2005年3月27日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教

エデンの東

ジェームス・ディーン



聖書研究
ローマ8章    中村栄光教会
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旧約聖書【創世記 第4章1〜16節】
新約聖書【ローマの信徒への手紙 第8章6〜11節】






エデンの東

北川一明

T.
 ジョン・スタインベック原作/エリア・カザン監督/ジェームス・ディーン主演の『エデンの東』という……映画があります。創世記、カインの物語を現代に語り直したようなお話しです。映像も美しいのですが。ストーリーは、もっと綺麗です。
 厳格な父親に受け入れてもらえない……。全編を通じてそういう悲しみに彩られたお話しで。最後、ちょっと不思議な……「悲しいハッピー・エンド」なんていう「ハッピー・エンド」が、あるんでしょうか。親が自分のせいで倒れて、死ぬ。だけど前よりか少しだけ、自分を受け入れてくれるようになった……。そういう終わり方です。
 良い子ぶる子と/反抗する子、兄弟が妬み合う、今日の聖書を題材にしたお話しです。「妬み」という、人間の醜いこころを描いたお話しです。それなのに……美しい映画だ。映像のみならず、ストーリーを綺麗だと感じてしまうのです。
 考えてみたら。元のお話しの、このカイン物語りも一緒です。人間の醜い嫉妬心を描いたお話しですから。醜いハズです。厭な、不愉快な話しであるハズです。それなのに、私はこの話し、好きです。繰り返し読みたくなる「美しい物語り」だとさえ、思っています。
 ひとつには……本当のことが書かれている。真実の美しさということが、あります。罪にまみれた人間の真実が描かれていますが。真実は、美しい。
 けれども……それだけじゃぁない。私どもを、そういう醜さから救い出す……。そういう、何か尊い、聖なる力を感じるからです。
 罪にまみれた人間の醜さを全部覆って救ってしまう。そういう、何か、ずっと大きな尊い何物かを……。カインの物語りは……。そして、そこに着想を得た美しいドラマは。そういう尊いものを証ししているのだと思うのです。

U.
 カインの物語は……「さて、アダムは妻エバを知った(1)」といって、始まります。「知った」とは、「性的な関係を持った」、「性的にも、深く愛し合った」ということです。人類最初の夫婦は、結婚したのはもっと前ですが。この時、愛し合う関係になりました。
 エデンの園では、神の許で神と共にありました。その時は、子供のように無邪気に喜んでいました。楽園を追放された時、そういう喜びは失いましたが。代わりに、夫婦は新しい愛の形を知るようになりました。
 そしてエバは身ごもって、カインを生みます。世界で最初の、赤ちゃんです。
 わが家も、私も妻も、長男、長女ですから。うちの子供が、両方の家にとって初孫でした。ですから大騒ぎでした。
 しかしアダムとエバの場合は、妊娠も、出産も、全部、世界で最初です。その喜びたるや、うちの「初孫」の比じゃぁないはずです。「わたしは主によって男子を得た(1)」って、エバは喜びます。神は、ご自分の掟を守ることのできなかった二人にも、豊かな愛を与え……。大きな喜びを与えました。
 それから「彼女はまたその弟アベルを産んだ(2)」。この家庭への祝福は、カインでは終わりません。祝福は尽きません。次男が生まれ、「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった(2)」。近頃の若い者とは違います。きちんと働く者になりました。
 時を経て(3)、土は労働の実りを与えました。農作物は実るし、羊の群は、増えて行きました。良いことずくめです。
 喜びの溢れる家庭では、神に感謝することを知っています。カインとアベルはそれぞれに自分の働いたところから献げ物を取り分けて……連れ立って礼拝に出かけました。
 いちばん豊かな生活とは、こういう生活です。働いて、その実りを得て。次に、それを感謝して神に献げて。そうして、また労働に戻って行く。そういう、神との交わりを中心においた生活が、いちばん豊かです。
 私ども、そういう真の豊かさを忘れることがあります。けれども原始社会は。自分と、労働と、神さまと、愛する家族と。世の中、たったそれだけ、単純なもんですから。この家族は、真の幸いを忘れません。労働の実りを、喜んで神さまの許に持って来ました。
 祝福された者は。神への感謝を知っているのです。

V.
 ところが、この時は……。どうしたんでしょうか。神は、カインだけを、無視します。
 「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった(4、5)」って……。それで、全てがいっぺんに狂い始めます。
 ねたみごころなどと言うものは。正しいハズが、ありません。悪いにきまっています。ですけれども。これでカインに「妬むな」って言うのは。それは、無理だろう……ト。
 以前にもお話ししたことがありますが、私は大学生の時から、演劇をやっていました。私が書いた脚本に集まってくれたひとたちと。大学を出てからは、お金をとって見せるお芝居をやってました。
 そのとき、手伝ってくれた人の中に……。たいへん博識な、賢いひとが、ありました。東京大学を二回だか三回だか受験して落ちて。それで、もう浪人できないから……と。私と同じ大学(国際基督教大学)に入って来ました。
 同学年ですが。こっちは高校からそのまま来たので、二歳違います。あの頃の二歳は、ずいぶん違って感じられました。こちらは、まるっきり子供です。
 その人、私の劇を手伝ってくれました。大道具を作ったりしながら。劇団の今の状況や、お芝居の出来具合などを、的確に整理してみせてくれて。とても助かりました。
 お勉強の好きな人です。哲学でも宗教でも社会学でも、いろんな難しい言葉を知ってました。でも、そもそも「勉強が好き」っていうこと自体、アタシらとは違ってました。だいいちそのひとは「勉強」なんて言いいません。「学問」って言ってましたから。それだけでも、考えていることが全然違います。
 それで私は、はっきり尊敬していました。妬む気持ちは、毛頭ありませんでした。
 ……ト、言うのは。そのひと「学問」に熱心なんですが。それだけに……なんて言ったら、語弊があるかもしれませんが。オジサン臭くって、ダサいんです。
 だから女性関係でその人と争いになることは、無い。その点は勝負になんないくらいこっちが「勝ってる」と思ってましたから。余裕がありました。
 そのころ私は、キリスト教って、本当に信じれるんだろうか……ト。信仰っていうものを、考えたし、学んでました。神の真理って言いますか「真実」みたいなものを、追い求めていました。
 そのひとは、神はいないものとして。絶対の真実なんか、ないものとして。宗教を、ただ人間の営みとして。それで「宗教学」かなんかの助手をやってました。
 真理を求めることを諦めているようでした。
 私には、それが、彼の不幸に見えました。生涯で何をしたら良いか、目標のない状態……彼には希望がない。そういう風に、見えました。
 塾の先生をやっているのも。子供に対する情熱じゃぁ、ありません。ただ食うため、カネのためにやっているに違いない。だから、いつも飲んで、酔っぱらっている。
 尊敬する彼も「苦しいんだろうな」と。こちらは、本心から同情しまして。キリスト教の真理を、本気で求めれば良いのに……って。まだ洗礼も受けない前から、そう思ってました。

W.
 ところが……その彼が、小説みたいなものを書きました。
 何か、ナントカ文学賞とか、新人賞とか。今どき純文学なんか賞をとったって、どうにもなんないでしょうが。いくつかの賞に引っかかるようになりまして。そうこうしているうちに、芥川賞をとっちゃいました。アングラ界の洒落やパロディの芥川じゃぁなくて、本物の芥川です。
 アタシは「マジかよ」みたいない。青くなりました。自分が、どうして良いか分からなくなりました。
 友達連中は、「おめでとう」って喜んでいます。彼も記念に、てんで。本を出すたびにサインかなんか入れて、アタシにも送ってくれるんですけど。アタシは、そういう本、開けませんでした。
 彼の頭が良いのは認めて、本当に尊敬もしてたんです。だけど脚本とか、小説とか。そういった分野なら、俺の方が上のハズだったろう?……って。
 決して小説家になりたかったんじゃぁ、ないんです。劇で食えない時、「劇で食うより大切なこと」って考えて。キリスト教信仰しかないって思い始めてましたから。賞をとるとか、売れるとか、そういうことは第一じゃぁないんです。
 だけど、友達連中に「すごいネ、すごいネ」って言われるのは、「俺じゃなきゃ、いけないだろう」って……。
 もちろん、そんな考えキリスト教信仰とは矛盾してます。矛盾してますけど、でも自然な感情として、「何で俺が売れないでアイツが売れるんだヨ」……。
 友の成功を喜ばないのはみっともないので、友達の前では喜んでる振りをします。それが自分を一層惨めにさせました。

X.
 そういう時。このカインの物語りは、おおきな救いになりました。ずいぶん助けになりました。
 カインになっちゃ、いけない。キリストさまが、こんな私のために死んでくださったんだから。そうして愛を示してくださったんだから。私も、友の成功を喜ばなくっちゃぁ、いけない……って。
 もちろん、聖書読んですぐに出来る訳じゃぁ、ありません。けど、そうしなくっちゃぁいけないって知っていたことが、うんと助けになりました。
 知らなかったら。ネチネチいつまでも妬み続けているんでしょうか。それよりも、「あぁ俺は、これじゃぁカインと同じじゃぁないか」って。「これじゃぁいけない、なんて罪深い人間なんだ」って、そう思えた方が、どれだけ楽か。
 うんと親しい女性には、「恥ずかしいけど、俺は彼をねたんでいる」って。そうやって告白することが出来ました。そうやって言えたら、もうねたみ心から半分は解放されています。罪を悔いているんだから、半分は、救われています。
 信仰があっても/なくっても。このカインの物語は、救いになります。私どもを、醜い妬みの中に捨てて置くことは、しません。そんな罪の支配下に居ては、自分が惨めだ……と。それを教えてくれます。

 ですけれども……。洗礼を受けた今は。今は、もっとよく分かります。半分だけ救われるんじゃぁ、ありません。今や、救いは全部です。
 ……ローマの信徒への手紙の方で。ちょっと前の、段落が始まるころですが。「今や」って書いてありました。そういう感じです。「今や、キリスト・イエスに結ばれている」私は、「罪に定められることはありません(8:1)」。
 キリスト・イエスに結ばれているから。この、友を裏切って捨てる醜い罪に定められることは、ない。この罪から、もう救われているのです。
 嫉妬はします。信仰を持っていても、自分の吝気に苦しみます。
 しかしキリストに救われた者は。カインの物語を、ただ目標にするんじゃぁ、ありません。嫉妬する醜い罪は、肉の身体にまとわりついたまま……であっても。私どもは、その罪から、救い出されている。それが、今や、良く分かります。

 カインの物語は、美しい。醜いはずの物語が、美しい……ト、最初に申しました。
 妬み、友を裏切る人間の醜さから、私どもを救い出す……。そういう尊い、大切な何ものかを、私どもは感じ取っているのです。だから、カインの物語りを……。そして、そこに着想を得たドラマを、美しいと感じることが出来るのです。私どもの中にある、私どもの尊いこころが。カイン物語に美しさを見出しているのです。
 洗礼を受けた今は。今や、この、こころの中には、世にはない尊いものが入ってきているのです。それによって、私ども、罪深い肉の姿のままで……しかし既に、救われているのです。

Y.
 「嫉妬はいけません」なんて。「妬みは自分自身を不幸にします」なんて。そんなこと分かってます。分かっていても、嫉妬します。カインの立場になったら、どうしても嫉妬します。
 「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった(4、5)」って……。「カインとその献げ物」、その両方に目を留めないのが……。神さま、いくらなんでも酷いです。
 『エデンの東』で。ジェームス・ディーン演じるキャルは、大豆の先物取引をやって成功しました。お父さんのために働いたので、その成功は全部、お父さんに献げました。自分はその十分の一をもらうことさえしなかった。
 あの時お父さんは、その献げ物に目を留めませんでした。他の家が戦争で子供を出征させて悲しんでいるのに、「戦争で儲けたお金なんか受け取れない」って突っぱねました。その時のジェームス・ディーンの悲しそうな顔は、たまりませんでした。
 けど、あの時だって。お父さん、献げ物には目を留めませんでしたが。キャルには目を留めました。頑固で理解のない父親が、怒り悲しむキャルを見て、うろたえます。「気持ちは嬉しいんだ」と、初めて労りの言葉をかけました。
 ……しかしカインに対しては。神さま、カインのことを、見もしなかったんです。
 家族で一緒に、献金を用意して。礼拝に行って、献げたら……。牧師さんが、その中のひとりの封筒だけ。「これは受け取らない」って、「献金した人に返しといて」って長老さんかなんかに放り投げる。びっくりして牧師さんの方を見たら、クルッと背を向けられた……って、そういう状態です。
 「カインは激しく怒って顔を伏せた(5)」のは、当たり前です。誰でもそうします。
 「どうして怒るのか(6)」、「当たり前ェだろう、無視するからだヨ」……って言いたい所ですが。だけど、じゃぁ「どうして顔を伏せるのか(6)」。
 どうして怒るのか。献げ物を無視するから怒るのですが。「どうして顔を伏せるのか、もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか(6、7)」。
 もしお前が正しいのなら、ジェームス・ディーンみたいに、激しく怒って、お父さんの胸ぐらを掴んで。お父さんの顔を、まじまじと見て……。もしお前が正しいのなら、そういうことが出来るはずではないか。
 でも、カインにはそれが出来ませんでした。

Z.
 「献げ物に、やましいところがあったのだ」と言う人があります。ちょっと後ろめたかったんだ、だから顔を上げられなかったと言うのです。
 そうかもしれません。
 教会に献金をもって行く時。献げる相手は、聖なる、永遠の、完全な、絶対の神さまなんですから。100%の気持ちで、100%の金額を献げるべきです。「それをしてたのか」って問われたら……。100%っていうのは、なかなか……。こっちは人間ですから100%は難しいです。
 『エデンの東』のキャルの場合は。最初から全部お父さんのためだったから、100%でした。それで、キャルはきっちり顔を上げてお父さんを睨みつけました。でもわれわれは……。
 だって、生きて行くために畑仕事をして、生きていく分は、それは・それで自分のものにしなくちゃいけません。
 その割合が。聖なる神さまに対して、全く問題がなかったかって言われたら。ちょっと……やましいっていえば、やましいかもしれません。
 だけど、そんなの誰だってそうじゃぁないか。教会の他の信徒を見たって、十分の一献金をしてないヒトは、いっぱいいる。隣のアベルはどうなんだ。アベルは100%なのか……って。カインは、アベルを見ました。
 神さまは、最初、カインを無視しました。どうしてだか、分かりません。それは神さまが酷い……と、どうしてもそう感じられます。それでも、神さまは。すぐに、きちんとこっちを向いてくれました。それで「どうして顔を伏せるのか」って、対話をしかけて来てくださいました。
 ところが今度はカインが……。横向いちゃったんです。「じゃぁ、隣のこいつはどうなんだヨ」って……。隣と比べ始めたんです。
 献げ物が正しいか、正しくないかは、分かりません。アベルが正しいか正しくないかも、分かりません。けれども、少なくとも、カインが横を向いたのは、正しくないです。
 悲劇はここから始まります。

[.
 でも、まだ間に合う。「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める」んですけれども、「お前はそれを支配せねばならない(7)」。
 私ども弱い人間が、過ちを犯すことは、免れない。ただ、その罪をきちんと支配できれば大丈夫……。きっと、そうだったんです。
 友達が芥川賞とったことは、私が演劇で売れなかったことと別の事柄ですから。彼が賞を取ったことは、一緒に喜ぶべきでした。しかし、私にはそれが出来なかった。
 それは、仕方がないことです。その先です。その先、どうしたか……。
 彼がそのあと、朝日新聞に小説を連載しました。新聞だから、それはどうしても読んじゃいました。
 あんまり面白くは感じられませんでした。今風じゃぁなくって。それがワザと狙ってだっていうのは分かるんですが。なんか、鈍くさい気がしたんです。
 そうしたら案の定、半年ぐらいで打ちきりになりました(打ち切りになったのか、最初からその予定だったのか、私は知りません。ただ、自分で「アレはつまらないから打ち切られたんだ」と、解釈しました。)
 彼の小説は、みんながつまらないと思っている。だから打ち切られたんだ。そう思った時、こころから……。こころの底から、ホッとしました。
 この教会で、です。牧師として、みなさんに説教している時です。
 彼に申し訳ないし、自分が情けないですが。「彼が売れなくって良かった、嬉しい」って、喜びました。私には罪を支配できませんでした。
 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか(ローマ7:24)」って書いてある、肉の人間とは。そういう人間です。そんな意地汚い人間は、私だけでしょうか……。この罪は、私だけが特別に負っているんでしょうか。

 こういう人間が、世界には、少なくとももう一人はいます。カインも、そうです。
 カインは弟を呼び出します(創世記4:8)。弟は何にも知らないから。お兄さんについて行きました。一緒にいるのは、いつものお兄さんですから。何の疑いもなく、ついて行きました。そうしたら、///
 ……兄は突然襲いかかって来て。殺した。
 何なんだ……って。何がなんだか分からなくって。ただショックで、ただ悲しかったに違いありません。
 私がOさんを呼び出して。面と向かって「ざまぁ見ろ、お前、流行らなかったナ」って突然言ったら。ただショックで、ただ悲しいに違いありません。
 かつての幸いな家庭は、いっぺんで壊れました。
 世界でいちばん最初の赤ちゃんを授かって。それから、次の赤ちゃんも生まれて。みんなそれぞれに大きくなって。多少の喧嘩はあっただろうけど。お互い、そっぽを向いた時もあっただろうけど。それぞれに働いて、地の実りを得て。それを持って、一緒に神さまに感謝を捧げた……。あの仕合わせは、全部、なくなりました。
 仕合わせを失ったのは、アベルだけじゃぁありません。アダムとエバの仕合わせも失われました。カイン自身の仕合わせも、失われました。

\.
 主はカインに言われた、「あなたの弟の、アベルはどこにいるのか」。カインは答えた、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」。
 自分の「弟」であったひとを、カインは、もう知らないんです。本当のことです。
 弟の献げ物が受け入れられた時に、もしも一緒に喜んだなら。一緒に喜んでいる間は、確かに弟です。良く知っている……。自分が小っちゃい時に生まれて。お父さんとお母さんと、4人で過ごして。一緒に遊んで、一緒に大きくなった、「あの弟だ」って。弟のことを、よく知ってます。
 ですけど、「こいつの献げ物は、どれだけ優れてるって言うんだ」って、斜めに見て。野原でうち殺してやろうって連れ出した時。その時の相手は、もう知らないヒトです。
 カインは、ひとりぼっちです。殺す前から、既にひとりぼっちです。
 カインは、アベルの兄であることをやめて……。憎んで、自分から関係を断ったんです。弟のことは、殺しましたが。その前に、弟にとっては、自分が死んだ者に、なってしまいました。
 「何ということをしたのか(10)」。自分の命まで、死に渡したのか。この罪は、重すぎて。負いきれません。人間に、負うことは出来ません。

].
 けれども、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(ローマ7:25)」。こんな人間のことを……。神は、救います。滅びるにまかせることは、ありません。恵みの賜物を、お与えになります。
 弟を妬むカインは、もちろん醜いです。悲しい、弱い、罪人です。ですけれども、私は、今やキリストにあって、知っています。そんな醜さ、悲しさ、弱さ全部をひっくるめて……。こういう人間が、精一杯に生きている。それが美しいってことを……。それも、知っています。
 どうして美しいんですか。こんな人間が、いちばん尊いおかたに、愛されているからです。

 Oさんを妬んだ自分の醜さを……。私は、ごく親しい女性にだけ告白しました。
 ごく親しい……特別に親密な女性って、誰かって言ったら。愛するヒトです。
 愛されている自信があったから。自分がどんなに醜い面を持っていても、それでも愛してくれるだろうと思っていたから。告白することが、出来たんです。「あなただけには言うヨ」って。言ったらその分、一層愛されます。
 だけど、じゃぁ自分はその女性を愛していたか。この私の醜さを、告白したら。誰かに告白することができたら。告白してしまったら。自分の醜さを全部さらけ出した、その時、その相手を愛するっていうことが、いっそう確かなものになった……ような。そんな気がします。
 相手は別に女性じゃぁなくっても。自分の弱さ、醜さを告白出来た時。その相手は、特別に親しいヒトです。
 で、私は今、みなさんに自分の醜さを告白しています。その分、みなさんは私にとって、特別なヒトです。
 だけど、みなさんに愛されている自信があるからじゃぁ、ありません。そんな自信は、ありません。でも、今や、もっと大きな自信があります。神さまに愛されているから、かつては隠さざるを得なかった醜さを告白できるんです。
 愛されているから。弱い、罪ある、醜い人間は。けれどもその弱さが、尊い神を証しする、聖なる弱さになるんです。

]T.
 カインの物語りも。『エデンの東』も。良い話しじゃぁないですか。人間は、こうなんです。こうやって、精一杯に生きているんです。
 弱い、醜いものを、私どもは、嫌うはずです。それなのに、カインの物語りや『エデンの東』を美しいと思うのは。私どものこころの中に。私どもがもともと持っていたものとは違う、新しい何かが、あるんです。キリストさまの愛が。キリストに捉えられた、キリスト・イエスに結ばれた者には、それが、あるんです。
 弱い醜い人間を。醜いからって捨てるのなら。愛する者をひとり、失います。そうしたら、捨てた側のひと自身が。相手にとっては、居ないものになります。死んだ者になります。
 イエスさまは、そんなことはしませんでした。ご自分が死んでも、相手を捨てることはしませんでした。そこまで愛する本当の愛で、ご自身が死にました。
 イエスさまは。ご自分が死んでも、相手を捨てることはしませんでした。そこまで愛する本当の愛で、ご自身が死にました。
 その愛したかたが、死んだままで終わったのかと言ったら。そうじゃぁない。神も、キリストを捨てることはしませんでした。死者の中から復活させた……ト。私どもは、伝えられています。
 目で見たことは、ないですけれども。弱い、醜い人間が、精一杯生きている。この苦しみと葛藤を。なんていうか、ある種の平安のうちに、美しいと思えるのは……。私どもが、復活のキリストの霊に、捉えられているからじゃぁないでしょうか。
 キリストさまの霊を、私どもが、神さまから授かっているのだから。カインの物語を、美しいと感じます。美しいんですから。自分の罪も、醜さも。隣り人に告白できます。そうして、隣り人は、愛するひとに変わります。
 隣り人も。弱くって、愚かで醜くって、だけども美しい、尊い人間です。
 弱い、罪の人間を。それでも美しいと愛することが出来る。それは、……体は罪によって死んでいても。その死の中から引き上げて救う、天地の創造主の愛を知っているからです。私どもの中の、キリストさまの霊が。私どもに、それを知らしめているのです。
 神は、カインのような罪人を愛して救ってくださったから。人間は、いつでも美しいのです。

]U.
 私には……。Oさんとの関係を、取り戻すのか。自分がこころの中で殺してしまった友を、嫉妬に打ち克って取り戻すことができるのか。私には、そういう具体的な問題が、残っています。
 具体的には罪人だから。具体的には、課題はいっぱいあります。そして、そういう課題は、全部クリヤ出来るとは限りません。出来ないことも多いかも分からない。世にある間は、醜い罪人である。その罪は、全部はなくならない。
 だけども、妬む、醜い愚かな罪人のままで……。しかし、この「死ぬはずの罪の体をも神が生かしてくださるでしょう(Rm8:11)」ことを信じて。信じる平安の中で、生きれるんです。妬むのではない、愛を志して生きることが、出来るのです。

 カインの家族は、最初、仕合わせでした。
 世界でいちばん最初の赤ちゃんを授かって。次の赤ちゃんも生まれて。みんなそれぞれに大きくなって。喧嘩はあっただろうけど。お互い、そっぽを向いた時もあっただろうけど。それぞれに働いて、地の実りを得て。それを持って、一緒に神さまに感謝を捧げました。
 特別なことは、何もない。愛すべき者同士が、ただ普通に愛し合う。それだけの……。いちばんの仕合わせを持っていました。
 キリスト・イエスに結ばれている私どもは。その仕合わせに、今や、導き入れられているのです。
 罪を告白する……。それすら出来なくても。罪ある人間を、ただ美しいと、そう感じることが出来るだけで。復活のキリストは、この胸に、既に生き始めていることが分かります。
 普通に愛し合う当たり前の仕合わせを、仕合わせと感じる。弱くても、尊い小さな美しさを美しいと思う。そういう、祝福された生き方は。私どもの内側で、キリストさまによって、もう今や、始められているのです。

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