2005年3月13日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

そのとおりに実行するなら、幸いである

ペンダントイコン



聖書研究
ローマ8章    中村栄光教会
説教集へ

新約聖書@【ヨハネによる福音書 第13章3〜17節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第8章3、4節】






そのとおりに実行するなら、幸いである

北川一明

T.
 洗礼を受ける前後の頃ですが……。聖書も、特に福音書を一生懸命読んでいました。イエスさまのなさったこと、またキリストの弟子たちのやったことを読みながら。信仰を持って生きるとはどういうことか、考えていました。
 そんな中で……。「教会で、こういうことが出来たらなァ」と、憧れていたことが、あります。
 受難週……今年の場合は、来週一週間ですけど。受難週にはパンと水だけ、とか。そこまでは出来なくても、質素な食事をしまして。その間、教会に、毎日通う。それで礼拝堂に静かに座って、延々、ただ聖書を読んで、黙祷する……。そういうことがやってみたいと思いました。
 当時は仕事をしていましたから。夜、飲みに行くのも、仕事のうちです。それを「今週は受難週だから」って誘いを断わって祈りに行くと、ちょっと誇らしい気持ちになれます。
 その程度は、やらなかったワケじゃぁ、ありませんで。そこから先が憧れです。今のところ憧れに終わっているんですが。
 キリストさまが十字架にかかる前の晩。最後の晩餐をやった、木曜日は、「洗足木曜日」と言われています。大きな教会……特にカトリック教会では、いつも勝手に礼拝堂に祈りに来るひとがあります。特に受難週は、行事がなくても集まります。
 その木曜日は。教会にやって来るかたたちの足を、たらいに入れたお湯で洗ってあげる。そういうことが出来たら良いなぁと憧れていました。
 イメージをもうちょっと具体的に言いますと。洗足木曜祈祷会は、祈祷会って言っても、無言です。次々に人が集まってきますけど。沈黙と静寂を重んじる修道院の伝統で。一切無駄口はたたきません。
 礼拝堂の入り口で、先に来たひとが、後から来たひとの足を無言で洗ってあげる。幾人かに対して奉仕を済ませたひとから、勝手に礼拝堂に入って。聖書を読んでお祈りする。そういうことを想像していました。
 どうして足を洗うかって言えば。イエスさまが「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と、おっしゃったからです。現代社会でこれを本当にやったら、非常識かもしれません。それでもやりたかったから、憧れでした。

U.
 一週間、毎日教会に通って。キリストが十字架で苦しんだことを考えながら、黙って聖書を読んでいたら。自分の罪に、こころが痛んでくると思うのです。
 静かに祈るのですから、いちおう、こころも静かです。自分の罪に「居ても立ってもいられない」っていうような、落ち着きのない後悔じゃぁないですけれども。自分の罪に、身体の一番奥の、身体の芯から溜め息が漏れてくるような……。そういうこころの痛みがつのってくる。跪いて、悔い改めを祈りたい。
 そういう気持ちで跪いた時に。目の前に誰かの足があって、洗わせてくれるなら。言葉を口に出すよりももっと良い祈りになるかもしれません。そういうのに憧れていました。
 でも現実に、具体的に考えたら……。どうせ無理だろうと思いました。
 イエスさまが、「互いに足を洗い合わなければならない」とおっしゃっているのに、どうして無理か。
 やるだけだったら、やれますけど。日本の教会だと、すぐにただの儀式になっちゃいます。
 どこかの教会で、洗足木曜日には全員が足を洗い合うなんていうことになったら。みんな自分の足をピッカピカに磨いて来ます。洗ってくれる相手に、決して不愉快な思いをさせないように。汚れているから洗うんじゃぁ、ない。綺麗な足を洗わせる。そういう、ただ上辺だけの儀式になってしまうと思います。
 実際に自分が参加することを考えると、そうです。こちらが洗うのは、良いんです。みんなが厭がる仕事をして。汚いとしても、一時ですから。それが悔い改めのしるしになるなら、洗う側は良いのです。
 だけど、たとえば神学校時代の松永希久夫学長とか、説教塾の加藤常昭先生とか。そういうヒトに、洗ってもらうことが出来るのか。
 仕事してましたから。一日、靴はいて働いて。帰りがけに教会に寄ったら。松永先生、加藤先生が「ちょっと、その足、洗わせてください」って、アタシの前にかがみ込んだら、どうか。アタシの足を持って靴を脱がせようとしたら、どうするか。
 私の汚い足に、触れてほしくありません。「ちょっと先生、やめてください」って、ペトロの気持ちが、良く分かる。「あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。わたしの足など、決して洗わないでください」って。どうしたって、そう言いたくなります。
 「自分もキリストの言いつけを守りたい」って先生がたに言われたら。「どうしても奉仕したい」って言われたら。「分かりました、先生。それじゃぁその前にちょっと自分で洗って綺麗にして来ますから」……って。「それじゃー意味がネーだろー!」って叱られちゃいます。

V.
 キリストの信徒であるからには、ひとの足を洗ってあげなくっちゃぁ、いけない。私ども、そう思っています。
 確かに、人のためには何にもやんない、ひとに足を洗わせてふんぞり返っていては、いけません。クリスチャンなら、ひとの厭がる仕事も進んでやるべきです。
 けれども。汚いことでも、ひとが厭がることでも。ある覚悟を決めてしまえば、出来ないことでは、ない。出来ます。トイレの掃除。誰が使ったか分からない、汚れたトイレを掃除するのは、厭です。厭ですけど、やろうと決めたら出来ます。
 それよりも。この時イエスさまがおっしゃったのは。ペトロに対して、洗ってもらう側になりなさい。そうした時に、かかわりを持つと言うのです。
 イエスさまの当時。足を洗うのは、奴隷の仕事だったそうです。そう言えば、奴隷に命令するんなら、できます。「これは、お前の仕事だ」って、やらせるのなら簡単です。
 病院に入院していて。個室ベッド代は、払っている。いちばん上等な特別室にいる。院長先生ともタメ口きいているような立場で。若い子をつかまえて、身体を拭いてもらうのだったら、できるかもしれません。
 「こいつは私のために奉仕すべき人間だ」と。そんな風に、低く見ている相手に対してなら、威張って何事かをやらせることは、できる。それが、偉いヒトがしゃがみ込んで、私の靴下を脱がしにかかったら。急に恐縮してしまう。
 だけど、かかわりを持つようになるのは。尊敬する主に、足を洗ってもらった時です。
 言われてみれば……。尊敬する相手が。一文の得にもならないのに。ご自分の手を汚して、本当に物理的に、汚い、臭い、厭な仕事を引き受けてくださった。それが、私のため。私の汚れのためだったならば……。
 身をかがめて、ただ黙々と奉仕をしている姿を拝見した時に。その相手と自分の関係は、変わります。本当に「かかわり」を持つようになります。

W.
 厭な仕事、汚い仕事を、奉仕としてやるのも、もちろん容易ではありません。けれども、もっと、どうしても出来ないのは……;
 自分の弱さを、みなさんの前に広げて。進んで広げて。その自分の弱さ、醜さを、ヒトに受け入れてもらおうとすることです。
 ひとから「汚いから厭だ」と思われながら、洗ってもらうのは、厭です。汚いのが本当だったら、なお、厭です。自分でも臭いくらいだったら、たえられません。
 病気に入院している時。汚い仕事を、しょうがない、看護師さんにやってもらうかもしれません。
 そういう時、ある患者さんたちは。虚勢を張って、威張ります。看護師さんや、自分の身内に、威張り散らして、奉仕させます。恥ずかしいもんだから威張るんです。
 私どもクリスチャンは、そんなことは、いたしません。相手が若くたって、茶髪だって。「こんな厭なことをさせて、申し訳ありませんネ」って、相手を思いやります。気の毒だから、なるべくだったらヒトの世話になりたくない。
 どうしても、ヒトを頼らざるを得ない時は、「病気なんだから仕方がない」と。そう思って、自分を納得させます。
 しかしこの「病気なんだから仕方がない」というのは。病気でなければ。病気でさえなければ、俺は本当はもっとマトモな人間だ……と。そういうプライドです。ひとに迷惑をかけずに生きていける。俺は、臭くないんだという、プライドです。
 自分のプライドを傷つけないためには、「今は、たまたま病気なんだから、今だけは仕方がない」……と。そうやって割り切ったら、割り切れます。
 ただ、「こっちは病気/あっちは仕事」で、割り切るのならば。看護師さんとのかかわりは、なくなります。相手がせっかく辛い、尊い奉仕をしてくれているのに。人間と人間とのかかわりを、持とうとしていないし。だから、持つことも出来ません。
 虚勢を張って、自分の弱さを隠していたら。ヒトとのかかわりが、ありません。
 「俺は、本当はもっとまともな人間だ」「今だけタマタマこうなんだ」って思ってしまうプライドが。自分じゃぁどうしても清めることが出来ない、私の一番の汚さ……。善い行ないをどれだけしても清めることが出来ない、人間の醜さなのかもしれません。
 相手がせっかく洗ってくれても。「こいつは人間じゃぁない、看護婦だ」と考えようとするんです。そうでないと、自分の醜さ、弱さ、汚さを見られるのが、たえられない。
 そのプライドが、いちばん醜い罪なのかもしれません。

X.
 自分の罪の悔い改めに、どなたかの足を洗わせていただきたい……。信仰なんだから、理屈を言っているだけじゃぁ、厭だ。本当に、悔い改めの業が、したい。私が、そういう風に憧れたのは、悪いことじゃぁないと思います。
 ただ、自分が洗うことばっかりを、考えてました。自分が正しい奉仕をして、自分の信仰を立派に仕上げること、そればかりを考えていました。
 ……それが、神の尊い律法でも、ぬぐい去ることのできない、私どもの罪でした。神の掟をどれだけ守っても、清められない、それが私どもの、「肉の弱さ(ローマ3:3)」です。その罪を取り除くために、御子は、この「罪の姿になってくださった」というのが、聖書が私どもに伝えていることです。
 ホームレスのひとを、いろいろお世話して差し上げた。助けられたヒトの中には。「お前ら、こうやって天国に行こうと思ってんだろう」って。「お前ら偽善者を天国に行かせるために、こっちが世話になってやってんだ」って。悪態をついて行くヒトが、あるそうです。
 プライドがあるから。恥ずかしいから、そうやって虚勢を張るんです。
 助けてあげる方、別に「奉仕をしたから天国に行ける」っていうんじゃぁ、ありません。本当にヒトを助けたいから、自分のお金を出して、時間を献げて、奉仕をしているんです。それなのに、そんな理不尽な悪口を言って行く……。
 それでも、助けてあげる方に、拭い難い罪があるから。奉仕の報いが、あだになって返って来るんです。自分が、一方的に助けることだけを考えていたら。自分が善行を施すために、ホームレスのひとを相手として利用したら。相手のプライドは、傷つくにきまっています。
 相手のプライドは、相手の罪です。でも、その罪を引き出したのは、こっちの罪です。こっちのプライドです。奉仕をしながら、自分は奉仕をする正しい人間におさまりかえっている時。罪と罪がぶつかり合うだけで、ひととひととの関わりは、生まれません。
 この傲慢が、どうしたって自分の力では取り去ることの出来ない……私どもの、肉の弱さです。
 この罪を取り除くために、御子が、私どもと同じ姿になってくださったのです。

Y.
 「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」って、ローマ書の方(8:4)には書いてありました。「霊に従って歩む」の「歩む」っていうのは、本当に実際に生活するっていう意味です。
 聖書に書いてあることを、聖書に書いてある通りに、本当に実際に生活で行なったら。結果は、聖書に書いてある通りになって行きます。
 イエスさまは、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない(ヨハネ13:14)」って、おっしゃいました。だから、本当に足を洗い合うのです。一方的に洗ってあげるのではなくて。「洗い合う」のです。
 それだけだったら、私どもの罪は、まだ取り除かれません。イエスさまが、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまい(同7)」っておっしゃってるのですから。足を洗い合っても、最初は、分かりません。
 最初は分からないから、こっちは、自分の足を綺麗に洗って来て。形式だけ。煩わしい儀式を、聖書に合わせて真似事をするだけになるかもしれません。相手にせっかく奉仕をしても、相手から悪態をつかれるかもしれません。
 それでも、御言葉に忠実に、正しいことを続けるべきだと思います。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる(7)」って言われているからです。
 「後」って、いつのことかって言ったら。ペトロたちが「分かった」のは、十字架の後です。
 ペトロたちは、イエスさまに言われたのですから。本当に、足を洗い合ったはずです。それでも、最初は分かりませんでした。
 自分の罪の悔い改めのため、自分がもっと立派な信仰を持つために。イエスさまの真似をして、イエスさまの通りに振る舞っても。そうやっている間は、ちっとも分かりませんでした。
 だけども、ひとの足を洗ってあげるだけじゃぁない。尊敬している人に、自分の汚い足を差し出して。相手が身をかがめて、自分の足を洗っている。イエスさまと同じ姿でやっている。自分はそれを、厭がっている。恥ずかしいと感じている。
 相手だって、同じです。こちらの足を洗っている時には、相手は、敬虔な気分です。でも、こちらが洗ってあげている間は、実に居心地が悪そうにしている。だからお互い、なかなか「かかわり」が持てない。相手がいるのではなく、ただ「足」があるっていう感じが続いている……。
 そういう自分たちのために、「キリストさまが十字架にかかったんだ」と。それを思い浮かべながら、どうしても、本当には「かかわり」を持ち切れない自分のかたくなさを感じる……。
 そういうことを続けていく中で。ある時、分かります。
 自分が洗っているのは、ただ「足」じゃぁない。「隣り人の足」ですし。相手が洗ってくれているのも。儀式でじゃぁ、ない。私の足が汚いから、自分の手を汚して、綺麗にしてくれている。このヒトは、私が汚いのを知っていて。だから、綺麗にするために奉仕しているのだ……と。
 ペトロたちには、それが感じられる時が、あったと思うのです。
 その時、足を洗い合いながら。最初は他人だったのに。何のかかわりも無かったのに。キリストさまを通して、互いに愛し合い、受け入れ合う者に、変えられていたことに気付くんです。

Z.
 肉の思いは、プライドです。霊の思いは、愛です。
 相手が奴隷だったら、平気で汚い足を突きつける。でも、対等な立場なら、自分の汚い足に触れられるのが、耐えられない。それは愛ではなくて、プライドです。
 私どもを苦しめているのは、この罪です。
 普段でも、病気の時でも。「俺は本当はまともな人間だ」と強がって、独りぼっちになっている、この罪です。
 この罪に。そうやって互いに足を洗い合って気が付いた時に。その時、もう既にキリストさまが、罪を取り除いてくださっていたんです。
 キリストは、虚勢をはらずにはいられない、この罪を知っています。「罪深い肉と同じ姿」になってくださった。けれども、その罪を知りながら。罪に自分を売り渡すのではなくて。ご自身もろとも、罪を十字架で滅ぼしてくださったのです。
 私どもが、肉にではなく霊に従って歩む時、この罪から解放されています。
 「霊に従って歩む」とは。実際に、そう生活することです。イエスさまのなさったことを真似て、その通りにすることです。
 行ないを真似ながら……。自分のやっていること。足を洗いながら、自分が善い行ないをすることばかりを考えている。そういう自分を、霊をもって、振り返ることです。相手が洗ってくれることは、こころの中で厭がってしまう。そういう自分を、霊をもって、振り返ることです。
 それが、「霊に従って歩む」ことです。
 そうした時。ある時、キリストさまの業が分かるのだと思います。
 だから……いつか本当に、互いに足を洗い合う『洗足木曜祈祷会』をやりたいです。
 教会には、奉仕をする相手が居ます、自分が働くことの出来る場です。
 それだけじゃぁなくて。自分が、奉仕を受ける……。弱いから、汚いから、醜いから、自分もヒトに助けていただくということを受け入れる。そういう決断をすることが出来ます。
 今までは一人で。独りぼっちで、自分を高めよう、自分を清めよう、自分が正しくなろうとしていたのに。そうじゃぁない、低いままで、汚いままで、醜いままで、一緒に救われているということに気付かされる。そういう交わりもあります。それが教会です。
 神の御前に出るというのは。自分が、弱い、汚い、醜い者を愛してくださる神の前に、出ることです。
 私どもクリスチャンの立派さは。立派な行ないが出来る立派さじゃぁ、ありません。弱い、汚い、醜い自分であることを、キリストにあって安心して認めることが出来る。そういう立派さだと思います。
 そう思うと……。やっぱり、いつか本当に、互いに足を洗い合う『洗足木曜祈祷会』をやりたいなァ……と。憧れを、憧れのままで終わらせたくない。これから後、自分の実際の「歩み」にしたいと思っています。

中村栄光教会
説教集へ