2005年2月6日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

無力な傍観者

中世エチオピアの写本より



聖書研究
ローマ7章    中村栄光教会
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新約聖書【ローマの信徒への手紙 第7章14〜20節】






無力な傍観者

北川一明

T.
 病院の看護師さんを見ていて感じることが、あります。
 看護学校に入学したいと思った時。「人の役に立ちたい」という清い志……、尊い志が、全然なかったヒトというのは、いないと思います。命を助けて、人を仕合わせにするお手伝いがしたい……ト。どなたも、そう願ったに違いありません。
 実際に働く場所は、医療法人という、収益を上げなくては続けられない組織です。さらに、お医者さんや先輩の看護師さんたちとの人間関係が、既に出来上がっている場所です。
 そうして、人格者ばかりではない、わがままな患者さんもおります。みんな病気で、苦しいし、不安だし、苛立っている。誰かにあたってでも、気晴らしをしたい……ト。そんな人も、あるかもしれない……。そういう場所です。
 そういう場所でも。人の命を助けて、人を仕合わせにするお手伝いが、出来る場面は、あるはずです。しかしそういうことは、ほんの時たまに過ぎない……かもしれない。
 最初の、清い、尊い志を持ち続けるのは、なかなか難しいことだと思います。
 難しいことだとは思いますが、そんな志を持ち続けることが出来たら。その看護師さんは、ご本人が、仕合わせです。志を失って、毎日手を抜いて、ただ給料をもらって来るために働くようになっては、本人が不幸です。
 キリストの十字架が。私どもに、そうした清い志、尊い志を持ち続けさせる力がある……。だから私どもを仕合わせにする。そういうものだと思うのです。
 誰でも、そうです。こころの中に、善いこと、正しいさ、尊いことを望む気持ちが、全然ないひとなんか、いません。病院の看護師さんに限りません。全てのひとが、尊いものに憧れてそれを目指す真摯な気持ちを、神さまから与えられている。
 けれども、誰でも……。この人間社会に組み入れられた時。そういう善いものを志す思いが……。強められるよりも、むしろ、そういう気持ちは、萎えてしまう。世の中には、そういう要素があると思うのです。
 しかしキリストの十字架は、その清いこころを取り戻させて。また、そういうこころを持ち続けさせる。ですから、毎日意欲をもって、目的に向かうことが出来る……。私どもを、そうやって仕合わせにしてくれるものだと思います。
 世の中では、これを「初心にかえる」と言うでしょうか。初心にかえることの大事さです。そういうことは、別にキリストを持ち出さなくても大切です。
 ですけれども、本当に初心にかえる、最初の清い、尊い志にかえるのは。「初心にかえろう!」って、自分で自分に言い聞かせても。自分自身を叱咤激励するというやりかたでは。何回か・なら、出来るかもしれません。けれども一生涯の間。そういう瑞々しい志に生き生きとし続けるには。キリストによる罪の贖いが、どうしても、必要だと思います。

U.
 自分自身を叱咤激励して一生懸命やることは、もちろん素晴らしいことですが。どうしても限界があります。病院の看護師さんのことを思い浮かべて、私ども人間の抱えている矛盾が、そこに典型的に現われ出てきていると感じましたのは; 今日のローマの信徒への手紙からです。
 「わたしは……自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです(15)」って。また、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている(19)」とも書いてあります。
 入院しているかたにうかがいますと、看護婦さんが、たいへん「憎いったらしいことばかりやって来る」と。そういう風におっしゃるかたが、あります。入院患者さんのお話を鵜呑みにするのならば。「その看護婦には悪魔が乗り移っているのかナ」と思わざるを得ないような報告を聞かされる。
 それは、入院患者さんの主観ですから、決して客観的に正しい情報じゃぁないにしても。全く根も葉もないことでもないでしょうし。実際に、そうした事件が起きていることも、報道されています。
 そうだとしたら。そういう看護師さんは。最初は、清い尊い志をもって看護学校の門をくぐって。最後に、「戴帽式」っていうんですか。「日本のナイチンゲールになるために、献身的に奉仕するゾ」と決意をして、仕事についた。そういう「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」のです。
 患者さんに十分配慮できないのは、いけないこと……な、だけでは、ありません。看護なんていうたいへんな仕事を、ただカネのため、自分の生活のためにやるんだったら。看護師の給料は、安すぎます。
 たぶん、どんな仕事も同じです。ただ自分の生活のためにやる、カネさえあれば良いって考えたら。どんな仕事だって、給料、安すぎます。
 「ひとのため」という尊い志をもって日々を生きないならば。「いけないこと」かどうかじゃぁ、ない。自分が不仕合わせです。
 いや、仕事に限らない、かもしれない……。「生きる」っていうこと、全部がそうです。
 自分のためじゃぁなく、「ひとのため」という尊い志がなかったならば。何をやるのも、何を考えるのも、全部、自分が得をするためになってしまいます。損得勘定の、得だけを掻き集めるために、死ぬまでの間を生きる……なんて。それは「いけないこと」というよりも、自分が不仕合わせです。
 神の似像として造られた、人間です。尊い志に向かって生きるのでなければ、自分が不幸です。だから、ヒトに対して、本当に正しい行ないをして、生きていかなければいけない。
 ……けれども、悪いことは、やめよう、正しいことをしよう……って。それは、余裕のある時なら、出来ます。環境が整ったら、できます。余裕のあるとき、環境が整った時に、正しく生きるには。自分の意志、自分の意欲と自分の清潔さ、自分の人格が、大いに役立つかもしれません。
 けれども、そうじゃぁない時。自分が追い詰められている時。「悪いことは、やめよう、正しいことをしよう」って、自分自身に強いたとして。どうしても限界があります。
 限界があるから「悪いことやっても良い」っていうんじゃぁ、ない。けれども、どうしても限界が、ある。その限界を、聖書は「罪」と言っています。
 「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです(19、20)」って、書いてある。
 宗教や道徳が、「正しい志を思い出しなさい」と教えてくれれば。私ども、「初心に立ち返ろう」と思うことは、出来ます。志を思い出すことが出来ます。
 その志を、実行させるのは。宗教よりも、道徳よりも、何よりも、キリストさまの贖いの業なのだと思うのです。

V.
 本人のこころがけでは、解決しません。
 会社の健康診断で、大きな病院に行った時などです。こっちは至って健康で。検査なんか、面倒くさい。
 血液検査みたいなのは。自覚症状がなくても、何かあるかもしれませんから。受診者の側も、神妙です。だけど、身長測定なんていうのも、ある。肥満度を測るのに必要なデータでも、こっちは「身長なんて去年と一緒だヨ」ト……。実際、去年と一緒です。
 それを、東京の大きな病院だったら。一日2000人から、40、50のオッサン連中の身長を測らなくっちゃぁ、いけない。
 やらされるのは、新米の、いちばん若いお嬢さんがたです。退屈している受診者からは、からかわれる。そんな中では、看護学校で教わった技術なんか、全然活かせません。毎日毎日、2000人の身長測って。すっかりうんざりしてナース・ステーションに戻って来たら。そこは、看護師同士の難しい人間関係がある……ってなったら……。
 志を保つのは、たいへんです。毎朝、「尊い志をもって出勤しましょう」なんか、自分に言い聞かせていたら。自分が病気になってしまいます。「給料のためだ」と割り切った方が、よっぽど健康的です。
 そういう仕事をしているうちに。看護学校に入った時の志が、だんだん歪んで行ってしまうのは……。本人が悪い、本人のせいだ、ト。周りの人が裁くことは、出来ないでしょうと思います。
 生き甲斐を感じることが出来る、本当に患者の生死にかかわることだけを選んで仕事をしたいです。
 そういうことが出来る立場にあれば、良いです。院長先生の姪御さんで。他の同期の看護師が身長を測っている中、自分だけは、手術に立ち会える……って。裏から手を回してもらえる立場なら、おいしい仕事だけをやってられるかもしれません。
 でも、それならそれで、今度は人間の現実が理解できません。そこに入院して来る患者さんたちが、そもそも、そんな院長先生の御曹司みたいな患者さんばっかりじゃぁ、ない。毎日2000人からの身長を測るような、そういう仕事をしなくちゃぁいけないひとも、多いかもしれません。
 そもそも人間の世の中が、人間ひとりひとりの尊い志を活かすようには出来ていないのです。クリスチャンが、立派な志を抱いても。その志を、そのまますんなり活かせる世の中じゃぁ、ないんです。
 本人のせいじゃぁないと同様に。世の中のせいでも、ない。それを聖書は、私どものうちに住み着く「罪」のせいだと言うのです。
 「律法」とは、「あなたがたは尊い人間だから、尊く生きなさい」ということです。「あなたがたは、神の似像として造られた、尊い存在です。だから、それにふさわしく、尊く生きなさい」というのが、旧約聖書の律法です。
 だから、律法は善いものです。しかし・この善いものを通して、罪が、限りなく邪悪な正体を現わした(13)のです。
 わたしが悪いんじゃぁ、ない。わたしの責任じゃぁ、ない。わたしの中に住み着く罪のせいだ……と。そう書いてあるんですから。じゃぁ、どうするか。
 何にもしなくて、良いのか。「カネのために働くんだ」と。「自分が得をするために生きるんだ」と割り切って良いのか……って言いますと。良いも/悪いも、それじゃぁ「わたし」が不仕合わせです。
 「わたしの責任じゃぁ、ない。わたしは悪くない」って、それは、その通りなのかもしれません。しかしそのままでは、自分が不幸です。
 この聖書を読んで。人間は、『無力な傍観者』だと言ったひとが、あります。自分が不仕合わせになって行くのをどうすることも出来ないで。「わたしのせいじゃぁ、ない。罪のせいです」と言うしかない、『無力な傍観者』だと言うのです。
 尊い志を失って行って、不仕合わせになる。それが自分の責任ならば、自分で何とか、改善できるかもしれません。でも、自分のせいじゃぁ、ない。罪のせいだから、何にもできない。
 そんな人間は、自分の人生に対して、無力な傍観者……です。
 世の中の、複雑さを思うと……。自分が抱く理想や、自分が抱く志だけでは、自分のことも、周囲のことも、思い通りにすることが出来ない世の中ということを考えますと。自分の無力さを思い知らされて、寂しくなります。『無力な傍観者』という言葉は。そういう自分の寂しい気持ちに、ぴったりと当てはまる気がします……。

W.
 けれども私どもは。その、寂しい所から、キリストさまによって、救い出されたのです。
 「わたしの責任じゃぁ、ない。わたしは悪くない。全部、罪が悪いんだ」って言いたくなるのは、どういう時か。
 ひとから責められたら、そうやって自己弁護したくもなりますけど……。私ども、密室で、ひとりで祈れと言われます。たった独りで祈るとき。「わたしの責任じゃぁ、ない。わたしは悪くない。全部、罪が悪いんだ」って言っていたいでしょうか。そうじゃぁ、ない。どんなに環境に恵まれなくても。私ども、自分の人生に、自分で責任を負いたいです。
 尊い志が萎えているのなら。それを罪のせいにして、自分の人生を汚したくない。自分で責任を負って、自分で改善したいです。
 でも、それがわれわれの責任じゃぁ、ない。罪のせいだったら。私ども、自分に対して何も出来ません。そんな無力な傍観者の立場から、キリストさまが、私どもを救い出してくださったのです。
 「お前のせいだ。お前の罪だ。罪を悔い改めろ」と言っていただけるのは。だから、素晴らしいことだと思うのです。
 毎日、オッサン連中の身長を測らされて、すっかり厭になっちゃった。それを、「お前の罪だ。罪を悔い改めろ」と、ヒトから責められたら、余計なお世話です。「俺のせいじゃぁ、ない。罪のせいだヨ」と言ってやりたくなります。
 でも、「お前の責任だ。罪を悔い改めろ」と、神さまが言ってくださるのならば。自分の人生に、自分で責任を負えるように……。神さまが、そうしてくださっているということです。
 実際、私どもは。「俺のせいじゃぁない」と言って、済ませたい訳では、ありません。本当に自分の罪ならば。罪は、償いたいんです。
 その「罪」とは。今日の聖書に出てきますことは、「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています(14)」。また、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています(18)」と、書いてありました。
 この世で、限りある肉の身体で生きていながら。この肉体を、神さまが造ってくださったということを忘れてしまうのが、「肉の人」ということです。
 自分の身体も、隣り人の身体も。身長を測ってもらうためにズラッと並んでいる2000人のサラリーマンの身体、その一体一体が、神さまが、神さまのお考えでお造りになったのです。日々の生活で、なかなか思うようにならない。自分と隣り人との間柄も、神さまが、神さまのお考えでお造りになったのです。そのことを忘れてしまうのが、「肉の人」ということです。
 そして肉の目では神さまは見えませんから。私ども、非常にしばしば、忘れます。神さまのお考えを、忘れてしまいます。
 それは、私どもの責任じゃぁ、ない。罪のせいです。だから、不仕合わせになっても。自分のせいじゃぁない、罪のせいだから、自分にはどうしようもない。そういう傍観者で居るしかなかった。
 そんな、神さまを忘れてしまう罪を、キリストさまが贖ったくださった。だから、神の似像である自分と隣り人を、いつも思い出していられる。それが、私ども救われた者の、新しい生き方だと思うのです。
 イエスさまがやって来て。お前の罪のために、私が死ぬ……と。十字架におかかりになることで、尊い神さまを思い出すことが出来る。思い出すだけじゃぁ、なくって。罪の責任を、自分で負って。自分で、悔い改めることが、出来るのです。

X.
 今日はお読みしませんでしたが。聖書には、キリストの血という言葉が、何度か出てきます。昔は、罪の贖いのために動物の血をとって、祭壇に振りまいた。その血では救われなかった私どもが、キリストの血によって救われたと言われます。
 「お前のせいだ、お前の責任だ、お前が悪い」と言われる、その「悪」、「悪さ」の裁きを。キリストさまが、代わって負ってくださって。実際に、血を流したんです。主が血を流したのは、歴史上の事実です。
 そのキリストの血に、私どもが信仰によって与ることで、救われます。
 神さまが、私どもに向かって、「お前が悪い」とおっしゃる。その、自分の悪さの責任を。罪のせいにするんじゃぁ、ない。信仰によって、キリストと共に十字架につけられることで。神に裁いていただくから。私どもは、新しく。神の似像である自分と隣り人を、思い起こしながら、過ごせるのです。
 礼拝は、そういう、キリストの血に与る場所です。

 礼拝に出ても。現実の生活が・いっぺんに変わることは、少ないかもしれません。礼拝に出て、わたしも隣り人も、尊い神の似像なんだなァ……って思い出しても。日々の生活に戻った時には、またウンザリしてしまうかもしれません。
 だけども、私どもがキリストに結ばれて、その血を注ぎかけていただいているということは。ウンザリしたとしても、そのウンザリに対して、無力な傍観者で居るのではない、ということです。
 ウンザリするのは、罪のせいじゃぁ、ない。自分の責任で。悔い改めることが出来る……ト。私どもが、主に結ばれているというのは。そういう希望があるということです。
 罪と無関係になって、世の中に放り出されるんじゃぁ、ない。罪を自分の責任として、尊い志を取り戻す希望が、ある。そういう希望を失わない……っていうのが。キリストに結ばれている私どもの、幸いな生きかたです。
 2000人の身長を測らされる、准看護師さんに喩えれば。朝、「『尊い志を思い出そう、精一杯の仕事をしよう』と、どうしても思わなくっちゃぁ、いけない」って自分に強いたら。それで毎日2000人の単純作業をやらされたら、自分が病気になります。ウンザリするのが、当たり前です。
 ただ、「ウンザリするのは、しょうがない」んじゃぁ、ないんです。「罪のせいだから、どうしようもない、尊い志はかえってこない、自分は一生涯ウンザリして過ごすんだ」って、そうじゃぁ、ないんです。「どうせ私はそんなもんだ」って、そういうことじゃぁ、ない。
 ウンザリしてしまう罪を、自分の罪として悔い改めて。尊い志に立ち返ることが、許されている。何度ウンザリしても、ウンザリしてしまう自分を愛しながら。しかし、これではいけない。隣り人を愛して、自分の人生を、清く、尊く用いようという所に……。キリストさまの贖いの故に、私どもは、いつでも帰って行くことが出来る。それが、キリストさまに結ばれているということだと思います。
 私どもは、そういう仕合わせな生き方に、ここで導かれているのだと思います。

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