2005年3月20日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

死ななければ命を得ない

ペンダントイコン



聖書研究
ローマ8章    中村栄光教会
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新約聖書@【ヨハネによる福音書 第12章20〜26節】
新約聖書A【ローマの信徒への手紙 第8章5〜10節】






死ななければ命を得ない

北川一明

T.
 「さて、祭りのとき(ヨハネ12:20)」と、あります。
 今の時期、エルサレムでは過越祭が盛大に祝われます。お祭りは、もともとは……。どこでも、神を祭るのが建前です。イスラエルは、信仰熱心な国民ですから。神に礼拝する本格的なお祭りを、祝っていました。
 それでも、お祭りの、人間にとっての役割は。我を忘れて夢中になって楽しむことです。
 昔で言えば、貧しく、つましく暮らしている人たちですし。今で言えば、ストレス社会の中で抑圧されている人たちでしょうか。そういう、私ども普通の人間が。年に一度なり、二度なり。思い切り羽目を外して、胸につかえている何物かを発散させるのが、お祭りです。お祭りの、現実的な効用です。
 お祭りは、宗教行事であると同時に。普段抑圧されて苦しんでいる人たちの、憂さ晴らしでもありました。
 そして、浮き世の憂さを晴らして大騒ぎする中で。私ども、普通の、平凡な庶民は。そこに天国に通じる何かを感じるのでした。
 では本当の天国は、どういうところなのでしょうか。
 天国という位ですから、何の抑圧も苦しみも無いところかもしれません。そうだとしたら、お祭りのあの熱狂に、いつも身を任せていられるところなのか。それとも、もっと静かな、落ち着いたものなのか。
 天国が、ただの「憂さ晴らし」ではないとしたら。お祭りの熱狂とは違うはずです。しかし、静かでのんびりしているものとも違うような気がします。
 神さまと共にあるのなら。ぼんやり、半分居眠りしているようなものというよりも。こころが、いちばん純粋に研ぎ澄まされている所と思えるからです。
 居眠りではない、至福の時というのは……。たとえば、現代では。ほんの少人数で、室内楽の、天才バイオリニストの最高の演奏を聴く……。一世一代の名演奏を、こちらも一生涯にただ一度のつもりで聴く……なんて。そんな時に、味わうことが出来るかもしれません。
 そして考えてみれば。労働歌みたいな音楽じゃぁなくて、洗練された音楽会のような芸術活動は。やはりお祭りが、その始まりでした。
 天国は、ただの憂さ晴らしであるはずが、ない。お祭りの、乱痴気騒ぎであるはずがない。けれども、こころが一番研ぎ澄まされて、鋭敏になる場所であるならば。お祭りの熱狂に、何か似ている所があります。
 そういう意味で、お祭りが「神を祭る」という建前で始まったのにも、ワケがあったのです。神を、目で見ることは出来ません。お祭りの熱狂の中に、人々は、神に関わる何事かを感じ取ったのです。

U.
 ですから、祭りは盛大でなければ意味がない。熱狂できて初めて、お祭りです。
 けれども、この世のお祭りは……。盛大であればあるだけ。お祭りには、どうしても、何か切なさ、悲しさが付きまとっている気がします。
 祭りの熱狂は、ほんの一時のことだからです。
 小さなお祭りでも、御輿を担ぐひとは、夢中になれますが。見物人の方は、もう一つそこに入り切れません。それが、街をあげて、国をあげて、異様な雰囲気に盛り上がっていたら。どうしたって浮き立った気分がうつります。我を忘れて騒ぐことで、胸につかえている何物かを発散させるには、盛大なお祭りはもってこいです。
 それでも、私どもは知っています。祭りの後は、また元の、日常に返らなければなりません。
 普段の抑圧された苦しみを、いっとき発散させるのがお祭りならば。宴の後は、抑圧と苦しみの中に戻って行くのです。毎年祭りを経験していたら、私ども、それを知ってしまいます。お祭りには、いつも、そういう物悲しさが付きまとっているような気がしてなりません。

V.
 そんな、ユダヤのお祭りの時に。「礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた(20)」と、書いてあります。
 祭りは、過越祭ですから。ユダヤ人だけの、お祭りです。ギリシア人には関係ないはずです。だけどもギリシア人たちは、ユダヤのお祭りを祝うために。イエス・キリストの父なる神を礼拝するために、エルサレムまでやってきました。
 自分の国の宗教では、満足できなかったのです。
 そうだとすれば、私ども日本のキリスト教会に似ています。明治時代、国家は、国家神道を崇拝するように、強く国民に勧めました。それでも、私どもの先達は。国家に逆らい、周りのひとたちに逆らって、キリスト教を求めました。
 このギリシア人たちも、私どもの信仰の先達も、同じような動機からに違いありません。決して、外国旅行で外国の宗教を体験してみるというような、野次馬根性では、ありません。
 だから、「彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです』」と。「イエスにお目にかかりたいのです」と、頼みました。
 ギリシアは、日本と同じ、多神教でした。それには満足できない。強烈な一神教であるユダヤ教は。すごいお祭りをしている。そこに、何かがあるのではないか……と、思った。
 そう思ってエルサレムに来てみたら。ユダヤ教の中でも、ことの他目を惹く。何か霊的な、特異な人物がありました。この時のエルサレムは、イエスさまの噂で、持ちきりでした。
 フィリポは、イエスさまの弟子の中でも、ギリシアの名前を名乗っているひとです。だから、相談してみたんでしょうと思います。
 しかし相談を受けたフィリポも、分かりません。イエスさまの教える救いは、古い、ユダヤ人の宗教の範囲を、大きく超えているような気はしていた。だから、家を捨て、仕事を捨ててイエスさまに従って来たのです。
 それでも、イエスさまは今までのユダヤ教と同じように。ヤーウェの神を崇拝している。それも、アッバ父よ……と。今までのユダヤ教以上に、ずっと親しげに祈っている。じゃぁ、イエスさまがもたらしてくださる救いは、ギリシア人にも関係あるのか。よく分かりません。イエスさまに紹介して良いのかも、分かりません。
 そこで、同郷の……自分が信仰に入った最初から一緒だった、アンデレに相談しました。アンデレもベトサイダの出身です。
 しかしアンデレも、分からない。一緒に、イエスさまの所に行って。これこれ、こういう人たちが来ています……と、話しました。

W.
 そうした時にイエスさまがおっしゃったのが、今日の……。有名な聖句です、「一粒の麦、もし死なずば、ただ一つにてあらん。されど死なば、豊かに実を結ぶべし(24)」と。……「まことに汝らに告ぐ」と言って、お話しになりました。
 ご自分が、これから十字架で死んでしまうことを、言っているのです。
 ご自分が犠牲になって、世界を救う。世界が、全く新しく。神さまに対して豊かに、義の実を結ぶようになる……と。そういうことを、麦粒に喩えて、おっしゃいました。
 ただ、譬えですから。そうやって割り切った説明をしちゃっちゃぁ、違うのかもしれません。もっと、得も言われぬ豊かなイメージを伝えようとなさったのかも、しれません。
 「一粒の麦、もし死なずば」とは。イエスさまご自身のことを言っているのは、確かです。だけどもそれだけではなくて。私ども、キリストに従おうとする者に対しても。一粒の麦を思うことで、キリストに仕える者になることが出来る……と。そういう気持ちも、伝えているのかもしれません。
 麦は、一粒では……。アタシの時代には、学校で「飯粒一粒でも大切にしなさい」って教わりましたけど。本当のことを言えば、麦は、一粒一粒が集まって、パンにもなるんです。一粒のままだったら。いくら頑張ったって、何の訳のも立ちゃしない。けれども、その麦粒が、地に落ちて埋められた時。豊かに実を結びます。
 信仰者も、それと同じだ……と。そういう意味合いも、あるようにも思えます。

X.
 宗教の本質とは、ここの所です。
 信仰者がそうであるだけでなくて。教会も、また宗教というものも、そうです。
 イエスさまのユダヤ教も、そうです。イエスさまは、古いユダヤ教をいい加減に扱ったのでは、ありません。父なる神を、本当にあがめる信仰生活を、貫きました。
 しかしユダヤ教を正しく守ることは。古いユダヤ教に、頑なに留まることじゃぁ、ありませんでした。むしろ、古いユダヤ教を。ご自分がいちばん大切にしていた宗教を、自分で壊してしまうことが……。そうして、ギリシア人にまで救いを広げることが、ユダヤ教を正しく守ることでした。
 本当に、正しく守ることは、古い大切な自分を、壊してしまうことでした。
 それはギリシア人も同じです。
 こっちの宗教に満足できないで、遠くまで、お祭りにやって来ても。それで、盛大なお祭りで異様な雰囲気にまで盛り上がって、特別な恵みを受けた気分になったとしても。祭りが終わって、もとの自分にかえるんだったら、救いでも何でもない。ただの憂さ晴らしです。
 祭りが終わった後、今までの自分が、もう既に壊れて無くなっている時。別な自分になっている時。本当に、神と出会ったことになるのです。
 ずっと培ってきた、いちばん大切な自分を。思い切って、明け渡してしまう。それが信仰の本質だろうと思います。

Y.
 イエスさまは、この後、もうちょっと先の方で。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない(15:13)」と、おっしゃいます。そう言ってから、十字架にかかって命を捨ててくださったのですが……。
 同じヨハネの教会で書かれたと言われます、ヨハネの手紙というのが、聖書の最後の方にあります、その中では。イエスさまがそうやって命を捨ててくださったから、われわれは「愛というものを知った」と言われています。
 それは良いんですが。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです(Tヨハネ3:16)」と。ちょっと、いくら何でもそれは無理だろうということまで、言っています。
 死んだら、実も蓋もないと思います。
 天国が、そうやって命まで捨てた自己犠牲のご褒美なのだとしたら。天国は、あまりにも狭き門です。ヘンなひとしか、入れません。
 天国とは、自己犠牲のご褒美ではない。そうじゃぁなくて。兄弟のために命を捨てるような。そういう、いちばん大切な自分というものを、明け渡すことが……。それが、そもそも「生きている」っていうことなんだと思います。
 捨てまい、捨てまいと、古い自分に凝り固まっていることが、「死」です。隣りの人……ヨハネの言い方では、「友」ですけど。友との関わりのために、古い自分を捨てることが、「生きる」ということです。
 そして、そういう生き方が。この世にある今から、天国の命を生き始めることになる。そういう命なんです。

Z.
 アタシらだって。自己犠牲を、全然やらないワケではありません。愛する者のためだったらば。喜んで、自分を犠牲にすることさえ、あります。
 愛する者が病気の時。自分の楽しみを犠牲にして、体力を犠牲にして、看病するのなんて、当たり前です。自分の一生の仕事を犠牲にしたり、臓器の一部を提供することだってあるかもしれません。
 愛する者と結ばれるために、かつての生活習慣を捨てる。仕事を捨てる。親を捨てる。その位のことは、近頃の若い者の方が、平気でやります。
どこまで自分を犠牲に出来るのかと言えば。自分が、失われない所までなら、誰でも出来ます。
 近頃の若い者は。生活習慣も、仕事も、親も。そういうものが自分のアイデンティティになっていない人が多いから、簡単に捨てることが出来るのです。
 自分というものを確かに持っている人ならば。多くのことを譲ることができます。何か大事なものを捨てても……。それで自分というものが変わらない。自分を失わない。私は私であると思えるのならば。私ども、たいていのものは犠牲にできます。
 しかしキリストの愛というのは、そういう、何か捨てても自分は変わらない……。その程度のものを捨てるのではありません。「これを捨てて仕舞ったら、自分は今までの自分ではなくなってしまう」。そういうものを捨てる。兄弟のために「命」を捨てるというのは、自分のことを自分にしているものを、捨てる、ということです。
 つまり今までの自分が壊れてしまう。それが、キリストの愛です。
 仕事もお金も生活習慣も臓器も、それが、自分自身でないのならば、私どもでも捨てれます。ただ、自分を自分としているものだけは、なかなか捨てることができません。
 お金が、自分のアイデンティティになっている人は、お金を捨てることができません。仕事がアイデンティティの人は、仕事が捨てられません。「自分の生き方そのものが自分のアイデンティティだ」と言う人は、そういう自分のライフ・スタイルが捨てられません。
 「そんなくだらない物には価値を置いていない。だから私は何でも捨てられる」と。たいそう自信のあるヒト。何を捨てても、自分は自分でいられるという、立派なひとは。そういう自分の立派さを、捨てることが出来ません。自分は、くだらん物質的なことには拘らない。何でも捨てることが出来るんだゾ……っていう。そのプライドが捨てられません。
 そういう、自分自身に拘り、自分自身を誇る思いを、聖書は罪と言うのです。「自分」が、滅び行く肉の身でありながら。その自分を一生懸命守ろうとする思いを、聖書は罪と言うのです。それが、愛の正反対のものです。

[.
 ……なんて、そういうお話しを。もう6年も前になるんですネ。ヨハネの手紙を結婚式で読んだときに、お話ししました。
 今回、一粒の麦の所と。さらにローマの信徒への手紙と併せて読んで。何だか、一層よく分かった気がします。
 「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります(ローマ8:6)」って書いてあります。
 今、申しました……どうしても捨てることが出来ないもの。自分を自分としているモノ……。自分を自分としているモノが、仕事なんだったら仕事。お金なら、お金。人格なら人格、品性なら品性、プライドならプライド。そういった、どうしても譲ることの出来ないものは。全部、死んだら失われるものです。滅んで行くものです。
 霊に従うのではなくって、「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え(同5)」ます。滅んで行くもので自分の肉を作り上げて。それを、後生大事に守っています。
 それで、自分は自分であるって思うのですから。肉の思いは死です。
 どんなに人格を誇っても、品性を誇っても。立派な行ないを立て続けにやったとしても。死に向かって歩んでいるのですから、「神に敵対して(7)」います。神の御心に、それでは従っていないし、従うことが、できない(7)のです。
 ファリサイ人のように、立派な教会生活を、端から端まできちんと守っても。絶対に、「神に喜ばれるはずがありません(8)」……って。アタシが言ってんじゃぁ、ない。ローマの信徒への手紙に、書いてあります。
 「蒔くものは、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。(Tコリント15:37、36)」
 命は、滅んで行くものに従っている所には、ありません。
 うんと大切である。大切ではあるけれども、滅んで行く自分を捨てて。新しいものに変わるのが、生きるということです。……それは、本当にそうだと思うのです。
 イエスさまに「麦の種」なんていうことを言われて。種の細胞が、だんだん草に育って行く所を想像して、本当にそうだと思います。細胞が、昔のままの自分で居続けようと頑張っていたら。根も生えなければ、芽も出ません。
 昔のままの自分で居続けようっていうならば。そういう人間に残っていることは、死ぬことだけです。

\.
 友だか、誰だか知りませんけど。隣りに人間が居るならば。その人間は、自分ではありませんから、自分とは違います。価値観も、感受性も、違います。
 そういうヒトと一緒にやって行くためには。お互いが、自分のどこかを変えて行かなければなりません。
 捨てても大丈夫な所。自分にとって大事じゃぁない所を捨てて、うまく合わせるならば。その関係は、愛ではありません。大事じゃぁない所を捨てたら、捨てた分だけ、自分の資産が減ります。大事じゃぁないとは言え、少しづつ、「自分」はやせ細って行きます。
 そして、そうやって得られるものは。大切じゃぁない、愛してもいない相手と、ただ表面うまくやって行く。それだけです。大事じゃぁないものを捨てるひとは、大事じゃぁないものしか、手に入れられません。
 肉に従って歩む者は、肉に属することを考えますが。肉の思いは死であり、神に敵対しており、神の律法に従っていない、従い得ないで……。必要なものは何にも得られないまま、死と滅びに向かって進んで行きます。
 しかし、天国は。それを見つけたら、持ち物をすっかり売り払ってでも手に入れたい、高価な真珠に似ています(マタイ13:45、46)。
 自分とは価値観も感受性も違う、隣のヒトのために。愛してしまったから、しょうがない。自分のいちばん大事な所を譲った時に。自分は、今までの自分と変わります。新しくなります。愛の故に、新しい命を、手に入れます。
 そして、そうやって変わって行くことが……。種が根を生やして、芽を出して。やがて豊かに実を結ぶように。人間が「生きる」ということだと思うのです。
 それが本当の命ですし。その命は、愛によって支えられています。だから、肉の思いではない、「霊の思い」は、ただ命であるだけではなく。「命であり、平和(ローマ8:6)」なのです。

].
 イエスさまが。私どもを愛して、まず種になってくださいました。蒔かれてくださいました。そしてそれが世界のキリスト教として。世界じゅうで、復活のキリストと出会えるように。豊かに実を結びました。
 私どもは、このキリストの霊を注がれて。霊に従って歩む者にされました。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え(ヨハネ12:26)」って言われますけど。こうやって、キリストの教会に加えられて。もう、キリストの霊に導かれ始めました。
 教会で、キリストの霊に捉えられていることを信じて。信じた所に従うならば。私ども、愛の故に、古い自分に死んで、新しく生かされることが、出来るようになって行くのだと思うのです。
 そして、死んで新しく生かされるというのは。私ども一人一人も、そうですし。教会も、一緒です。
 教会が、古い、出来上がった組織を守ろうとしている限り。それは死んだ教会です。
 隣り人のために、今までの自分たちを捨ててしまった時です。愛のために、いちばん大事な所まで壊してしまった時に。新しく、復活の命に生かされるのだと思うのです。
 大切にしなければいけないのは。その信仰と、その希望と。あと、愛のために変わるんだっていう、その愛です。
 でも、そんな三つも言ってたら。なんだか、何から何まで大切な気がして来て。全然自分を捨てられなくなっちゃいます。
 愛のために、捨てなくっちゃぁいけないんだと思います。信仰と、希望と、愛と。この三つは、永遠の神さまから出てくる、いつまでも残る、決して滅びないものだと思いますけど。「その中で最も大いなるものは、愛である。愛は決して滅びない(1コリント13:13、8)」から。キリストに属している限り、ただ愛に従って自分を相手に与えていたら。それですっかり安心なんです。命と平和は、そこにあるのだと思います。

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