2004年3月14日
日本キリスト教団中村栄光教会
主日礼拝説教
うらやましいひと


中村栄光教会伝道師 金 園播


中村栄光教会
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新約聖書@【ヨハネによる福音書 第21章 15〜19節】
新約聖書A【テサロニケの信徒への手紙T 第2章 7、8節】








うらやましいひと

金 園播


T.
 ある信徒の方と、テサロニケの信徒への手紙を読んでいます。
 ちょうど2章を読んた時のことでした。いつもその日に読んだ聖書について感想を話し合うのです。私は7、8節が印象に残りました。
 わたしたちは、「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちがあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛するものとなったからです」という所です。
 中村栄光教会の副牧師として、少し恥ずかしいと言いましょうか、後ろめたいと言いましょうか……。帰る道でも、その御言葉が耳から離れなかったのです。神さまが今の私に警告をしていらっしゃるように思えました。
 パウロはテサロニケの信徒たちを自分の子供のように愛しました。そして、「福音を伝えるだけでなく、命まで与えたい」と言うのです。
 「私は、命を与える程に中村栄光教会を愛しているだろうか」と、自分自身に問いかけてみました。中村栄光教会のこと、教会の信徒のみなさんのことは好きですし……。「子どものように」と言ったら、年齢は私が子どもの立場かもしれませんから、少し変ですけれども。宥や祈愛を愛するように、ほんとうに親しく愛を感じています。
 けれども、じゃぁ命まで与えることが出来るかといいますと……。子どもを愛する程には、なかなか難しいかもしれません。そんな今の自分に気付かされました。
 ですから、このテサロニケの信徒への手紙の御言葉は、私に対して「パウロのようにしっかりしなさい」という神さまの警告かもしれない……と、感じさせられました。
 パウロが出来たことなのに、何故私には出来ないのだろう……。何が違うのかと考えますと。「神を愛する」という視点が、いつの間にか抜けてしまっていたのかもしれません。
 パウロには、主がしっかりとこころの真ん中にありました。けれども、あの聖書を読んだときの私のこころには。「イエスさまが真ん中に居る」という思いが薄かったのです。それが、いつの間にか隠れてしまっていたのです。
 自分が神学校に行った時のことを考えてみました。
 主を愛したが故に、どこまでも主について行くつもりでいました。主の御声に耳を傾けようとしたし、神さまが必要としているところに遣わされたいという思いでいました。だから、教会のためには何でもできたのです。
 今も、「教会のため」と思っています。けれども、実際に教会に遣わされていることで、現実の誰それさん、誰それさんという目の前のひとのことばかりを考るようになりました。そのために、肝心のイエスさまの方が、ぼんやりして来てしまったのです。
 イエスさまに対する愛が小さくなったままで教会を愛そうとした時。その愛は、やっぱり「人間的な愛」と言いますか……。限界のある、限られた範囲での愛に過ぎないものになってしまうのです。普通に言っている「好き」という言葉以上の「愛」にはならないのを感じます。命を捨てるまでの愛には至りません。
 そのことに気付かされました。

U.
 ある牧師の話が紹介されている本を、思い出しました。その牧師は、神学生時代に先生から「牧師である以前に、まず、信徒になりなさい。しかし、信徒である以前に神さまの前で恥ずかしくない清い人になりなさい」と言われたそうです。
 「まず、神さまの前で正しい人になることなしには、ちゃんとした牧師になることができないし、しっかりした信仰生活をしないで・ちゃんとした牧会はできない」という、厳しい叱責の言葉だな〜と思いました。
 正直に言いますと、私は「牧師であろう」ということは、あまり考えていません。それよりも、ちゃんとした信仰生活をしたいと思います。しっかりした信徒でありたいし、神さまの御心に従って生きる、そういう人でありたいです。その結果として、牧師・伝道師の務めが出来るのならば、それはたいへんありがたいことだと思います。
 しかし……しっかりした信仰生活をするとは、何を意味するのでしょうか。
 きちんと礼拝をし、お祈りをするということでしょうか。それなら、私の場合は教会に住んでいるのですから、出来ています。
 けれども聖書は、「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい(Tコリント13:2)」と言います。
 マタイ福音書の7章では、イエスさまが、もっと厳しいことをおっしゃっています。
  「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』(21〜23) 」
 私は、この御言葉が恐ろしくてなりません。天国に行った時、イエスさまからこう言われてしまったら、どうしようと思うのです。
 天国には、「わたしの天の父の御心を行なうものだけが入る」と言われます。天の父の御心とは、すなわち「愛」でしょう。私たちは、愛さなくてはなりません。
 「愛」とは、ただ口で「神さまを愛する」と言うだけではありません。実際に、具体的に、隣り人を愛することだと思います。
 ただ、隣り人を愛するには、主に対する愛がなければ、先ほどのように、ただの人間的な「好き」だけで終わってしまうのです。
 それで、聖書は;
 どんなにイエスさまの御名で行なわれることであっても、それがどんなに大きくて驚くほど素晴らしいことであっても、主イエスに対する愛がその動機と目的でなければ決して神さまのための働きには、ならない。私たちの苦労が、神さまに栄光を帰するどころか、かえって不法になりうる……と、強く警告しているのです。
 イエスさまは、第一の教えは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」である。第二の教えは、「隣人を自分のように愛しなさい」である。「この二つにまさる掟はほかにない」と言われました(マルコ12:29〜32)。その通りだと思います。
 今の日本の教会も韓国の教会も……。そこを牧会する牧師たちも、教会生活を送る信徒たちも。みんなが直面している大きな問題は、「神さまよりも愛するものが、たくさんあり過ぎる」ということです。
 主イエスより子供、物質、名誉、地位を愛しています。「神さま」のことではなく、「私」のこと 、神さまのビジョンではなく、わたしのビジョンを、もっと愛する。
 「あなたはこれらのことより私をもっと愛しているか」というイエスさまの問いに、明確に答えることができないのです。そのために、たとえば牧師が牧会をするのでも、「主イエス」の羊ではなく「私」の羊を飼うことになってしまう。
 その大もとには、「イエスさまに対する愛の喪失」があるのではないでしょうか。

V.
 「あなたは、これらのことより私をもっと愛しているか」というイエスさまの質問は、今日お読みした、イエスさまがペトロに3回にわたって聞いた質問です。
 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。ヨハネの子シモン、私を愛しているか。ヨハネの子シモンわたしを愛しているか」……。
 この質問に、みなさんはどう答えますでしょうか。
 ペトロは戸惑うことなく、自信を持って答えました。「はい、主よわたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と……。一回ではなく3回にわたって告白しました。
 初めに、パウロの手紙を読みました。テサロニケの信徒に対して、パウロは「自分の命さえ喜んで与えたいと願った」という所をお読みしました。そして、パウロもペトロも、ローマで殉教して死んだと伝えられています。
 イエスさまは、「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と、ペトロの死に方を預言しました。ペトロはそうした死に方を、喜んで受け入れたのです。本当に、自分の命を惜しまず捧げたのです。
 ひとを愛する以前に、主を愛していたから出来たことです。……と、言うよりも、信徒を愛する愛、隣り人を愛する愛が、主イエスを愛する愛から出て来たものだったから、出来たことです。

 3回にわたってはっきりと明確に告白するペトロが、本当にうらやましいです。私もペトロのように、そう告白したいものです。
 それでも、そこまで主を愛することは、とうてい出来ない。そこまで愛せないだろうという思いが、ありました。自分の信仰の足り無さを思うと、どうしようもないという思いにさせられてしまうのです。
 しかし、ペトロの告白の中を、もう少しよく考えてみる……と。そんな風に、自分の信仰に絶望する必要はないということに気付かされました。
 ペトロの告白の中で、本当にうらやましいのは、三回告白したことではありません。それよりも……; 自分がどのくらい主を愛しているか。それを、他の人でなく、相手である主イエスさまを証人としていることです。
 「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」、主がその証人でありますというのです。
 ペトロは主に対する自分愛がどんなものであるかを証明するためにヨハネやヤコブなど他の人をだしたりしてませんでした。その愛の対象である主イエスを証人としました。
 そのくらいペトロは、イエスさまに対する自分の愛の態度に後ろめたさが無かったのです。自信があったのです。同時にイエスさまに対する彼の愛は決して、うわべであったり、偽りであったりするようなものではなかったのです。
 真実な愛であったことを確信していることを見せてくれました。
 この、ペトロの自信は、どこから来るものでしょうか。ペトロは、つい少し前。イエスさまが十字架におかかりになった時に、主を三度「知らない」と言ったひとです。自分の命が惜しくて、主を裏切ったひとです。ペトロが、自分の愛で、自分の誠実さで「主を愛する」と言うのならば、それは、何度でも主を裏切る愛でしかないのです。
 「わたしがあなたを愛していることを、ヨハネやヤコブが知っています」と言ったのでは、全然当てにならないのです。
 けれどもペトロは、そんな弱い自分に対して、主イエスさまが現われてくださって、導いてくださいました。ペトロは、この主の恵みと導きを信じたのです。
 ペトロは、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と、告白しました。「あなたは何もかもご存知です」とは、「私の弱さもご存知です、その上で、あなたを精一杯愛そうとしていることをご存知です」という意味でしょう。
 それを聞いたイエスさまは、ペトロに「わたしの小羊を飼いなさい。私の羊の世話をしなさい。わたしの羊を飼いなさい」と、おっしゃいました。
 イエスさまはペトロに主を愛するかとお聞きになりました。それに対してペトロが愛していることを明確に告白しました。それも、イエスさまを証人として告白しました。その告白の後、イエスさまは使命をお与えになりました。
 それが今日の御言葉の構造であり、対話の順序であります。これは、とても大事な教えを私たちに示してくださっています。

W.
 私たちの、信徒としての第一の働きは、イエスさまを愛すること、そのものです。
 イエスさまを愛することに優先するような牧会や、奉仕や、信仰の業は、この地上には存在しないことを意味しています。
 私たちを愛し、私たちのために苦しみをお受けになり、十字架におかかりになった主イエスを本当に愛することこれこそが、最高の信仰であります。
 イエスさまは、私たちのために血を流してくださいました。私たちも、同じように、主のために血を流すことをしなければ、信仰の恵みには、与れません。それが、主を愛するということです。主のために命を捧げるだけの覚悟が、主の愛に応え、主を愛するということです。それだけの覚悟があって、信仰の恵みに与れるのです。
 ただ、それだけの覚悟は。イエスさまが導いてくださって初めて出来ることなのです。
 そこで、私たちの愛の対象も、愛の証人も、どちらも共に、まずイエスさまなのです。

 イエスさまは天の栄光の御座を捨て、この世に来られ、私たち罪人に仕えることを身をもっておみせになりました。その方を愛することが最高の牧会ですし……。最高の奉仕であり、最高の信仰生活です。
 失敗しても相変わらず、罪の中にいる私たちを訪ねて愛し、赦して、あたたかく包んでくださるイエスさまをほんとうに愛することが最高の信仰生活です。
 その時、主の名前で行なわれるすべての働きが、「私」の働きでなく、「主」の働きになるのです。イエスさまに対する真実な愛から出発し、主イエスに対する愛の原理で成り立っている働きだからです。
 聖書には、神さまから私たちに対する質問が、たくさん出て来ます。「あなたは、どこにいるのか。」「人々は人の子のことを何者だと言っているのか。」「それでは、あなたがたはイエスを何者と言うのか。」などです。
 それらの質問を、いつも心に刻み、正しく答えていくことができるように努力したものです。けれども、特にその中でも、心に刻み、その時々、正しく答えるために常に努力しなければならない質問があります。
 イエスさまが今、私とみなさんにお聞きになります。「あなたは、この世のことより、私を愛しているか?」
 この質問に、みなさんは、どう答えるでしょうか。「自分の力だけでは十分に愛することの出来ない私たちを、主よ、あなたは何もかもご存じです。あなたは導いて、愛させてくださいます。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と、私は答えます。

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