2001年12月23日
日本キリスト教団中村栄光教会
クリスマス礼拝説教
ことばを失ったひとに


中村栄光教会牧師 北川一明

中村栄光教会
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新約聖書【ヨハネによる福音書 第1章 1〜5、9〜18節】
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。




ことばを失ったひとに

北川一明

T.
 言葉が無くなったら。たいへん、困ります。
 このごろ/もの忘れがひどくって。誰かと話しながらも、相手の名前が思い出せない……と、おっしゃるかたが、あります。それも、困りますけど。でも、まぁ、名前をど忘れる位は、誰にでもあります。
本当に困るのは、名前よりも、意味を忘れた時です。
 スーパーに行くと、「左巻き」という魚がありますが。あれは、全国的には、「右巻き」と言うようで、辞書にも図鑑にも「右巻き」で出ています。全く、高知のひとは何考えてんだか、と。アタシなんかは、悩まされるのですが……。
 それでも、あのお魚が、食べ物だ、と。意味が分かっているなら。名前なんかは、ただの決め事なんですから。右でも左でも。前でも後ろでも、構いません。困るのは、あのお魚が、自分にとって何なんだか。その意味が分からなくなった時です。
 言葉の意味が壊れて行く、失語症なんていう病気もありますが。言葉の意味が、完全に失われたら、たいへんです。
 自分の手に、左巻きがある。でも、これが何なのか、さっぱり分からない。頭にかぶるものなのか、それとも、ぬめぬめとした手触りを楽しむものなのか。あるいは、入浴剤としてお風呂に入れるのか、夜布団の中に入れると暖かいのか。それとも、急に目をさまして、私に襲いかかってくる、危険なものなのか。皆目、見当がつかない……と。
 それが、左巻きだけじゃぁない。自分の周りにある全てのものが、言葉と意味が、繋がらなくなって行って……。言葉から、意味が失われたら。私たちは、自分の外の世界と、かかわりが持てなくなります。世界の真ん中に、突然、ぽつんと投げ出されることになります。
 外から自分に向かって、映像は、目に入って来るし。耳には音が飛び込んで来る。だけど、見ても、何を見ているのか、頭の中で、まとまりがつかないし……。聞いても、何の意味もとれない、ただの騒音でしかないならば。
 目が開いたまま、何も見えない。耳が開いたまま、沈黙の中にあるのと、一緒です。
 それでは私たち、自分が壊れてしまいます。外に何かを訴えようと思っても。自分の頭の中でも、意味を、まとめあげることが、出来ないで。ついには、自分自身が、何だか分からなくなります。
 それでは、光があっても、まっくら闇の世の中に、ひとりぼっちで取り残される。生きながらにして、死の世界に住むことになります。
 現実の世の中は。一応、意味を取り留めているようにも、見えます。実際に世の中には、言葉があります。言葉は、溢れ返っている位です。
 でも私たちは……。そんな、言葉の溢れ返っている世の中で。普段の生活の中で、言葉を無くすことがあります。
 心に大きな痛手を受けて、「言葉を失う」ことが、あります。目の前が真っ暗になる。光を失うことが、あります。
 どういう時に、そうなるかと言いますと……。やはり、ものごとの「意味」が、関係しています。意味が分からなくなった時です。

U.
 私は、今まで一度だけ……。そんな、恐ろしい……。目の前が真っ暗になった経験が、あります。
 とは言っても……。間抜けな話で、申し訳ないんですが。失恋して、目の前が真っ暗になりました。
 大学を出てすぐの頃のことですが……。それは、好きな度合いが大きかったから・とか……。そういうことだけでは・ありません。自分の、「意味」が分からなくなったんです。
 学生時代に、遊び癖がつきまして。もう金なんか・いらん、表現活動がしたいと思いました。それで会社勤めをする気もなかったのですが……。
 好きな人が、ありました。多少親しくなることが出来まして。こりゃ、何とかなりそうだ……と。将来のことを考え始めました。
 安定した収入がなきゃいかん……と。まず、やりたい芸術方面を諦めて。誰でも入れるような訳の分からん会社に就職して。地味で平凡だけれども、健全な社会人としてデビューしました。勤め人として、まともな家庭を築こうと思ったのです。
 そして、会社に通っているうち、だんだんに……。そういう自分の立てた計画に、自分自身が馴染んで行きました。ついには、縁側で日向ぼっこをしている二人の老後などを、思い浮かべるようになった……。その矢先に、振られました。
 夢に見ていた、平和な老後の。その前提となるべきものを失ったものですから。……ちょっと一瞬、自分は何なんだか。……振られた悲しさもさることながら。毎朝、満員電車で行きたくもない会社に通っている自分というものを、どう受け止めて良いのか、分からなくなりました。
 女性に振られたら。悔しいとか、悲しいとか、情けないとか、憎らしいとか。アタシだって、普通だったら。そういう、振られた男が感じる一般的な感情を抱くのです。ですが、その時に限っては、本当に、目の前が真っ暗になりました。
 目が見えなくなった訳では、ないんでしょうけど。自分が何かを見ている・という、意識がない。見ているものの意味が、掴めません。
 言葉だって……。口が、開いたまま塞がらなくなって。まぁ、ブーとかピーとか、口から音は出ますけど。頭の中で、言葉の意味を、整えることが出来ません。
 文字通りに、言葉を失った。目の前が、真っ暗になった……という体験を、しました。
 えぇ……つまらない体験談で、ご退屈さまです。振られた位で馬鹿馬鹿しいと言われるかもしれません。
 でも、申し上げたかったのは、苦しさや悲しさが大きいから言葉を失うんじゃぁ・ないんです。意味が分からなくなって、言葉をなくすのです。
 交通事故で、足が一本なくなったら。痛いとか。悔しい、厭だ、腹立たしい、と。今までの自分の続きで、失った足を悔やむことも・ありますが……。しかし・それが、自分の人生の意味を変えてしまうような場合に……。私たちは、あんぐりと口を開けたまま、何を言っていいのか。言葉を失うんです。
 サッカー選手で、来年ワールドカップに出場という時に、足をなくしたら。言葉がなくなります。自分が、意味のない存在に思えてきて、言葉を失います。
 嫁、姑問題がこじれて、意地悪をされても。それで、言葉を失う訳では、ありません。靴の中に画鋲を仕込まれたら。「畜生、どうやって仕返ししてやろうか」と、逆にファイトが湧くってもんですが……。
 でも、そうじゃぁ・ない。悪いことは、何一つされなくても……。
 こちらが、良かれと思って、最善の誠意を尽くした。それを悪くとられた時……。言葉を失います。
 行動としては、何でもない。ただ・ちょっと嫌みを言われただけでも。せっかっく「お義母さまのため」と思ってやったのに。今までの私は、何だったんだろう……と。目の前が真っ暗になる……。
 「ちょっと・誰とかさん。ワタクシはこういうことは、あんまり好きじゃぁございませんのヨ」の・ひと言で。……今まで精一杯やって来た自分の、意味が分からなくなって。「死にたい」、「死のう」と、思うことだって、あるのです。
 私たちは、それぞれに。自分の頭の中で、私の意味、自分の意味を作り上げているのに。何かの拍子に、そんな私の意味が、根底からひっくり返されます。その時、私たちは、言葉を失います。
 これこそは間違いない。絶対の意味だ、価値だと思って。その上に積み上げて行っていた土台が、根こそぎひっくり返されて。私たちは、絶望するんです。
 運が悪い人だけに起こることでは、ありません。
 運の悪い人は、就職した途端に振られるかもしれないし、ワールドカップの直前に、足をなくすかもしれません。
 しかし運が良くても/悪くても。……絶対に壊れ確かな意味なんて。私たち、自分では、作り出すことが出来ません。
 失恋して、傷ついたり。晴れ舞台の前に事故にあったり。大切な家族に嫌われたり……と。そんなことを苦しみながら。死ぬまでの、ほんの短い期間を生きている私に、意味があるのか/ないのか。
 人生の中で、言葉を失うほどの・苦しみと出会うのに……。それでも無理して生きてるだけの、意味があるのか/ないのか、と言いますと。
 私の意味は……。私たち、本当は、知りません。私は、どういう意味のために、生まれたのか。何で、生きているのか。それを、私たちは、知らないのです。私が、私を作ったんじゃぁ、ないからです。

V.
 現代の多くの人が、神を信じません。それは、自由ですけど。神がないのならば。私は、どういう意味のために、生まれたのか。生まれたことに、意味はない、ということです。
 私が失恋して。自分の土台が、ひっくり返った時。私は、もう、どうしようもない。言葉もない、光もない。私には、意味がない・と思いました。
 しかし聖書は、「初めに言があった」と言います。「言」とは。あ・い・う・え・お……っていう、音じゃぁなくって、「意味」のことです。
 宇宙が出来て、地球が出来て、今私が、ここに生きている。そういう、この世界の意味は……。天地創造の初めに、あったと言うのです。
 私が、自分で築き上げて。だけども、ひっくり返ってしまった土台の下には。ひっくり返らない、絶対に確かな土台が、実は最初から、あったのだ……と。聖書は、そう言うのです。
 この、いちばんの土台を信じないならば。意味は、自分で作り出さなければいけません。宇宙の意味を、自分で考え出さなければ、いけません。そして、それは……。出来ません。
 悲しい事件は、なんでもそうですが……。宇和島水産高校の、実習船・えひめ丸が、アメリカの潜水艦とぶつかって沈みました。乗っていた高校生の親たちが、外にむかって一生懸命・言葉を送っていました。私には、それが、印象的でした。
 自分たちの悲しみや、アメリカ海軍のことや、日本政府のこと。たくさんの言葉を、口から外に出していました。
 お気持ちは、少しは分かります。言葉を失うほどの悲しみに直面した人は。時に、かえって・お喋りになります。比べるのも、申し訳ないですが。失恋して、いっとき言葉を失った、その後に……。私も、饒舌になりました。
 私は、こんなに好きだった。こういう風に仕合わせにしたかったのだ。うまくいかなくなったのは、何が原因か、理解したい。やり直せるものなら、やりなおしたい。駄目なら駄目で、自分の人生を、設計し直さなくっちゃぁ、いけない。それには、ああいう風だ、こういう風だ……と。
 言葉を無くしたままだったら。何が・なんだか、どう生きて行けばいいのやら、分かりませんから。一生懸命、言葉を作り出しました。
 お姑さんのために、最善と思ってやったのに。こちらの善意を無にされたら。喋らないではいられない。あなた、ちょっと・お父さん、聞いてください……と、饒舌になることが、あります。
 お義母さまったら、私がせっかく、こういう風に、ああいう風に、これだけのことをやったのに。お義母さまの考え方は、こういうところが、どうだから、こうだから。私のやっていることに意味がないんじゃぁなくて。私には、意味がある。おかしいのはお義母さまの方よ……と。
 言葉を次々、作り出す。そう、し・続けなければ、いられない……のは……。子どもが死んだ親たちと、一緒です。
 死んだ子の補償問題にしたって。お金が欲しい訳では、ありません。とにかくに、何かを喋らないことには、自分を、どうにも出来ないのです。自分が生きる上での意味を失いかけて。だから、一生懸命、頭の中で言葉を作り出すんです。
 ひとを責める言葉なら。悲しみの中でも、比較的簡単に作り出せます。ひとなり自分なりの、みせかけの意味を壊す言葉は、私たち、考え出すことが出来ますから。ひとを責めれば、一時しのぎの慰めに・は、なります。
 しかし・一時しのぎ・じゃぁない、本当の救いに必要なのは。意味を壊す言葉じゃぁ、ありません。本当の意味を、作り出す言葉です。そういう、言葉の中に、命のある言葉です。
 そんな言葉は。私たちには、作れません。無から有は、生み出せません。
 自分の意味が分からなくなった時。自分で意味を紡ぎ出そうと思ったら私たちは、救われません。
 命を与える御言葉を、自分の頭の中に探すならば。探す場所が、間違っています。言葉は、初めから、あるのです。
 ……聖書を書いた人間が、どうして初めの言葉を知ったのかと言いますと。イエス・キリストに、出会って、です。初めからある言葉は、キリストさまを知れば、分かってくるんです。宇宙が出来た、意味と。私が生きている意味とは……。キリストを信じて、分かります。
 その意味とは。全能の神が。この小さな私を愛している……と。神は、愛だ、と。それが、意味の、全部です。
 キリストに出会って、私たちは・それを知るのです。

W.
 こころに深い傷を負って、言葉を失ってしまったひとに。私たちは、何をしてあげるでしょうか。
 抱きしめてあげる……でしょうか。抱きしめて、一生懸命、背中をさすってあげるでしょうか。
 たぶん、そうやります。そうやって愛を伝えて、慰めようとする……と、思います。
 あなたは今、傷つけられて、言葉を失っている。だけど、絶望することはない。あなたを傷つけたものは、確かに、有る。それは、他のひとかもしれない。事故かもしれない、病気かもしれない、死かもしれない。
 あなたを傷つけるものは、有るんだけれども。それでも、あなたは愛されている、尊い、かけがえのないひとりの意味をもった人間なんだから、と。大切な人が、傷ついていたら。一生懸命、愛を注いで、慰めようと。私たちは、抱きしめます。
 その、私たちが伝えようとしている愛は。ただ、私の、自分の愛だけだったらば。小さな傷なら、癒せますけど……。言葉を失うような傷は、癒せません。
 振られた時に……。家族とうまくやって行けない時に。その苦しみが、言葉を失うような苦しみだとしたら。それは、自分の生き方が、変わってしまう、自分の人生が歪められてしまう……と。そう思えるような、苦しみだからです。
 「人生が歪められた」と絶望するひとを。背中をさすっただけでは、救えません。
 だけど……。私たち、キリストを信じる者が伝えようとしている愛は。ただ、自分の小さな愛ではありません。
 今、傷ついたあなたを慰めようとしている、私は。上からの大きな愛に突き動かされて、こうしている……。その・大きな愛を、伝えようとしているのです。
 自分勝手で我が儘で、ひとのことなんか、愛せた義理でもないはずの私が……。傷つけられたあなたを放っておけないで。精一杯のことを、やっている。そんな風に私を変えた、私に注がれた愛を、伝えようとしているんです。
 私の人生だって。これまで、傷ついて。歪められたと感じて来ました。でも、本当は、そうじゃぁ・ありませんでした。
 本当は、絶対に確かな根拠がありました。初めに、言が、ありました。人生の大元は、「神さまが、私を愛している」と。そこから、始まっていたのです。
 そんな、確かな安心の中にいるのに。小さな試練を、かつては、人生の敗北だと勘違いしていました。間違って絶望していたのです。
 私は、その絶望から、救い出されました。キリストさまによって、確かな根拠を、示されました。
 だから、傷ついた人を慰める時には。私たちは、その確かな根拠を、伝えようとするのです。
 私の、自分だけの小さな愛だったらば。小さな傷しか、癒せません。死に直面して絶望するひとを、救うことなんか、出来やしませんが。
 しかし死を乗り越えた。死の世界をうち破った、天地創造の初めからの愛を、何とか伝えようと。自分の愛じゃぁない。その大きな愛で、慰めようと……。
 それで私たちは、傷ついたひとを抱きしめて、背中をさするんです。

X.
 信じるひとも、信じないひとも。私たちに出来ることって言ったら、背中をさする位ですけど。そう・した時。御心ならば。聖霊の導きがあれば。その傷ついたひとも、キリストと出会います。
 私の、小さな手と一緒に。神さまの手が、背中をさすってやったら。傷ついた人は、キリストに出会います。だって私たちだって……。ひとに、そうやってもらって、キリストと出会って来たからです。
 キリストと出会えば。その人も、絶望から救われます。
 失恋しても。人間関係で苦しんでも。体の自由を失っても。愛する者を失っても。自分が、もう今日にでも死のうとしている時にでも。キリストに出会ったならば、言葉を失うことは、ありません。
 私の意味を。神に愛されている私の尊さを、信じることが出来るから。決して、絶望しません。
 苦しみますけど。苦しんで、なお、仕合わせです。悲しみは、悲しみます。……けれども、悲しんでも・なお、安心して。自分の人生を、そのままに生きることが、出来るのです。
 世の初めから、愛されている。それを、信じることが、出来るからです。
 その……。いちばん大元にある、初めの御言葉に、触れることが出来るようになった。それが、クリスマスです。私たち人間が、キリストと出会った最初が、クリスマスです。
 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」のです。天地創造の初めにあった御言葉を。神の愛を。キリストを通して、知るようになった……その最初が、クリスマスです。
 こんな良いものを与えられているのですから。私たち。闇のような苦しみだらけの世界にあっても。今日は、うかれて、はしゃいで、楽しんで。こどものように喜ぶのが、当たり前です。
 感謝をもって、クリスマスを喜びたい。また、まだキリストに出会っていない人に。キリストを紹介する。その役目に用いていただきたいと思います。


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2003年12月14日
日本キリスト教団中村栄光教会
アドベント第3主日礼拝説教
星を眺めて

中村栄光教会牧師 北川一明


マタイ
2:1-12 聖書研究

新約聖書【マタイによる福音書 第2章 1〜12節】




星を眺めて

北川一明


T.
 子どもがひとり生まれる時には……。その周囲の、大勢のひとを巻き込んで。赤ちゃんが……と言うよりも、「ひとりの子どもの生まれること」が、周りのひとたちの人生を、変えます。
 世界には、産んで、すぐに自分の手で殺さなければならなかったようなお母さんも、……未だに大勢あるかもしれません。しかしそんな子でも、そうせざるを得なかった・悲しいお母さんの、その後の生き方は、随分変えてしまいます。
 ひとに隠れて・たった独りで子どもを産み落としたお母さん……とか。死産の子どもでさえ、周りのひとたちの心に、影響を与えます。
 何も出来ない赤ちゃんが、そういう意味で、世の中を動かします。
 それが、幸いにも健康を与えられて育って行ったとしたら。どんなひとでも、もっと大きく世の中を変えているはずです。自分が、周りのひとの人生をどれだけ変えていたか。子どもの頃から、それを良く自覚していたら。もうちょっと自分の一日一日を大切に使って、もしかしたら、大人物になっていたかもしれません。
 ちょっと残念ですが。それは、ともかく……;
 イエスさまがお生まれになった時にも……。大勢の人間が、影響を受けました。平凡な普通の家庭に、何でもない子どもとして産まれたんですが。それでも、そうでした。
 イエスさまの誕生は、人間を罪から救う、神の奇跡です。奇跡の赤ちゃんですから、周囲のひとに、どういう影響を与えたか……。
 周りの人間は、それぞれに、「弱さ」を持っていました。人間ですから、それぞれに長所と短所……両方を備えていたはずですが。神の、奇跡の子どもがお生まれになって。みんなおろおろと、その「弱さ」の方で行動したように……。少なくとも今日の聖書からは、そう、読めます。
 それは、主が、私どもの罪を贖い、罪から救い出すために、お生まれになったからです。膿を出すように、人間の弱さが明ら様になりました。
 しかし、自分の弱さが現われ出て……。やっぱり弱かったというままで留まったひとたちと。ごく一部、救いの先魁と出会って、それまでの生き方と、ひとつ変わったひとたちと。……二通りが、ありました。
 主のご降誕で、露わになったものは、人間の、優れた点では、ありません。弱さでした……。そして、主のご降誕で、その弱さが何一つ変わることなく、今まで通りに自分の人生を汚し続けたひとたちと。ひとつ希望を持って生きるように、変わったひとたちとが、ありました。

U.
 先週お読みしました、第1章のお終いの方は、マリアとヨセフが、居ました。
 愛する者から疑いをかけられ、その愛を失いそうになっている女と。愛する者に裏切られたと思い込み、それでも正しく生きるには、どうしたら良いか。どうとも出来なくなって、苦しんでいる男。イエスさまは、そんな二人の間に、生まれて来ました。
 その続きの、今日の所では、さらに沢山のひとたちが登場します。
 一般には「三人の博士」と言われます。黄金と、乳香と、没薬をプレゼントしたので三人ということになってますが。まず出てくるのは、「占星術の学者たち」です。
 しかし最初に弱さを見せたのは、ヘロデ王でした。
 学者が、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と言ったら。3節、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」。
 ヘロデ王とは、イエスさまが十字架にかかった時のヘロデ王と同じ名前ですが。その、お父さんです。息子よりももっと広い地域を支配していたので、こっちはヘロデ大王と呼ばれたそうです。ユダヤの最高権力者です。
 ただ、当時のユダヤはローマ帝国に支配されていましたから。ローマに対してだけは、頭が上がりません。それでもローマだって、いたずらに植民地国と争いたくはありませんから。ヘロデでユダヤがうまく治まっている間は、ヘロデを威張らせておきます。個人的に贅沢をする位なら、いくらでも自由にさせてやります。そうしたローマ傀儡の権力者でした。
 そのため、いつ権力の座から追われるかと、不安でいっぱいです。
 ですけど、どんなに大きな権力だって、権力というのは、いつでも、そういうものです。ローマ皇帝だったら何の不安もないかというと、決してそんなことはありません。
 今、現代。地上で最も大きな権力を握っている大統領も。普通にやっていれば、8年間は、その権力が守れたし。どんなに頑張ってもそれ以上は、合衆国憲法で禁じられてますから。大統領は続けられません。
 それを、あの大統領は。何を焦ってか、お相撲で言う「勇み足」か、サッカーのオフサイドか……。なんだか、そんな権力の発揮の仕方をしています。
 ヘロデも、同じように「逆らう者は殺す」というやり方で権力を保っていました。だから、恨みを買って、敵がどんどん増えて行って。だんだん、自分に近い人たちまで殺すようになりました。そうすると、すぐ近くにも、敵が出来始めます。今度は自分の身内が、権力を狙っているという疑いが湧いてきて。最後は、奥さんや子どもまで殺すようになったんだそうです。
 そんなひとの所へ、外国使節団が突然やって来て。「新しい権力者が生まれたという情報が入って来たのだが、どこに生まれたのか」と。そう言ったのが、今日の聖書です。びっくりします。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱」きました。
 地上の権力は、絶対のものではありません。権力を、握れば握っただけ、失って困るものが増えたということです。それで、ヘロデは恐ろしくなりました。
 今日の聖書では、ヘロデは親切に占星学者を送り出しますけど。すぐ先の13節から後を読めば分かります。権力を失わないために、幼児の大量虐殺という……ほとんど錯乱状態です。大きな罪を犯します。
 そして、その・しばらくの後に。何の病気かは知りませんが。身体が内側から腐っていって。蛆虫がおチンチンを食い破って出てきて、死にました。
 主のご降誕は、ヘロデの行動に、大きな影響を与えました。不安は、ひとをそんな風に、変えてしまいます。

V.
 私たちは、もとより、こんな権力者じゃぁ、ありません。そこまで悲惨な死にかたをする程、ひとから恨まれるだけの権力は、ありません。
 でも、さっき読みました3節の後半です。「エルサレムの人々も皆、同様であった」と、書いてありました。エルサレムの人々の不安なら、私どもも、思い当たります。
 支配者は、そんな冷酷非道なひとですから。エルサレムの人々が、支配者ヘロデを愛していたはずが、ありません。尊敬していたはすが、ありません。憎んでいました。憎んでいたのに、そのヘロデを追い負かすような新しい王様が生まれたと聞いて、不安になりました。
 ヘロデが可哀想だからじゃぁ、ありません。もちろん、権力闘争で、面倒なことになるのが厭だったのです。現状に、全然満足していなかった。その癖、現状を変えるためにエネルギーを払うことが、恐ろしかったのです。
 今の有り様には、不満だらけなのに。それを変えるために、自分が何かをやるんじゃぁ、ありません。ひとが何かをやるの見守る勇気さえ、なかったのです。
 外から見たら、余りに臆病で、「卑怯」な位ですけれども。中にいると、まさか自分が卑怯だなんては、思えません。ヘロデの権力があぶなくなった時には、どれだけ残虐なことをしでかすか、未知数です。自分の家庭にも、どんな被害が及ぶか分かりません。
 そっとしておいてもらえれば、今より悪くなったとしても、だいたい計算できる範囲です。だから政変の予感は、不安を生んだのです。「何で、救い主なんかが生まれてしまったのだ」と、不安になったのです。
 弱さに、惨めさに、あまりに長く浸っていると。われわれは、こんなになってしまうのでしょうか。「何で、よりにも選って、救い主なんかが生まれたのだ、迷惑な。どうせなら、救わない神であって欲しかった」……と言うのなら。自分が「悪魔」の誕生を願っている。それが自分でも分かっていない、やっぱり錯乱状態です。
 この状態が、さらに高じると。私たち、耐えられませんから。何にも考えなくなります。それが4節の祭司長と律法学者です。
 このひとたちは、ヘロデ政府のエリート官僚です。普通のひとよりも、贅沢をするチャンスが多い代わりに。裏切り者の疑いをかけられて、いつ殺されるとも分からない。危険もずっと大きい人たちです。
 新しい王さまが攻めて来たら。隣にはヘロデが居て、「しっかり闘え」と、残虐なみせしめをやりながら、命じて来るに違いありません。そんな状況、どうにも想像したくも、ありません。何も、考えたくない。
 それで、ヘロデに、「メシアはどこに生まれることになっているのか」って問いただされたら。「はい、えぇ〜ッと、確かベツレヘムです」ってなもんでしょうか。言われたことを言われた分だけ。それ以上でも、以下でもない。ただ、言いなりです。
 これらの……弱いひとたち。現世の権力にしがみつく、何が大切かが分かっていないヘロデと。その権力のすぐ側にありながら、自分で自分のことを考える意欲をなくしてしまった祭司長や律法学者と。その権力から苛められ続けて、すっかり負け犬根性が染みついてしまったエルサレムの人々と。
 ベツレヘムでお生まれになッ他のは、そんなひとたちを救う、救い主です。エルサレムの住民や、ヘロデ政府の官僚のみならず。ヘロデの悪だって、これは、ひとの罪です。キリストさまは、その罪を贖うために生まれて来られたのですから。キリストさまは、ヘロデの救い主でもあった……はずでした。
 けれども、そういうひとたちは、だれ一人。救い主を拝むことが、出来ませんでした。

W.
 唯一、救い主を拝んだのは。いわゆる「三人の博士」、「占星術の学者たち」です。
 このひとたちも、決して強いひとでは、ありません。正しいひとでは、ありません。
 「学者」と言えば、偉そうですが。何てっても「星占い」ですから……今の、私どもクリスチャンにとっては、偶像礼拝です。この当時のユダヤ人にとっても、やっぱり東の国のインチキ宗教。得体の知れない魔術を使う、不気味なペテン師たちでした。
 空の星の動きが、地上の出来事に関係してると信じて。いつも、空を眺めていた。メルヘンチックなおっさんたちです。
 昔の話しですから。気象観測は、大事な仕事ですし。測量のために星の配置を役立てた技術は、非常に高かったことが知られてますけど。星の動きに自分たちの運命を託してしまうのならば。それは、頼るに足りない迷信に頼る、弱いひとたちです。
 けれども、その愚かなひとたちが、イエスさまを、正しく拝むことが出来ました。
 星占いで「今日は運が良いから、宝籤でも買おうかなァ」とか。そういうのは、害にしかならない迷信です。でも同じ星を眺めて、この世の生き方を考えるのでも。もう少し宗教的な考え方が、あるかもしれません。
 下の、サンリバーの温泉に入って。子どもの手を引いて坂道を登って来る時……。星じゃぁなくて、月が出てたんですが。月を見ながら、「われわれが中村に来る前から、あぁやって月が昇って来てたんだなァ」と。当たり前ですけど、それを感じてしまいました。
 すると、同じ当たり前ですが、連想が広がって……。私が死んで、子どもたちもヨボヨボになった後まで、「あぁやって、月は昇って来るだろう」と。誰が眺めるのかなァ。教会のみなさんは、誰も見ないし……なんてェことを、感じたことが、あります。
 それだけですけど。星を眺めて、年がら年中、そうやって考えていたら。今の権力を手放さないために、「救い主を殺そう」とか。面倒に巻き込まれないために、「救い主には来てくれるな」とか。そういう、ヘロデやエルサレムの住人みたいな考え方には、なりにくいかもしれません。
 地上を、恐竜が歩いていた頃から。人類が滅んだ先まで。月は昇って、この右山を照らします。「学者」たちは。ヘロデや、祭司長や、エルサレムの人々よりも賢かったからではなくて。そういう永遠の思いを持っていたから。数千キロの道のりを、イエスさまに会いに来れたのです。
 ヘロデや、祭司長や、エルサレムの人々に言わせたら、何の役にも立ちません。自分が、得をするより、損をします。ただ、赤ん坊を拝んで。宝物を恵んで。そんな、馬鹿々々しいことのためだけに、長々と旅をしたのです。
 それでも、どっちが仕合わせか、分かりません。権力闘争に明け暮れるのと。ただひとの言いなりになっているのと。現状維持に汲々としているのと。それと、宝を献げるために、生涯全部を費やすような旅に出るのと。どっちが仕合わせか、……分かりません。

X.
 「分からない」と言うか……。それだけだったら、どちらも仕合わせでは、ありません。
 地上のことばかりをくよくよ考えているひとと、空を見上げてばかりのひとと。生まれてきたのがイエスさまじゃぁ・なかったら。どちらも、仕合わせでは、ありませんでした。どちらも同じ……でした。
 いっくら星を眺めたって。「永遠」は、ひとを救わないからです。
 ただ永遠から見ただけならば。殺しても無、殺されても無です……。人助けをしても、無。酔狂な旅行で一生を潰しても、それもまた、無です。あくせく働いても、空を眺めてても、どっちだって同じです。どうせ、限りのある自分なんですから。好きな方を選ぶしか、ありません。
 「星占い」では、救われないのは一緒です。星には、救いは、ありません。
 ところが、生まれて来たのは、救い主でした。ひとを、そういう虚無から救い出す、救い主でした。
 宇宙を見上げたひとたちも、この神さまが作った宇宙の中に、閉じこめられていました。ヘロデや、エルサレムの人々と、同じです。しばらく、旅行をしたり。権力闘争をしたりした後。木切れを燃やしたら煙になるみたいに。宇宙の中で、消えて行く所でした。
 その、消えて行くはずだった魂を、です。消える前に、宇宙の外から神さまが、パッと掴まえてあげようと……。ご自分の作った宇宙の中に、突然、ギュンッって入って来たのが、クリスマスです。
 今まで、宇宙に閉じこめられていた人間に、パッと宇宙からの出口が出来たのです。
 「出口」って、どこに出て行くのか。「場所」みたいに考えたら。今の宇宙から、別の宇宙に引っ越すだけですから。それじゃぁ天国に行った後で、また天国からの救いを考えなくっちゃぁいけません。
 けど、そういう場所のことじゃぁ、ありません。宇宙に閉じこめられて、場所しか知らなかった人間が。場所を作った「意志」というか、「霊」というか。そういうものを知らされたのが、クリスマスです。この学者たちの、クリスマスです。
 占い師たちは、星を見上げていて、導かれました。でも、星に救われたのでは、ありません。星を作った「意志」というか、星を作った「霊」に触れたから。この宇宙からの救いが、「ある」っていうことが、感じ取れたんです。
 「星」だって、宇宙に閉じこめられているんです。けれども人間は、キリストによって、星よりも先に救われ得るんです。
 そういう、宇宙の外から、突然ギュンッって入って来た神さまが、「この赤ちゃんだ」って感じました。だから、占星術の学者たちは、その赤ちゃんを拝みました。貴重な宝物を捧げて、生まれたばかりの赤子を拝むことが出来ました。
 外から見たら、馬鹿化た振る舞いです。私どもが、有り難がって聖餐のパンと杯に与るのに、似ています。外から見たら、愚かです。
 けれども、閉じこめられていた宇宙から救い出してくださる神なのですから。新しく生まれた王様は、「ヘロデの王宮にいる」とか、「ローマ総督府にいる」とか。そんな、閉じた宇宙の常識を、破り壊して。宇宙よりも大きな物が、いちばん小さいものになった。何だか、その方が、かえってピッタリな感じさえします。
 星に導かれたんじゃぁ、ない。聖霊に導かれて。天を見上げたひとたちは。地上に降った救い主を、拝むことが、出来ました。

Y.
 ひとりの子どもが生まれた時。どんなに短い命であっても。周りのひとを、少しは変えます。
 イエスさまがお生まれになって、ヘロデと、エルサレムの人々と、祭司長と、律法学者たちの人生は、大きく変わりました。イエスさまのご誕生が、あったか/なかったかで。ヘロデが殺した人間の数は、全然違いました。ヘロデの人生と、ヘロデの周りのひとたちの人生は、だから大きく変わりました。
 でも、ヘロデと、その、周りのひとたちの心の中は、全然、変わりませんでした。
 ですから、ヘロデと、その周りのひとたちの魂は。無のままでした。無から始まって、無に帰っただけでした。殺しても無、殺さなくても無、また殺されても、無です。ヘロデは、その後時間の中から、消えてなくなって。たった2000年しか経ってないのに、殺しても、殺さなくても、同じことでした。
 しかし占星術の学者たちは、変わりました。
 占星術の学者たちの……やったことは、変わりませんでした。何千キロを旅して来て、また何千キロを帰って行って……って。やったことは、キリストさまと出会っても/出会わなくても、同じでした。
 けれども、救いを知らなかったひとたちが。「救いがある」と。それが分かって、帰って行きました。
 一回でも、救い主を拝んで、救い主に礼拝して、帰って行きました。
 「拝む」というのは、その拝む相手が、全部のことの中で、「最高」だ……と。それ以上の何も、いらないし、何も、あり得ない……。それが、「拝む」ということです。
 そういう気持から、「有り難い」っていう、感謝や賛美と。「もったいない、申し訳ない」っていう、悔い改めと。「私を献げます」みたいな献身と。そういう、色々な、心が熱くなる何とも言えない気持から、……やっぱり「最高」です……って。学者たちは、主イエスを拝みました。
 ですから、帰り道では。やってることは一緒でも、中身が違います。
 もっとも小さなものの中に。この宇宙全体の限界を突き破る、天の裂け目を見たんです。直接に拝んだのは、その時だけだったかもしれませんが。帰り道も、道々、この救いのための天の裂け目を思い出します。
 星をお造りになった天地創造の神の、その創造の意志というか、創造の霊というか……。そういう宇宙を壊し尽くしてしまう、偉大な救いの意志に、帰り道も、道々、感謝と賛美と悔い改めとを、捧げ続けることが、出来ます。
 それで、このひとたちは、変わりました。社会に対する影響は、あったかなかったか知りませんが。このひとたち自身は、変わりました。救いがあると、信じて生きるようになりましたから。権力のために、死ぬの、殺すのと言っているのと、全然違います。
 礼拝で、永遠の、超宇宙的な救済意志の中に入れていただこう、と。キリストと、ひとつにさせていただこう……と。希望のうちに、そう努めている帰り道になったと思います。
 そして、その結果は。ヘロデの場合と、ちょうど逆です。今も、永遠の命を生きるように、なりました。

 来週、クリスマスの礼拝です。星を眺めて……って。「上ばっかり向いて」っていう意味じゃぁ、なくって。宇宙を作ったお方の、その救いの意志が、宇宙を割って入って来た。幼子に結実した、その意志を思い巡らして。恵みの時を待とうと思っています。

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2003年12月7日
日本キリスト教団中村栄光教会
アドベント第2主日礼拝説教
御心をさがして

中村栄光教会牧師 北川一明


マタイ
1:18-25 聖書研究

新約聖書【マタイによる福音書 第1章 18〜25節】




御心をさがして

北川一明

T.
 キリスト教会には、教会の暦があります。私どもは今、クリスマスを待ち望む……アドベントと称ばれる期間を過ごしております。
 今日与えられました聖書の中で待っているのは、……しかし私どもとは、ちょっと違います。イエスさまが、本当に生まれる……。その前のことです。救い主が、この世に来られるということを、知らない中で……子どもが生まれるのを待っていた、ひとりの男性。若いお父さんです。マリアの夫、ヨセフです。
 ヨセフが待っていたものは、今日の聖書の初めの方では……。たいへん悪いものでした。闇の中で、死と滅びとを待っていた。けれども、今日の聖書の途中から。闇の中で、光を待つように変えられた。光と、命を待つようになった。それを、感じさせられる所です。

 ヨセフというのは、信仰のないかたたちから見たら、相当に情けない男です。
 イエスさまの父親じゃぁありません。イエスさまの「母親の、夫」としか……世の終わりまで、永遠に、そうとしか称んでもらえないひとです。
 そして、人間同士の世の中では、さらに惨めです。マリアと婚約していたのですが。婚約者とまだ関係を持つ前に、婚約者のおなかが大きくなっちゃったんです。世間様から見れば、「寝取られ亭主」です。
 愛する女性を信頼していたら。相手は、その信頼を、あっさり裏切ってしまった。婚約者から、尊敬されていなかった。貞操を守る価値のない相手と見られていた……のか?妊娠した方にも、いろいろな事情や葛藤が、あったのかもしれませんけど。外から見たら、そういうことです。「最高、恥ずかしいヤツ」です。
 ヨセフのプライドは、ひどく傷付けられたでしょうし。家庭をもっての、将来の計画も、ぶち壊されました。また、信じたことが、信じた通りにならなかったのですから。自分のこれまでの生き方も、よかったものかどうか、分からなくなってしまいました。そういう人生の危機に、ぶち当たった。そういう時でした。
 それでもヨセフは、「正しい人」でした。19節に、「夫ヨセフは正しい人であったので」と、書いてあります。
 「正しい人」ならば、こういう時に、何が出来るのでしょうか。過去、信じてきたものと。今、拠って立っている所と。将来に向かって目指していた所と。それら全てをいっぺんに無くした人には、何が出来るのでしょうか。
 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と書いてあります。でも……。私は、正しい人だったらば、どうして「ひそかに」縁を切ろうとするのだろう……と。良く分かりませんでした。
 そうしたら、「やっぱり」って言いますか。聖書の言葉を専門に研究しているひとたちの中には、「正しい人だったのに」……と。「正しいひとであったにもかかわらず、ひそかに縁を切ろうとしてしまった」と。そそういう風に翻訳すべきだと言っているひとたちが、ありました。
 ヨセフの危機は、正しいひとなら乗り越えられる危機ではありません。正しいひとでも、正しさではどうすることも出来ない辛さを、今、味わっているのです。

U.
 ここで言う「正しい」とは、「ちゃんと信仰を持っている」という意味です。神さまを信じて、神さまを中心にした生活を、守っていた人です。
 まだ、キリストさまが生まれる前ですから。キリスト教会もありません。旧約聖書の信仰を、信じていた。具体的に言えば、律法を尊重して。律法を守って生活していたひとです。
 さて、律法を守ろうと思ったら。律法では、婚約者が姦通の罪を犯したら。公に訴え出なければいけないことになっていました(申命記22:23,24)。そうして、みんなでマリアと相手の男を、石で打ち殺さなければいけない。「ひそかに」離縁しちゃ、いけないきまりです。
 律法を、文字通り守ろうと思ったら、マリアを殺さなくッちゃぁ、いけない。
 もう婚約者に裏切られちゃった後では。本当は、こっそり縁を切る方が、傷が浅くて済みます。公にしたら、「寝取られ亭主」として、自分も恥をかきます。けれども、恥をかいても姦淫を公にしなければいけません。
 それは、復讐じゃぁ、ありません。マリア殺して、ヨセフが「ざまぁ見ろ」って胸をなで下ろすためでは、ありません。悪を、きちんと処罰して。神の民イスラエルから、悪を取り除くためです。ヨセフのためじゃぁ、ない。みんなのためです。
 「寝取られ亭主は、恥をかけ。自分が裏切られる程度の人間だから、裏切られるのだ」って。ヨセフのプライドなんかどうでも良いから、神の民の正しさ、清さを守り抜こう……って。厳しいんです。旧約聖書の厳しさとは、こういう所です。神さまは、それほどまでに清い、聖なるおかたです。
 ですけど、裏切られたことが分かった最初は。ただ腹が立って、石で打ち殺してやろうと思うことも、あるかもしれません。ヨセフが、そうではなく、「ひそかに」離縁しようと思ったのは。世間体だけじゃぁ、ない。本当にマリアが好きだったことも、あろうかと思います。
 律法の文言は、「石で打ち殺せ」となっていますが。その律法の、大元の精神は……愛であり、赦しです。それならば。生きた生身の若い女に、怒りにまかせて石をぶつけて殺すのも……。それは、なんだか違います。
 ですから、神さまの前では……。どんなに「正しい人」も。正しくあり続けることが、出来ないんです。
 世の中の正義を守りながら、同時にマリアの命や自分のプライドを守ることは、出来ないんです。愛や、赦しや、癒やしや、慰めや。そういったことと、神聖な正義と。両方守ることは、「正しい人」にだって、出来ないんです。
 神を崇めることを、やめちゃえば、楽です。
 正しくなくなれば、楽です。恥をかいてでもマリアに復讐したかったら、公に訴え出れば良いし。マリアが可哀想だったら。あるいは、恥をかくのが厭だったらば。共同体の正義なんて、黙ってりゃ分かりませんから、こっそり縁を切れば良いんです。
 しかしヨセフは、正しい人でした。だから、神を崇めることを、やめませんでした。それで20節、「このように考えていると」って。考えるだけなんです。考えるだけで。いくら考えても、結論は、出ません。
 結論を、先送りにしても。これは時間が解決してくれることでは、ありません。時間は、事態をもっと悪くします。婚約者のおなかの子は、余所にも隠すことができない程、どんどこ大きくなります。
 何にも出来ずにいるうちに、破局は、刻々と迫ってきます。この時ヨセフが待っていたものは、滅びでした。

V.
 正しさは、神の救いを知らないならば、それは、不幸です。
 正しさは、必要です。神を知らなくても、正しさは必要です。
 正しさを求めないひとには、目指す当てが、ありません。待ち望むものが、ありません。正しさを求めないひとの行ないは、自分が欲しい、自分がやりたい、それだけです。目指す理想がありません。何に向かって生きるのか。目当てがありません。死ぬまでの間を、今の欲望に動かされて、生きているだけです。
 だから、私ども教会の考えは。正しさを求めないひとが待っているものは、ただ、「死」です。正しさを求めないひとは、目当てもなく、ただ死に向かって生きている…=…生きながらも、既に死に支配されている。そういう人間です。
 けれども……正しさを追い求めるひとは、不幸です。神の救いを知らなければ、正義は、ひとを不幸にします。待ち望むものが、実現しないからです。
 それが証拠に。信仰心のない正しいひとは、いつも怒っています。
 正義感から、ひとに対しては、怒りと、憎しみと。正義感から、自分の罪に対しては、後悔と、軽蔑と。正しさを追い求めるひとは、自分のことを正しくすることができなくって。秩序と愛とを両立させることは、できなくって。……神の救いを知らなければ、不幸です。
 正しくないひとは、生きながらにして、死んでいます。正しいひとは、苦しんで、生きます。
 それで、正しいひと・ヨセフは、悪夢にうなされます。婚約者のことで、ずっと思い悩んでいたので。そのことを夢に見ます。
 夢に、誰かが出てきて、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言います。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」……と。夢で、「聖霊によって身ごもった」と伝えられたのです。
 そう言われて、分かったんでしょうか。自分が、こんな、どうにもならない困ったことになった、その意味が、分かったのでしょうか……。
 苦しい時……。たとえば、重い病気になりましたならば。この病気は、どういう意味があるんだろう……と。信仰者ですと、神さまが、何のために、自分をこんな目に遭わすんだろう……と。その意味が、知りたいですし。意味が分かったら、きっと苦しみを「受け入れられるだろう」……みたいに、思います。
 でも、ひとを苦しみから救い出すものは……。「これこれ、こういう意味だ」って、意味が分かることじゃぁないかもしれません。分かっちゃったら、何とかしたいです。自分が「分かる」以上の、もっと尊い意味を信じることが出来た時、私ども、苦しみから救われるのかもしれません。
 苦しみの意味は、救われた後に、分かるんです。
 だから聖書は……。夢の中に「天使が現われた」と言います。「聖霊によって宿った」という言葉の意味が伝えられたんじゃぁ、ありません。「聖霊によって宿った」という言葉と共に、神さまが「感じられた」……というか……。夢を通して、神の真理に触れたのです……。
 「神が語ってくださった」と、ヨセフは感じました。
 自分の苦しみには、意味が、あるのだ。自分が理解し、納得できるような、小さな意味じゃぁなくて。そんな私の理解を超えた、ずっと尊い、ずっと大切な意味が、必ずあるのだ。……その信仰は、神の尊さに触れた時に、信じることが、出来るのです。

W.
 天使から、「ダビデの子ヨセフ」と呼び掛けられました。
 そういえば、自分は、ダビデの子孫でした。イスラエルの中では、いちばん立派な家柄でした。それが……落ちぶれて貧乏になった、とか。そんなことよりも、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と、言われました。勇猛果敢な、イスラエルの英雄ダビデの血筋の者が、今は、恐れているのです。
 恥をかくとか、馬鹿にされるとか。そういう恐れを通り越して。自分を、どうして良いのか分からなくなった恐れです。仮にマリアが悪いんだとしても。自分は正しいとしても。だからと言って、自分のことを、どうすることもできないんです。
 正しくても、どうすることも出来ない。救いは、ひとには、ありません。
 それでもヨセフは、神を待ち望むひとでした。ですから夢は……「救いは、神にある」ということを、思い出させました。
 「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられるという意味である。」
 インマヌエル預言というのは; 旧約聖書の、イザヤ書の預言です。
 細かなことを、半端な時間では、絶対に、言い足りなくなりますので。本当に大雑把に言いますと……;
 ユダヤの国が、アッシリアに攻められて、もう駄目だっていう時です。イザヤは、駄目なのは当たり前だ。ユダヤが神から離れて、自分でどうにかしようとして来たから……。それがとうとう破綻したので、絶対に助からない。それを、悟りました。
 だけど、そうやって神の裁きに遭いながら。それでも、その裁きを通して残った自分が、何だか、そのために救われて。清い、神さまのもに変えられている……と。そのために、「神は、我らと共にある」……って、確信して。それを、預言しました。
 神さまが、共に、側にあるから。何だか分からない。どうなるか、分からないけど……。何か、清いものと触れることが出来て。自分の人生の意味が、全うされる……ことが、あり得るんです。
 「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」と言われました。「イエス」という名前は、「神は救い」という意味です。
 「この子は自分の民を罪から救うからである。」……罪からの救いです。
 自分では、どうすることも出来ないのに。自分で・どうにかするのが、当たり前になっていた。それで、どうして良いか分からずに、苦しんで。正しいことを追い求めているのに。やっていることは、憎んだり、恨んだり……と。
 そういう、自分ではどうすることも出来ない罪に……。別に、何か悪いことをやったとか/やってないとか、そういうことじゃぁ、なくて。神さまの前で、神の御心に気付くことのできない、そういう罪に、ヨセフは苦しんでいたのです。
 その罪から、助け出す力は。自分の中には、ありません。その力は、神からやって来る……と。ヨセフは、神さまに触れて、悟ることができました。
 それでヨセフは、御心のままに、妻マリアを迎え入れることにしました。

X.
 「御心のままに」って。良く、教会では言われますけど。具体的に、何をするのか。
 天使は、なかなか夢にも出てきてくれませんから。御心を、直接に聞く機会は、滅多にありません。それで、「御心のままに」って言ったら、具体的には、「やること・ない」みたいな。そんな感じもしますけど。「御心のままに」っていうのは、何にもやらないことじゃぁ、ありません。
 御心のままに生きようとするひとは、待っているものが、あります。
 御心が現われるのを、待ちます。御心のしるしを捜すのが、やることです。
 具体的には……。ヨセフは、天使に言われたからッてんで、不承不承に結婚したんじゃぁ、ありません。それが、御心のままじゃぁ、ありません。マリアの・自分に対する態度の中に、神の恵みを捜すことにしたんです。だから、裏切った……としか思えない女と、結婚出来たんです。
 具体的には、マリアの態度に、神のしるしを待ちながら、マリアに接っするように……変わったと思います。
 神の御心に触れるまで。ヨセフは、何をしていたかって言えば。マリアを、疑いの目で観察していました。
 この女は、「どうして私を裏切ったか」から始まって。この女の言うことの、どれが本当で、どれが嘘だろうか。私のことを、どう思っているのだろうか。また、世間のひとは、私をどう見るか。この女のせいで、私は軽蔑されるのか。じゃぁ、どう振る舞うべきか。告発すれば、正しい、立派な者に戻れるのか。
 もちろん、ヨセフが婚約者の中に見つけたかったのは、自分に対する愛でしょう。愛されている証拠を捜したかったでしょうけど。疑いの目で、愛する証拠を捜すひとは……。愛を見出しても、それを心底信じることは、出来ません。どんな証拠を示されても、疑おうと思ったら、疑えます。証拠では、信頼は取り戻せません。
 そうこうしている間に、婚約者のおなかはどんどんどんどん大きくなって行っきます。
 ヨセフは、愛を捜しているつもりでマリアに接して。しかし結果、憎しみを刈り取りながら、ただ無駄に、破局を待っていました。
 ところが、この自分に起こったことを、それが「御心」だと信じた時から。マリアの中に捜すものは、変わります。
 同じ、愛を捜すのでも。御心を信じた今度は……マリアの態度の中に、神の恵みが現われ出るのを、捜します。自分が、御心を感じ取る時を、待ち始めます。
 同じ、愛を捜すのでも。怒りから、愛の証拠を捜していました。それが、喜びを、待つようになりました。
 「御心のままに」って。何もしないんじゃぁ、ありません。御心が、現われ出るのを、待つんです。
 疑いの目でマリアの愛を捜していた時。そうやっている間に、おなかが大きくなっていくのを待っているのは。苦しい時間が、どれだけ長かったろうと思います。それが、夢からあとは、子どもが生まれるのを待ちながら。二人の間に、御心が現われ出てくるのを、待つように変わりました。

Y.
 ひとを愛するっていうのは、自分と、相手のひととの間に、神の御心が現われ出てくるのを、信じて待ち望むこと……かもしれません。
 怒りを捜している時には、怒りが見つかりますけど。喜びを捜しているのですから、喜びが、見つかります。
 二人の間で喜びを捜しているひとたちの、人間関係は。どれだけ豊かかと思います。怒りからは、憎しみが生まれますけど。喜びは、二人を愛に導きます。
 そうやって、神のしるしが現われるのを待ち望みながら、愛を深めて行ったならば。この出来事が、天地創造の初めからの、神さまの愛だったのだ……って。それが、分かって来ます。このすべてのことが起こったのは、主の御心が実現するためであった。そういう神さまがご計画なさった神さまの秩序の内に、今、自分たちは、生きているのだ……と。二人には、それも、だんだん確信になって行きます。
 神は、我々と共におられ、我々を永遠の御国へ導いている。今の世が、その途中にあることが……。愛を深める生活の中で、だんだんと、確かな信仰へと育って行くと思うのです。

 イエス・キリストさまの、この世のご生涯は、こうして始まりました。
 よく、羊飼いとか、馬小屋とか。世の中の、いちばん貧しいところ、弱いところでお生まれになったと言われます。その通りですけど。それはただ、お金の面で貧乏だとか、社会的な権力がないとか、そういうことじゃぁ、ありません。
 お金があっても/なくっても。権力があっても/なくつても。同じように苦しむ……。正しくあろうとして、そうはなれない。人間の、そういう苦しみの中に、やって来てくださったんです。正しいひとたちが、怒りを捜して、怒りを見つけ、憎しみを育てていた。そういう、いちばん可哀想な人間たちの所に、やって来られたんです。
 そうして二人で暮らし始めたうちに……御告げの通りに男の子が生まれました。その子に、は「神は救い」という名前をつけました。その時にも、ヨセフとマリアは、自分たちの将来がどうなるかは、さっぱり分からなかったはずです。けれども、神が、われらと共におられるということを信じていたました。そういう信仰の平安のうちに、子どもの誕生を喜び、祝ったと思います。
 私どもも、正しさを求める志を与えられ、愛を求める志を与えられ、……また、隣り人を与えられて、過ごしております。隣り人との間に、捜すべきものを捜して、この期間を過ごしたいと思います。

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