2004年12月26日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

罪が分かった

中世エチオピアの写本より



聖書研究
ローマ7章    中村栄光教会
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旧約聖書【創世記 第2章18〜24節】
新約聖書【ローマの信徒への手紙 第7章5〜8節】






罪が分かった

北川一明

T.
 酒鬼薔薇聖斗と名乗る中学生が、殺人事件を起こしてから、8年が過ぎようとしています(神戸市須磨区の連続児童殺傷事件)。
 小学生を殺して、その頭を切り取って。生首を、中学校の校門に置いた事件です。その加害者が、年明けに完全に社会復帰するそうです。
 医療少年院を仮退院した後、きちんと働きながら。被害者遺族への償いも。精神的にも、経済的にも、精一杯のことをしているそうです。役所は、更正できたと判断したのです。
 しかしその罪は大きくて。どんなに償っても、償い切れるはずも、ありません。
 教会に、加害者の男性が来たら。それでも、洗礼を受けて、ここの教会員になりたいと言われたら。私ども、戸惑ってしまうでしょうと思います。
 新聞を読んだ限りでは。今現在の生活は、私なんかよりもずっと……正しく、誠実に暮らしている……ようにも、受け取れます。だから「更正できた」と判断されたのです。私どもの言い方で言えば、本当に悔い改めた……「ようだ」……ということです。
 誠実に悔い改めようとしているひとを、教会が追い返すとしたら。それはもちろん、神の喜ばれることでは、ありません。
 「教会の評判が落ちる」とか。「そんなヒトと仲間だと思われたくない」とか。私どもが、そういう自尊心から、救いを求めるヒトを追い返すとしたら。こちらが、罪深いことです。
 ですけれども。そういう重大な犯罪を犯したひとが教会に来たら困るのは。そんな歪んだ自尊心から……だけでも、ありません。「更正できた」なんて言われても、信用できない……。また、酷いことをやるかもしれないからです。
 それは、一度犯罪を犯した人に対する不当な「差別」かもしれません。イエスさまだったら。当然、喜んで受け入れたはずです。それでも、どうしても、そういう気持ちが湧いてしまう。
 特に……佐川にありますS教会のO牧師先生みたいに。かなりやんちゃなヒトたちと付き合った経験が十分にあるのなら。そういう相手にも、尊さを見つけやすいかもしれません。どんなに悪いことをした人も、自分と同じ、神に造られた尊い人格を持っているんだ……ト。それを肌で感じているでしょうが。普通に暮らして来たわれわれは、どうしても差別感情を持ってしまう……。
 だって、「更正できた」なんて言われても、信用できません。今現在の正しさは、認めるとしても。明日のことは分かりません。
 私ども自身が、何度も「自分は罪を悔い改めた」と言いながら。すぐに、前の罪深い状態に戻るのですから。そんな自分と照らし合わせてみると。そのヒトだって、また前の状態に戻るかもしれません。
 私の隣で、小学生の生首を弄んだ時に戻ることを想像しますと。やはりちょっと、隣り人として受け入れることに、困難を感じないではいられません。

U.
 しかし……「更正できた」というのは。あるいは、「悔い改めた」というのは。ただ悪いことをしなくなったということではなくって。本当に生まれ変わった……のかもしれません。
 神が、ひとを新しい生き方に変えることが……。そういうことが、私ども人間の上に、起きることが、あります。
 「更正できた」と言っても。「みんなが『悪い』って言うから、悪いんだろう、認めますヨ」って言う程度の場合と。そうではない。本当に、罪が分かった……ト。「神さまの前で、私の罪が分かった」という場合と。両方あるだろうと思います。
 現実に、実際に、そういうひとが教会を尋ねて来たら;
 それが、「一応、今だけ悪いことはしなくなった」というヒトであっても。教会は、そういうヒトをも受け入れるべきです。本当には更正できていない、悔い改めることが出来ていないのですから。事故が起きないように注意しながら、本当の悔い改めに導かれるように、共に信仰生活を続けなければいけません……。
 でも、それには教会の側の力量が問われますから。本当に受け入れたら、実際には、うまく行かないことも、多いでしょうと思います。
 ですけれども。過去、とんでもないことをしたヒトが、教会を尋ねて来た。そのひとが、「神の御前で、本当に、私の罪が、よく分かった」ト。本当に悔い改めることが出来た、新しい命を生き始めてひとであるならば。そういうひととは、一緒にいるだけで、こちらが清くされます。こちらが、豊かにされます。
 そういうヒトのお陰で、私どもが、導かれます。「神さま、本当に私が悪かった、です。その私を、赦してくださって、ありがとうございます」ト。本当にそう感じているかたと、こちらが本気で交わりをもったとしたら。私どもまでが、そういう信仰に導かれます。
 教会の、「信徒の交わり」というのは。そういう、神さまに対する聖なる気持ち。純粋な悔い改めの気持ちを。互いに共有しあって、共鳴させあって。聖霊を受け取ることですから。
 ……そして、私ども、人殺しはしていないまでも。それぞれに罪人なのですから。誰か犯罪者の尋ねて来るのを待つまでもない。まず、今の私どもが。「神の御前で、私が本当に悪かった」ト。互いに、そういう気持ちを共有したいと思います。
 それなのに。私ども……、自分が「神の御前で、本当に、私の罪が、よく分かった」ト、言えるのか。すこし、心許ない気がいたします。
 何度も「私は悔い改めた」と言いながら。すぐに、前の罪深い状態に戻るのは、どうしてでしょうか。「神の御前で、私が本当に悪かった」ト。それが、なかなか分からないんです。私ども……「罪」が、よく分からないんです。

V.
 以前にもお話ししたことがあったか/どうだったか……忘れましたが。何年も前です。その、酒鬼薔薇事件のような事件が続いた時のことだったでしょうか。たまたまテレビを点けたときにやっていた番組で、強く印象に残っているものがあります。
 「人殺しが、どうして悪いのか」という問いを。番組側が、色々なひとに聞いてみました。近所のオジサン/オバサンから、哲学者/社会学者/生物学者まで。色々なひとから、アンケートをとりました。
 どうして人殺しは悪いことなのか; よく整理すると。答えは二つにまとめられた……。答えは、たった二つしかなかったそうです。
 ひとつは; 「自分が殺されたら、困るから、ひとも殺しちゃいけない」って。そういう理由です。
 悪く言えば、取り引きです。「私はひとを殺しませんから、私のことも殺さないでください。そういう取り引きをしましょう」っていうことです。あなただって殺されたら困るはずだから、この取り引きは乗って来るハズだ……ト、いうわけです。
 しかしそれでは……「人殺しは罪であるのか」、分かっていない……っていうことです。「罪だから」ではなく、「厭だから」であれば。好みや嗜好の類と、区別がつきません。
 しかし「人殺しが、どうして悪いことか」。もうひとつ、答えがあります。
 その、もうひとつの答えは; 「そんなもん、悪いに決まってるだろう、悪いことだから悪いんだ」……っていうものです。
 これは、間違いとは言えないかもしれない。その通り、なのかもしれません。……でも、「私がルールブックだ」って言うのに似ています。「ユダヤ人は、悪いから悪いんだ」で、戦前、戦中には、大勢が殺されました。
 哲学者/社会学者/生物学者の先生がたは。さすがに「学者」としての答えを求められると、「悪いから悪いんだ」とは、言いません。
 もっと難しく、「人間として、やっちゃいけないことだからだ」、「人間の本性に反するから、悪なのだ」と言うんですが……。
 じゃぁ、その人間の「本性」っていうのは、証明されているのか。……そう突っ込んだら、学者さんたちは、しどろもどろです。
 生物学者も社会学者も、「普通の時は、種の保存の本能から、殺さないのが本性だけれど。人口が増え過ぎたら、こんどは殺し合うのが人間の本性だ」とか、そういうことになります。哲学者の場合は、「そもそも『悪』とは何であるか」なんて、逆にあっちから聞き返されます。
 学者さんは、そういう風に。殺人は、一概に「悪」とは言い切れない。「そもそも悪の定義が必要だ」ということみたいです。ですが、それが酒鬼薔薇事件みたいな凶悪事件の直後だったら。テレビでマイクを向けられて。「人殺しは、悪とは言い切れない」とは、ちょっと言えません。全国に向かって、そういうことは言えませんから。賢い人ほど、口をつぐんでしまう。
 ソクラテスじゃぁありませんが。賢い人ほど……「自分は何も知らないということを知っている」……ト。そうして、酒鬼薔薇事件の前で、悄然と立ち尽くすのです。

W.
 私どもは、罪を知らなかった。人間は、罪を知りませんでした。
 しかし、私どもは、今は罪を知らされています。神の律法によって、知らされています。
 どういう知りかたか、と言えば。取り引きじゃぁ、ありません。たとえ自分が殺されても。ひとを殺すことは、いけません。また、「俺がルールブックだ」なんて。自分で決めるのでは、ありません。神の、聖なる律法が、そう教えているからです。
 律法によらなければ、私どもは、罪を知らなかった。しかし律法が殺すなと言ったから。私どもは、殺すということが、どんなことなのか。分かるのです。。
 神さまが、「殺すな、私は主である」と言ってくださらなかったら。小学生を殺して、生首を学校の前に置いても。「みんなが『悪い』って言うから、悪いんだろう、認めますヨ」って言う程度の更正しか、出来ないかもしれない。
 しかし神さまが、「殺すな、私は主である」と言ってくださったから。「神さまの前で、私の罪が、本当に分かった」ト。……分かるのです。
 人殺しは、しないまでも。私ども、普段、自分のことを飾ろう、良く見せようとします。そうして、ヒトに対して悪い思いを抱きます。
 神が、「むさぼるな」と言わなかったら。「どうせ俺のこころの中なんか、誰も分かりゃ、しないヨ」ト、安心しています。しかし神が、「むさぼるな」と言ってくださったから。「これが、罪だったのか」と、分かりました。
 今日の聖書……「罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き」始めた(ローマ7:6)っていうのは。「律法があるから、罪がある」っていうことです。
 「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか(同7)」。「律法があるから、罪がある」っていうのならば。「じゃぁ、律法なんか、ない方が良いということに、なりはしないか」ト。……揚げ足をとるんじゃぁ、ありません。どういうことなのか、理解しにくいし。心配になりますが。
 そうじゃぁ、ない。律法があるから。「人殺しは、悪い」って。私ども、「悪い」ということが分かるのだト、いうことです。
 聖書では、「初めに言葉があった(ヨハネ1:1)」と言われます。「言葉」とは、われわれの普通の言い方で言えば、「意味」ということです。初めに、意味があって。悪いことの意味は、律法によって分かるということです。

X.
 「初めに言葉があった」の先には、「万物は言によって成った」ト、「言によらずに成ったものは何一つなかった(ヨハネ1:3)」ト、言われています。モノは、言葉によって……「意味」によって、出来上がりました。
 創世記によりますと。神さまは、野の獣を作って、「人のところに持ってきて、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた(2:19)」のだそうです。
 神さまが、獣を持って来たたら。人間は、あるモノを「犬」と呼んで、別の獣を「オオカミ」と呼びました。それで、「犬」と「オオカミ」が、ようやくちゃんと、意味をもった実体として出来上がりました。
 外見では、警察犬なんかに使うシェパードは……。(オオカミにもたくさん種類があるみたいですけど、オオカミによっては)オオカミと、あんまり区別がつきません。シェパードとオオカミ、結構似てます。
 それと比べて、チワワとか、狆とか、プードルとか、そういった犬は。シェパードやオオカミよりも、もっと別な動物に似ています。生物学的に、どちらが共通点が多いかと言えば、分かりません。
 だけどチワワもシェパードも、どっちも同じ「犬」で。オオカミとは別の種類です。
 ものの本によりますと。シェパードは、チワワと一緒で、本来人間が飼い慣らすべきものだから。どちらも「犬である」。たとえ野良になって人間を襲うシェパードでも。もともと本来は犬だから、オオカミじゃぁなくて、犬なんだそうです。
 その「もともと本来は」っていうのは、どうなって決まったのかと言うと。遺伝子レベルで決まったんじゃぁ、ありません。野の獣の、人間にとっての意味で、決まったのです。
 神が天地をお造りになった頃は。野の上を、いろいろな獣が蠢いていました。その中のあるモノを人間が「オオカミ」って呼んだ時からオオカミが出来て。人間が「犬」って呼んだ時から、犬が出来たんです。
 初めに、言葉があった。初めに、意味があった。
 良いとか、悪いとか。それも、初めにありました。どの位初めかって言えば。人間が考え出したんじゃぁ、ありません。神さまと人間との関係の中で。既に、良いこと……素晴らしいことと。罪とが、ありました。
 そして、言葉の内には、命がありました(ヨハネ1:4)。ただ分類されただけじゃぁ、ありません。
 「殺人は罪だ」と言われて。言葉に命がなかったなら。私どもヒトを殺しても、平気です。殺したひとに、「それは罪ですよ」って言っても。「そうです、罪に分類されますネ」って。言葉に命がないのならば、罪を犯しても痛くも痒くもありません。律法に、命がなかったら、「罪は死んでいるのです(ローマ7:8)」。
 しかし言葉の中の「命」によって、罪は、命を得ました。われわれの身体の中で動き始めたんです(同)。罪には命があるから。罪は、私を苦しめるんです。(この点でキリスト教の創造論は、単なる命名論的実在論でもないし、アフォーダンス理論でもないように思えます。)

Y.
 良いとか/悪いとかいうことは。全くひとりぼっちの所では、意味がありません。鬼界ヶ島にたったひとりで死ぬまで暮らすのならば(俊寛)。良いことも出来ないかわりに、悪いこともできません。
 われわれ人間は。ひとと一緒にいるから、罪を犯します。綺麗な顔をして、綺麗なことを言いながら、こころの中では、驕ったり、妬んだりしています。
 そういう気持ちは、一生懸命こころを押さえつけ、締め付ければ、多少は少なくなります。抑圧すれば、表面からは隠れます。だけども、消え去る訳では、ない。
 それを神が「むさぼり」とおっしゃるから。私ども、気付かされて。自分の罪に苦しめられるんです。
 けれども、じゃぁ、神さまは見ない振りをしてくれたらよかったのか。
 信仰のない、普通の世の中は、そうです。寝た子を起こすようなことは、しない方が良い。こころの中の、驕ったり、妬んだりという気持ちを、一生懸命抑え付けて。表面から、隠しおおせたら。それだけで、十分「良いヒト」です。「立派なヒト」です。
 ですけれども……。本当に立派なのは。表面、うまくいってても。でも、自分の奥が、自分で分かって。それを悔いて、改めようとしているひとでしょう……。「俺のこころの中なんて、誰にも見えないんだから平気だろう」では、自分の人格が、損なわれます。
 私どもは、隣りの人と、こころの底で、かかわることで、人間として生きているんです。
 表面も、大事です。便利か/不便かという面では、表面を繕うことは、必要です。けれども、便利だけじゃぁ、しょうがない。私が人間として尊く生きるのは。隣り人と、こころの奥でかかわって生きる時です。
 ただ……隣り人と、こころの本当の奥の所から、本当に関わる時に。そこには、妬みも驕りも、消えて無くなってはいない。私どもは、罪を犯してしまうんです。
 酒鬼薔薇聖斗くんも。鬼界ヶ島に独りぼっちなら。罪を犯す気にもならなかった。隣り人を与えられ、隣り人との関係の中で生きていたから。その罪が、いちばん極端に出てきた時に、あんな結果になってしまったんです。
 人間が、動物ではない。人格として生きるのは、隣り人があるからです。しかし隣り人がある故に。私どもは、罪人になってしまうのです。
 しかし、「初めに言葉があった」。その言葉は「罪」だけじゃぁ、ありませんでした。言葉は、私どもの「むさぼり」を明らかにすることも、やりましたけど。私ども「人間を照らす光であった(ヨハネ1:4)」とも言われています。神の恵みも、言葉によって、確かな実在に、出来上がったのです。
 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた(ヨハネ1:14)」……って。「罪」よりも、もっと大事な御言葉は。私どもを、「霊に従う新しい生き方(ローマ7:6)」に変えてしまう……。そういう、命をもった御言葉でした。

Z.
 罪を犯して、苦しむのは。私どもが、隣り人を愛するために生きているからです。
 私どもは、妬むために生きているんじゃぁ、ありません。隣り人に対して得意になるために生きているんでも、ありません。愛するために生きているんです。
 ……神さまは、野の獣をお造りになりましたが。どれも人間に合う「助ける者」には、なりませんでした(創世記2:20)。それで神さまは、人間自身から、隣り人を造りました。もともと「二人は一体(同24)」って言うか……。人間は、隣り人と一緒に、出来上がるんです。隣り人と一体になるのが当たり前なんです。
 それなのに、私どものこころの中に「むさぼり」があるから。本来の、清い、尊い、嬉しい状態になることが出来なくって。私ども、苦しむんです。私どもが、隣り人と。本当にこころの奥から一体となることが出来る時に。私どもは、本当の自分を取り戻させていただけるんです。
 それを教えてくれたのが……神さまです。神が、律法を通して。あなたのこころには、「むさぼり」が、ある。驕りと妬みで満ちている。それが罪である……ト。教えてくださいました。
 神が教えてくださったのは……。神さまも、私どもとの交わりを、必要としてくださったからです。神は、私どもと、こころの底で関わることで、愛の神として生きてくださったんです。そのために、キリストさまを、お与えくださったのです。
 だから……私どもが、神の愛をいちばんはっきり感じるのは。「神さまの前で、私の罪が分かった」と、いう時です。キリストさまの十字架をもってしなければ赦されない私の罪とは……。この、「むさぼり」だったのか……ト。
 私は、愛すべき隣り人を、妬んで、汚いこころで貶めようとしている。神の御前で、私の罪が本当に分かった……って。そういう時に……この私が、憐れんでいただいて。御子の血をもって、赦していただいたんだ……って。神の愛を、いちばん、感謝をもって、はっきり感じるのです。
 「神さまの前で、私の罪が、本当に分かった」というときに。私は、愛せば良いんだ……って。そこに、戻れるんです。神のことも、また隣り人のことも。愛するのが、本来の、私の尊い姿だったんだ……って。そこに、戻れるんです。

[.
 酒鬼薔薇聖斗のことを調べていたら。たいへん、興味深いことに行き当たりました。
 本人は、自分が殺したことを、最初から認めていました。犯行を否認したことは、ありません。
 けれども、更正の過程で。殺害された子どもの親たちが書いた手記本を何度も読み、教官と話し合っていたそうです。そんな中で、ある時。「二人の子どもの尊い命を奪ったのは、自分である」。「私である、それは私だ」ということが、突然、分かったんだそうです。
 分かってなかったのか。殺したという事実は、当然、分かってました。でも、殺したということの意味が、分かっていなかった。それが、ある時、分かったんです。
 それならば。人殺しは、どうしていけないか。「私が殺されたら困るから」とか、「悪いことだから、悪いんだ」と答えるヒトよりも、罪が、分かっているのです。自分が、どれだけ罪深いか。赦されなければ生きて行けない存在であるか……。良く分かっているのです。
 しかし私どもは……。私ども、キリストを信じるクリスチャンは。罪が分かっているだけじゃぁ、ありません。自分が、どれだけ罪深いか。赦されなければ生きて行けない存在であるかが分かっているだけじゃぁ、ありません。
 そんな私どもを、神は愛してくださった。赦されなければ生きて行けない罪が、キリストさまのい十字架によって、もう既に赦された……ト。そのことが、良く分かっているのです。


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