、母マリアが、そう歌いました。
 マリアの信仰が、私どもに、永遠の幸い……本当の幸いが何によって得られるのか。それを、証ししています。
 マリアは、お金や物、どころか……。生活の上では、むしろ酷い目に遭っていました。
 「聖霊によってみごもった」と言われますが。許嫁ヨセフの子ではない。身に覚えのない妊娠をさせられていました。
 ヨセフとの信頼関係は。ヨセフの方が、悩んだ末に、受け入れる決心をしてくれたのは良いのですが。先々まで、そうした関係を保てるかどうかは分かりません。また、今後世の中からどういう扱いを受けるのか、考えても……。
 自分の身に起こったことを、そういう方向で考え始めたら。「どうして、こんな思いをしなくちゃいけないのか」と。「何故、私だけ」という風に。仕合わせどころじゃぁ、ありません。誰か恨む相手がいれば、恨むし。いないのならば、病気になってしまうような。そんな状況に、ありました。
 まぁ、今の時代。マリアと同じことは、起きないかもしれません。アタシが今日から妊娠することは、ないかもしれませんけれども。私ども、それぞれに……。自分が何故、今の境遇にあるのか。「どうしてこんなことになってしまったんだ」と、そういう方向に考え始めたら……。
 「究極の幸い」どころじゃぁ、ない。誰かを恨むか、病気になるか。そういう思いにさせられるような現実は……。どなたも、そういう困難に直面している部分は、あると思うのです。
 思い描いていたことと違った結果になってしまった。どうしてこんなことに、という出来事は。私ども、生きていく上で、必ず起こっています。
 それを、「こんなハズじゃァなかったのに」と考えたら。自分に対する期待の小さいひと……。特別に、自信も野心もないヒトならば。こんなモンだと諦めます。自分に対する期待が大きいヒトならば、思い悩みます。なぜ、今の自分はこんな境遇にあるんだ……ト、思い悩みます。
 そうしたら、クリスマスを。とんがり帽子をかぶって、お酒を飲んで。道行く人に、「おい、姉ちゃん」ってからかって……。
 そうやって楽しむのは、良いかもしれない。「こんなハズじゃァなかったのに」と苦しんでいるヒトが、ひとときでも華やいだ気分になれるのならば。それも、神の与え給うた喜びかもしれません。
 だけど、それだけだったら。それだけで終わってしまったら。人生って、何の実りもないままに、ただ過ぎ去って行くものになります。
 けれどもマリアは。自分の身に起こった出来事を、「こんなハズじゃァなかったのに」とは、考えませんでした。「どうして私だけが、こんな思いをしなくちゃいけないのか」とは、思いませんでした。
 神が、私に「偉大なこと」をなさった。この出来事は、神さまが、私に特別に与えてくださった出来事なんだ……と。そう考えました(ルカ1:38、1:49)。
 意地悪く見れば。宗教の側、教会側に都合の良い考えかたをしました。どうして、そんな楽観的で、あれたのか。
 ……でも、「信仰」っていうのは、そもそも神を畏れることです。
 神を畏れていれば、「こんなハズじゃァなかったのに」とは、考えません。「主を誉め讃えます」と。全てにおいて、そう思えるようになります。

Z.
 神の「御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます(同49、50)」ト、マリアは歌います。神さまを、本当に畏れ敬う時に……。神のなさる業が、分かるようになるのです。
 この世の中には、入りきらない。永遠の神さまです。ですから、この世の中で、見て確かめることは、出来ません。
 そういう神さまを、畏れ敬うことが……「信じる」ということです。
 そういう神さまを畏れ敬った時に。この世の中では触れることの出来ない「永遠」に。私ども、生きたままで、「永遠」に触れることが出来るのです。
 神を知らなかったら。「どうして私だけが」と、思ってしまうような出来事が……、「こんなハズじゃァなかったのに」と、思ってしまうような自分の人生が。しかし神を畏れ、永遠の命と触れ合っている時には。「神が、私のために、この出来事を備えてくださった」と。「神が与え給うた、尊い人生だ」……ト。それが、分かるのです。
 神は、「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ(52)」と、マリアは歌います。
 キリストさまが、革命を起こすっていうんじゃぁ、ありません。永遠の神を畏れつつ、「永遠」というものに触れた時に。この世で卑しめられていたヒトが。自分は、神さまの前では尊い命を生きている……ト。そのことを、知るということです。
 逆に、この世の権力を持っているヒトは。何か奇跡が起こって、権力を失うっていうことじゃぁ、ありません。権力が、神さまの前では何でもないものだったことが、分かるということです。
 もちろん大事な権力です。尊く用いれば、多くのヒトを助けることの出来る権力ですが。そんな権力も、永遠の神の御前では、何でもない。それを失ったとしても、自分は何ら損なわれない。そんな程度の物だった、ト。それを、知るのです。
 自分に対する神の恵みは。今持っている権力よりも、富よりも。もっと大きく、尊いものだと、知るのです。
 神を畏れる信仰で、自分のこと、自分に起こった出来事を見直した時。神の憐れみを、知ることが出来ます。
 じゃぁ、その元になる、神を畏れる信仰とは。……どうしたら、それが呼び覚まされるのか。それは、聖書が常に勧めています。祈りと、愛によって、神への畏れが呼び覚まされます。

[.
 神を畏れる信仰で、自分自身を見直した時。私どもは、神の憐れみを、知ります。
 神田の赤提灯で、酔っぱらって、上機嫌で。「そこの姉ちゃん」ってからかっている。「自分」が、そんなクリスマスを過ごしているとしても。そうやってクリスマスを過ごしていること自体が、神が、今「わたしに偉大なことをなさっている」のです。
 だって、そうやって……過ぎ去った日々を懐かしんで。永遠の前で。本当の仕合わせということを、こころに尋ね求めているのですから。そうやって酔っぱらっていること自体、神の、導きのうちにあります。
 神を、畏れかしこみつつ、永遠を思うならば。楽しく、嬉しく、懐かしく……しかし同時に、ちょっと淋しく酔っぱらっていること自体が。神からの大きな働きかけによっている……と。それが、分かります。
 そうしたら。今の富も、力も、それが失われても、自分は何も損なわれない。あるいは、今卑しめられ、辛い目に遭っていても。自分は、御前で尊い、大切なものである。そのことが分かります。
 神田のサラリーマンの多くが、そうした信仰にまでは至っていませんでした。惜しいところまで行って、諦めているとしたら。自分に対する神の豊かな恵みが分からないままでいるのだとしたら。それは、聖書に書いてある、祈りと、愛とを、怠っているからです。
 本気で祈らないならば。神さまに、本気でこころを向けないならば。神への畏れが呼び覚まされるハズが、ありません。
 みんな……誰もが、本当に尊い、一番尊いものを、こころの奥では、願い求めているのですから。凶悪な犯罪者でさえ、心に、清い尊いものを求める思いが、ない訳じゃぁ、ないのですから。祈れば良いのです。
 「時間がない」って言って、静かにゆっくり祈ることを、やらないで。全人生を無駄にするのは、つまらないと思います。「照れくさい」と言って、本気で祈ることをやらないで。人生を無駄にする必要は、ないはずです。
 静かに、本気で……。「アレがほしい/コレがほしい」という祈りじゃァ、ありません。ただ神を畏れ敬うために、祈れば良い……。悔い改めて自分を神さまに献げるために、祈れば良いのです。

\.
 ただ……ひとりで静かに、こころの奥を振るわせるような祈りを祈るのは。祈りの訓練……、忠実な訓練を、粘り強くしていなかったら。出来ません。
 「愛」も同じです。行き当たりばったりで……。(「欲望」とまでは言いませんけど、)ただ感情の赴くままに、「好きだ/嫌いだ」と言ってるばっかりだったら。深く愛せるように、なる、はずがありません。
 祈りに向かって。愛に向かって。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして努めている時。いつの間にか、「永遠の神への畏れ」が自分のものになっています。
 それを思うと。「人生」って、何のためにあるのか。愛して隣り人と触れ合って、祈って神と触れ合って、神を畏れ敬うため。ただ、そのためにあるのかなって、思わされます。
 自分の人生は、虚しいのか。何も出来ず、何もしないで死んで行くのか。それとも、この世で豊かに実を結ぶのか。
 財産をどれだけ積み上げたって、死んだ先には、持ってけませんから。さっきの「究極の幸い」と一緒です。お金や物では、実を結んだことには、ならない。永遠に対して、神に対して実を結ばなかったら、意味がない。
 だけど、自分が本当に良い祈りを祈ることを求めて。自分が本当に良い愛で愛することを求めて努めながら……。永遠の神と触れ合った時。「永遠」なんですから。死んだ先まで持って行ける、人生の実りを手にしている……ように、思えます。
 その時。この自分の根本が、スッキリ綺麗に出来上がって行きます。だから……。この世のことも、うまく行くんです。
 この世で卑しめられても、神さまの前では尊い命を生きているト、知るし。権力や、富を、たとえ失ったて、自分は何ら損なわれないって知るし。かつて飢え、渇いていた自分に対して、神が豊かに働きかけていてくださる……って、それを知ります。
 そうして平安を得て、この世のことに当たれます。
 永遠の神と触れ合っているから。この世のことなんて、もう、どうだって良いはずなのに。かえって、この世のこと、一つ一つに対して。平安のうちに、きちんと対処できるようになるのだと思います。
 この世を捨て、自分を捨てて、ただ神に仕えようとした時に。この世でも祝福されて。来たる世では、永遠の命に入れられるのだと思います。
 それを思うと。「人生の実り」って、どんな実を結ばせたら良いのか。私どもが、努めるべきは。善く、愛せるように。善く、祈れるように。こころの一番奥を振るわせながら、ひとを愛し、神に祈れるように。ただ、それを努めて、愛し、祈っているならば。そのことが……。生まれてきた甲斐が、あった。この世に生きた甲斐のあった、十分な実りだろうと思うのです。

].
 私ども、クリスチャンとは。祈って、神を畏れ敬うことが出来るようになった存在です。そうして、自分に起こった出来事を。神の憐れみであると知ることが出来る。そういう、キリストに結ばれて、新しい生きかたが出来るようになった者です。
 何か優れた所があったからじゃぁ、なくって。ただ悔い改めの祈りにあって、この世に入って来てくださった神、イエス・キリストさまに、出会ったのです。
 神が私どもを憐れんで、御子キリストさまをお送りくださったので。私どもは、こんな足りない者なのに。神に対して豊かに、聖なる実を結べるようになったのです。感謝に思っております。


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