【信仰の本国と現住所】
旧約聖書【列王記 第19章9〜18節】
新約聖書【フィリピの信徒への手紙 第3章17〜第4章1節】
金 園播
T.
私たちはそれぞれ国籍を持っています。自分の本国が、どれほど楽か。本国にいるということが、どんなに安らぐことか、というのは、旅行に出かけた時によく分かります。
私の国籍は韓国です。現住所は日本。私は本国を離れて、こうして日本で暮らしています。
日本にいて、毎日緊張の中で、生活していると言うわけではありません。しかし、休みの間に韓国に行って、空港に降りた時には、ほっとするというか、空気がすごく軽いのを感じます。肩の力が抜けるのを感じて、私は日本でどんなに緊張して生活していたか、ということが分かるのです。
これは私一人が感じることではないのではないでしょうか。お正月のテレビのニュースを見ると、休みを外国で過ごす人が年々増え、その人たちの帰りを映したのをみます。
みんなほっとした表情を……
自分の国というのは、自分の家というのは、どんなに良いのか。ほっとして、「自分の国はいいな〜」ということは、誰でもが感じることであります。
国籍が天にあるというのは、そういうほっとして帰るところが天にあるということであります。私たちには、地上という現住所が与えられています。この地上では、色々なことがあります。緊張の日々であったり、色々な楽しいこともあったりします。不安もあるけれど、しかし、私たちのほっとするところ、喜びと希望のあふれる本国というのが、私たちには約束されている。だから、私たちのおかれている現住所で、希望を持って、安心して生きていける。聖書はそう言っているのです。
もしも本国がなかったらどうでしょうか。
北朝鮮と韓国はいつ、戦争が起こるか分からない、緊張関係にあります。たとえば、仮に戦争が起こってしまって、国を失うことになったら、私には帰る国がなくなってしまいます。ほっとする場所、帰るところがなくなってしまうのです。
そうしたら、人間はどんなに不安定になってしまうのかみなさんも想像できるのではないか、と思います。たとえ、めったに帰らなくても、帰れるから平安があるのです。
U.
十字架に敵対して歩んでいる人たちことを、聖書は「彼らの行き着きところは滅びです」と言っています。「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとしてこの世のことしか考えていません」と書いてあります。
「十字架に敵対して歩んでいる」という言葉を、「キリストを信じていない」と解釈するならば……この聖書の言葉は、一見、「クリスチャンは救われている、未信者は救われていない、未信者は滅びる」というような、厳しい言葉に聞こえるかもしれません。
しかし、希望というのは、実は、信者にも未信者にも、約束されているのです。神の国は、すべての者に約束されているのです。
ただ、この世のことしか考えられないひとには、このことが見えないのです。約束されているいる希望が見えないのです。希望の存在する本国を見ようとしないで、自分の中に希望を見出そうとしているのです。
自分の中に希望を見出そうとする結果、どうなるでしょうか
私の周りに、自分の生き方についてすごく真剣に考え、問いかけている友人がいます。
その中の一人は、自分を高めよう、自分を磨こうとして、生きてきました。目標を手に入れようとしている間は、ある意味ではつらいけども、しかしそれを手に入れたときには、大きな喜びがあります。目標に向かって努力している時も、充実して生きることができます。その人は、そうした喜びを目指して、自分を高めるために生きてきました。
ところが、その人の家族が、急に病気になりました。一生治らないような病気を背負って生きていかなければならないかもしれない、ということになりました。その時、その人は自分のやっていることに、虚しさを感じた、と言いました。
目標を目指して、自分を高めようとして生きて来たのだけれども、あることを一生懸命やっても、それだけに過ぎない。一生懸命やったからといって、つきつめれば、結局はなんなんだろう、と思うようになりました。自分がやっていることは虚しいのだ。生きることについて虚無を感じる、ということを言うようになりました。
別な人は、自分は生きる上でどういう価値があるのか、どこに目標を置いて生きて行けばいいのかを、ずっと探し続けて生きています。「生きる意味はなんなのか」「生きる目標はどこにあるのか」と、それを探して、さまよっています。
国籍が天にあることを知らない人は、この世で、究極の希望がなくて、虚しいということしか残らないのではないでしょうか。
V.
しかし、これは未信者の方に限ったことではないのです。われわれの本国は、天にあります。ただ、信仰の現住所は、天にあるのではなく、この地上にあります。そのために、信仰は、いつも同じかというと、そうではありません。常に揺れ動いております。
旧約聖書の列王記上16章からはアハブがオムリの後を継ぎ、イスラエルの王となり、国を治めていることが紹介されています。
アハブは異邦の女イゼベルを妻として迎えました。イゼベルは、イスラエル神ヤーウエではなく、バアルを崇拝する宗教を持っていました。そこで、イスラエルの預言者を全員殺そうとしていました。
エリヤだけが何とか逃げのびて、イゼベルも、捕まえることができませんでした。ところが、そのように死の危機にさらされていたにもかかわらず、エリヤはある日、自分の方からアハブに現われました。そして、誰が本当の神であるか、賭けましょうと挑戦しました。イゼベルはエリヤを殺すせる絶好の機会だと思い、その賭に応じることにしました。それが有名なカルメル山の事件です。
エリヤの祈りが終わると、彼の預言どおりに主の火が降りて、焼き尽くす捧げ物と、溝にあった水までなめ尽くしました。これを見たすべての民は「主が神である、主が神である」と叫びました。エリヤはこの勝負に命をかけました。そうして、神さまの御力によって完全な勝利を得ることができました。
このようにエリヤが言ったすべてのことを聞いたイゼベルは、どうあってもエリヤを殺そうと、決意しました。そしてエリヤのことを必ず殺すと、エリヤ自身に伝えました。
エリヤは恐れ、直ちに逃げました。
カルメル山の上での、威厳を持っていて、力強く勇ましかったエリヤも、神々をも恐れず自分に向かって襲いかかってくるイゼベルの前ではどうしようもなかったようです。そして、その次の日エリヤを支持した群衆もちっていき、エリヤは一人では耐えられなくなり、絶望しました。「主よ、もはや十分です。今私の命を取ってください。わたしは先祖にまさるものではありません。もはや神を信じるひとは皆死に、私しか残っていません。」と絶望の祈りをささげました。
わずか一日前に神のすばらしい御力を体験した人です。しかし、あなたを殺すというイゼベルの言葉を聞き、荒れ野に逃げ、私を殺してくれと痛ましく祈るのです。
この状況を想像してみる時、私たち人間の弱い心を思います。
わたしたちにも確かに、強かったときのエリヤのような体験があります。御言葉を受ける時の熱い心とその時の体が奮えることもある、私たちの周りから起きた出来事の中から生きておられる神さまを確かめてきた、私の祈りを聞いてくださった感動の中で生活したこともたくさんあります。ある人は聖霊の体験をし、ある人は祈りによって自分の病気と闘って耐えてきた人もいます。困難な時に信仰の力で克服した人もいます。
私の過去を振り替えってみると、神さまとの関係がないことがなかったし、すべての時間と生活の隅々まで見守って下さる神さまと出会ってきました。振り替えてみると、すべてが恵みであり、愛でありました。
しかし、絶望するエリヤのように、あまりにも軽く、がっかりしたり絶望したりします。「ああ、もう駄目です。もう絶望です。今はもうこれ以上どうしようもできません。こういう私をどうにかしてください。」あるいは、「なぜ、私だけがこういう苦しみを受けなければならないのですか、かえて、神を信じない人は、楽をしているように見えるのに、なぜ、神をもっと信じようとする私がこのような試練に合わなければならないのですか。なぜ、私を見捨てるのですか。」
神の御言葉は聞くには聞いてるけど、すぐ忘れて、神さま無しで生きているつもりになります。いつも同じ罪を繰り返して生きています。
私の信仰というのは、こんなものだったのか。これが私の信仰の実体?なのかと思う時、絶望と懐疑と孤独を覚えます。
このように私たちの信仰は常に揺れ動くのです。
それは私たちの信仰の現住所が、完全である天にあるのではなく、この地上にあるからです。救いが成就される完全なところにあるのではなく、救われることを待ち望む不完全なこの世にいるのです。
W.
けれども、私たちの国籍は天にあります。フィリピ3;12に「私たちは、既にそれを得たわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と、あります。私たちは、既に本国に帰って完全になった訳ではありません。絶望と、懐疑と、孤独を覚えることのある現住所にあります。それでも、天に本国を持っているから。だから、聖書の言っているとおり、主にあって堅く立つことができるのです。
信仰の現住所にいる私たちが、本国を見ないで、死を見ていけば、どうなるでしょか。虚無に陥って、信仰が揺れ動いてしまいます。
先ほどの、何をやっても虚しいと感じるようになってしまった人は、目に見えない永遠の命に向かってではなく、目に見える死に向かって生きていました。死に向かっての生活だけを考えるということは、何をするにしても、どんな偉いことをしるのであっても、私たちは有限であるから、最後の待っているものは、死だけです。死しかありません。だから、虚しくなってしまうのです。私たちの卑しい体とは、こうした、死に向かって生きている有限な私たちのことです。
ところが、私たちは、その死に向かって生きているのではなくて、希望である天国に向かって生きているのです。朽ちて死ぬではなく、私たちはよみがえるのです。
ところで、先ほどの、自分を向上させることに虚しさを感じるようになった友人は、人のために役に立つ仕事をしたいと思うようになりました。それはその人にも神様は希望を示してくださったいる、ということではないでしょうか。神様はその人のことも愛し、導いているからだと私は信じています。
しかし、その人が、自分の国籍が天にあるということを知らないままだと、どうでしょうか。また、もとの虚しいところに戻ってしまわないとも限らないのです。国籍が天にあるとは、希望を持っているということなのです。だから神は、私たちの語りかけて、励ましてくださるのであります。
エリヤは、自分が確信している神を伝えるやくめいをしているときには、強く戦うことがでしました。しかし、殺すと言われて、自分の死を考えた時には、たちまち弱くなってしまいました。神様はそんなエリヤに静かにささやく声でちかづいてくださいました。「あなたはここで何をしているのか、私はこんなに愛している。あなたに命がある限り私のためにすることがある。それを行いなさい。私はイスラエルの民の中でバアルにひざまずかず、口づけしなかった7千人を残した。私の計画は、密かに、しかし、堂々となされていく。これ以上絶望するな」と励ましました。それがささやく声でした。
エリヤは、絶望の中で神の声を聞きました。そして、立ち上がり、自分に与えられたことをすることができました。自分の目先にある死に目をむけているのではなくて、再び神様に目を向け、神を求めたときに、死を恐れないほどの信仰に、立ち直ることができました。
エリヤは、欠けた信仰を持っていました。揺れ動く信仰でした。しかし、神様は裁くのではなく、信じてくださり、また、使命をお与えになりました。遠くにいらっしゃて、エリヤには見えなかった神様が、実は一番近くにいらっしゃったのです。そして、エリヤを信じてくださったのです。
X.
皆さん、私たちにも神さまは密やかにささやいて下さいます。「絶望するな。あなたの信仰の現住所は私がよく知っている。しかし、わたしがいつもあなたを愛しているということだけは忘れるな。あなたは私が与える力で生きていくことができるであろう。」
私たちの信仰の現住所はどこでしょうか。教会に来ていながらも、神さまが私たちのすべてを恵みを持って導き、守って下さることを、まだ信じない方はいらっしゃいませんでしょうか。イエス・キリストがよみがええり、死からの勝利をなさりました。今は私たちも、死んだらイエス・キリストのように復活すると言うことを、いまだに信じることができないでいませんか。イエス・キリストは私の道であり、命であり、力であると讃美しながら、その力を信じられなくてまだ絶望しているのではないでしょうか。わたしたちの罪のために十字架とそこで流された血によって私たちの罪が許赦されたのを信じることができなくて、罪責感に押しつぶされているのではないでしょうか。
皆さん、私たちのこのような現住所を、主はすべてご存じです。理解し分かっていらっしゃいます。そして悲しんでいらっしゃいます。
しかし、決して私たちを見捨てることはありません。私たちは主を裏切ったり、捨てたり、恨んだりするかもしれないけど、神さまは決してそう言うことはなさいません。かえって、私たちのそばにきてきださいます。そして、「安かれ。私はあなたがたを愛し、赦し、信じるのです。父が私をお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす」と、イエス様は励まして下さいます。
神さまは、私たちの信仰に、これ以上失望しない。主は私たちを信じてくださる。私たちの過ちをこれ以上問わない。私たちを愛しておられます。どんな姿でも愛しておられます。そして私たちをこの世に遣わします。
それを信じて受け入れる者は、喜びを持って生きることができます。感謝を持って生きることができます。未来の希望を持って生きることができます。今は苦しみの中にいても、いろんな試練にあっても、私たちを信じてくださり、力を与えて下さるその力で今日を忍耐します。だから私たちは、「主にあって堅く立つ」ことができるのです。私と皆さんがこれをアーメンと受け入れることができることを願います。