2004年5月9日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教
修養会主題説教【神に喜ばれる生活】


中村栄光教会牧師 北川一明


聖書研究
ローマ12章    中村栄光教会
説教集へ

旧約聖書【詩編 第51編18、19節】
新約聖書【ローマの信徒への手紙 第12章1、2節】








修養会主題説教【神に喜ばれる生活】

北川一明

T.
 私ども中村栄光教会の、今年度の教会標語は。説教題にも掲げました。『神に喜ばれる生活』と、しました。教会としては、いかにもありそうな、普通の教会標語です。ただ、うちの教会に限っては。近年の傾向と少し違っていて、ちょっと、取って付けたみたいかもしれません。
 ここ数年、中村栄光教会では。「祈りの回数を増やす」という、実に即物的な目標から始まって、いわば、現実路線をとってまいりました。
 「自分のための祈りを祈る」というのも、ありました。
 「教会標語」なんていうのは、どうせ形式的に掲げているだけだから、必要ないんだ……なんていうことで、標語を決めるのをやめた教会もあるようです。実際に、毎日、毎日の生活の中で、教会標語を思い出しながら暮らしているというかたは、少ないかもしれません。
 けれども、それでも教会標語は、教会の雰囲気と大いに関係します。
 「自分のための祈りを祈る」という標語を掲げる教会では。そういう、悪くすると自分勝手にも聞こえる、そういう雰囲気が、あると思うのです。牧師は、そういう関心を持っていて説教を作っているんです。そうした気持ちが、教会全体の感受性に影響して当然です。
 「信仰の喜びを確認する」っていう標語もありましたけど。それもわざわざ「信仰の喜びを『自分で』確認する」なんて。「自分」という言葉を付け加えました。
 現実路線というよりも、「本音路線」でしょうか。要するに、信仰は、自分にとってどういう意味があるのか……。そういう関心です。
 この「本音路線」は、教会にとって、結構危険なものだったみたいです。一昨年、去年と礼拝出席が減っているのも、こうした発想と関係あると思っています。
 自分のこと、自分のため……って考えていたら。忙しい現代人は、悠長に信仰生活なんかやってられません。献金だって。お金は、他に使い道はいくらでもありますから。減らしたくなって当り前です。
 それでも……特に現代だからこそ、です。そういう本音路線が間違っているとは、どうしても思えないんです。
 だって……「功徳を積んだら御利益があるぞ」とか、「献金減らしたら病気になるぞ」みたいな迷信は。昔だったら通じるかもしれませんけど、現代社会では通じません。
 礼拝サボると体裁が悪いから……みたいな、周りの目を気にさせることは。田舎では、多少の効果はあるかもしれませんが。ひとはヒト/自分はジブンという時代になって来てますから。信徒を、礼拝につなぎ止める力を失いつつあります。
 人間、ひとのことより、まず、自分です。それが悪いことだとしても。どうしても、そう考えてしまいます。そういう私どもですから。教会の信仰が、自分にとってどうしても必要だ……と。自分で納得できて初めて、きちんとした信仰生活が、続けられるようになるのだと思うのです。
 自分にとって、教会の信仰は何だろうと、自分の中を確かめてみて。やっぱり教会はどうしても必要だ……と。自分で納得してようやく、神を信じることの恵みが分かるまでの信仰に、自分のことを訓練して行くことが出来るのです。
 教会も、みんながそういう自覚的な信仰者になって。良い教会になって行くのです。
 ただ……。過渡期には難しいことが、あります。
 礼拝には来るものだ、献金はするものだと思っていたひとたちが。自分のために本当に意味があるのか、なんて迷って。一時、教会を離れても。そこから、自覚的な信仰として教会に帰ってくれば。帰って来た時には、ずっと確かな信仰者になっているハズですけど……。たいていは、ただぼんやり帰ってきます。
 それなのに。締め付けをしないお陰で、教会を離れて行くひとがあるのが。100人、200人の教会だったら何でもないかもしれませんが。10人の教会で、そんなことやってたら。帰ろうと思った時に、教会は「もう無かった」とか。建物は残っていても、誰も居なかった、なんてェことにも、なりかねません。
 そういうことのないように……。っていうことでも、ないですが。主題聖句は、週報や月報に掲載してあります。「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるかをわきまえるようになりなさい」という言葉です。

U.
 この、ローマの信徒への手紙の12章でも。よく調べてみますと。自分のことを、きちんと、誠実に、真面目に考えるというのは。決して、神の御心に反することではない……と、思わされました。
 「何が善であるかをわきまえなさい」と言われています。この後、聖書は・その善いことをやりなさいという話しが、長々と続きます。
 何が悪いことで、何が善い事か……。私ども、まぁ、だいたいは分かっています。そして実際、聖書に書いてあることも、特別なことじゃぁ、ありません。普通のことです。
 自分のことは、謙遜に評価するように。そうして、それぞれ自分の能力を活かして、ひとに奉仕しなさい……ということが、次の3節から9節までです。
 その後は……。悪を憎んで。しかし敵にも復讐してはならない。ひとのことは愛して、尊敬しなさい。お酒や、性的にみだらなことに溺れては、いけない。怠らずに熱心に頑張りなさい。弱い人のことを受け入れなさい……と。普通に善いことが、次々、言われます。
 そのいちばん初めが、今日の聖書です。最初は、私どもが、どう生きたら、神さまは喜んでくださるか……。何が神の御心か、わきまえるように。自分を、変えてもらえ……と言うのです。
 何が善いことで、何が悪いことか、一応分かっています。普通の道徳と、だいたい一緒です。それなのに、こうやって「何が神の御心か、わきまえよ」と敢えて言われていることを考えますと……。
 思い当たります。
 何が、神の御心か。自分勝手に、自分の都合、自分の欲望、自分のためばっかりを考えているのが、神の御心のはずは、ありません。けれども、じゃぁ……。
 世間のひとたちが。隣近所の人は、私を悪く思わないだろうな……と。人のご機嫌を伺って、公衆道徳をコソコソ守るのならば。惨めな、馬鹿馬鹿しい生き方です。
 同じように、私どもが。神さまは、私を良く思っているだろうか……と。びくびくご機嫌を伺いながら、聖書の道徳をコソコソ守るのならば。やっぱり、惨めな、馬鹿馬鹿しい信仰です。
 神さまがお喜びになるのは。私どもが、生き生きと、のびのびと生きることです。
 ただ、それが……。自分勝手に、自分の都合、自分の欲望、自分のためばっかりを考えて、やりたい放題をやったとしても。生き生きとは生きれません。
 そういう経験のないかた。好き勝手を我慢して生きて来たかたは。あるいは、好き放題が「のびのび」だと考えるのかも、分かりませんけど。かなりな悪いことをして来た者なら、知っています。やりたい放題、ひとを傷付けて廻ったって。それとも、ひとからチヤホヤ、かまってもらったって。それで本当に生き生きは、なりません。
 それよりも、われわれが生き生きと出来るのは; 自分が関わったことで、ひとが生き生きとした時です。特に、苦しみ、悩んでいるひとが。何か自分の働きが助けになって、その相手が俄然生き返ってしまったら。居ても立っても居られない程、こちらのこころが沸き返ります。嬉しいと思います。
 それは、誰でも知ってます。
 そういうことで生き生き出来た時。実際にやっていることは。ひとを憎んだり、泥棒をしたりとか。そんな悪いことじゃぁ、ありません。実際にやっていることは、たいてい一般道徳と似たようなモンです。ひとを愛して、弱いひとを助けて……って。具体的なやることは、修身の教科書に載ってることと、よく似ています。ほとんど同じことです。
 神さまがお喜びになるのは。われわれが、コソコソ良いことをするこっちゃぁ、ありません。われわれが、生き生きと、のびのびと生きて、仕合わせになることです。
 愛する子どもが、正義を愛して正しいことをやっていたら、親としては嬉しいです。でも、愛するこどもが、自分は良く思われているだろうかと、ビクビクしながら正しいことをやっていたら。親は、全然嬉しくない。正しいことをやればやる程、悲しくなるじゃぁ、ありませんか。パリサイ人は、そうやって神さまを悲しませていたのです。
 神が、喜んでくださるのは、私どもが、仕合わせになることです。私どもが、のびのびと、自由に、やりたい通りに生きることです。
 やりたい通りなんですが。その結果、やってることは修身の教科書みたいな。外から見たら、丸で聖人君子みたいな。たまたま・そう見えるようなことばっかりを・やる……結果になる。隣り人を愛して、隣り人を生かして、それを自分の喜びとする位。私どもが、完全な仕合わせになることを、神さまは、喜んでくださるのです。
 そういう意味で。「神に喜ばれる生活」とは、自分が仕合わせである、生活です。

V.
 私ども……。正しいことをやって喜ぶことは、出来ます。クリスチャンでも、そうでなくても、出来ます。ただ……いつも・いつも、そうであり続けることが、出来ません。
 言い換えますと、私ども、真の仕合わせを感じることは、ありますが。ずっと仕合わせであり続けることが、出来ません。
 自分を犠牲にひとを助けて、ひとを仕合わせにして、それを自分の仕合わせにするという……。本当に聖人君子みたいな、完全な仕合わせを、時たま感じることは出来ますが。そういう完全な仕合わせであり続けることが、出来ません。
 それは、世の中が罪に支配されているからです。私どもが、タマにせっかく善いことやって仕合わせになっても。世の中が、つまらないことに、価値のないことに、誘惑するからです。
 また、私ども自身が罪に支配されていて、その誘惑に、すぐに乗ってしまいます。タマにせっかく善いことやって仕合わせになっても。じきに、自分を犠牲にして「損した」なんて、考えるんです。仕合わせにさせられた癖に、それを悔やむのです。
 それも、世界中誰でも一緒です。クリスチャンでも、そうでなくても、一緒です。今日の聖書を書いた、パウロも一緒です。
 だから聖書は、「神の憐れみによって」勧めているのです。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」って、始まってました。使徒パウロだって、ちゃんと完全に仕合わせであり続けることは……。ただ神の憐れみによって、神さまにしていただいて、そうなるから。神の憐れみによって、勧めているんです。
 何を勧めているかというと、「自分を変えていただきなさい」。自分が、変わる必要が、あるのです。
 どう変わるかって言えば、「こころを新たにして、自分を変えていただきなさい」。何から何までじゃぁ、ありません。ただ、こころを新たに出来るように。そこだけ、変えてもらえれば良いのです。
 やらなくっちゃぁいけないことは、簡単だからです。誰でも知っている、ひとを愛することで、自分が豊かにされることです。それさえ出来れば、良いのです。そして、誰でも、その喜びは、経験しています。自分のお陰でひとが生き返ったら、それは、自分の喜びです。だから、誰でも出来るんです。
 ただ、世の中に住んでいるために。いつも・いつも、その尊い喜びに留まっていることが、出来ないのです。
 だから、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」って、あるんです。自分のこと、自分のため、自分の利益ばかりを考えて、かえって自分の幸いを失っている。そんな・この世に倣って自分を不幸にするのではなくて。目指す方向を、変えていただきなさい。
 行ないを全部変えるんじゃぁ、なくて。こころを変えれば十分なんです。
 やっていること、全部を変えるのは、とんでもないことですが。自分は、もとのままで。その場で、心の向きをずらすだけですから。何でもないことです。神に造っていただいた、神の被造物としては、何でもない当たり前のことです。
 当たり前のことだから、クリスチャンでもそうでなくても、時々経験出来るのです。だけど、神の被造物であることを厭がって。自分が、自分の主人になろうとしてしまう罪に支配されている限り。すぐに、不仕合わせに戻ってしまうのです。
 自分が自分の主人であろうとする罪は、どうにもならない……。きっと「原罪」っていわれるような罪ですから。そこは、自分じゃぁ変えれない。神さまに変えていただかなくっちゃぁ、いけない。キリストによって神さまと和解させていただいた今、キリストの霊を受けて。神に造っていただいた当たり前の状態に戻していただきなさい(ローマ5:1以下)。
 そういう勧めです。

W.
 教会とは、まず……。そうやって、キリストさまの霊を受けとって、新しくしていただく場所です。自分が自分の主人であろうとする罪を贖うために、キリストさまは、十字架で死にました。それが復活して、教会で、出会うのです。そのために、教会が、あります。
 それが教会が教会である、第一番のことでしょうけど。今日の、修養会の主題に添って、第二番のことを申しますならば;
 教会は……あと、キリストに救われたものとして。本当に、そうやって生き始める場所です。
 世の中ばっかりを見ていたら。世の中は、ヘンです。みんな苦しんでいるのに。苦しみから逃れようとして、一生懸命、逆のことをやっているんです。自分に拘ることに苦しんでいるのに、じゃぁ、自分はどうすれば良いか、自分は、自分は……って。ますます自分を苦しめているんですけど。苦しいから、みんながそうやっているのを見ていたら。誰だって、間違っちゃいます。
 教会は、「自分は、自分は」って言い続けて、ひとに構ってもらう所じゃぁ、ありません。ひとに慰めてもらう所じゃぁありません。
 仕合わせになっているひとを見て、何が神の御心か、思い出す場所です。何が良いことで、神に喜ばれることか。何が自分を本当に仕合わせにするか、思い出す所です。思い出して、実際に仕合わせになる所です。
 仕合わせになり方は、単純です。自分が愛するんです。
 自分勝手に、自分の都合、自分の欲望、自分のためばっかりを考えることじゃぁ、ありませんし。公衆道徳をコソコソ守って、自分の評価を気にするのでも、ありません。自分が、いちばん生き生きとさせられること……。つまり、ひとを愛して、ひとを喜ばせて。ひとを仕合わせにしてあげようとする。それを、世に倣ってではなく、信仰の先輩にならって。自由に、やれば良いのです。
 一年以上前ですけど。K教会にちょっと寄った時に。Mさん……って、若い男性長老がいて。ひとりで、何かそれは嬉しそうにトンカチ持って脚立に昇って。教会の屋根だか電線だかを直してました。「牧師どこですか」って聞いたら、「分かりません」って。誰にも関係なく、ひとりで勝手に、ひとのためにやってて、役に立つことが、嬉しいんです。
 真っ昼間だったから、「お勤めの方は、良いのかナ」と思いました。その日は、夏休みだか何だかだったのかも分かりません。たとえば、ですけど。信仰の先輩が。自分の金儲けよりも、ひとに奉仕することで嬉しくなっていたら。あるいはお休みに、自分の遊びよりも、ひとに奉仕することで嬉しくなっていたら。それを見せていただいて……。
 それで、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを、思い出して。それで、慰められるのが教会です。
 信徒が教会に幻滅するのは…=…どれだけ聖書を読んでも、どれだけ礼拝に通っても、どれだけ祈っても仕合わせになれないのは。ひとのために指一本動かそうとしない時です。逆に、教会に来て仕合わせになるのは。ひとに仕えて、ひとに奉仕するときです。
 だけど……。これは、そんなに大事なことじゃぁ、ありません。奉仕なんて、第二番か、三、四がなくて、五番目か。大事さ加減からいったら、ずっと後のことです。教会で大切なことは。第一番は、復活のキリストさまと出会って。キリストの霊を注いでいただくのが、教会に来て、やることです。神と和解して、霊を注がれることです。それさえあれば、良いんです。
 ただ、復活のキリストと、どうやったら出会えるのかって言ったら。何か御利益で、ラッキーなことがあった時じゃぁ、ありません。自分が役に立って、ひとが仕合わせになった時です。自分が愛することが出来て、そのお陰で、ひとが、生き返った時です。
 身を削ってひとのために尽くして。自分は損をした……ハズなのに。相手が生き返って、損したハズの自分が、かえって豊かにされていた。そういう経験をした時。キリストの霊が、少し、はっきり分かってきます。
 だから・やっぱり、第二番目、三番目とは言っても。善いことをやるのは、第一番の、神に祝福されることと……直接に、繋がっていることなんです。

X.
 ひとのために仕えて、いちばん喜びになることが何かって言えば。苦しみで死んだようになっていたひとを、生き返らせることです。ひとが、のびのびと、自由に、生き生きと。それを、私どものお陰で出来た時には。それが、こちらの一番の喜びになります。
 だからイエスさまは、伝道しなさい……って、私どもに、お命じになったのです。
 伝道って。伝道が、キリスト教を説明することだったら。たいてい、鬱陶しい。ありがた迷惑で、普通はなかなか、ひとを生き返らせれません。
 伝道とは、キリストの愛で、ひとを愛することです。
 キリスト教の教理だとか、聖書に書いてあることの意味だとか。そういうことも、まぁ、アレかもしれませんけど……。
 私どもが、本当に仕合わせだったのは。自分のために、自分の欲望を一生懸命実現しようとした時じゃぁ、なかったじゃぁないか。それよりも、ひとに仕えて、自分を削ってでもひとを仕合わせに出来た時。われわれ自身が、生き返らされたじゃぁないか……と。伝道って、きっと、それを伝えることです。
 だから伝道の目標は。キリスト教を理解させることじゃぁ、ありません。苦しんでいるひとが、苦しい状態にあるのに。自分のために生きるンじゃぁ、ない。苦しみながらひとに仕えて、それでそのひとが仕合わせになるように。ひとを、ひとに仕えるひとに変えることだと思います。
 お前も、くだらん自分のことばっか言ってないで。ひとを愛して、ひとに仕えろ、それで仕合わせになれるんだ……と。それを伝えることです。
 ただ、こっちが「愛せ、働け、奉仕しろ」って口で言ったて、苦しんでいるひとを、余計に苦しめるだけでしょうから。やっぱり自分が愛して、からだを動かして、ひとに仕えて仕合わせになることです。身体が動かないならば、自分がこころを砕いてひとのために考えることで。ひとを愛することで、自分が生き生き、のびのびすることです。
 そういう伝道を、しなくっちゃぁ、いけません。
 本当に愛して、ひとに仕えて、自分を削ってでもひとを仕合わせに出来た時。われわれ自身が、生き返らされるんです。それは、教会じゃぁなくっても、世界中で出来ることですが。それを、常にやり続けるには。それを常にやり続ける志を抱いて。共にキリストの霊を受ける、この共同体が、やっぱり、要るんだと思います。
 それなのに……。残念ですが、今、特に西日本だそうですけど。教会は、どんどん潰れてってく方向だそうです。神の教会を、われわれ人間の怠慢で潰しちゃ、いけません。
 だけど、ただ頭数を寄せたって、仕方ありません。自分が生き生きと、のびのびと、自由に。自分を犠牲に出来るくらいにひとを愛して、ひとのために奉仕して。それで、自分が生き返らされる。それで相手にも、「愛せ、働け、奉仕しろ」って。口で言うじゃぁなくて、生きてる限り、そうしたいと。そう感じさせれるような、そういう伝道を、しなくっちゃぁ、いけません。
 そういう伝道じゃぁないのなら、教会を建てたって、維持したって、意味がありませんし。そういう伝道が出来れば。そういう伝道を、みんながしなくっても。ひとりでも自分が、やれば。教会なんか、別に維持しようとは思わなくったって。そこから……。自分から、キリストの教会が建ち上がって行くんだろうと思います。

中村栄光教会
説教集へ