2005年1月2日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

掟に由らでは愛を知らず

中世エチオピアの写本より



聖書研究
ローマ7章    中村栄光教会
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新約聖書【ローマの信徒への手紙 第7章7〜12節】






掟に由らでは愛を知らず

北川一明

T.
 ひとには愛が必要です。
 ひとを愛し、ひとに愛されてこそ、この世を豊かに生きることが出来ますでしょうし……。死んで次の世に行くには、神に愛されることが、必要であるに違いありません。
 そこで、祈りが必要です。洗礼を受けて15年になりますが。「祈り」とは何か……、ようやく少し分かってきたような気がしています。神に愛していただいていることを感じ取って、豊かな平安をいただくのが、お祈りです。
 ところが……お祈りが、どうしても面倒臭くなることが、あります。「聖霊に見放された」っていうんでしょうか。ちっとも祈る気がしない。自分を責めて、無理に祈っても、最初は、祈った「手応え」が、ありません。
 ……それなのに、「お祈り」には、ちょっと不思議な所があります。
 ちっとも気持ちが入らないのに、それでも祈っていたら。こういう、祈れない自分が赦されて、愛されているんだ……ト。だって、現に祈れないハズなのに、祈っているんですから。こうやって、神さまに導かれている……ト。キリストさまの愛に、かえって触れることが出来る……場合が、あります。
 熱心に祈っていて。我ながら「結構、真面目だなァ」と思えるような。信仰が充実している時も、マァ、良いのでしょうが。信仰が萎えかけている時に、かえって神の愛に気付かされることが、あります。
 「愛される」というのは、何かのご褒美じゃぁ、ありません。今のこのままで愛されることだからでしょうか。祈れない時にも祈れば、祈れない自分が、そのまま愛されていることに、気付かされます。
 そうやってキリストさまの愛に触れたら、霊はいっぺんに取り戻されます。信仰が、回復させられます。平安に導かれて。こうして神を畏れ敬うのが、人間の全てなんだ、このために生きているんだ、ト。具体的な問題は全部そのままでも、すっかり、こころが整えられます。
 神の愛が、どうしても必要なのに。お祈りさえ面倒がって、神の愛に留まることが出来ない。留まろうとしない。そういう不信仰な私どもを。神さまは、愛してくださいました。必要なものを、必要な通りに与えてくださいました。不信仰な人間を、そうして救ってくださったのが、キリストさまです。
 しかし、そういう救いまで私どもを導いたのは、「律法である」……ト。今日のローマの信徒への手紙は、そういう話しです。

U.
 たとえば、律法が「隣り人を愛せ」と言わなかったら……。
 それでも私ども、愛を持っています。ひとを愛し、ひとに対して良いことをやます。そんな私どもに対して、律法は、それでも「隣り人を、本当に愛しなさい」と言うのです。
 律法が「隣り人を愛せ」と言わなかったら。私は、それでも愛を知ってはいますが。つまらない愛に留まったままだったかもしれません。
 愛には、ふた通り、あると思います。私どもは、二た種類の「愛」を持っています。
 自分が大好きなひと。いちばん大切な相手と一緒に居て。その相手に、今まで知らなかった、自分とは全然違う一面を、見つけることが、あります。価値観でも、ものの捉え方、感じ方でも……。このひとは、こういうヒトだったのかト、ちょっと驚くような発見です。
 それは、ある意味では「裏切られた」ともいえるような。恋人とか/子どもとか/孫とかが……自分とっては当たり前だと思っていたのとは全然違う方向に行ってしまうのです。
 恋人なり、子どもなりですと。そういう相手のことを、普段は「このひと」なんていう風には思いません。そんな風に、余所々々しくは思いません。
 けれども、新しい一面を発見した。そんな時には、すぐ側に居るその相手を、「このひとりのヒト」ト、感じてしまう……。自分の手の中から離れて行ってしまうような……。「このひとりのヒトは、こういう人間だったのか」と感じてしまうような経験です。
 その、ある意味では「裏切られた」とも感じられるような、人格の発見を。「嬉しい」と思えることが、あります。それは、「愛」であろうと思います。
 もう完全に自分のものだと信じ込んでいた恋人の中に、全然知らない一面を見てしまった。そういう時に、切ないのでなく、それを「嬉しい」と思える時に。それは「愛」であろうと思います。
 「愛」って。そういう「愛」がありますけど。もう一つは、それと正反対の「愛」です。
 大切なひとが、「やっぱり自分と同じだった」と感じて、ほっとする「愛」です。やっぱり私の思った通りのヒトだった、私の見込んだ通りだった、ト。それで嬉しくなる「愛」です。
 どちらの「愛」も、「愛」なんですから、尊いものです。
 ただ、「やっぱり自分と同じだった」ト、ホッとする「愛」は。動物にもある「愛」です。身内が集まって、自分たちが身内であることを確認して、身内同士が守り合う、愛です。
 しかしイエスさまは、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか(マタイ5:46)」と、おっしゃいました。
 年末、北海道で撮った『キタキツネものがたり』のビデオを見ましたけど。動物の、身内を守る愛も、尊い愛だし。そういう愛も、もちろん必要です。
 しかし律法が、わざわざ「隣り人を愛しなさい」と言っているのは。仲間を集めて安心する愛じゃぁ、ありません。自分とは全然違う、自分にはどうすることも出来ない相手を、自分とは全然違って自分にはどうすることも出来ないんだと認めつつ、だから愛する愛を……。律法は、「愛」と言って、私どもに命じているのです。
 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:43、44)」って……。「敵を愛せ」という律法は、そういう意味です。

V.
 私ども、大切なひとが、自分の身内と分かったら。「やっぱり仲間だ」とホッとします。こちらはホッとしますけれども……。相手は、それではホッとしません。
 こちらの側に、チェック基準があって。こいつが俺の身内であるのならば。北川の家の者であるのならば。「こう感じるベキだし、こう感じるハズだ」という基準が合って。それに合うから合格、合わなければ不合格と思っているのです。
 それで、合格を出せたから仲間が増えたと安心するのですが。こっちがチェックしている以上、相手にとっては、本当に良い愛では、ありません。
 もう一つの愛が、相手をホッとさせます。
 北川の家の者であるならば、「こうあるべきだ」と思っていた見込みが当て違いで。裏切られた時。「あ、このひとは、本当はこういうヒトだったのか」と……。しかし、それを喜ぶことが出来たらのなら。その時、相手はホッとします。
 「ずっと隠していた。私は、あなたが思っている通りの人間じゃぁない、全然違っていた。とうとうその違った見せた時。捨てられるかと思ったのに、逆に、喜んでくれた」……ト。
 相手がホッとするのは。チェックして合格を出してやった時じゃぁ、ありません。一個の人間に対して、チェックなどすべきでない、できないのだ。このひとりのヒトは、どんな風であれ、私の大切な人なのだ……ト、受け入れる。それが、聖書の命じる「愛」です。
 そして、神は。私どもを、そういう愛で、愛してくださったのです。
 神さまのチェック基準。その、ほとんど全部にOKを出してはもらえないような私なのに。「あなたは、そういうヒトなんだ」って。キリストさまは受け入れてくださるから。それで私どもは、ホッとするのです。
 お祈りが、どうしても面倒臭くって、ちっとも身が入らない。信仰が萎えかけている時に、かえってキリストさまの愛に気がつくことがある。熱心な時じゃぁ、ない。途方に暮れている時にかえってキリストさまの愛に気がつくことが、あります。それは、そういう途方に暮れるようなこの者を愛してくださった……ト。それが「愛」と、分かるからです。
 合格した者を受け入れるのでは、ない。私を受け入れてくれることが、私を愛してくださったト、いうことです。
 律法は……。私どもが、そういう愛で、互いに受け入れ合うように、ト。それを命じているのです。

W.
 そういう愛が、私どもを、豊かにします。そういう愛で愛された時には、こちらは癒やされますが。そういう愛で、こちらから、愛することが出来た時です。自分が愛した時、豊かにされます。
 いちばん身近でいちばん大切と思っていた相手が、自分の知らない一面を持っていた。その一面においては、いわば、知らないひとだった……。初めて出会った……。それを、受け入れて喜ぶことが出来たならば。その分こちらも、少しだけ……前とは違った人間になっています。自分が、生きて、変わって行っています。
 それが生き生きと生きるということです。
 もっとも……新しい価値観を受け入れられるのは、若い、頭が柔軟な間だけかもしれません。ですから、イエスさまが「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」って言った時。がっかりして、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう(ヨハネ3:4)」って言った、ニコデモというひとがありました(同10)。
 ですけど、そうやって口答えしたニコデモのことを、イエスさまは、お叱りになりました。
 新しい価値観、新しい考え方を受け入れるのは、若い、頭が柔軟な間だけかもしれません。けれども、「価値観、考え方を新しくしなさい」って言われているんじゃぁ、ないんです。いちばん大切なひとを、愛しなさい。大切なひとを、大切なままに「受け入れなさい」っていうんです。
 受け入れた時に。結果として、新しくされているんです。そういう愛が、私どもを……。自分を、豊かにします。生き生きと、毎日、自分が新しくされます。
 そういう命が溢れ出るような愛は……。若い時だけじゃぁ、ありません。死の床にあって、自分の子どもたちが見舞ってくれた。その子どもたちに、新しい人格を発見して、喜び、安心するならば。死の床にあって、生き生きと生かされます。
 知っていたハズの大事なヒトに、新しい、知らない人格を発見出来た時。たとえば、子どもがそんな風に新しく見えた時。私ども、喜びます。子どもが思い通りになった時。こちらの思い通りにコントロール出来た時よりも。自分の思いを超えて、新しい人格だった。そのことに気付いた時の方が、もっと嬉しいかもしれません。
 そうして、その喜びは、私どもを新しくし、豊かにし、生き生きさせます。私ども、こころに、そういう尊い愛を持っているのです。
 動物の親子にもあるような、自分の都合で愛する愛だけじゃぁなくって。今までの価値観から言ったら、自分の都合が毀されることになる。しかしそれを、新しい発見として喜べる。そんな、尊い愛まで……私どもは、持っているのです。
 動物の親子にもあるような愛で、ちゃんと愛していた。そんな私どもに対して。律法は、「愛しなさい」と命じます。そのために、私ども。ずっと豊かにされます。
 律法がなくても、動物のように愛し合い、動物のように生きて行くことが出来ました。ですけれども、神の導きのお陰で。もっと尊い生き方を、知らされたのです。

X.
 ただ……。
 そうやって新しい、知らない人格を発見して、喜べる……。それは、たいてい相手が身内の場合です。
 自分の子どもだったら。わが子が、新しい人格を見せたならば。それは、子どもがしっかり成長しているっていうことですから。喜んで当然です。
 私ども……; 身内の、もともと愛するのが当たり前の相手。受け入れるのが当たり前の相手だったら。……それでも、そういう身内を、時には妬むことさえ、ある位です。身内じゃァない、余所のヒトだったら、到底受け入れられません。
 余所のひとで。このヒトは、私に対してこういうヒトであるハズだ……。そう思っていた相手が。こちらの期待を裏切って、別なことを考えているヒトだったら……。そういう時には、なかなか受け入れることが出来ません。
 余所のひとを愛する場合は。たいていは、自分にとって、好ましいからです。
 自分にとって「都合が良い」なんて、そんなヒトを利用するようなことじゃぁ、ない。自分にとって、感じがよかったり。美しかったり。一緒にいて楽しかったり。自分が優しくなることが出来たり。……そういう善い思いだって、ありますが。それでも、自分にとって好ましいから、愛するんです。
 こっちが思ったのと、実は違うひとだった。本当は、思っていた通りの人間じゃぁなかったというときには。……必ず幻滅するっていう訳じゃぁないかもしれませんが。「本当は、思っていた通りの人間じゃァなかった」と、それが分かったら。少なくとも、戸惑います。ただちに喜ぶことは、なかなか出来ません。
 けれどもキリストさまは。「身内を愛せ」なんて言いません。「隣り人を愛せ」と言ったんです。普通「隣り人」って言ったら、身内や家族じゃぁなくって。身近にある、けれども、余所のひとです。
 子どもが自分の知らない一面を見せてくれたら、大きくなったって喜んでおきながら。余所のひとが、知らない一面を見せたら……。私ども、警戒します。
 それでは……。いっくら子どもの新しさを受け入れたって。私どもの愛は、身内を愛する愛でしかないのかもしれません。神が私を愛してくださったような、そういう愛では、ありません。他人をホッとさせる、相手のための愛じゃぁ、ありません。
 律法が、「愛せよ」と言わなかったら。私は愛を知らなかったでしょう。動物の愛、身内を愛する愛は知っていましたが。神が私を愛してくださったような愛は、知りませんでした。
 私は、かつては律法とかかわりなく生きていました(ローマ7:9)。だから、そういう愛とはかかわりなく生きていました。それでも、動物のように、生きては・いました。
 しかし律法が登場しました。キリストへの信仰を告白して。私は、神の律法を受け入れました。聖書を神の言葉として受け取る決心を、しました。そうしたら……そこには、「愛せよ」と書いてあった。
 それを、本気でちゃんと読んだ時。私は、罪を知りました。罪が、私に力を発揮していることを知りました。神さまがお命じになる通りには、愛せません。私は、愛することが出来ていない……。それを、知りました。

Y.
 愛することが出来ていないとは、どういうことか。動物と一緒で、身内を愛するだけっていうのは、どういうことか。
 自分のこころを、自分の身内の中に、閉じてしまっているのです。古い自分から、一歩も外に出ようとしていないのです。
 大切な相手の中に、古い自分を毀してしまう新しいものを発見した時。それを喜ぶことが出来るのならば。私ども、生き生きと生かされます。そうやって、日々、事ごとに新しくされるのが、すなわち「生きている」ということです。
 しかし私の罪は。自分が、そうやって生き生きと生きることを、拒んでいるのです。新しくなるまいとして……。滅んで行く、古い自分に、かたくなに留まっているんです。
 古い自分に好ましいものばっかりを、大切に囲い込むっていうのは、そういうことです。罪によって、私は死に支配されていた。死に、導かれていたんです。
 「あなたの隣り人を愛しなさい」と、神は、命じてくださいます。「自分に好ましい人を愛したところで、あなたにどんな報いがあろうか。わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と、命じてくださいます。
 その律法の通りに生きた時。私どもは、新しくなれるんです。生き生きと、神の国に繋がる命を、生き始めることが出来るのです。
 だから私は、「神の律法を喜んでいます(ローマ7:22)」。本当です。聖書に書いてある、細かな規則を守ろうとは思っちゃいませんが……。でも、律法の通りに、本当に隣り人を愛したい。本気でそう思っています。
 けれども、そうやって「神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを……罪の……とりこにしているのが分かります(22、23)」。
 死に定められた古い生き方に、自分で留まっている。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか(24)」。

Z.
 だから……。私は、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝(25)」するんです。
 私ども、生きて行くには、ヒトに愛されることは必要ですし。ヒトを愛することが、必要です。そして、この世を生きて、次の世に死んで行くためには、神に愛されることが。何よりも、必要です。愛が、どうしても必要です。
 それなのに、愛することが出来ず。お祈りさえ面倒臭くって、神の愛に留まることが、出来ない。私ども、そういう不信仰です。
 そういう、神さまのチェック基準では、「不合格」にされざるを得ないような。神さまのご計画とは、まるっきり正反対のように育ってしまった、この者を。しかし神は、このままで……。
 祈るにも、不真面目な。しょうがない、気持ちは入らなくっても。祈るだけは祈ろう……ト。それだけで、神は、私と交わりを持ってくださっています。
 それを、キリストさまの生き方を読んだ時に、感じさせられます。不信仰な私を。神が、愛してくださった。愛が必要な者に対して。必要な通りに、十分に与えてくださっている……って。それを感じさせられます。

 こんな風ですから。隣り人を誰でも、本当に受け入れられるようになるのは。まだまだ、相当先のことかも分かりません。でも、キリストの十字架によって。もう既に、そういう方向には間違いなく方向付けられているのです。
 気持ちが入っても/入らなくても。キリストの福音に親しんで。新しい年も、十分な時間を割いて、祈って過ごしたいと願っています。


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