2003年12月7日
日本キリスト教団中村栄光教会
アドベント第2主日礼拝説教
御心をさがして


中村栄光教会牧師 北川一明


マタイ
1:18-25聖書研究    中村栄光教会
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新約聖書【マタイによる福音書 第1章 18〜25節】








御心をさがして

北川一明

T.
 キリスト教会には、教会の暦があります。私どもは今、クリスマスを待ち望む……アドベントと称ばれる期間を過ごしております。
 今日与えられました聖書の中で待っているのは、……しかし私どもとは、ちょっと違います。イエスさまが、本当に生まれる……。その前のことです。救い主が、この世に来られるということを、知らない中で……子どもが生まれるのを待っていた、ひとりの男性。若いお父さんです。マリアの夫、ヨセフです。
 ヨセフが待っていたものは、今日の聖書の初めの方では……。たいへん悪いものでした。闇の中で、死と滅びとを待っていた。けれども、今日の聖書の途中から。闇の中で、光を待つように変えられた。光と、命を待つようになった。それを、感じさせられる所です。

 ヨセフというのは、信仰のないかたたちから見たら、相当に情けない男です。
 イエスさまの父親じゃぁありません。イエスさまの「母親の、夫」としか……世の終わりまで、永遠に、そうとしか称んでもらえないひとです。
 そして、人間同士の世の中では、さらに惨めです。マリアと婚約していたのですが。婚約者とまだ関係を持つ前に、婚約者のおなかが大きくなっちゃったんです。世間様から見れば、「寝取られ亭主」です。
 愛する女性を信頼していたら。相手は、その信頼を、あっさり裏切ってしまった。婚約者から、尊敬されていなかった。貞操を守る価値のない相手と見られていた……のか?妊娠した方にも、いろいろな事情や葛藤が、あったのかもしれませんけど。外から見たら、そういうことです。「最高、恥ずかしいヤツ」です。
 ヨセフのプライドは、ひどく傷付けられたでしょうし。家庭をもっての、将来の計画も、ぶち壊されました。また、信じたことが、信じた通りにならなかったのですから。自分のこれまでの生き方も、よかったものかどうか、分からなくなってしまいました。そういう人生の危機に、ぶち当たった。そういう時でした。
 それでもヨセフは、「正しい人」でした。19節に、「夫ヨセフは正しい人であったので」と、書いてあります。
 「正しい人」ならば、こういう時に、何が出来るのでしょうか。過去、信じてきたものと。今、拠って立っている所と。将来に向かって目指していた所と。それら全てをいっぺんに無くした人には、何が出来るのでしょうか。
 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と書いてあります。でも……。私は、正しい人だったらば、どうして「ひそかに」縁を切ろうとするのだろう……と。良く分かりませんでした。
 そうしたら、「やっぱり」って言いますか。聖書の言葉を専門に研究しているひとたちの中には、「正しい人だったのに」……と。「正しいひとであったにもかかわらず、ひそかに縁を切ろうとしてしまった」と。そそういう風に翻訳すべきだと言っているひとたちが、ありました。
 ヨセフの危機は、正しいひとなら乗り越えられる危機ではありません。正しいひとでも、正しさではどうすることも出来ない辛さを、今、味わっているのです。

U.
 ここで言う「正しい」とは、「ちゃんと信仰を持っている」という意味です。神さまを信じて、神さまを中心にした生活を、守っていた人です。
 まだ、キリストさまが生まれる前ですから。キリスト教会もありません。旧約聖書の信仰を、信じていた。具体的に言えば、律法を尊重して。律法を守って生活していたひとです。
 さて、律法を守ろうと思ったら。律法では、婚約者が姦通の罪を犯したら。公に訴え出なければいけないことになっていました(申命記22:23,24)。そうして、みんなでマリアと相手の男を、石で打ち殺さなければいけない。「ひそかに」離縁しちゃ、いけないきまりです。
 律法を、文字通り守ろうと思ったら、マリアを殺さなくッちゃぁ、いけない。
 もう婚約者に裏切られちゃった後では。本当は、こっそり縁を切る方が、傷が浅くて済みます。公にしたら、「寝取られ亭主」として、自分も恥をかきます。けれども、恥をかいても姦淫を公にしなければいけません。
 それは、復讐じゃぁ、ありません。マリア殺して、ヨセフが「ざまぁ見ろ」って胸をなで下ろすためでは、ありません。悪を、きちんと処罰して。神の民イスラエルから、悪を取り除くためです。ヨセフのためじゃぁ、ない。みんなのためです。
 「寝取られ亭主は、恥をかけ。自分が裏切られる程度の人間だから、裏切られるのだ」って。ヨセフのプライドなんかどうでも良いから、神の民の正しさ、清さを守り抜こう……って。厳しいんです。旧約聖書の厳しさとは、こういう所です。神さまは、それほどまでに清い、聖なるおかたです。
 ですけど、裏切られたことが分かった最初は。ただ腹が立って、石で打ち殺してやろうと思うことも、あるかもしれません。ヨセフが、そうではなく、「ひそかに」離縁しようと思ったのは。世間体だけじゃぁ、ない。本当にマリアが好きだったことも、あろうかと思います。
 律法の文言は、「石で打ち殺せ」となっていますが。その律法の、大元の精神は……愛であり、赦しです。それならば。生きた生身の若い女に、怒りにまかせて石をぶつけて殺すのも……。それは、なんだか違います。
 ですから、神さまの前では……。どんなに「正しい人」も。正しくあり続けることが、出来ないんです。
 世の中の正義を守りながら、同時にマリアの命や自分のプライドを守ることは、出来ないんです。愛や、赦しや、癒やしや、慰めや。そういったことと、神聖な正義と。両方守ることは、「正しい人」にだって、出来ないんです。
 神を崇めることを、やめちゃえば、楽です。
 正しくなくなれば、楽です。恥をかいてでもマリアに復讐したかったら、公に訴え出れば良いし。マリアが可哀想だったら。あるいは、恥をかくのが厭だったらば。共同体の正義なんて、黙ってりゃ分かりませんから、こっそり縁を切れば良いんです。
 しかしヨセフは、正しい人でした。だから、神を崇めることを、やめませんでした。それで20節、「このように考えていると」って。考えるだけなんです。考えるだけで。いくら考えても、結論は、出ません。
 結論を、先送りにしても。これは時間が解決してくれることでは、ありません。時間は、事態をもっと悪くします。婚約者のおなかの子は、余所にも隠すことができない程、どんどこ大きくなります。
 何にも出来ずにいるうちに、破局は、刻々と迫ってきます。この時ヨセフが待っていたものは、滅びでした。

V.
 正しさは、神の救いを知らないならば、それは、不幸です。
 正しさは、必要です。神を知らなくても、正しさは必要です。
 正しさを求めないひとには、目指す当てが、ありません。待ち望むものが、ありません。正しさを求めないひとの行ないは、自分が欲しい、自分がやりたい、それだけです。目指す理想がありません。何に向かって生きるのか。目当てがありません。死ぬまでの間を、今の欲望に動かされて、生きているだけです。
 だから、私ども教会の考えは。正しさを求めないひとが待っているものは、ただ、「死」です。正しさを求めないひとは、目当てもなく、ただ死に向かって生きている…=…生きながらも、既に死に支配されている。そういう人間です。
 けれども……正しさを追い求めるひとは、不幸です。神の救いを知らなければ、正義は、ひとを不幸にします。待ち望むものが、実現しないからです。
 それが証拠に。信仰心のない正しいひとは、いつも怒っています。
 正義感から、ひとに対しては、怒りと、憎しみと。正義感から、自分の罪に対しては、後悔と、軽蔑と。正しさを追い求めるひとは、自分のことを正しくすることができなくって。秩序と愛とを両立させることは、できなくって。……神の救いを知らなければ、不幸です。
 正しくないひとは、生きながらにして、死んでいます。正しいひとは、苦しんで、生きます。
 それで、正しいひと・ヨセフは、悪夢にうなされます。婚約者のことで、ずっと思い悩んでいたので。そのことを夢に見ます。
 夢に、誰かが出てきて、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言います。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」……と。夢で、「聖霊によって身ごもった」と伝えられたのです。
 そう言われて、分かったんでしょうか。自分が、こんな、どうにもならない困ったことになった、その意味が、分かったのでしょうか……。
 苦しい時……。たとえば、重い病気になりましたならば。この病気は、どういう意味があるんだろう……と。信仰者ですと、神さまが、何のために、自分をこんな目に遭わすんだろう……と。その意味が、知りたいですし。意味が分かったら、きっと苦しみを「受け入れられるだろう」……みたいに、思います。
 でも、ひとを苦しみから救い出すものは……。「これこれ、こういう意味だ」って、意味が分かることじゃぁないかもしれません。分かっちゃったら、何とかしたいです。自分が「分かる」以上の、もっと尊い意味を信じることが出来た時、私ども、苦しみから救われるのかもしれません。
 苦しみの意味は、救われた後に、分かるんです。
 だから聖書は……。夢の中に「天使が現われた」と言います。「聖霊によって宿った」という言葉の意味が伝えられたんじゃぁ、ありません。「聖霊によって宿った」という言葉と共に、神さまが「感じられた」……というか……。夢を通して、神の真理に触れたのです……。
 「神が語ってくださった」と、ヨセフは感じました。
 自分の苦しみには、意味が、あるのだ。自分が理解し、納得できるような、小さな意味じゃぁなくて。そんな私の理解を超えた、ずっと尊い、ずっと大切な意味が、必ずあるのだ。……その信仰は、神の尊さに触れた時に、信じることが、出来るのです。

W.
 天使から、「ダビデの子ヨセフ」と呼び掛けられました。
 そういえば、自分は、ダビデの子孫でした。イスラエルの中では、いちばん立派な家柄でした。それが……落ちぶれて貧乏になった、とか。そんなことよりも、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と、言われました。勇猛果敢な、イスラエルの英雄ダビデの血筋の者が、今は、恐れているのです。
 恥をかくとか、馬鹿にされるとか。そういう恐れを通り越して。自分を、どうして良いのか分からなくなった恐れです。仮にマリアが悪いんだとしても。自分は正しいとしても。だからと言って、自分のことを、どうすることもできないんです。
 正しくても、どうすることも出来ない。救いは、ひとには、ありません。
 それでもヨセフは、神を待ち望むひとでした。ですから夢は……「救いは、神にある」ということを、思い出させました。
 「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられるという意味である。」
 インマヌエル預言というのは; 旧約聖書の、イザヤ書の預言です。
 細かなことを、半端な時間では、絶対に、言い足りなくなりますので。本当に大雑把に言いますと……;
 ユダヤの国が、アッシリアに攻められて、もう駄目だっていう時です。イザヤは、駄目なのは当たり前だ。ユダヤが神から離れて、自分でどうにかしようとして来たから……。それがとうとう破綻したので、絶対に助からない。それを、悟りました。
 だけど、そうやって神の裁きに遭いながら。それでも、その裁きを通して残った自分が、何だか、そのために救われて。清い、神さまのもに変えられている……と。そのために、「神は、我らと共にある」……って、確信して。それを、預言しました。
 神さまが、共に、側にあるから。何だか分からない。どうなるか、分からないけど……。何か、清いものと触れることが出来て。自分の人生の意味が、全うされる……ことが、あり得るんです。
 「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」と言われました。「イエス」という名前は、「神は救い」という意味です。
 「この子は自分の民を罪から救うからである。」……罪からの救いです。
 自分では、どうすることも出来ないのに。自分で・どうにかするのが、当たり前になっていた。それで、どうして良いか分からずに、苦しんで。正しいことを追い求めているのに。やっていることは、憎んだり、恨んだり……と。
 そういう、自分ではどうすることも出来ない罪に……。別に、何か悪いことをやったとか/やってないとか、そういうことじゃぁ、なくて。神さまの前で、神の御心に気付くことのできない、そういう罪に、ヨセフは苦しんでいたのです。
 その罪から、助け出す力は。自分の中には、ありません。その力は、神からやって来る……と。ヨセフは、神さまに触れて、悟ることができました。
 それでヨセフは、御心のままに、妻マリアを迎え入れることにしました。

X.
 「御心のままに」って。良く、教会では言われますけど。具体的に、何をするのか。
 天使は、なかなか夢にも出てきてくれませんから。御心を、直接に聞く機会は、滅多にありません。それで、「御心のままに」って言ったら、具体的には、「やること・ない」みたいな。そんな感じもしますけど。「御心のままに」っていうのは、何にもやらないことじゃぁ、ありません。
 御心のままに生きようとするひとは、待っているものが、あります。
 御心が現われるのを、待ちます。御心のしるしを捜すのが、やることです。
 具体的には……。ヨセフは、天使に言われたからッてんで、不承不承に結婚したんじゃぁ、ありません。それが、御心のままじゃぁ、ありません。マリアの・自分に対する態度の中に、神の恵みを捜すことにしたんです。だから、裏切った……としか思えない女と、結婚出来たんです。
 具体的には、マリアの態度に、神のしるしを待ちながら、マリアに接っするように……変わったと思います。
 神の御心に触れるまで。ヨセフは、何をしていたかって言えば。マリアを、疑いの目で観察していました。
 この女は、「どうして私を裏切ったか」から始まって。この女の言うことの、どれが本当で、どれが嘘だろうか。私のことを、どう思っているのだろうか。また、世間のひとは、私をどう見るか。この女のせいで、私は軽蔑されるのか。じゃぁ、どう振る舞うべきか。告発すれば、正しい、立派な者に戻れるのか。
 もちろん、ヨセフが婚約者の中に見つけたかったのは、自分に対する愛でしょう。愛されている証拠を捜したかったでしょうけど。疑いの目で、愛する証拠を捜すひとは……。愛を見出しても、それを心底信じることは、出来ません。どんな証拠を示されても、疑おうと思ったら、疑えます。証拠では、信頼は取り戻せません。
 そうこうしている間に、婚約者のおなかはどんどんどんどん大きくなって行っきます。
 ヨセフは、愛を捜しているつもりでマリアに接して。しかし結果、憎しみを刈り取りながら、ただ無駄に、破局を待っていました。
 ところが、この自分に起こったことを、それが「御心」だと信じた時から。マリアの中に捜すものは、変わります。
 同じ、愛を捜すのでも。御心を信じた今度は……マリアの態度の中に、神の恵みが現われ出るのを、捜します。自分が、御心を感じ取る時を、待ち始めます。
 同じ、愛を捜すのでも。怒りから、愛の証拠を捜していました。それが、喜びを、待つようになりました。
 「御心のままに」って。何もしないんじゃぁ、ありません。御心が、現われ出るのを、待つんです。
 疑いの目でマリアの愛を捜していた時。そうやっている間に、おなかが大きくなっていくのを待っているのは。苦しい時間が、どれだけ長かったろうと思います。それが、夢からあとは、子どもが生まれるのを待ちながら。二人の間に、御心が現われ出てくるのを、待つように変わりました。

Y.
 ひとを愛するっていうのは、自分と、相手のひととの間に、神の御心が現われ出てくるのを、信じて待ち望むこと……かもしれません。
 怒りを捜している時には、怒りが見つかりますけど。喜びを捜しているのですから、喜びが、見つかります。
 二人の間で喜びを捜しているひとたちの、人間関係は。どれだけ豊かかと思います。怒りからは、憎しみが生まれますけど。喜びは、二人を愛に導きます。
 そうやって、神のしるしが現われるのを待ち望みながら、愛を深めて行ったならば。この出来事が、天地創造の初めからの、神さまの愛だったのだ……って。それが、分かって来ます。このすべてのことが起こったのは、主の御心が実現するためであった。そういう神さまがご計画なさった神さまの秩序の内に、今、自分たちは、生きているのだ……と。二人には、それも、だんだん確信になって行きます。
 神は、我々と共におられ、我々を永遠の御国へ導いている。今の世が、その途中にあることが……。愛を深める生活の中で、だんだんと、確かな信仰へと育って行くと思うのです。

 イエス・キリストさまの、この世のご生涯は、こうして始まりました。
 よく、羊飼いとか、馬小屋とか。世の中の、いちばん貧しいところ、弱いところでお生まれになったと言われます。その通りですけど。それはただ、お金の面で貧乏だとか、社会的な権力がないとか、そういうことじゃぁ、ありません。
 お金があっても/なくっても。権力があっても/なくつても。同じように苦しむ……。正しくあろうとして、そうはなれない。人間の、そういう苦しみの中に、やって来てくださったんです。正しいひとたちが、怒りを捜して、怒りを見つけ、憎しみを育てていた。そういう、いちばん可哀想な人間たちの所に、やって来られたんです。
 そうして二人で暮らし始めたうちに……御告げの通りに男の子が生まれました。その子に、は「神は救い」という名前をつけました。その時にも、ヨセフとマリアは、自分たちの将来がどうなるかは、さっぱり分からなかったはずです。けれども、神が、われらと共におられるということを信じていたました。そういう信仰の平安のうちに、子どもの誕生を喜び、祝ったと思います。
 私どもも、正しさを求める志を与えられ、愛を求める志を与えられ、……また、隣り人を与えられて、過ごしております。隣り人との間に、捜すべきものを捜して、この期間を過ごしたいと思います。

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