2005年2月27日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

あなたが手をとってくださるので

中世エチオピアの写本より



聖書研究
ローマ7章    中村栄光教会
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旧約聖書【詩編 第73編22、23節】
新約聖書【ローマの信徒への手紙 第7章21〜25節】






あなたが手をとってくださるので

北川一明

T.
 私どもは、キリストによって救われました。「救われた」とは、宗教の言葉です。普通の言葉で言えば、「神さまの力で、仕合わせにさせられた」ト、言えば良いでしょうか。私どもは、神から永遠の命を与えられ、信仰の平安を得ています。
 その信仰の平安は、特別な時だけのものではありません。毎日の生活の中で、平和で豊かな、祝福された過ごし方が、出来る。だから、普段から仕合わせである。それが、クリスチャンです。
 もっとも・それは、困った出来事が起きないというのでは、ありません。信じていても、困ったことは起きます。病気になって、身体が苦しいということは、ありますし。ひとから不当な仕打ちを受けて、不愉快だ、はなはだ不本意である、ト。そういうことも、あります。
 それでも; 神に守られていることを知っていて。自分のことを仕合わせだ、と……感じることが、出来る。私どもが信仰生活を続けているというのは。そういう仕合わせに、今も、導いていただいているということです。

 病気になった。ひとから不当な仕打ちを受けた。……そういう時、私どもは、どうするかと言いますと; たいていは、我慢するしかないのが実際です。
 病気でも、症状が軽ければ、我慢します。同じ我慢をするにも。クリスチャンならば、自分は神に愛され、守られているんだ……と。病床にあっても・それを思うことが出来ますから。信仰がないよりもずっと安心して、療養できます。
 ひとから不当な仕打ちを受けた時も。クリスチャンならば「自分だって罪深いんだ」と。「こんな罪深い自分のためにキリストさまは十字架におかかりになって、それで敵を愛せよと言ったのだから」と。やっぱり……なるべく我慢します。私どもは、信仰がないひとよりかも、ずいぶん忍耐しよいかと思います。
 しかし病気で、症状が非常に重い。死ぬことも、あるかもしれない……とか。ひとから受ける不当な仕打ちが、いくらなんでも度を超している。こっちは悪くないのに、もう堪えられない。そういう時です。
 キリストによって救われている……とは。そういう時でも、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」……と。今日の聖書の、ローマ書の言葉で言えば、「神に感謝いたします」と。そういう気持ちを取り戻すことが出来るのだと思うのです。

U.
 病気で、症状が非常に重い。死ぬかもしれない。あるいは、ひとから受ける不当な仕打ちが、いくらなんでも酷すぎる、これ以上は我慢が出来ない。そういう時です。
 そういう時。クリスチャンでも、やはりヒトを呪ったり。神を、運命を、恨んだり、呪ったりしたくなるかもしれません。自分の境遇や自分自身を、恨んだり、呪ったり、ひどく後悔したり、するかもしれません。
 そういう時、キリスト教は; 恨んじゃぁ、いけない/呪っちゃ、いけないト、教えます。なぜなら、主なる神は、生きておられるからです。主なる神は、生きて、私どもの全部を支配しておられるからです。
 病気になるのも、隣り人との関係に苦しむのも。それを神は天からご覧になっていて、ご存じである。神は、御子を私どもに与える程、私どもを愛してくださっているのですから。私どもに悪いようにするはずが、ない。
 たとえこの世で悪いことになったとしても。来たる世では、逆に良い報いを十分に受ける。全部、神の摂理のもとにあるのだから。ヒトや自分を恨んだり呪ったりしては、いけない。むしろ敵を愛しなさい。病気の痛みや、病気になった自分自身も、受け入れなさい。そうした時に、この世でも平安を取り戻すことが出来るのです……ト。
 それが、キリスト教の教えです。「教理」と言っても良いかもしれません。
 「救い」のためには、教理を知らなければ、いけません。
 ローマの信徒への手紙は、誰が書いたか、とか。イスラエルの歴史は、どんな風だった、とか。そういう知識は、あっても/なくっても。苦しんでいる時にも、神を信じて、自分の痛み苦しみを受け入れて、敵を愛し、敵のために祈るべきだ。そういうことは、知らないといけない。
 ヒトや/神を、平気で恨んだり呪ったり、していたら。それは信仰じゃぁないし。だから仕合わせでも、ないし。救いも、ありません。
 ただ、教理は、知っているだけでは、足りません。
 「キリスト教は、敵を愛するんだ」ト。それを知っているだけじゃぁ、仕合わせにはなれません。「教え」は実行しないと、意味がない……。
 ローマの信徒への手紙の7章が扱っていたのは、ずっと、この問題です。
 聖書の教えは正しくて、それを実行すれば、私どもは幸いを得ます。でも、実行するのは非常に難しい……。人間には出来ないことだというのです。
 病気で、症状が非常に重い。死ぬかもしれない。あるいは、ひとから受ける不当な仕打ちが、いくらなんでも酷すぎる、これ以上は我慢が出来ない。そういう時に。
 教えは知っている。受け入れなくっちゃぁ、いけない……ト、分かっていても。苦しいんですから、その通りには出来ません。

V.
 それでも私どもは、キリストによって救われている。キリストによって、仕合わせにさせられているとは、どういうことか……。
 苦しい時でも、こころの底から教えの通りにすることが出来るのならば。私ども、仕合わせなんです。しかしそれが出来ない。出来ない時、キリストを信じる者は……。7章をずっと読んでいて気づかされることです。信じる者は、神の教えを、たとえ実行できなくっても。それと、いつもきちんと向き合っているのが、分かります。
 信仰とは、それが出来ても/出来なくても。神の教えと、しっかりと向き合うことだと思うのです。
 病気で、症状が重くて、死にそうな時には。それでも神を信頼して。神の摂理を受け入れて。治っても治らなくっても、健康のために自分にやれることをただ忠実にやって、平安を保つ。それが、本来やるべきことです。
 隣り人が、敵になってしまった。いくらなんでも酷すぎる、復讐したい。そういう時には、それでも神を信頼して。キリストに倣って、われわれも敵を愛して、敵のために祝福を祈る。それが、本来やるべきことです。
 本来やるべきことが出来たら、平安を取り戻せるに違いない。でも、出来ません。
 出来ない時に……。しかし信仰とは、その、自分には出来ないその教えと、しっかりと向き合うということだと思うのです。

 神の教えは、尊い、聖なるものだ。神の御教えに従って、敵を愛すべきだ。でも、どうしても出来ない。そういう時に、それでも、その神の教えと、きちんと向き合ったならば。
 今日の聖書の言葉が、本当に出てきます。
 ひとつは、24節の言葉です。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」って、この言葉です。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか、誰も救えない」、こんな惨めな人間を救える者など、どこにもいない。
 偽善を捨てて、神の尊い御教えの前に、きちんと座った時に。私どものこころの中に湧いてくる思いは、「わたしはなんと惨めな人間なのか。私は救われない」っていう……ひとつは、絶望の言葉です。
 だけど、それだけじゃぁない。神の尊い教えの前に、きちんとひざまずいた時に、私どものこころに湧き上がってくる言葉は。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。けれども、わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」……って。
 最後に出てくる言葉は。この25節の、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」っていう、感謝の言葉……。主イエス・キリストを通した、神に捧げる感謝になるのだと思うのです。

W.
 御教えの前にきちんと座って、それと向き合うっていうのは。要するに「祈る」っていうことでしょうか。
 神の教えを「本当に守る」のは、難しくって、到底出来ない。けれども、神の教えときちんと向き合うのだって、相当難しいです。本当にきちんと祈るっていうのは。それだって、簡単じゃぁありません。
 私ども牧師、伝道師は、言ってみれば祈るのが商売みたいなモンですが。それでも、きちんと時間をとって、自分のこころを全部、神さまの方に広げて。それでしっかり祈るっていうのは。相当難しくって、なかなか出来ません。
 それを、たとえばお勤めのかた。朝、何時までに出勤しなくちゃぁいけないというかたが。神の御教えの前に、きちんと座って。まじめに、十分に祈る……っていったら。そりゃぁ、大変です。
 だけど、それをやらなかったら。信仰が、意味がなくなっちゃいます。それで一大決心をして。「ちゃんと祈ろう」と。誰もいない静かな環境を整えて、時間も十分に用意した。それでも神の教えと向き合うのは、なかなか難しいです。
 神の教えは、厳しいからです。厳しく、私どもを裁くからです。われわれ自身の罪を、暴き立てるからです。

 酷い病気で苦しんでいる時。敵から酷い目に遭わされている時。そういう日の朝、目覚めて。今日一日を始めるに当たって、祈ろう……ト。そうしたら、どう祈るでしょうか。
 ただ「病気を治してください」とか。「あの連中を滅ぼしてください」とか祈るのならば。それじゃぁ神の教えと全然トンチンカンです。
 祈るべきは; 病気だったら、たとえば「今日の苦しみが、かえって信仰の糧となりますように」……とか。そんな祈りなら、良いかもしれません。敵から酷い目に遭っているのならば、「この憎しみが、キリストさまの力によって、愛に変えられますように」とか。そういう祈りかもしれません。
 正しい祈りの言葉を思い浮かべた時。私ども、気づかされます。
 そういう、神の御心の通りに生きたいと思いながら。しかしそういう「自分には、いつも悪が付きまとっている(21)」ということに、気づきます。
 キリストの御教えの通りに生きれば、自分を仕合わせに出来るのです。だから、そう生きたいのです。私どもの心には、そういう聖い生き方を求める、尊い心の法則があります。けれども「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしている(23)」のです。
 それで……「今日の苦しみが、信仰の糧となりますように」なんて。それよりも、即、病気を治してほしい。そう祈ってしまいます。「敵を愛せますように」なんて祈りながら。こころの中では、「あいつらには罰が当たれ」と考えてしまう。「自分には、いつも悪が付きまとっている(31)」んです。
 私どもを苦しめている本当の原因は、この、罪の法則です。
 病気も、酷いことをしてくる敵も、私どもを苦しめる、具体的なコトですが。本当の原因は、自分の罪です。一方で、尊い、聖なる生き方を知っている。だけど肉の思いが、そういう自分を分裂させているのです。

X.
 心の法則と、罪の法則が、自分を二つに引き裂かれている。そういう経験は……。私、教会に入れてもらいたいと思った、ちょっと手前の頃の自分を考えると。当時は分かりませんでしたが、今は、少し分かります。心の法則と罪の法則に、引き裂かれていました。
 死ぬまでの間、何をして生きるのか。何をするのが、意味があることなのかと考えたら。生活費を得るために会社勤めをする気には、なれませんでした。キリスト教の側にいて、キリスト教から、しじゅうそういう……。人間とは何か、みたいな根本問題を問われていたからだと思います。死ぬまでの間しか生きれないんだったら、うんと意味のある生き方が、したい。
 意味のある生き方とは何か……って言ったら。「自分」というものを表現して、「自分」というものを分かってもらって、それを世の中に残して行くことかなァ……と思いました。
 そういうことは、昔は二十歳前後の文学青年が考えていたんですが。このごろは、子育てが終わったお母さんや、定年退職したお父さんが考えるんだそうです。
 ただ、シニアのお父さんお母さんがたは、お金があるもんだから。あんまり突き詰めて考える前に、お金を使って気を紛らしちゃって。それで、なかなか思想が深まらないんだそうですけど。幸か不幸かカネがなかったもんで。意味があるのは「自分」を精一杯に表現して、分かってもらうこと……かなァと思いました。
 それで一生懸命、いろいろなことをやってみました。「それで演劇をやったのか」って聞かれますたけど。演劇よりもむしろ、最後は、たとえば飲んだくれて道ばたでひっくり返ってどうなるか試してみる、とか。生き方自体で表現しなくっちゃぁいけないと思って、あらゆることを試したんですが。どんなにやっても、十分ということは、ありません。
 死んで消えて無くなる人間が、それでも意味があるために表現する「自分」なんて。芸術でも足りません。
 ピカソが、ひとを感動させる芸術を、たくさん残しましたけど。ピカソ本人は死んじゃってんですから。ピカソの作品は、本人にとっては今や何の意味もありません。
 意味のある生き方が、したい……。それは正しい欲求だと思うんですけど。そんなものを追い求めれば追い求めるだけ、人間には、それが出来ない……って。それを思い知らされるのです。
 勧められて読んだ、和光大学の岸田秀っていう人が。「人間には、自己実現なんて、無い。それを暴き立てるような文章を出版して。それで一時、自己実現したような気分になって安心して。またしばらくして、どうしようもなくなって同じことを書き始めるんだ」みたいなことを言ってました。
 「惨めな大人だなァ」と思いました。「死」に縛られている岸田秀は、どうやったって救われない。……だけど岸田先生だけじゃぁ、ない。わたしも「なんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と感じました。
 何とか意味のある生き方がしたいって、尊いものを目指している自分と。絶対にそこへは行き着けない実際の自分とに、いつも、引き裂かれているんです。

Y.
 ひとは、それに苦しみながら……。しかし多くのヒトが、それとは気付いていません。お金を使って気を紛らしている。
 私どもクリスチャンは、それに気が付いています。気が付かされている。キリストの御教えと、きちんと向き合った時には。それを、思い知らされるのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と、神の裁きによって、思い知らされる。
 そして、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と。自分でそう告白できた時に。今度は救いが分かります。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」っていう、キリストさまのありがたさが、分かるんです。
 キリストさまが、本来の生き方を取り戻してくださったからです。目指している自分と/実際の自分と、バラバラになった人間を、取り戻してくださったのです。「この世で」というよりも、「神さまの前で」取り戻してくださったのです。

 人間は、神さまにとって、いちばん尊い神の似像として造っていただきました。尊いばっかりに、うんと意味のある生き方に憧れて。正しいことを、目指してしまう。自分で目指して、目指していることと自分自身と、引き裂かれてしまうのです。
 だけど、尊い、意味のある生き方とは。尊い神の似像なんですから。神に倣った生き方です。
 それは、自分で何かを目指すというよりも。自分を献げて、愛に従う生き方です。「愛」なんですから、何か大きなことを目指すんじゃぁ、ない。逆に、小さなもののために自分を犠牲にするような……。そういう、神のもとで、御教えの通りの生き方です。
 何とか自己実現をしたい。命を賭けても何かがしたいと願って、あらゆることを試しているつもりだった時。そういえば、試してなかったことが、あります。自分を犠牲にしてでも「愛する」ってことは、やりませんでした。
 神の律法と向き合わされた時。自分にはそれが足りなかったと知らされます。けれども、自分にはそれが出来ないとも、知らされます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」
 この人間のために。神が、ご自身を献げて。私どもの代わりに、本当の生き方をしてくださいました。「神の摂理を受け入れて、愛する」という、本来の生き方を。私どものために、私どもに代わって、してくださったのです。
 それで……今や、私ども。このキリストにつく限り、御教えと、しっかり向き合うことが出来るのです。
 岸田秀さんが、キリストを拒んでいるのなら。自分に問わなければいけません。意味のある生き方が出来るかどうか。自己実現できるかどうか。それを自分でやろうと思っているのならば。出来るか/出来ないか、問わなきゃいけません。
 自分に問えば、答えは「否」です。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と言わざるを、得ない。
 けれども私どもには、その先があります。キリストさまが、代わってしてくださったんです。だから、出来るかどうかを問う必要は、もう、ない。ただ、そういう尊い生き方がしたい……と、願えば良いのです。

Z.
 酷い病気で苦しんでいる時。敵から酷い目に遭わされている時。自分を神に捧げて、愛に捧げて、キリストのように生きれば、仕合わせになれます。
 じゃぁ苦しんでいる時、辛い時、きょう一日を、どう生きるんでしょうか。キリストのように生きることが、出来るか/出来ないか。問うのでしょうか。それを問えば、出来ないと分かっている。じゃぁ、問うこともやめてしまって、気を紛らせて一日を終わらせるのでしょうか。
 私どもは、どちらでもない。キリストについた者なのですから。酷い病気で苦しんでいる/敵から酷い目に遭わされている、そのことを携えて、神の御前に座ります。
 そして、「今日の苦しみが、かえって信仰の糧となりますように」と。あるいは「この憎しみが、キリストさまの力によって、愛に変えられますように」と……。自分の力では、決して祈れない。そういう「惨めな人間」であるから。キリストさまの力を得て、そう祈りたい……。
 私どもは、そう願って、毎日を生きることが出来るのです。

 「苦しみが、糧になりますように。憎しみが、愛になりますように」と祈ることをも拒んでしまう、この私を「キリストさまによって変えてください」と願って過ごす一日は。苦しみの中でも、憎しみの中でも。昔とは違う、新しい一日です。
 苦しみの中でも、憎しみの中でも。永遠の天国に、なんとか続いて行っている。そういう新しい、今までとは別の、一日です。私どもクリスチャンは、日々、そういう天国に繋がる生活を、世にあって与えられているのだと思います。

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