2005年2月20日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

わたしの思いでなく

中世エチオピアの写本より



聖書研究
ローマ7章    中村栄光教会
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新約聖書【ローマの信徒への手紙 第7章19〜25節】






わたしの思いでなく

北川一明

T.
 「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている(19)」と言われて。ずっと、倫理や道徳のことを考えていました。
 頭では、正しいことを目指しているのに。欲望に負けて、悪いことをしてしまう。そういうのを、「望まない悪を行っている」と言うのだろうと思っていました。要するに、意志が弱い、だらしのないヒトの話しだろう……ト。
 それが、先週講談交換礼拝で高知教会に行きまして。礼拝後に、『高齢化社会を生きる』という……。「痴ほう」症のひとと、そのご家族のことを、65歳以上の男性のかたたちと話し合う機会をいただきました。
 痴ほうのお年寄りが、「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」という状態かもしれません。
 このごろは、「ぼけ」とか「痴ほう」に代わる言葉を探しているようですけれども。ただ「認知障害」では医学的にはドーノコーノと、いろいろ難しい問題があるようですので。今日は「痴ほう」という言葉でお話します。
 道徳に従わないで、欲望に従って悪いことをするのは。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」とは考えません。「やっちゃったゼ〜」位であることも多い。ですけれども、ウンチを手でつかんで壁に擦り付けたり、なんていうことは。本当に「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」という状態です。

U.
 ごみを集めてしまい込んだり、うんちを壁に擦り付けたりは……。本人は、マトモな意識が全くないんだから、しょうがない……かと言うと。決して、そんなことは無いと思います。
 もし、マトモな意識が全く無い、自己意識が無いというのならば。そのヒトは、身体は生きて動いているけれども、人格としては、もう居ないということです。
 そういうお年寄りは、危ないから……ト、いうので。ベッドに縛り付けるとか、鍵をかけてた倉庫みたいな病室に押し込むとか。周囲はそいういう発想になります。
 けれども、いわゆる惚けて、たとえばウンチをいじってしまうお年寄りが、人格が無くなったということは、決して、ない。惚ける前と同じ感覚ではないにしても。はっきり、そのかたなりの人格というものは、あるはずです。
 人格がアルということは。以前と同じ感覚ではないにしても。ウンチをいじって何も感じないのでは、ない。自分の「望まないこと」だという思いが、無意識下に残っているかもしれない。頭の片隅で、どんどん奈落の底に落ちて行くような気持ちを感じながら。顔だけ笑って、ウンチをいじっているのかもしれません。
 こんなことを考えますのは; 私をうんと可愛がってくれた祖母が、あります。孫の中で、アタシばっかり依怙贔屓のように可愛がってくれました。祖母が亡くなる、ちょっと前です。病院に寝たきりになっていたのですが。酷く惚けて、ひとの区別はつかない、何を言っても、何にも分からないと言われていました。
 お見舞いに行ったとき。確かに、何にも分からないんです。それで、「みんな自分に良くしてくれます、ありがたいです」って。そればっかりを言ってました。周りは、「良い惚けかたをしてくれた」」と言っていました。教会の言葉で言えば、いわゆる「感謝惚け」です。
 しばらく私と二人きりで居ました。
 祖母は、同居するお嫁さんとうまくいかないで、結局病院に入ったのですが。そのお嫁さん、私から言えば義伯母さんです。こちらは子供ですから。可愛がってくれた祖母の方が、正しいに違いない。あのオバサンが酷い、憎らしい……ト、思ってました。
 祖母は、惚けてしまって何も分からない。だから私は、半分独り言のように、オバサンの悪口を言っていました。
 そうすると、だんだん記憶が甦って来るんです。みるみる、「次第次第に面色変わり(『綱館』)」という風に、目がハッキリと憎しみの色になりました。それで何分か後には、頭は、その部分では完全に元の通り。私に止めどなく愚痴……愚痴というより嫁に対する呪いの言葉を吐き始めるのです。
 痴ほうが治ったのか、ト、びっくりした矢先に。看護婦さんが入って来ました。そうしたら、たちまち「みなさん良くしてくださいます、ありがとうございます」って。もとの痴ほうの状態に戻るのです。
 芝居でやっているとは、思えません。「おばあさま、本当のこと言ってください」って、肩をひっつかんで揺すっても、キョトンとしている……って。そういう風です。
 恨み続けていたら、自分が生きることができないから。自分のこころを守るために、惚けたんです。
 倫理や道徳のことも……。痴ほうと同じかもしれません。
 悪いこと、やったら自分が損をする……って。それが分かっていても、やってしまうヒトが、あります。自分を滅ぼすことが分かっていて、我慢出来ない。
 忍耐が足りないのは、本人が悪い……って、その通りです。
 だけど……。忍耐して、我慢して。堪え忍んで、悪いことを一切やらないで。そうやって我慢しているだけでは、自分のこころを守ることが出来ない時に。損をするのが分かっているのに、爆発しちゃうんです。自分を滅ぼすことが分かっているのに、やるんです。
 若者の場合は、悪いことをして。祖母の場合は、ウンチを擦り付けることは出来なかったから、頭がおかしくなることで、こころを守ったのかなァ……と、思いました。

V.
 そういう痴ほうの症状は、ずいぶん良くなります。ある意味、痴ほうは治療できます。
 高知教会で勉強して来たことをご紹介しますと……;
 痴ほうは、脳の組織が…=…脳みそが壊れるから起きることで。壊れた脳細胞は、回復しません。だから、そういう脳の器質変化は直りません。そういう意味では、痴ほうは治療できません。
 ただ、痴ほうには中心になる中核症状と。それに伴って出てくる随伴症状っていうのがあるんだそうです。
 幻覚を見たり、妄想を感じたり。うろつき回ったり、ウンチをもらしたり、ゴミをあさったり、ひとを攻撃したり……。周りはそういうことで困りますが。そういう症状は、全部、随伴症状、ついでに出てくる症状なんだそうです。
 中核症状、中心の症状は、記憶がよく出来ない。言葉も忘れる、身体がうまく動かせない……。そういう、症状です。
 どっちが、どっちでも、良いんですが……。脳組織が壊れるのが、痴ほうのいちばんの原因ですけど。こころにストレスを受けたら、痴ほうはいっぺんで、ずっと悪くなってしまう。
 そういう、痴ほうを悪くするようなストレスを受けた時に。随伴症状が酷くなって出てくるって、『信徒の友』に書いてありました。
 『信徒の友』を読まなくても。「老人ホームの方針によって入所者の健康が全然違う」なんていうことは、よく聞きます。ホームの考え方で、症状の出方が全然違う。
 若い人に当てはめて言えば。その若者に対する扱いの違いで、悪さのしかたが全然違う……。
 頭が衰えて行くのは、身体と一緒で止められなくても。こころを守ることが必要な時に、ひとは、攻撃したりウンチを擦り付けたりし始める。こころを守る必要がなければ。ひとを攻撃したり、ウンチを擦り付けたり、なんて、そんなことをする必要も無くって。そういう症状は、出て来ない。
 そういう症状があったひとでも、こころを守る必要が無くなったら、症状が減って行く。そういう意味では、痴ほうは治療できるんです。
 若い人でも。能力、経済力、環境、何かのハンディキャップを負っていて。小器用に生きることが出来ないヒトがあったとしても。そういうヒトが、こころを守る必要がなかったら。逸脱行為は、する必要が、ありません。不良を更生させることが出来るのと同じように、困難な面はありますが、痴ほうは治療できる。
 それを考えたら、私どもも同じです。一応不良じゃぁ、ない、たぶん惚けてもいない私でも、同じです。
 うまく行かない、失敗することが、あります。それでも、こころを守る必要がなかったら。へんに誤魔化したり、責任を転嫁してひとを攻撃したり、自分を無理に飾ったり、なんて。そんなことをする必要は、ありません。
 だけどもこころを守らなくっちゃぁいけないと感じる時に。聖書に書いてある悪いことを、してしまいます。「敵意、争い、妬み、怒り、利己心、不和、仲間争い」……って。聖書に書いてある悪徳を。実際に手はくださなくっても、こころに抱いてしまいます。

W.
 私ども、「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります(22、23)」っていうのは、そのことです。
 自分のこころを守らなくっちゃぁ、いけない。それで、弱い小さな人間は。苦しみつつ、こころに罪を重ねて行くんです。
 それで高知教会で。じゃぁ、教会がお年寄りにしてさしあげることが出来るのは、何か。世の中にはなく、ただ教会にあるものって何か……ト。そういう話しになりました。
 ご高齢のかたたちのこころを守るには、寄り添ってあげるのが一番です。話し相手になってあげるだけで良いんです……ト。『信徒の友』から、そういう話しになって行きました。
 退屈を紛らすために話し相手をする……っていうだけじゃぁ、なくて。『アルジャーノンに花束を(ダニエル・キイス)』っていう凄い小説がありましたけど。自分の知性が、今どんどん失われて行く。どんどん、訳の分からない恍惚の世界に入って行く。そのことが予め分かって、言いようのない不安と孤独を感じている。その不安に寄り添ってあげるために、隣りに居てあげるのだ……ト、いうのです。
 それなら青年会でも出来る……って。最初、そういうことでした。
 本当に、ただ話し相手になってさしあげるだけで、ずいぶんこころは守られます。
 ですけれども。そこは、さすがに長く信仰に生きてらっしゃるみなさんでした。そういうことなら、もう献身的にやってらっしゃるかたも、ある。だけど「それなら教会で出来る、青年会で出来る」って言うけれど。現実にやる所を想像したら、本当に出来るのか……。
 自分でやるなら良いんです。だけど……君たちはクリスチャンなんだから、老人の相手になりなさい。クリスチャンなら出来るはずだ、やるべきだ……ト。若者つかまえて、自分のためにやらせるのか。
 話題も、関心も、テンポも違う若者を捕まえて。無理矢理、老人の話し相手をさせる。私は昔やって来たから、今はやってもらう「権利がある」なんて言い出したら。みんな逃げ出します。
 クリスチャンだから、アレをしなさい、コレをしなさいって言われたら。若者じゃぁなくったって、誰でも、やんなっちゃいます。それは無理だろう……。
 それで、みなさんにお話ししたことがあります。
 「クリスチャンだから」とか、そういうことじゃぁなくって。脳の方もずいぶん衰えの始まった、あるお年寄りです。そのかたをお見舞いして、お話しを聞くのが、ちっとも負担じゃぁ無い。なるべく時間を作って、またお見舞いに来たいと思わされるかたに出会ったことが、あります。惚けるんだったら、こう惚けたいと思わされました。

X.
 まぁ、惚けたって言ったらご家族にも申し訳ない。随伴症状が見られなかったのですから。「全然惚けてない」と言うひとも、ありました。それでも脳の機能は、ずいぶん低下していました。
 福田正俊っていう、牧師で神学者だったひとです。
 ずっと前に引退していたのですが、私の研究論文に関係のあることを研究していた大先輩でしたから、一回おたずねしてみました。そうしたら、学問の方は、もう全然参考になりませんでした。記憶と認識力、判断力だけじゃぁなく、目も悪くなっていて本も読めないとこぼしてらっしゃいました。
 だから、ただ世間話ししか出来ない。それでも、お話ししていると、こちらが励まされるんです。別に「頑張ンなさいよ」とか言われるんじゃぁ、ありません。一生懸命身を正して生きようとしている姿勢に、励まされるんです。
 私どものこと、若いんだから忙しいに違いない。自分のような老人にかまっていたら、この若者の足を引っ張ることになりはしないか……って。神学の話しを聞くのは久しぶりで、懐かしいからもっと長く居てほしいのは見え見えなんですが。「帰らなくて良いのか、帰った方が良いんじゃないか」って。しじゅうそれを気遣ってらっしゃいました。
 私に対して、ご自分が役に立つ話しができるはずがない。もう学問のことでは提供できるものは何もない。だから引き留めちゃぁいけない……って、そういう風で。世間話でも、自分が同じことを何度も繰り返しや、しないか……。うんと気をつかってらっしゃるように見えました。
 ところが、そういう風ですから。老人ホームなんですが。そのかたの所には、ご家族はもちろんですけど。教会関係者で訪問が絶えないんです。
 ひとり暮らしのお年寄りをお尋ねするとなると。普通は、帰り際に引き留められるのをブッチ切って帰ってこなくっちゃぁいけません。こっちもこころの負担になりますから、おっくうで自然と足が遠のくことが多い……。
 福田先生は、こちらの時間を気遣ってくださるから。気楽に行ける。毎日何人か、訪れる。だからご本人も、お見舞いに来たヒトを何がなんでも引き留めようとはする必要がなかったのかもしれません。そうやって、良い方、良い方に回転していたのかもしれません。

Y.
 でも、そんな先生に励まされるのは、何か……。
 福田先生は、北川と話していて。ご自分が、話し相手である私の「役に立つ力がない」……。そう考えてらっしゃるんです。
 もっとも、卑屈になっている訳じゃぁ、ない。がっかり絶望して「自分は役に立たない人間だ」って、そういうお気持ちじゃぁ、ない。
 齢をとって。目が見えなくなり、耳も聞こえなくなり。本も読めない、礼拝説教のテープも、よく聞き取れない。頭も、昔と違って、全然回転しない。若いひとと話しをしても、自分が間抜けなことしか言えない。だから自分は、何の役にも立たない。
 それらのことを、全部……。そうなって当然だ、それは悪いことじゃぁ、ない。神さまの造ってくださった命の中では、今、自分にふさわしいことなのだ……と。そういう受け入れかたを、なさっているのです。
 それで、思い当たります。
 痴ほうの随伴症状で、困ったことをやってしまうのは。脳組織の機能低下よりも、こころのストレスが原因になる。何がストレスかって言ったら。お嫁さんとの人間関係だとか、なんだとか。表面は、そういうことが色々あるでしょうけれども。その本質は、自分の思い通りにならないっていうことです。
 お嫁さんが思い通りにならないよりも前に。自分自身が。記憶も、視力も、聴力も、運動能力も、認識力も、判断力も、感受性まで。何から何まで、以前と違って思い通りにならないっていうことが、何よりも大きなストレスです。
 しかし神が与え、神が取り去る、もともとは神さまからの贈り物なんだから。それらの力が失われて行って、だんだん死んで行くのは、当然だ……って。先生は、そういう所で不安や悔しさ、もどかしさを、信仰で乗り越えようとなさってらっしゃった。
 だからその分、ストレスが軽くて済む。自分のこころを、守れもしないのに必死で守ろうと苦しむことから、救い出されていたのです。
 私どもは、内なる人としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって、わたしを罪の法則の虜にしている。罪の法則っていうのは、神さまの思いにではなく、自分の思い通りにしたいという法則です。
 お嫁さんのこと以前に。自分の、能力のこと、生き方のこと。そういう全部を、神の思いを無視して、自分の思いを通したいのが、罪の法則です。
 痴ほうを持つお年寄りだけじゃぁ、ない。道徳を犯す若いひとでも、全く一緒です。自分の思いを通したくって。それが通らない世界だから。こころが傷ついてしまう。
 その傷つくこころを守るために。ある人は、惚けます。あるひとは、律法主義になって、律法を守って安心しようとします。ある人は、逆にわざと悪いことをやります。いずれにしても、そうやって余計にこころが脅かされるのです。
 ただ御心が成るように。そのことを願うことが出来たら、私どものこころは、脅かされることが、ありません。
 だけど欲が深くって、「御心が成るように」ト、そうは願えない。願えないで苦しんでいる私どものために現われたキリストの十字架は、何だったのかって言えば。御心は、なるということです。御心は、そこで成就されたということです。
 キリストとは、「御心が成るように」と、愛を示して、ご自身を献げた、そういう平安の証しです。

Z.
 私どもには、その十字架の霊が、注がれているのです。それで、礼拝で「御心がなりますように」と祈ることが……。今この時間、出来ているのです。祈れない私どもが、祈らせていただいているのです。
 福田先生は、老人だからって、同じことを繰り返さないように。うんと気をつけていました。その先生が、お見舞いに行くたびに必ず言った言葉があります。
 「この年になると、一日を生きるのが、大変なんですヨ」と。私と妻に、言うのです。それは、「もう疲れた、十分に生きたから、御許に召していただきたい」ト。そういうお気持ちも、確かにあった。かなりあったと思います。
 だけど、仮に今日一日生かされたら……。自分は、この若い人たちに対しては何の役にも立たないけれども。それでも生かしていただいたら、一日を、きちんと生きよう。朝から夜まで、与えられた一日を生き通そう……と。そういう決意というか、覚悟というか。そういうものも、感じさせられました。
 「自分は役に立たない」と思ってらっしゃる。そういう、自分が衰えて行くことを受け入れている。自分自身が思い通りにならないことを、受け入れてらっしゃる。そういうお姿を拝見するのが……。
 役に立たないどころじゃぁ、ない。「これが信仰なんだ」……ト。とても励まされるんです。
 ここに、不思議を、感じさせられます。
 ひとの役に立ちたいと願うのは、正しいことです。しかし俺は役に立つと思った時に、かえってひとを苦しめ。また思い通りにならないで、自分も苦しみます。
 けれども信仰者は、私は、何の役にも立たない。「それで良い」と思うことが、かえってヒトの役に立たされる。神は、無力をさえ用いて、役に立つものとし。本人と、周囲のひとに恵みと幸いを与えているたです。
 善を望むことで、苦しんで。さらに悪を為して苦しんでいた愚かな者を。神は、キリストによって根本からひっくり返して。無力な、しかし尊い者にしてくださっているのだと思います。

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