2004年6月20日
日本キリスト教団中村栄光教会
特別伝道礼拝説教
愚直・こんな自由がほかにあるか


愚者(タロットカード)



聖書研究
ローマ5章    中村栄光教会
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新約聖書【ローマの信徒への手紙 第12章3〜8節節】






特別伝道礼拝説教
愚直・こんな自由がほかにあるか

中村栄光教会牧師 北川一明
2004年7月22日 一部変更

T.
 ひとに幸いをもたらす尊い生き方とは、どういうものか。聖書には、キリスト教の考え方が、書かれています。
 仕合わせになるには、どうすれば良いか。自分の命を最も豊かに、尊く用いるには、どうするか。思いッ切り大雑把に要約して申しますと……; 今日お読みしました所では、最後の一文でしょうか。
 8節の途中から、「施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」と、書いてあります。「惜しまず、熱心に、快く……快活に生きる」というのが、キリスト教の生き方です。
 施しとか、指導とか、慈善とか……。何をやるかっていう方は……、どうでも良いとは言いませんが。そういう善いことを、別に無理にやれと言っている訳では、ありません。
 さっき、ヒトには・それぞれの賜物があるとも、言われていました。ひとそれぞれ……得意分野があるのだから。得意なことを、やれば良い。施しや、指導や、慈善を……やりたくなきゃぁ、別に無理して、偽善でやったって仕方ありません。何をやるか、よりも、どうやるか、です。
 もしも、やるのなら…=…やる場合は、どういう風にやるのか; 施しをするひとは、やるんだったら「惜しまず」やりなさい。指導するひとは、どうせするなら、熱心に指導しなさい。慈善を行なうひとは、どうせなら気持ちよく行ないなさいと言われているのです。
 自分の命を最も豊かに、尊く用いるためには、どうすれば良いか。ケチケチせずに、一生懸命に、また快活に、ひとに接しましょう……と。それだけです。
 もっとも、最初の「惜しまず」というのは。本当は、「ケチケチせずに」では、ありません。新約聖書は、もともとはギリシア語で書かれたんだそうですけど。その、もとの言葉は。愚直に、馬鹿正直に、率直に、という意味だそうです。
 ですから、何をやるんでも「率直に、熱心に、快活に」やりなさい。それが、私どもを、いちばん人間らしく、豊かに、仕合わせにする生き方なんだ……ということです。

U.
 「率直に、熱心に、快活に」とは。単純ですけども。確かに、いちばん良い生き方かもしれません。
 思春期に……。私は、ずいぶん長い反抗期を過ごしました。全ての人間は、みんな自分のためだけに生きている……と信じてました。それで親や先生に対してだけじゃぁなく、世の中全部に反抗してました。
 自分の欲望のためにひとを傷付けるのなんか、別に何でもない。世の中、誰でもやっている、ただ自覚していないだけだと思ってました。法に触れることだって、見つかりさえしなければ構わん……と。20代前半まで、そう信じてました。
 ところが……そんな時期でも。ロシアの文豪トルストイに、『イワンの馬鹿』というのが、あります。それを読んだら、いつも。イワンの生き方が、羨ましくなりました。
 馬鹿だから、率直に、熱心に、快活に。ひとに頼まれたら、その通りに。自分の損得に関係なく精一杯にやっている。そういう馬鹿のイワンに憧れました。
 でも、あれは小説の中だけで、誰も、そんなことは、やっちゃぁいないし。だから、俺にも出来るはずがない。「率直に、熱心に、快活に、ただひとのために生きる」なんて。あるとしたら、偽善だ。みんな、自分のために生きているんだ……と。だから反抗も、してたんです。

 どうして、馬鹿のイワンみたいな生き方が出来ないのか。「率直、熱心、快活」が、良いことであるのは、分かります。ただ、それでいっぺんに仕合わせになるものでもないだろう……と。そういうことだったのでしょうか。
 自分を仕合わせにするためには、「率直、熱心、快活」だけでは駄目なのだ。他に、沢山の条件が整って。その上で、率直、熱心、快活にやったら仕合わせだ……っていうことでしょうか……。
 今、何か重大なことで苦しんでらっしゃる方でしたら。率直、熱心、快活なんて、「俺の問題は、そんなことじゃぁ解決しない」と。そうおっしゃるかもしれません。
 馬鹿正直では、解決しない問題が、あります。病気が、そうです。ひとに対して善くしても、病気は治りません。お金の問題も、そうです。将来の不安も、そうです。
 いろいろな問題が、あります。俺の問題は、率直、熱心、快活なんてことでは、解決しない……って。それは、その通りです。
 ですけど……。じゃぁ、その「俺の問題」っていうのは。どうやったら解決するのでしょうか。
 お医者さんに行って、病気が治ったら。その「俺の問題」っていうヤツは無くなるのか。お金がなくって、不幸である。それだったらば、宝籤に当たれば、仕合わせになるのか。
 そうじゃぁないのかも、しれません。そうじゃぁないと思ったから。私は、馬鹿のイワンに憧れたんです。
 『イワンの馬鹿』に出てくる主人公は。馬鹿で、うすのろで、単純で、率直で、まっすぐだから。お金がなくても。腹が減っても、病気になっても。「俺の問題は解決しない」なんていう問題が。そもそも、最初っから、ありませんでした。
 外国から攻められて、財産を略奪された時には。私等は、馬鹿じゃぁないので。それが大問題であると、分かります。ところがイワンは、馬鹿で、うすのろで、単純で、率直だから。何もできずに、ただ、泣いていました。
 それでも……、何とも出来ないものを何とかしようとして、余計に自分自身を苦しめている、アタシよりかは。ずっと仕合わせ……であるように、見えました。

 私ども、いろいろな悩みを抱えております。そんな私どもが、「仕合わせに生きる」ということを目指したら。真剣に、切実に、自分のことを何とかしようとします。
 そういう時には、施しだ、指導だ、慈善だ、なんて。そんなことは、言っちゃァいられません。自分が苦しい、いちばん苦しんでいるのですから。そんな余裕は、ありません。
 だけど、「俺の問題は解決しない」って言っている。そういう考え方、それ自体が……。自分を不幸にしているようにも、思えるのです。自分のことを特別に大事にするもんだから、小さな問題を、大きな苦しみにしてしまう。それが、私どもを不幸にしている、どうしても解決しない、「俺の問題」なんじゃぁ、ないか……。そうも、思ったのです。
 切実な、どうにも解決のならない自分にとっての大問題とは。病気ですし、お金の問題ですし。将来の不安です。『イワンの馬鹿』みたいに、財産を略奪されたり迫害に遭ったり、そんなことが本当にあったらば、大問題です。
 だけども、その大元にある、もっと大きな問題は。問題の根本は。実は、病気じゃぁない。お金でもない、将来でもない。略奪でもない、迫害でもない。自分のことを特別扱いしてしまう……そういう、私どもの、愚かな賢さ……なのかもしれない……って……。考えさせられました。

 今日の『ローマの信徒への手紙』を、最初から読んでみますと。3節、「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません」。「自分を過大評価しない」っていうことが、真っ先に出て来ます。
 ひとが日々を仕合わせに、尊く生きるには、どう生きたら良いか。今日読んだよりも前の、1節と2節は、要するに「神さまが、大切です」ってことです。神さまを大事にしているひとが、具体的に何をするのかって言ったらば、今日の、3節からなんですが……。
 具体的には、まずまっさきに自分を過大評価しないようにして……。そして、それぞれ向き不向きがありますから。それに応じて、やるべきことを、やる。率直に、熱心に、快活に、やりましょう……と。
 聖書はこの後……。今日読んだ先で、「愛が大切である」って言う話しが、出てきます。「愛が大切だ」くらいは、みんな分かっています。でも、自分を過大評価しないで。単純に生きることの方が、愛よりも先なんです。
 だって、自分を過大評価している限り。愛だって、悪いモノになってしまいます。自分を過大評価しながらの愛は、自分勝手な、勘違いした愛か、ハタ迷惑なストーカー行為になります。
 まずこころがける具体的なことは、「自分を過大評価しない」ということです。

V.
 それなのに。誰でも絶対に、自分を過大評価するんです。それが、不幸の源かもしれません。
 私ども、「仕合わせに生きる」ために、いつも必死で自分のことを何とかしようとしています。それ自体は、悪くない。正しいことかもしれません。
 けれども、自分を、本当の自分以上に大切なものだと思ってしまって。そこから始まって。私ども、何から何まで、うまく行かない……。ヘンな方向に行ってしまうのだと、思うのです。

 自分にとって、いちばん掛け替えのないのは、自分です。だから、どうしても自分が基準になってしまいます。それで、尊大になってしまいます。みんな、そうです。
 自分を過大評価しない……の後には。「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」とも、書いてあります。
 けれども、いかがでしょうか。謙遜に、慎み深く振る舞っているひとに……。偽善者みたいない、嫌な感じを受けることが、あります。
 自分を偉いと思っているひとが、格好だけ、慎み深く振る舞っていたら、最ッ高いやったらしい偽善者です。
 誰も、偽善者にはなりたくありません。けれども……どんな慎み深いひとでも。自分を過大評価している面は、どうしても、あります。
 「慎み深く」って言ったって。自分を基準に、自分の考えで慎み深く振る舞っているのならば。自分の考えで計算している分、やっぱり、ある面自分を過大評価しているのです。
 たとえば「私は能力がありません」って、私ども、謙遜します。けれども、それは慎み深いからじゃぁ、ありません。自分に拘っているからです。
 「私には能力がありません」って……。決して偽善のつもりでも、ありませんが。自分の能力を客観的に判定して、そういうことを言うのでは、ありません。ただ自分に拘っているだけです。
 だって……ひとに、奉仕するつもりがあるのなら。私ども、「能力がありません」なんて。そんなこと、言いません。「私に出来るのは、ここまでだと思いますけど、ここまでを一生懸命やります」と。馬鹿のイワンだったら、そう言って……とにかく、働きます。馬鹿正直に、ただ一生懸命、やります。
 それを、馬鹿じゃぁない……賢い私どもは。計算ができますから。すぐに計算します。
 自分が期待を裏切ったら、嫌だ。自分が失敗したら、恥ずかしい。自分だけが負担をかぶるのは、厭だ。自分だけ目立ちたくない。自信家だとは、思われたくない。謙遜な、立派な人間だと思われたい。その他……。
 私ども、頭が良いもんだから。それくらい……、いつも自分に拘っているのだと思うのです。
 自分に拘るのは、しょうがないです。自分にとっては、自分だけが・ただ一人、掛け替えがないからです。だから、どうしても自分に拘ります。しょうがないんですが……。そのために、ただ普通に生きることが、できないで。率直さ、熱心さ、快活さを失って。自分と相手を、不仕合わせにしているんです。
 率直、熱心、快活では、俺の問題は解決しない……という時の、「俺の問題」とは。率直であれない、熱心であれない、快活であれない。それで施しが出来ない、指導も出来ない、慈善も出来ない。自分大事な、われわれの傲慢です。

W.
 今日の聖書の「惜しまず施し」っていう言葉も、そうなんです。私、牧師ですから。一応、聖書の言葉を、原典に当たったりして調べるんですけど。それで「やっぱり、そうだったのか!」って思いましたのは……;
 この「慎み深く評価すべきです」っていうのも。これは、謙遜ぶって「私には出来ません」とか、「私は駄目な人間です」とかって。そういうことを、口で言うことじゃぁ、ありませんでした。
 もともとの言葉の意味は。ただ、「自分が自分である通りに、正しく評価しなさい」っていう意味でした。ですから、「過大評価してはいけない」っていうのと、同じことです。
 自分を大切にすることは……。それ自体は、正しいことです。神を畏れ敬うのならば。神さまから与えられた自分の命も、貴んで。自分の人生を、畏れ敬うべきです。
 ただ、自分だけが、掛け替えのない唯一つの基準だと思っている限り。自分を正しく評価できません。自分のことを過大に評価してしまいます。そうして、自分が本当は何なんだか、分からなくなります。それで、自分のことを仕合わせにすることが、出来なくなるんです。
 自分を精一杯大切に、尊びながら。それでも、自分を正しく評価するには。自分を、唯一掛け替えのない基準だと思っていたら、駄目です。自分以上に掛け替えのない、唯一の目的。自分よりも尊いものを知らなければ、なりません。
 自分よりも尊い、大切なものが、ある……。それを信じた時に、私ども、本当に慎み深くなれます。
 そして、自分が、その自分よりも大きな、尊い大切なものに関わっている……。自分が、その尊いものの中に、組み込まれている……って。それを信じた時に。慎み深くありながらも、自分自身を、精一杯大切にすることができるようになります。
 聖書が教えているのは、そういう生き方なんじゃぁないかと思うのです。

X.
 自分よりも尊い大きなものを知って。自分がその中に組み込まれていることを信じたら。馬鹿正直に。たとえ、仮に自分を犠牲にしてでも、出来るだけのことを精一杯、やることが出来るようになります。
 たとえば;
 大企業に勤めているひとが。会社を、そんな尊いものだと信じ込んだ。そして、自分はその一部分であると思い込んだ「会社人間」が、あるそうです。そういうひとたちは、自分を犠牲に会社のために働きます。会社の犯罪を、ひとりで背負うことさえ、あります。
 これも、信仰です。会社を神と勘違いした、信仰です。
 ただ、残念ながら……。間違ったものを信じたヒトは、信仰のないヒトよりも、不幸です。会社は……。もちろん、自分よりも尊いものじゃぁ、ありません。
 自分よりも尊い、唯一のものって何か。それを「神」と言うならば。何が本当の神なのか。
 家族が、自分よりも尊いものだと信じ込んで。家族のために自分を犠牲にするひとも、あります。それも、信仰です。私どもがキリスト教信仰ならば。そういうのは、家族信仰です。
 そして家族は、たぶん、会社よりも・もうちょっと、本当の神に近いのです。家族の絆には、神さまから与えられた、尊い何ものかは、あるとは思いますが……。だけど、それが神そのものじゃぁ、ありません。
 何を信じるか……。われわれが本当に仕合わせに、豊かに生きるためには。何を、まことの神と信じるかが、やはり、問われるのだろう……。
 私どもクリスチャンは、イエス・キリストを通して……。……私どもだって、はっきり神を知っているワケじゃぁ、ありません。けれども、イエスさまを通して、自分を超える尊いもの、唯一の神を、……なんとか、ほんのちょこっと、感じ取ったのです。
 キリストさまは、愛の大切さを説いて。ご自分は、多くの病人を献身的に癒やしました。多くの罪人を呼び集めて、慰めました。そうして、われわれ人間が、罪に狂って殺そうとしたら。そのまま十字架につきました。
 そのイエスさまの生き方と、死を聞き知って。そういう大きな、天の永遠の神さまと結びついた「愛」っていうものが。唯一の、尊いものだ。自分よりも、尊いものだ。
 だけど、じゃぁ……。キリストの愛が尊くって、われわれの価値は、低いのかっていうと。決して、そうじゃぁ、ない。その唯一の尊い愛は、私を愛してくださった。私も、その愛の一部に、入れていただいた……。
 だから、私は、やっぱり掛け替えがないんです。ただ、「俺だけが掛け替えがない」んじゃぁ、なくて。「キリスト」という全体の中で。私どもが、掛け替えのないものに、されているのです。
 私どもクリスチャンの信仰とは、そういう信仰です。

Y.
 自分を超えた、その、大きな尊い愛は。私どもの、すぐ傍に、あります。
 馬鹿のイワンよりも賢い私どもですから。少なくとも、イワンと同じくらいには、尊い愛を、知っています。
 たとえば……。さっき、われわれは、妙な謙遜をして、ひとのためには働かないって言いましたけど。われわれだって、イワンみたいに率直に、働くことが、あります。
 たとえば、愛する家族が、困って、死にそうになって、助けを求めていたら。まさか「私には出来ません」なんて、暢気に謙遜なんか、絶対にしません。
 たとえ、「私には出来ない」と思ってたとしても。それでも、なんとか助けようと、必死で、やります。出来る限りのことをやります。自分を犠牲にしてでも、やります。命を犠牲にすることだって、あります。
 自分の命よりも大切な、けれども、自分もその中に含まれている、そういう大きな愛のために、私どもは、己が身を献げることさえ、します。
 愛する者が死にかけている時、とにかく、全てを注ぎ出して助けようとするのと。ただ指をくわえて見てるのと、どっちが仕合わせか。出来ても出来なくても、精一杯のことをやる方が、ずっと仕合わせです。
 私ども、自分の命よりも尊いものを、知っているんです。
 ただし……。そうやって、必死になるのが。自分のことだけ、自分の身内のことだけだったらば。それは……ちょっと貧しい人生でしょう……と、思うのです。身内だけを愛していたら。最初の、自分に拘って自分を不幸にする生き方と、一緒です。
 イエスさまが見せてくださったのは、そうじゃぁ、ない。私ども、愛しかたは知っているのですから。「自分のことだけ」とか、「自分の身内だけ」っていう所から、一歩だけ……。ほんの一歩だけ、外に出た。隣り人を愛する……って。それが、キリストさまの示してくださった、「愛」というものです。
 ただ、それだけの違いが。永遠の、天国に繋がって行く、尊い、豊かな愛なんだ……って。それを見せてくださったのだ……と。聖書を読んで。イエスさまの生き方、死に方っていうのを知って。そう、思わされました。
 クリスチャンであっても/なくても。私ども、誰でも……尊い、大いなる愛は、知っています。ただ……。
 自分の持っている小さな愛を、もっと尊く大きく拡げて行く……。そういう尊い生き方に、私は、導かれているんだ……と。そういう、もっと豊かな幸いに、導かれているのだ、と。私どもクリスチャンは、キリストさまを見て、それを、信じたのです。

Z.
 愛の、具体的な形は。実際は、「施し」であるかもしれません。「指導」かもしれませんし、「慈善」であるかもしれません。
 具体的な形は、他にもあります。ひとを慰めるために、場合によっては、ただ冗談を言うことが、愛かもしれません。ふざけて、じゃれ合うことかもしれません。抱きしめることかもしれません。悲しんで、一緒に泣くことかもしれません。厳しく注意することかもしれませんし、ひたすら詫びて謝ることかもしれません。
 何にせよ……、正直に。率直に。ただ一生懸命、そうやって相手と関係を持たされていることに感謝して、喜んで、精一杯に出来たとしたら。そうした生き方は、私どもひとりひとりを、本当に人間らしく。豊かに生かします。
 愛する者のために、率直に、熱心に、快活に。施し、指導し、慈善を行ない、慰め、じゃれあい、抱きしめ、泣き、叱り、謝ることができたら。率直に、そういうことが出来たら。こんなのびのびとした生き方は、他には、ありません。
 そして、永遠の命は、そこから、始まるのです。私どもが、死者の中から復活したキリストと出会って、天国を信じるのは。そういう、率直、熱心、快活に、自分自身を献げることさえ出来るような、愛の業です。そういう愛を通して、私どもは、永遠の命を知るようになって行きます。
 そして、もう、始まりかけています。
 一日一日を、仕合わせに。尊く、精一杯に、また朗らかに生きたい。そしてその先に、もっと尊い永遠の何ものかを見つけたい。私ども、それを、求めています。
 しかし救いは、誰にでも与えられます。
 だって……。私だって、愛は、知っています。少なくとも、身内に対する愛は、知っていますし。そこから一歩だけ外に踏み出した時、自分が、俄然豊かにされることも、知っています。
 その仕合わせな生き方を続けた時に、永遠の、尊い、聖なるものが。もっとはっきりと確信できるようになって行くのだと思います。

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