2005年1月30日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

霊に生きている

中世エチオピアの写本より



聖書研究
ローマ7章    中村栄光教会
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新約聖書【ローマの信徒への手紙 第7章13〜16節】
旧約聖書【創世記 第4章1〜5節】






霊に生きている

北川一明

T.
 先週前半、少人数の、牧師の研修会に行って参りました。そこでは、旧約聖書創世記の、人類創造の物語りを、ずっと読んでいました。
 原始社会ですから、現代とは、全然違います。まるで単純な社会です。だけど・それだけに、人間の、根本の豊かさ、根本の仕合わせ、みたいなものを思わされました。
 創世記の第4章は、「アダムは妻エバを知った(1)」といって、始まります。「知った」とは、「性的な関係を持った」、「性的にも、深く愛し合った」という意味です。ですから、それに続けてエバは身ごもって、カインを生んだと伝えられています。
 ローマ書は、第5章でアダムの罪について言っています。そのときに少しお話ししましたが……。アダムとエバは、神さまに逆らうという仕方で、「自己自身」というものを……。自分というものを手に入れました。
 「やりかた」は、悪いやりかただったかもしれませんが。ひとりの、大人の人間として自立しました。だから、そうなって初めて。アダムは、「妻エバを知った」という仕方で。互いに、ひとりづつ自立した人間として。互いを愛し合うことが出来るようになったのかもしれません。
 最初の、赤ちゃんが生まれて。「わたしは主によって男子を得た(創世記4:1)」って、エバは喜びます。生命が誕生する不思議を、人間の力を超えた「奇跡」として捉えることが出来たのです。神は、ご自分の掟を守ることのできなかった二人にも、豊かな愛を与え……。大きな喜びを与えました。
 それから「彼女はまたその弟アベルを産んだ(同2)」。この家庭への祝福は、カインでは終わりません。次男が生まれ、「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった(2)」。近頃の若い者とは違います。きちんと働く者になりました。
 時を経て、土は労働の実りを与えてくれました。農作物は実るし、羊の群は、増えて行きました。良いことずくめです。
 豊かに祝福された、喜びの溢れる家庭では、神に感謝することを知っています。カインとアベルはそれぞれに、自分の働いたところから献げ物を取り分けて……連れ立って礼拝に出かけました。
 その献げ物が、神さまから受け入れられなかったことで、カインの悲劇は始まるのですが……。その悲劇の手前までのことです。いちばん豊かな生活は、こういう生活だと思いました。
 働いて、その実りを得て。次に、それを感謝して神に献げて。そうして、また労働に戻って行く。そういう、神との交わりを中心においた生活が、いちばん豊かな生活です。
 神に感謝をお返しすることをしなかったら。私どもが、十分の一献金をするのをやめたら。経済的な豊かさは、一割り増しになります。献金は、やらない方が、お金の面では、豊かになります。
 一生懸命働いて、金持ちになって。しかしその成果を、神に報告しない。自分で勝手に得意になっているのでは。自分の手元にお金がある、そのことが。目的がない、むなしいことになってしまうように、思います。
 自分の働きを神さまに報告して、神さまが、それを喜んでくださった時に。私ども、自分の命が意味があって祝福されているということを、確かめることができるのだと思うのです。
 仕合わせとは……。愛すべき者と愛し合い、互いのために、また神のために労働し。感謝をもってその実りを神に捧げて、また労働に還って行く。そういうのが仕合わせな生活だろうと思います。
 現代社会は、創世記の頃と比べてうんと複雑になっちゃいましたから。私ども、そういうこと、忘れることが多い……。
 けれども、人間の根本の仕合わせは、原始社会でも現代でも、そうは変わらない。神に捧げる礼拝を、一週間の最初に置いて。そこから、日々の労働に還って行くことだと思いました。

U.
 神に礼拝を捧げる時に。神さまは、私どもに「律法」を授けてくださいました。
 「律法」とは。ひとことで言ったら。「自分を愛するように、神と隣り人を愛せよ」っていうことです。
 一週間、汗を流して働いて。感謝を携えて、礼拝に上って来た。そうしたら神さまは、「その通り。あなたは、自分自身を、そうやって愛しなさい。神を、愛しなさい。あなたが一緒に暮らしている愛する隣り人を、愛すべき通りに、愛しなさい」と言ってくださるのです。
 そうやって神の御言葉を受けて。それぞれが、愛する隣人との生活に、戻って行くのです。人間の仕合わせとは、そういうことだと思います。
 そうすると……。神の「律法」が、悪いものであるハズが、ありません。律法は、素晴らしいものです。私どもに命を与え、私どもを幸いに導く、いちばん善いものです。
 いちばん善いものなんですが……。
 ところが私どもは……。このいちばん善い、「自分を愛するように、神と隣り人を愛せよ」っていう掟のために、死ぬことになった。律法が、私どもを死に追いやった……と、言うのです。
 いいえ、もうちょっと精確に言うと。律法が人間を死に追いやった訳じゃぁ、ありません。律法という善いものを通して、罪が、その限りなく邪悪な正体を現わして。律法という善いものを通して、罪が、私どもに死をもたらしたのです(ローマ7:13)。
 律法が悪いものなのではない。律法を通して、罪がわれわれを死に追いやった。
 しかし、主イエス・キリストさまによって、われわれがその罪から救われている……。それが、私どもが信じている救いです。律法という最も善いもの利用して、最も悲惨な死へと誘う罪から、私どもは救われている……。
 ローマの信徒への手紙では、「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています」と言われています。これは、信仰があるひとだけが、認めていることです。私どもは、律法を、ただの文字じゃぁない。キリストさまによって生ける御言葉として聞いているのです。
 「自分を愛するように、神と隣り人を愛せよ」という命令を。ただの文字で書かれた掟じゃぁない。神の、霊的な御言葉として聞くことができるように、されているのです。キリストさまによって、そう、されている。
 だから私どもは。神に捧げる礼拝を、一週間の最初に置いて。そこから、日々の労働に還って行く……。そういう、いちばん普通の。だけどいちばん仕合わせな生活をすることが、出来るようにされているのです。
 愛すべき者と愛し合い、互いのために、また神のために労働し。感謝をもってその実りを神に捧げて、また労働に還って行く。そういう仕合わせな生活を、私どもは続けて行くことが出来るのです。

V.
 私どもは、律法を与えられています。礼拝に来る度に、「あなたは、自分を愛するように、神と隣り人を愛しなさい」と、神さまから命じられる、ということだと思います。
 神さまから、そうやって言われて。じゃぁ、この一週間。私どもは、具体的には何をするんでしょうか。実際には、どういうことを、具体的に、やるんでしょうか。
 「あなたは、自分を愛するように、神と隣り人を愛しなさい」っていう言葉だけで。すごくたくさんのことが、言われています。
 「自分を愛するように」って、誰でも自分が可愛くって、自分が得することは考えているでしょうけれども。だけど、じゃぁ本当に自分というものを愛して、大切にしているか……って言ったら。自分を愛することって、どうすることだろう……って思ってしまいます。
 「本当に自分というものを愛して、大切にしているか」なんて言われても。その「本当に」って、具体的には、どうすることか……。
 「自分を愛するように」っていうだけでも。静かに、お祈りの中で考えた時には。多くのことを神に問わなくっちゃぁ、いけませんし。この一週間、何をするかということから言えば。祈りのうちに多くのことを考えて、多くの、決断をしなくてはいけません。そして決断したことを、実行しなくちゃぁいけません。
 だけど。毎日のこと。ひとつひとつのこと。毎日きちんと決断して、それを実行する。しかもそれが、愛に基づく決断であり、実行である。そういう生き方ならば。どれだけ充実している、豊かな人生かと思うのです。
 「あなたは、自分を愛するように」って言われただけでも。それを言ってくださるのが神さまならば、それだけのことが、あります。
 その上に、「神と隣り人を愛しなさい」って言われたら。
 見えない神を愛するって、どうすることか。隣り人を愛する……って。愛せないで憎んでいる時なら、もちろん。ぼんやり、自分は当然愛しているって思っていたとしても。礼拝から帰って、この一週間、実際に何をするか、どうするか。
 祈りの中で神の御声を聞こうとして……。まぁ、全然聞こえて来ない時もあるかもしれませんけど。聞こえても聞こえなくても、祈りのうちに多くのことを考えて、多くの決断をし、またそれを実行しなくちゃいけません。
 そうしたら。最初に申しました。愛する者と一緒に居て。労働し、感謝の献げ物を携えて礼拝し、また労働に還って行く。それだけの単純な生活でも。それがどれだけ充実した、どれだけ豊かな、幸いに溢れた生涯になるか……と、思うのです。
 そりゃぁ、そうです。人生は豊かになります。「あなたは、自分を愛するように、神と隣り人を愛しなさい」と言われて。じゃぁ、この一週間、具体的には何をするか。実際には、どういうことをやるか……。
 それを考えるっていうのは。「ヒトは何を為すべきか」ということです。
 「ヒトは何を為すべきか」、それを神の御前で。「愛」ということを中心において、「ヒトは何を為すべきか」、祈り求めるということです。
 礼拝で、御言葉を与えられて。その御言葉の許で祈って生活するのですから。そんなひとが、いったいどうやったら不幸になるか。そんなハズは、ありません。これ以上の仕合わせは、ない。私どもは、確実に仕合わせになるように、こうして導かれているのです。

W.
 ところが……。この、これだけ善いもの。「あなたは、自分を愛するように、神と隣り人を愛しなさい」っていう、この御言葉の許で生きる時に。御言葉を通して、死がもたらされた。それが罪の、限りなく邪悪な正体だ……というのですから。残念というよりも、無念です。
 罪とは……。この霊的な御言葉を。霊的にではなくて。肉の人として受け取ってしまう……。罪が、そうさせると言うのです。

 人間は。その心も、肉体も。神さまに造っていただきました。生命の誕生は、こころも身体も、神の奇跡です。
 だから、「肉体が悪い」って言うんじゃぁ、ありません。「こころ」は清いけれども「身体」は汚れているとか、そういうことじゃぁありません。イエスさまもどこかで、「こころの中から出てくるものが、身体を汚す」とおっしゃってました。
 だけど、だからって「こころ」が悪いということでも、ありません。
 「こころ」も「からだ」も、神さまから造っていただいたのに。造った神さまに関係なく、自分で、何でも決めようとしてしまうのが……。霊的じゃぁない、肉的っていうことです。
 肉体の欲望が悪いのでは、ない。だけど、肉体の欲望に引きずられて、神さまに関係なく、自分勝手に決めてしまう。こころが悪いのでも、ない。けれども、自分のこころが、神さまに関係なく、自分勝手に決めてしまう。
 それが神さまに関係なく判断するっていうことですから。そういうのが、霊によらずに肉によって生きているっていうことだと思います。……まぁ、それでも抽象的ですが。要するに、自分で自分のことを、「これで良いのだ」と、決めてしまうのが、「肉的」っていうことです。

X.
 「あなたは、自分を愛するように、神と隣り人を愛しなさい」っていう御言葉は、悪いものであるはずが、ありません。いちばん良いことに決まっています。
 だけど・それは、じゃぁ実際に、具体的には何をすることなのかって言ったら。さっき申しました。非常に難しい、いろいろなことになります。
 日々、祈りのうちに考えて、考えて、誠意をもって精一杯に考えても。私ども、人間ですから。間違いを犯すことが、あります。
 間違ったって、それでもそうやって日々真剣に考え、決断し、実行する生は。豊かな祝福された生き方に決まっています。
 ですが、そういう風に「間違えることも、ある。具体的にどうすべきかは、非常に難しい」ということは。「あなたは、自分を愛するように、神と隣り人を愛しなさい」っていう御言葉は、私どもの人生の、「答え」じゃぁ、ありません。むしろ「問い」です。
 「私は何を為すべきか」という問いです。私どもは、礼拝で答えを与えられるのではない。問いを与えられるのです。
 答えはどこで与えられるかって言ったら。実際に毎日祈って、決断して、実行して……。そうする中で、朧気に分かってくることですし。答えが完全に明らかになるのは、終わりの時です。天国で、です。
 ですけれども私どもは。感謝を携えて礼拝に上って来た時に。「愛しなさい」という問いを、いつも新たに与えていただく。だからいつも、自分の命を精一杯に、尊く生きることが出来るのです。問いを与えられるから、私どもは、豊かにされるのです。
 いや問いは、クリスチャンに限りません。全てのひとに与えられている。だけども、私どもは、それが答えではない、問いであるということ……。答えを見い出すために、祈りのうちに問い続ける生き方が豊かな生き方であることを。キリストさまの故に確信しているから。それで私どもは、特別に豊かなのです。
 何が優れているわけでもない。「どうして良いか分からない」ということを知らされているから、豊かなのです。

Y.
 この問いを……。「愛しなさい」という律法を、問いとしてではなく、答えとして受け取る時に。人間は、命から、いっぺんに死へ、転落します。
 労働し、感謝を携えて礼拝に上って来た。そうしたら、神が「あなたは、自分を愛するように、神と隣り人を愛しなさい」って、御言葉を与えてくださった。
 そうしたら、「じゃぁ、何をすれば良いんだろう」と、自分自身に問うのではなしに。これを「答え」だと思って受け取ってしまう時に。ひとは、命から死へと転落します。
 「答え」と受け取るとは、具体的には、二つです。
 言われた通り、私はちゃんと神を愛し、隣り人を愛して来た。私はちゃんとやって来たから、大丈夫だ……。強気のひとは、そう思います。
 もう一つは。言われた通りに、出来なかった。私はちゃんと神を愛することをせず、隣り人を憎んで来た。私はちゃんとやって来なかったから、もう駄目だ……。弱気のひとは、そう思います。
 どちらも、「愛しなさい」と言われて。「何を為すべきか」と問うのでなしに。「私は合格だ」、あるいは、「私は不合格だ」と……。問いとしてではなく、答えとして聞いてしまうのが、不信仰ということです。
 「合格だ」にしろ、「不合格だ」にしろ。神に成り代わって、自分が裁き主になるのです。それも、終わりの日に裁かれるはずなのに。今、裁くのです。
 「私は何を為すべきか」と、問い続けるとは。自分というものを作り替えながら、日々新しく生きるということです。それが本当の命です。豊かな命です。
 神さまの聖なる御言葉に触れて、それを問うのですから。場合によっては。今までのままじゃぁ、全然駄目だ。もう過去の自分には死んで、100%新しくならなくっちゃぁいけない……と。そんな決断をせざるを得ないかもしれません。それでも、そうやって新しくなって行くことが、命に生きるということです。
 ところが、「私は合格だ」と。そう裁いてしまったが最後。自分は、もう全く変わろうとしなくなります。そこから先、愛のために指一本も動かすことがなくなります。
 それは、死です。罪人は、死んでいるのです。

Z.
 私どもは……しかし、霊に生きているから。この罪と死から、救い出されているのです。
 キリストさまが、この罪のために十字架で苦しまれた。かたくなで、愛のために指一本も動かすこともしないこの罪と死を、ご自身が代わって負ってくださった……ということを、私どもは信じているのですから。私どもは、そんな「私は合格だ」とか、「私は不合格だ」とか。裁き主の座に留まれるはずがない。
 時に、うっかり裁き主の座に座って傲慢になっていたとしても。キリストさまの十字架を思い出した時には。あわててそこから飛び降りて、感謝と悔い改めにひれ伏すに決まっています。
 悔い改めなくっっちゃぁいけないという点では。「私は不合格です」って、その通りです。その通りなんですが。その不合格を代わって負ってくださったキリストさまが、死者の中から復活させられたのですから。「不合格だ」なんて、くよくよしている所にも、留まれるはずがない。
 今日、どうしようか。自分自身を愛するように神と隣り人を愛するために、今日の一日は、実際に、何を、どう、具体的に生きようか……って。
 キリストさまの復活を思い出した時には。私ども、たちまち、聖なる問いを、問いとして取り戻すことが出来るのです。祈って、決断して、実行しよう……っていう志に、たちまち帰ることが出来るのです。
 キリストの十字架と復活を思い出す……とは。それが霊に生きる……。神さまが、私どものこころに聖霊をお与えくださったことを信じて。その聖霊さまの導きのままに生きるというです。
 問いを答えとして受け取っていた愚かさは、悔い改めなければいけません。
 悔い改めて、問いを、答えとしてでなく、問いとして受け取り直した時に。私どもは、新しく生まれ変わる喜びを、知ります。過去の、「私は合格だ」っていう所にしがみついて、すっかり死んでいた。そんな惨めな古い自分を捨てて、新しく生き始める喜びを、知ります。
 そうしたら、最初に申しました。愛する者と共に、愛し合って過ごし。労働し。神に感謝と賛美を捧げて。そうして、愛する隣り人と忠実な労働に還って行く。そういういちばん当たり前の、いちばん仕合わせな生活に、戻って行かれます。
 私どもの前途には。これから先、「私は何を為すべきか」という、豊かな問いが……。汲めども尽きない、聖なる問いが、ずっと続いているのです。終わりの時の、永遠の命まで、この問いが続いているのです。
 この週も、祈りにあって。この問いを問い続けたいと思っております。

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