2005年3月6日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

世界が変わって見えるとき

ペンダントイコン



聖書研究
ローマ8章    中村栄光教会
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新約聖書@【ヨハネによる福音書 第15章16節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第8章1、2節】






世界が変わって見えるとき

北川一明

T.
 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と言って。今日からローマの信徒への手紙が、新しい章に入ります。
 われわれ「キリスト・イエスに結ばれている者」は、罪に定められることはなく、罪と死から、解放されている……ト、言われます。
 前の7章まで、「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかった(7)」「罪が生き返って、わたしは死にました(9、10)」「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています(14)」「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう(24)」……って。ずっと「わたしは」「わたしは」「わたしは」って、暗いことばっかり言っていました。
 それが、今日のところから……。「罪と死との法則から『あなた』を解放したからです(8:2)」って、語調が全然変わります。急に読者の話になります。
 この手紙の読者は、「罪と死」から解放されている。それは私どもが、「キリスト・イエスに結ばれている者」だからです。

U.
 世の中で、「死」ほど恐ろしいものは、ない。「死」が、人間にとって最大の脅威なのだとすれば。「キリスト・イエスに結ばれている者」は、その「人類最大の脅威」から、既に救い出されているのです。
 それ故でしょうか。私は「キリスト・イエスに結ばれている者」なんだ……ト。自分のことを、そう考えた時に。この世界が全然違って見えて来る。……そういうことが、あります。
 信仰が、自分のことを仕合わせにしているのを実感するのは。洗礼を受ける前と、この世界が全然違って見えた時です。この世界が神の御国であるト、本当にそう見えて来た時です。
 そういう時、神さまから信仰を与えていただいたことが。本当にありがたい……ト。実感することができます。
 そして・それは…=…、この世が神の国であることが分かるのは。やっぱり、自分が「キリスト・イエスに結ばれている者」として。それにふさわしく生活し始めた時です。そういう時、実際、世界が違って見えてきます。
 自分が「キリスト・イエスに結ばれている者」として、日々、振る舞おう……なんて言ったって。もちろん、キリストさまと同じことをやろうと思っても、出来ません。
 私どもは、「キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けた(6:3)」と、聖書の前の方には書いてありました。洗礼を受けただけで、もうキリストさまに結びつけられています。だから、無理してキリストさまと同じことをやんなくても良いのかもしれません。
 ただ、キリストに結ばれている以上。それにふわさしく生活しようと志したならば。私ども、どうしたってキリストさまだったら、何をするか。イエスさまならどう振る舞っていたかということを、考えます。
 世界が変わって見えるのは。「こんなとき、キリストさまだったら、どうしていただろうか」と、そういう発想を与えられた時だと思うのです。

V.
 日々、ちゃんとお祈りしてれば当たり前のことですけども。「こんなとき、キリストさまだったら、どうしていただろうか」と、思わされます。そのとき私どもは、いわばキリストの目で、世界を見ます。
 こころは変わっていません。急に立派なひとになったワケでは、ありません。ですから同じ行ないは、出来ません。
 それでも、「こんなとき、キリストさまだったら、どうしていただろうか」ト。そういう考えかが出来るだけで。ものの見方が全然違うのですから。私どもを取り巻く世界は、すっかり変わって見えて来ます。
 ヒトが自分に対して悪いことをして来た時。あるいは、弱い者に対して悪いことをしている時。私ども、自分が正しい、ヒトが悪いと思って、腹を立てます。
 イエスさまも、そうでした。怒って神殿のテーブルをひっくり返したこともあります(マルコ11:15以下並行)。ご自分が直接の被害者でなくっても。わざわざファリサイ人や律法学者を捕まえて、喧嘩を売ってまわったことも、あります。
 イエスさまも「ヒトが悪い」と思った時には、正義を主張したし。怒って暴れました。キリストの目で世界を見るとは。悪いことに目をつぶることじゃぁ、ありません。
 けれどもイエスさまは……。ファリサイ人とか、律法学者とか。そういうヒトたちのことを、憎むことは、しなかったように思います。
 イエスさまが怒ったのは、ヒトが自分に対して悪いことをして来た時では、ありません。ヒトが、神に対して罪を犯している時でした。
 ヒトが自分に対して悪いことをして来た時には。イエスさまは悲しみながら、十字架にかかりました。
 これは、普段のわれわれとは全然違います。
 私どもは、ヒトが、神に対して罪を犯している時、怒りません。信仰がなければ、なんとも思いません。信仰深いヒトでも。せいぜい「貧しい生き方をしているなァ」……ト。「あれじゃぁ本当の仕合わせは掴めないゾ」ト。そうやって考えるのが、せいぜいです。腹を立てるのとは違います。
 腹が立つのは、自分が被害者になった時、自分がソンしている時です。そして・そういう時は、きまって相手を憎みます。
 ですから……普段の私どもは。イエスさまとは、ちょっと違います。

W.
 私どもが、イエスさまと同じように振る舞う時って、あるでしょうか。
 誰かが、神に対して罪を犯していたら。厳しく怒る、本気で怒る。だけども、そのヒトが自分に対して悪いことをして来たら。悲しみながら、そのヒトの罪を、全部自分がひっかぶって、赦してしまう……。私どもが、そんな風にイエスさまと全く同じように振る舞う時って、あるでしょうか。
 「絶対にない」ってワケじゃぁ、ないかもしれません。うんと信仰深くって。その上、相手のことをこころから愛しているなら、そうするかもしれません。
 相手を、自分のこと以上に愛している時です。その愛する者が、神に対して罪を犯していた。そうしたら、厳しく、本気で怒ります。その、愛する相手のために、本当に怒ります。
 うんと愛していたら、いちばんに願うのは、相手のことです。
 ですから、その愛する人が自分に対して悪いことをして来て。それでもなお、相手を愛し続けていたら。悲しみながら、全部、その悪さをひっかぶって。相手のことは、赦すかもしれません。
 イエスさまのなさったことは、そういうことでした……。

X.
 「こんなとき、イエスさまだったら、どうしていただろうか」と思うのは。ヒトから厭な目に遭わされた時だけじゃぁ、ありません。
 病気で苦しんでいる時も、そうかもしれません。
 死に瀕した時。そういう時にも守られて、導かれたら。「イエスさまだったら、何て祈っただろうか」って、考えるかもしれません。
 「こんなとき、イエスさまだったら、どうしていただろうか」と思うのは。そういう時だけじゃぁ、ありません。ヒトから厭な目に遭わされた時と、自分の病気や死に苦しんでいる時だけじゃぁ、ありません。
 誰かが困っている、苦しんでいるのを、傍で見ちゃった時も、そうです。
 ヒトが苦しんでいるのを、たまたま見つけた。助けれるんだったら、助けます。私ども、わざわざ教会に来ている位ですから、もともと・そんなに悪い人間じゃぁありません。助けれるなら助けます。
 だけど、自分を酷く犠牲にしなければ、助けることが出来ない。自分を本当に犠牲にすれば、それで、どうにか助けられる。そういう時には……まぁ、基本的には、「私には助けるだけの力がない」と。『善きサマリヤ人』の譬えに出てくる祭司やレビ人を決め込みます。
 けれども、ちゃんとお祈りしていたら。「私に助ける力はありません」で、済ませられなくなります。「こんなとき、キリストさまだったら、どうしていただろうか」……ト。どうしても、そんな厭なことが、思いついちゃいます。
 そういう時。私どもは、イエスさまのなさった通りには、なかなか振る舞えません。
 死に瀕した時。それを神の御心と思って受け入れることは出来ませんし。自分を犠牲にすればヒトを助けられる時。自分を惜しみなく献げることは、できません。まして、悪いヤツが悪いことをしかけてきた時。相手のために、神に対する罪を本気で怒りながらも、相手のことは、すっかり赦す……なんて。ちょっと、とうてい、とんでもありません。

Y.
 「イエスさまだったら、どうしていたか」ト。そういう尊い思いがこころに浮かんだとしても。私ども、その通りに出来るワケではありません。
 「イエスさまだったら、どうしていたか」ト。深くそれを考えたなら。私ども、自分の罪を、思い知らされます。
 けれども、今日の聖書ですが……。そんな私どものために書いてあります、「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。
 「祈る」というのは。神さまの前に出ることですから。「祈る」っていうのは、そんな暢気な……手放しで楽しいものとは限りません。神の御前に出るのですから。祈れば、どうしても……。自分の罪が、明らかになります。
 私ども、イエスさまのように正しく生きることは、出来ないんです。
 「こんなとき、イエスさまだったら、どうしていただろうか」と思うのは。私どもの愛の足りなさが、明らかになってしまう……。罪が、明らかになることです。
 それでも、そんな私どもが、キリスト・イエスに結ばれているのならば。イエスさまの通りには振る舞えなくても。「罪に定められることは」、ない。
 だって本当にまじめにイエスさまの通りに振る舞おうと思ったら。私ども、パニックになります。世の中には、本当に酷いヒトが、あるからです。
 「どうしてこんなヒトが居るの」って……。「よくも平気で、こんなことがやれるナ」っていうヒトは、あります。そりゃ、愛せません。

Z.
 ……以前、こういうヒトに出会ったことが、あります;
 聖書とキリスト教に尊敬を抱いていて。「もっと勉強したい」と、アタシの所に来てくださいました。毎週々々きちんと熱心に学んでいたので。近い将来、洗礼を受けるのかナと、思ってました。
 ある時、です。ルカ福音書の16章を読みました。
 今の聖書では、「不正な管理人の譬え」という見出しがついています。主人のお金を誤魔化した管理人が。クビになる前にもっとズルをして、逃げをうっておきました。そうしたらイエスさまは、その不正な管理人を裁くどころか、かえって褒めてやったという話しです。
 そうしたら、その方。誰か思い当たるヒトがあったのでしょうか。「これはおかしい」と、いきなり気色ばんで。こんな不正を許しているキリスト教はおかしいじゃぁないか……と。その時以来、勉強に来なくなりました。
 私どもも、そのかたの考えは、良く分かります。
 インチキをして、自分が得をしているヒトとか。キリスト教が、そういうヒトを褒めそやしていたら、「それはおかしい」と。そんな不正を許すのはおかしい。だからルカ16章の不正な管理人の譬え。イエスさまが褒めちゃうのは、絶対におかしい……。私どもにも、そういう気持ちは、あります。
 まして、主がそんな悪いヒトを愛するのならば、そんなの厭です。「愛さないでほしい、赦さないでほしい」と感じます。
 だけどその一方で。主が、誤魔化しを一切お赦しにならないのなら、どうなったか。私どもは、それも知っています。
 主が、罪人を赦さないで、愛さないで、怒るのならば。私ども、自分が赦されないことを、知っています。
 絶対に赦せない、赦すべきでないという悪いヤツが、いたとして。赦せないなら、どうするのか。憎み続けるのか。
 その絶対に赦せない悪いヤツが。私に対する加害者だったらば。主がそのヒトを、赦して、愛したのは、悔しいです。妬ましいです。
 私に対する加害者のことは、全員罰してほしい。だけども、罪人は、全員罰する。イエスさまでさえ、罪人のことは、愛さない。憎むのが正しいことなのだとしたら。私ども……自分が、愛されない。神に愛してもらえない人間です。

[.
 こんなとき、イエスさまだったら、どうしていただろうかと考えて。イエスさまと同じように振る舞おうと思ったって。所詮は無理です。憎い加害者は、愛せません。私どもには、イエスさまほどの愛は、ありません。
 そんな私どもは、裁かれるのかと言いますと。裁かれません、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。だから、イエスさまと同じに振る舞えなくったって、良いンです。
 神が、罪に定めないのに。自分が自分のことを罪に定めたってしょうがない。どうせ赦されているんだから、憎んだって、構わない。
 ただ、イエスさまだったら、どうしていたか。「そんな相手のことも、愛していた」と思ったら。私ども、悔しい、妬ましい。
 いっくら主は愛したって。そうだとしても、私は相変わらず憎むのですが。断固、憎み続けるのですが。……ただ憎むだけではありません。
 その同じ愛で、私ども自身が赦されたことを思ったら。イエスさまは愛しているのに、自分は憎んでいる。大いばりで憎んでいる。……それは、悲しい……悲しむべきことです。
 加害者を愛するなんて、出来ません。でも、愛せないことは、悲しいことです。
 無理して、自分を騙して。愛していることにしたって、しょうがない。愛せないもんは、愛せないんです。だって相手が悪いんです。憎んで当然です。こっちは正しい。相手が悪い。愛せないし、愛さないのですが……。
 主が愛しているヒトを、憎んでしまう自分は。いくら赦されていても、残念です。悲しいです。

\.
 そうやって祈って。自分の愛の足りなさを思い知らされて。悪いヤツのことを愛せない。そんな自分を嘆いている時。私ども、自分が新しい世界に引き入れられていることに、気付かされます。
 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう(7:24)」と嘆いている時。キリスト・イエスに結ばれているからこそ嘆くことができる、自分の愛の足りなさを嘆いている時。私ども、自分が新しい世界に引き入れられていることに、気付かされます。
 そのとき私どもを支配しているものは、もう妬みや憎しみじゃぁ、ありません。愛です。
 キリストの愛が、私どもを支配しているから。私どもを動かしているから。だから私ども、自分の愛の足りなさを嘆くことが出来ているんです。
 「こんなとき、キリストさまだったら、どうしただろうか」ト。そう考えるのは、「祈り」です。祈ったら、自分はキリストと同じには振る舞えない。「自分は、キリストにはなれない」という当たり前のことを、思い知らされます。
 それは悲しい。
 悲しいのですが。悲しむ者は、幸いです。悲しむべきことを悲しんでいるのです。愛に動かされて、悲しんでいるのです。もうキリストの愛に生きる者に、変えられているのです。

].
 「こんなとき、キリストさまだったら、どうしただろうか」ト。そういう見方で世界を見た時。つまり、私どもが、祈ることが出来た時。世界は変わります。
 憎い敵を見る目が変わるだけじゃぁ、ありません。自分を見る目が、変わります。
 こんなとき、キリストさまだったら、どうしただろうか。
 どんな時でも、愛したんです。敵のことも、です。隣り人のことも、ですけれども……。それより前に、誰よりも。この私のことを、愛してくださったんです。
 私ども、もちろん……キリストさまのようには、振る舞えません。私ども、誰もキリストには、なれません。私ども、みんな、罪と死に支配されています。
 しかし私どもは……。行ないにおいては、そのままで。肉の身体は罪に支配されたままで。しかしキリスト・イエスに結ばれる者に、されました。
 だから、もう罪に定められることは、ありません。罪と死の法則から解放されて、もう愛の法則に、支配されているのです。
 後、私どもに必要なことは、何か。「こんなとき、キリストさまだったら、どうするか」ト。自分に出来るか/出来ないかじゃぁ、ない。自分がキリストに成り代われるかどうかじゃぁ、なく。ただ、主キリストさまだったらどうしていたか。
 敵のこともそうだけれども、私のことも、愛してくださった。また、逆に。私のこともそうだけれども、敵のことも、愛していた……ト。
 そうやって、「こんなとき、キリストさまだったら、どうしていたか」ト、祈ること。それだけが、あと、私どもに必要なこと……。「キリスト・イエスに結ばれている者」としてふさわしい、為すべきつとめだろうと思っています。

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